おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

幕末

2023-01-05 07:57:03 | 映画
「幕末」 1970年 日本


監督 伊藤大輔
出演 中村錦之助 三船敏郎 吉永小百合 仲代達矢 小林桂樹
   中村賀津雄 江利チエミ 山形勲 神山繁 江原真二郎 仲谷昇
   御木本伸介 松山英太郎 天田俊明 大辻伺郎 太田博之

ストーリー
ある雨の日、不自由な足に下駄を引摺った一人の小商人が藩の上士・山田にぶつかり無礼討ちされた。
土佐藩では士分以外に下駄は禁制。
下士・中平は怪我人に下駄と雨傘を与えた親切があだとなり、「御法度破りの同類」として山田のために討ち果たされた。
上士の横暴を許すことができない坂本竜馬は、土佐藩を脱藩して江戸の千葉道場で落ち着くことになった。
開国論者の先鋒と見られる勝海舟を斬りに行った竜馬は、本人と話をするうち、お互いに国を愛する気持ちに変わりないことを知り暗殺を断念する。
ちょうど、勤王倒幕の雄藩、薩・長二藩の主導権争い激しき折りだった。
慶応元年。竜馬は長崎に「社中」を創設し海運業に乗りだした。
だが、竜馬は海運業に携わるよりも、中岡と共に薩・長二藩連合のために奔走する方が多かった。
同正月二十日。竜馬は長州の桂と薩摩の西郷との間を周旋して、ついに両藩積年の確執と反目を解消させた。
だが、それと同時に竜馬は幕吏に狙われるところとなり、お良と結婚したものの安住の地はなかった。
幕威に比し薩・長二藩の実力は伸長している現実に周章したのは公武合体論の士佐藩だった。
土佐藩家老後藤象二郎は竜馬に助言を求め、竜馬は「将軍慶喜をして大政を奉還せしめる」ことを説いた。
慶応三年十月十五日、大政奉還がなったその頃、竜馬は河原町通りの醤油商・近江屋に下宿していた。
同年の十一月十五日、風邪の見舞に来た中岡と竜馬は「新政府綱領八策」について議論していた。
刺客が疾風の如く躍り込りこんで、二人の生命を奪い去ったのは、その最中だった。
時に竜馬三十三歳、中岡三十歳であった。


寸評
伊藤大輔は無声映画時代から監督を続けてきた人だ。
無声映画からトーキーへの時代を経験し、戦前、戦中、戦後と映画を撮り続け「時代劇の父」とも称された映画史そのもののような監督である。
この「幕末」は、その伊藤大輔最後の監督作品ということでの記念碑的作品なのだが、出来栄えはイマイチかな。

この作品は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をベースにしているが、中村錦之助の坂本龍馬はどうもそこからイメージされる竜馬像とは違う。
そもそも僕たちが描く竜馬像は司馬遼太郎によって形作られたものではないかと思っているので、その違和感が映画への違和感となってしまっている。
違和感は吉永小百合のお良にもあって、男勝りの勝気な女性というイメージは出ていなかった。
結婚後に眉を剃り落としてお歯黒にしている吉永小百合を描かなくてもよかったんじゃないか。
わざわざ吉永小百合を引っ張り出して、あんな姿をやらさなくてもなあというのが感想。

もっともこの頃はスタープロが大はやりで、石原プロ、三船プロ、勝プロなどに加えて中村プロもあって、この作品も中村プロの制作。
そして興業的な見地から、スタープロの盟主同士の共演が相次いでいた時代だった。
この作品でも三船敏郎が後藤象二郎役で少しばかり登場している。

映画は坂本竜馬ダイジェス版といったような作りで、竜馬に対する切込不足感は拭えない。
むしろ中村錦之助の弟である中村嘉津雄がやった、饅頭屋の近藤長次郎が「亀山社中」の規約違反の罪で詰腹を切らされるエピソードの描きたなどの方が、冒頭に繰り広げられる上士による町人の無礼斬りや、下士への仕打ちと相まって、土佐藩あるいは特権階級の身分蔑視に切り込めていた。
近藤長次郎は頭脳明晰で亀山社中では重要な地位についていたのだが、饅頭屋の出身ということで仲間の武士階級から妬みを受けていたのだ。

同志のケチな差別根性を中岡慎太郎(仲代達矢)に罵倒させているのだが、それは監督・伊藤大輔の叫びでもあったと思う。
伊藤の主張はラストシーンでの坂本竜馬による天皇制批判にも現れていて、現人神としての天皇及び天皇制を否定する演説を竜馬にさせている。
実際の坂本竜馬がそのような思想を持っていたかどうかはわからないが、伊藤大輔の思想歴からみておそらく伊藤監督の信念だったのだろう。
しかし伊藤大輔は大衆受けする作品を撮り続けた人で、思想性や社会性をを前面に打ち出す肩の凝る映画は撮らない監督だったと思うし、この作品でもそのような主張がメインにはなっていない。
だから寺田屋事件では竜馬に大乱闘のチャンバラ劇をさせているし、ラストでも大芝居をさせて観客をうならせるような演出を行っている。
僕は竜馬が一撃のもとに倒された場面で終わったほうが迫力があったのにと惜しんでいる。