「花嫁の父」 1950年 アメリカ
監督 ヴィンセント・ミネリ
出演 スペンサー・トレイシー エリザベス・テイラー
ジョーン・ベネット ドン・テイラー ビリー・バーク
レオ・G・キャロル ラスティ・タンブリン
ストーリー
娘のケイを新婚旅行に送り出して、弁護士のスタンリー・バンクスは披露宴後がっくり身を落とした。
ケイが、バクリー・ダンスタンという青年と結婚したいと両親を驚かしたのは、何ヵ月前のことだったか。
妻は落ち着き払っていたが、スタンリーはダンスタン家が立派な名門であり、バクリーがなかなかしっかりした青年であることを知るまでは、オチオチ眠れもしないのだった。
晴れて2人の婚約がすむと、スタンリーの頭痛の種は結婚費用だった。
彼の意志に反して、妻や娘は一生の願いとして教会で盛大な式を挙げたがった。
ようやく教会の式も決まり、披露宴招待の人数も折り合って、知人から続々と贈物が届くようになった頃、ケイは突然破談にしてくれと言い出した。
新婚旅行の行き先について、バクリーと他愛ない喧嘩を始めたのだが、親父が仲裁に乗り出す間もなく、若い2人はケロリと仲直りしてスタンリーに背負い投げを食わせる始末である。
式の予行練習も済み、スタンリーは眠られぬ結婚式前夜を過ごした。
知人たちがただのシャンパンを飲みに集まる披露宴の混雑で、スタンリーは遂に去り行く娘に言葉をかけてやる暇さえなかった。
もの想いに沈むそのスタンリーに、その時電話がかかってきた・・・。
寸評
この頃、美人女優と言えば日本では山本富士子、アメリカではエリザベス・テイラーだったように思う。
そのエリザベス・テイラーがケイを演じているのだが主演はスペンサー・トレイシーである。
何故なら彼は花嫁の父だからだ。
スタンリーには子供が三人いるがケイは唯一の娘で、その娘を嫁に出さねばならない父親の心情と振る舞いを面白おかしく描いている。
父親にとって娘は特別な存在で、ましてや一人娘となると格別だ。
異性としての特別な存在で、一言で言えば可愛くて仕方がないのだ。
それ故に娘の行く末を必要以上に心配してしまう。
強がりを見せて平静を装っているが、気になってしようがない。
スタンリーの家は中の上といった感じの家庭だが、中の中と思っている僕にも思い当たるふしがあり、アメリカ人であるスタンリーの気持ちを、日本人の僕も良くわかるのだ。
スタンリーは男の身上調査を試みるが、直接聞きだすことができない。
娘の自慢話はするが相手のことには興味がない。
結婚式に誰を呼ぶかを決めるのも大変だし、娘の苦労を思うと嫁入り道具もそろえてあげたいが、こちらにも金のなる木があるわけじゃなし予算とにらめっこだ。
妻のエリーは同性なだけに娘の気持ちや新生活に必要なものが分かるのだろう。
どんどん買い物を進め、一緒に楽しんでいるようである。
スタンリーは2回しか着ていないモーニングを引っ張り出すが、太った体系には合わなくなっている。
これも僕の場合と同じで笑ってしまうが、僕は結局自前を諦めて貸衣装を頼むことになった。
リズのような娘がいればスタンリーでなくてもかわいがるだろう。
結婚式の様子は古き良き時代の光景なのだろうか。
あちらの結婚式も大変なんだなあと思う。
日本の結婚式の様子も随分と様変わりである。
滋賀県の田舎に住んでいた僕の先輩などは、時代なのか結婚披露を三日三晩行っていた。
親戚、村人、友人と三日に渡って飲めや歌えの大宴会を繰り広げたと語っていた。
結婚式になれば花嫁が主役で、花婿は添え物に過ぎない。
娘のウエディング姿に満足した披露宴が終わり家路につく。
ああやっと終わったという安堵感と共に、いなくなった淋しさがこみあげてくる。
翌朝目覚めると娘の姿はなく、ああ居なくなったのだと自分に言い聞かせる。
映画でもスタンリーはケイと満足に話すことも出来ず、ハネムーンに出かける彼女の車を遠めに見送るだけだ。
何とも言えない淋しさがこみあげてくるシーンである。
スタンリーと妻のエリーがダンスを踊るところで終わっているが、パーティの後片付けが残っている。
僕も孫たちが長期滞在した後の掃除という大変な作業と共に、何よりも母親になった娘とその子供たちが居なくなった淋しさが父親の言いようもない感情として湧きおこる。
花嫁の母とは聞かないが、やはり花嫁の父は何処の国においても同じような気持ちになるものなのだろう。
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