有元正雄氏の話を聞いて非常に面白かったので、『近世日本の宗教社会史』と『真宗の宗教社会史』を読む。
蒙を啓かれた思いがした。
『近世日本の宗教社会史』は、関東と周辺地帯(関八州、駿河、遠江、伊豆、甲斐、信濃)、近畿と周辺地帯(近畿諸国、若狭、因幡、伯耆、備前、備中、備後、美作)、真宗篤信地帯(越後から越前北陸諸国、飛騨、西美濃、西尾張、安芸、石見、周防、長門、筑前、筑後、西豊前、肥後)の三つの地帯に区分し、江戸時代中後期におけるそれぞれの地帯の文化的、精神的特徴を考察した本である。
関東と周辺地帯では堕胎、間引きが広く行われ人口が減少している。
近畿の中心部では堕胎が珍しくなかったが、「えた」は堕胎を行わないので人口が増加している。
というのも、近畿以西の被差別民はほとんどが真宗寺院に属しており、殺生忌避を忠実に実行していたのである。
真宗篤信地帯では堕胎、間引きをしないので、人口はおおむね増加している。
中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』によると、ニコライの日記に1882年(明治15年)秋田では間引きが行われていたことが書いてあり、関東の農村でも堕胎と間引きが広く行われていると1892年(明治25年)の日記にある。
明治に入っても、地域によっては堕胎、間引きが行われていたのである。
また、関東と周辺地帯では治安がきわめて悪い(股旅物の舞台は関八州)のに、真宗篤信地帯では概して治安は確保されている。
近畿と周辺地帯はその中間ぐらい。
そして、関東と周辺地帯では呪術が民衆を支配していたが、真宗篤信地帯では民衆が呪術を克服して合理化され、そして倫理化、禁欲的な生活態度が形成されている。
だからといって、「真宗における合理化の問題を過大に評価することも正しくない」と有元正雄氏は言う。
有元正雄氏が問題にしていることを二点あげると、
1,法主=生き仏体制の本願寺も呪術の一種だということ
2,倫理、道徳の強調によって親鸞の教義を改変していること
法主=生き仏体制について、有元正雄氏はこう書いている。
「すでに筆者は、真宗が輪廻転生の思想に立って、開祖親鸞を阿弥陀如来の化身とし「如来聖人」と称したこと、その血統と法脈を継承する歴代法主を「如来の御代官」と称し、巨大な権威をもった世襲カリスマ=生き仏の体系が成立したことをみた。そしてこのような法主の機能につき児玉誠は「旧来の呪術・雑信仰を克服するのに別の呪術=本願寺法主を生き神とする人神信仰をもってしたと考えられる」とし、「真宗について、民衆を呪術から解放した合理主義的宗教として過大評価するのは誤りで、その根底に本願寺法主の呪力のみは絶対肯定する異質の呪術のあったことを見落としてはならない」という。筆者もこの見解に賛成である。
真宗において御剃髪(おかみそり)と称し、法主が在家の者に真宗に帰依した証として剃髪の儀式を行ない、門徒は「家財等まで売り払い」その儀式を受けようとしたのである。しかし阿弥陀如来への信心以外に何ものも必要としない本来の真宗においてはそのような儀式は無用なものであり、それは法主の権威によって布施と引き換えに行なわれた呪術といえよう」
まず「如来聖人」について。
親鸞は「如来聖人」「如来ノ御代官」とされた。
「如来聖人」とは「如来と聖人」という意味ではなく、親鸞聖人は阿弥陀如来の化身だとされたから、「如来である聖人」ということなのである。
親鸞=弥陀の化身説は「門徒民衆の側からの作為ではなく教団側の作為」である。
そして、親鸞の血筋である本願寺法主も善知識=「如来の御代官」とされ、本願寺法主=生き仏体制が成立する。
蓮如は後生(浄土往生)の保証をするとされ、さらには「後生を請取ることが可能であるならば、その逆の後生を拒否し地獄に堕とすこともまた可能」ということになった。
法主が往生できるか、それとも往生できないかを決めることができるとされたのである。
「証如の法主時代以降に至ると、本願寺の御勘気を被ることは即無間地獄への堕在であるとして懼れられるにいたる」
破門されて地獄に堕ちるのは当人だけではない。
「本願寺法主の御勘気に合う、すなわち破門された門徒には、世間附合いが許されず、火種の貸借りや、日常の挨拶をした者までも無間地獄に堕ちるというのである」
本願寺法主が救済の授与権を行使するばかりでなく、法主の権威と統制に服さない者に対し、破門し、地獄堕在を宣言するようになったのである。
有元正雄氏は「浄土教義史上の一大転換をなすに至った」と断じるが、まさにそのとおり。
善知識(教主)である法主が往生の拒否権を持つわけだから、法主は救主でもある。
これは一尊教である。
そして、堕地獄の恐怖を強調すること。
「「如来聖人」や「如来の御代官」の御恩(師恩)が説かれるためには、地獄の恐怖を示し、それとの対比で極楽の楽園たるさまが讃嘆されることは不可欠であった」
堕地獄がたとえとして説かれているのならともかく、そうではない。
地獄の恐怖を植えつけ、なおかつ自分は地獄に堕ちる悪人だと教え込み、そして阿弥陀如来=法主の救済によってのみ救われると説くのではマッチポンプである。
教主が地獄の恐怖を説き、その教主が救主となって救うという構図はオウム真理教、エホバの証人、統一教会などと同じだと思う。
オウム真理教元信者の言葉。
「オウムでは、「上司の指示はグル麻原の指示」とされていました。指示に疑問を持つことは、グルに対する疑念を意味し、弟子として恥ずべきこととされていました。また、指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基盤のすべてを失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです」(カナリヤの会編『オウムをやめた私たち』)
真光の信者の言葉。
「我々は疑ってはいけないのです。教え主様を疑うこと、手かざしを疑うこと、御み霊の力を疑うこと、これは神様を疑うことと同じで非常に悪いことであると教えられています。これらを疑うと神様からの霊線が切れてしまい、いろいろな不幸現象が起こることがあるとも言われます」
グルや教え主という言葉を法主に言い換えてもなんら不自然ではない。
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