おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

バッド・ジーニアス 危険な天才たち

2023-01-16 08:31:00 | 映画
「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」 2017年 タイ


監督 ナタウット・プーンピリヤ
出演 チュティモン・ジョンジャルーンスックジン
   チャーノン・サンティナトーンクン イッサヤー・ホースワン
   ティーラドン・スパパンピンヨー タネート・ワラークンヌクロ
   サハジャック・ブーンタナキット

ストーリー
小学生のころから成績はずっとオールAで、中学時代は首席となった天才的な頭脳を持つ女子高生リンは裕福とは言えない父子家庭で育ったが、その明晰な頭脳を見込まれ、進学校に特待奨学生として転入する。
そこで彼女は、性格はいいが成績に難のあるグレースと友だちになる。
グレースは一定以上の成績をとらなければ演劇部の活動を禁じられることになっていた。
グレースに勉強を教えて試験に臨ませたリンだったが、試験中にとっさにカンニングを手伝ってしまう。
試験後、リンはグレースの彼氏であるパットの家に招かれた。
彼は甘やかされた金持ちの子供で、答えと引き換えに代金をもらうというビジネスを持ちかける。
最初は消極的であったものの、リンはピアノの手の動きを利用して、試験中に答えを教える“ピアノレッスン方式”という方法を編み出す。
彼女のカンニングを利用する生徒は次第に増えたが、そのカンニングは別の奨学生である真面目なバンクに阻まれ、彼女は父から、そして奨学生剥奪という形で学校からも叱責され、奨学金を得る機会も剥奪される。
パットとグレースがリンにアメリカの大学に留学するため世界各国で行われる大学統一入試・STICを舞台にするカンニングをもちかけ、彼女は一団に戻った。
このテストは同一のものが全世界同日に行われるため、リンはそのテストが最初に始まるオーストラリアで試験を受け解答を送るという計画を立て、パットは数百万バーツの収入を得られるよう顧客を募った。
彼女はこの計画にはバンクの協力が必要であると考えていたが、そのバンクはこのような不誠実な計画には絶対にのらなそうであった。
ただ偶然にもバンクは路上で凶悪犯に襲われ、大学奨学金の試験を受けられなくなった。
リンは彼に計画をもちかけ、裕福な家庭でないバンクは選択の余地なく渋々同意する。


寸評
タイの映画と言うだけでも珍しいのだが、カンニングをテーマにしているというのもユニークな内容である。
僕は何とか大阪でも有数の進学校に合格したのだが、さすがにそこでは落ちこぼれで、数学の授業などでは何を言ってるのかチンプンカンプンで、授業はまるで拷問を受けているようなものだったので、勉強ができないグレースやパットの気持ちは分からぬでもない。
もっとも高校時代は彼らの様にカンニングを行ったということはなかった。
大学での試験になると、ゲーム感覚でカンニングを行う連中が多くいたし、僕もカンニングでなんとか単位を取得したこともあった。
出そうな問題の解答を机に書きうつす者、端の席に座った者は壁に筆記する者もいたし、カンニングペーパーを隠し持つ者もいた。
映画に描かれていたように僕も鉛筆を利用したが、あのような高等な物ではなく、鉛筆を二つに割り先だけ芯を残しその間にカンニングペーパーを忍ばせるという芸術品を用意していた。
友人からは、それを作る時間があれば暗記すればいいのではないかと冷やかされもしたものだ。
自慢にはならない苦い思い出である。

リンは両親が離婚して父親と暮しているが、成績は超優秀でスポーツもできる天才児である。
父は教師だが裕福ではない。
友人のグレースは印刷会社の娘で、可愛くて性格も良さそうだが頭脳の方は出来が悪い。
恋人のパットは裕福な家の生まれだが、どうやらグレース以上に頭が悪い。
彼らがリンから答えを教えてもらう手段がユニークで観客を楽しませる。
4択のマークシート方式なので、ピアノを弾く指の動きで教えるという着想が面白い。
バンクという天才男子学生が登場するのだが、この男子学生は正義感の持ち主ながら共感できる存在ではない。
それはいくら不正をしている相手とは言え、仲間を密告するというこの年代では一番嫌われる行為を行っているからである。
バンクの家は母子家庭で、母親がクリーニング店を経営している貧しい家庭の為、彼は母親の手伝いをしながら勉強している苦学生である。
本来なら同情されるであろう立場なのだが、前述のこともあり感情移入は出来ない。
結局彼は金の為にカンニングビジネスに加担することになるのだが、正義感あふれるバンクの変節ぶりはこの映画の魅力でもある。
主人公のリンが最終的に改心するのは当然に思うが、最後に見せるバンクの態度は驚きだ。
僕はタイの国情を知らないが、見ている限りにおいては貧富の格差は大きく、学歴社会でもありエリートは海外留学しているという印象である。
時差を利用したカンニング場面になるとサスペンスの様相を呈してくる。
携帯電話のラインを使ったり、鉛筆にバーコードを印刷したりと、アイデア満載で楽しめるのだが、どうも乗り切れないものがあるのはどうしてだろう。
主人公のリンが根暗的に見えるし、何だか悲壮感を感じてしまって身につまされてしまうからだったように思う。
もう少し、スカッとした作品にすれば傑作になっていたような気がする。

初恋

2023-01-15 07:42:10 | 映画
「初恋」 2019年 日本


監督 三池崇史
出演 窪田正孝 大森南朋 染谷将太 小西桜子 ベッキー 三浦貴大
   藤岡麻美 顔正國 段釣豪 矢島舞美 出合正幸 内田章文
   滝藤賢一 ベンガル 塩見三省 内野聖陽

ストーリー
葛城レオ(窪田正孝)は将来を期待されたボクサーだが、生まれてすぐに捨てられたために両親を知らない。
新宿・歌舞伎町にある組のNO.2である権藤(内野聖陽)が刑務所から出所してきた。
武闘派の権藤は、他者との共存を模索する組長代行(塩見三省)のやり方に苛立ち、敵対するチャイニーズマフィアと一触即発の状態だった。
そんな現状を憂う策士の加瀬(染谷将太)は、悪徳刑事の大伴(大森南朋)と手を組み、組が扱うブツを奪って抗争を起こし、権藤たちとチャイニーズマフィアが争って共倒れするのを狙っていた。
組のチンピラであるヤス(三浦貴大)の住むアパートには、借金のカタに父親に売り飛ばされた娘モニカ(小西桜子)が監禁されていて、管理しているのはヤスの彼女ジュリ(ベッキー)だった。
一方で、楽に勝てそうだった相手のラッキーパンチで倒されてしまったレオは、病院で医者(滝藤賢一)から「脳に腫瘍があり余命わずかだ」と告げられていた。
ある日、レオは助けを求めて走ってきたモニカとすれ違った時に追ってきた大伴をなぐり倒したところ、大伴の持っていた警察手帳を見て慌ててしまい、それを掴むとモニカに手を引かれてその場から逃げ出したのだが、モニカはある幻想に取りつかれていた。
加瀬は、ヤスが組の仕事で自宅に持ち帰るブツを奪い、モニカを犯人に仕立てるという作戦を計画していた。
加瀬と通じている大伴がモニカを一晩どこかに隠し、モニカを連れてきたジュリを仲間がさらって始末し、そしてモニカとブツを交換し、モニカも殺すはずだったが、大伴がモニカに逃げられてしまった。
加瀬は覆面をしたままヤスを襲うはずが、反撃されて正体がバレてしまい、彼を殺す羽目になった。
ジュリは中国人の男にさらわれるが、逆に相手を殺してヤスの家に戻ってきた。
そこでヤスの死体を発見し、半狂乱で組に報告したが、何食わぬ顔の加瀬は、権藤やその側近の市川(村上淳)とともにヤスの家を再度訪れる。
そして復讐に燃えるジュリを家に送り届けるよう、権藤に指示されてしまう。


寸評
僕は三池崇史の熱烈なファンではないが、彼のバイオレンス・アクションは健在で、腕はチョン切られるわ、首ははねられて転がるわと、ゾッとするようなシーンが随所にある。
転がった染谷将太の首に向かって、大森南朋が「いい顔してるな」とつぶやくシーンはシュールだ。
登場人物は多いが、ボクサーの窪田正孝に引き寄せられるように絡んでくる展開が小気味よい。
窪田正孝は将来性有望なボクサーだが、格下相手の試合でラッキーパンチを貰ってしまいノックアウトされる。
医者に診てもらうと脳腫瘍があり余命わずかと告げられヤケになっていたので、小西桜子を追いかけてきた大森南朋を殴り倒し、彼が刑事だと分かり二人で逃亡するのが事の始まりである。
バラバラに登場していた人物が一つにつながってくる。
ヤクザ組織の下っ端らしい染谷将太は組の麻薬を強奪して、悪徳警官の大森南朋と山分けを狙って緻密な作戦を立てているのだが、その緻密な計画がちょっとしたことから次々と破綻していくのが見どころとなっている。
計画が単にほころびを見せるだけでなく、その度に染谷将太がピンチを切り抜ける様子が楽しく描かれている。
久保田正孝とオーデションで選ばれた小西桜子のラブストーリーでもあるのだが、この作品においては染谷将太とベッキーのキャラが際立っていて、映画を完全に彼らのものにしている。

染谷将太が演じる加瀬は計画通り覆面をしてヤスのアパートに押し入るが、はずみでヤスに覆面を取られてしまい、ヤスの三浦貴大に裏切りを悟られて殺してしまうのが、ほころびの始まりである。
ヤスの恋人のベッキーにも裏切りを知られ、彼女の家で監禁しておこうとしたところ、一人住まいと思っていたアパートには母だか祖母だかわからぬ老婆がいて、この老婆を殺す事になってしまうのが第二のほころびである。
その度に染谷将太が発するセリフと表情が人を喰っていて笑わせる。
ベッキー共々焼死させようとした仕掛けも面白いが、すんでのところでパンツ姿のまま飛び出し駆け抜けるベッキーの体当たり演技が見ものである。
小西桜子は父親の借金のカタとして預けられ、麻薬を打たれながら売春行為をさせられているのだが、それよりも面白いのは虐待されていた幼児体験から父親の幻影を見ることである。
父親の幻影が登場するシーンは面白く描けていて、それがピンチを救う事にもなるのも面白い。

モニカと名乗っているユリの初恋の相手はユリの恩人でもある竜司なのだが、ユリはいつしかレオを竜司にダブらせ始める。
ユリはレオとびしょ濡れになりながら歩いていた時、踏切の向こう側にお腹の大きな妻とふたりで歩く竜司と出会い、「おめでとうございます」と言葉をかける。
ユリの初恋が終わった瞬間だが、ラストシーンを見ると、ユリはレオと新たな愛を育んでいたことが分かる。
ユリが徐々にレオに魅かれていく過程を更に描き込んでいればラブストーリーとしても格調高いものになったように思う。
ただし、そうすれば逆にバイオレンスとしては弱くなっただろうとは思う。
結果的に、日本人ヤクザとチャイニーズ・マフィアが入り乱れてのバイオレンスに的を絞っている三池演出の方が甘ったるくなくて決まっていたと思える出来栄えと言える。
ラスト近くの逃走劇からは単純に面白くて楽しめる。

バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3

2023-01-14 11:27:56 | 映画
「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3」 1990年 アメリカ


監督 ロバート・ゼメキス
出演 マイケル・J・フォックス クリストファー・ロイド
   メアリー・スティーンバージェン リー・トンプソン
   トーマス・F・ウィルソン エリザベス・シュー
   マット・クラーク リチャード・A・ダイサート

ストーリー
1955年11月12日に取り残されたマーティ・マクフライは、1885年からのドクの手紙を片手に、この時代のドクを訪ね、1885年にドクが鉱山の廃鉱に隠したデロリアンを壊すためそこに向かうが、デロリアンを探し出した彼が見たものは、1885年に殺されたドクの墓だった。
犯人は、ビフ・タネンの曽々祖父ビュフォード・タンネン。
マーティはドクの危機を助けるべく、1885年の開拓時代へと向かう。
マーティは、アイルランドから移住してきたばかりの先祖、マクフライ夫妻の世話になるが、酒場でマーティはタンネン一味にからまれ、縛り首にされかかる危機一髪の彼を助けたのは、ドクであった。
ドクはマーティから生命の危機を聞き、一刻も早く1985年に戻ろうとするが、あいにくデロリアンのガソリン・タンクは空っぽだった。
そんなさ中、ドクは当地の新任女教師クララ・クレイトンの命を助け、彼女と恋におちてしまう。
そして9月5日のお祭りの日、ドクはクララをめぐって、タンネンと衝突してしまう。
一方のマーティは、タンネンにののしられ、彼と決闘をすることになるのだった。
翌日はふたりが未来へと戻る日、クララに別れを告げたドクは傷心のあまり酒場で一夜をすごす。
夜が明け、そこにタンネンが姿を現わし、ドクを人質にとられたマーティは、タンネンとの決闘を余儀なくされるが、銃ではなく、拳と頭とで彼を倒すのだった。
そしていよいよ出発の日、機関車にデロリアンを後押しさせ、その反動で崖からデロリアンを突き落とし、タイム・トリップしようとする。
そんなふたりの前にクララが姿を現わした・・・。


寸評
第一話と第二話をかじりながら入っていく第三話だが、今回は西部劇の時代を背景にしている。
フリスビーになる皿の話など相変わらず未来に存在する物の小ネタを挟み込んで観客をくすぐるという演出を継続しているが少々マンネリ感が出てきている。
マーティが自分の先祖になる人たちと出会うのも慣れっこで、逆にこのマンネリ化がシリーズの面白いところなのかもしれない。

今回の面白いところはマクフライを名乗れないマーティがクリント・イーストウッドを名乗っていることである。
扮装を初め「荒野の用心棒」へのオマージュも感じられる。
決闘場面でマントの下の胸に鉄板をつけているなどは正に「荒野の用心棒」である。
オマージュと言えば、僕はジョン・フォードの「荒野の決闘」へのそれも感じた。
ドクとクララがダンスを踊る場面に、僕は「荒野の決闘」におけるワイアット・アープとクレメンタインのダンスシーンを重ねていて、クララはクレメンタインではなかったかと思う。
マーティをクリント・イーストウッドとするなら、いっそクララをクレメンタインにしていても良かったのではないかと思う次第である。

マーティはタンネンに殺されてしまうことになっているドクを助けるために1885年に来ているのだが、描かれているのはドクとタンネンのいざこざよりも、ドクとクララの恋物語である。
ドクが現代の宇宙旅行の話をすると、クララが分かったような顔をしてジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」の話ねと
いうのも可笑しい。
ジュール・ヴェルヌの作品は低俗と評された時代もあったが、科学技術の進歩に対する予言の忠実さに敬意を払ってのものかもしれない。
「月世界旅行」も「海底二万里」も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も時代を超えて再認識される物語なのだろう。
未来に行ったり、過去に行ったりできるタイム・マシーンは子供の頃に夢見た世界で、僕が子供の頃にその空想の世界に浸っていたこともあった。
クララが傷心した姿で汽車を待つシーンはどこかで見たような気がするのだが映画の題名は思い出せない。

ファミリー映画なので人が殺されるシーンは出てこない。
マーティとタンネンの決闘シーンでもビフの祖先でもあるタンネンが肥料用の糞の中に突っ込んで逮捕されるが、これなども第一作でビフが車で糞の中に突っ込んだエピソードを髣髴させるものとなっている。
シリーズのファンなら、映画ファンなら、あちこちに楽しめるエピソードが盛り込まれていて、監督のロバート・ゼメキスと制作・脚本のボブ・ゲイルとが楽しみながら映画作りを行っているように感じる。
彼等にとってバック・トゥ・ザ・フューチャー・シリーズは贅沢な遊びなのかもしれない。

シリーズを通じて活躍したデロリアンは木っ端みじんに壊れてしまった。
ドクは今度は汽車だと言って登場してくるが、デロリアンの消滅をもってこのシリーズも完結したという事だろう。

バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2

2023-01-13 09:23:04 | 映画
「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」 1989年 アメリカ

第1作の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は2020/1/13で掲載しています。


監督 ロバート・ゼメキス
出演 マイケル・J・フォックス クリストファー・ロイド
   リー・トンプソン トーマス・F・ウィルソン エリザベス・シュー
   ジェームズ・トルカン ジェフリー・ワイズマン
   ケイシー・シマーシュコ ビリー・ゼイン

ストーリー
1985年の世界に戻ってきたマーティ・マクフライは、未来の世界からドク・ブラウンの訪問をうけ、未来の自分の子供の身が危ないと知らされ、恋人のジェニファーと共に、2015年の世界にやって来る。
年老いたビフ・タンネンの孫グリフにいじめられる息子のジュニアを助け、悪の道に足を踏み入れることをとどまらせたマーティは、安心して1985年の世界に戻ろうとするが、その間に、マーティがちょっとした悪戯心で手にしたスポーツ年鑑を、ビフが盗み過去の世界へ旅したことを誰も知らない。
果たして戻ったマーティは、閑静な住宅地だったヒル・バレーがすっかり荒廃の地と化してしまっているのに愕然とする。
おまけに父のジョージは12年前に何者かによって殺され、未亡人となったロレインは、何と今や全米一の大金持ちとなっているビフと再婚していた。
どうやらビフは、1955年のダンスパーティの日に、未来からやって来たビフからスポーツ年鑑を手渡され、これを基にスポーツ賭博で大もうけをしたらしい。
時の流れをもとに戻そうと、マーティはドクと共に1955年のあのダンス・パーティの日に戻る。
そして大騒動の末にマーティはスポーツ年鑑を取り戻し、それを焼き捨てるが、1985年の世界に戻ろうとしたその時あの稲妻が発生し、ドクを乗せたデロリアンはマーティを残し、どこかへと消えてしまう。
そしてマーティは、あの時1985年に帰る自分を見送ったドクを探し出し、助けを求めるのだった--。


寸評
2015年という未来と、1955年という過去、そして現在という1985年を行ったり来たりするが、さらに現在が過去の出来事により変わってしまっているという、なんとも忙しいタイムスリップが繰り返される。
二つの1985年が存在するという点が今回の着目点になっている。
過去に行われたスポーツの結果が載った年鑑を持ってビフが過去の世界に行くと、その年鑑は未来の結果が載っていることになり、ビフは年鑑を利用して勝敗の賭けに勝ち続け大金持ちになり、現在である1985年の世界が変わってしまっているということで、映画はそれを元に戻そうとマーティとドクが奮闘する姿を描いていくのだが、目まぐるしすぎて作品に浸れない気がする。
競馬のレース結果が分かっていて、それで大金を手にするという発想は珍しいものではなく、それを描いたテレビドラマもあったような気がする。

前作で行った1955年に再び行くことになるが、そこでは前作で描かれた出来事が起きており、前作のシーンがそのまま使用されて再現される。
したがって前作を見ておかないと、この作品の楽しみ方の一つを失うことになる。
さらに言えば次回作の予告編も行っており、前作と、次回作をつなぐ作品として片手間に撮った作品というような印象を受けた。
調べてみるとパート2とパート3はもともと1本の作品として撮られたが、上映時間が長いので2本に分割されたとのことなので、そういう事ならパート2は導入部ということになるから、僕の受けた印象も独断的なものではないような気がする。

一番楽しめた場面はやはりあのダンスパーティのシーンであった。
前作のシーンを視点を変えて描いている所が楽しめる。
マーティが新しいサウンドで演奏しているのは前作通りだが、演奏しているのは先にやって来ていたマーティで、それを後からやって来たマーティが見ているというのがユニークな発想だ。
後から来たマーティを追いかけている連中が、演奏している先に来ていたマーティをやっつけようとしているが、そうなると前作の通りにならなくなってマーティは1985年に帰れない。
したがって後からやって来たマーティがそうならないように、その3人組をやっつけるという話が付け加えられているのだが、その間にギタリストだった従弟がチャック・ベリーへ新しいサウンドだと電話するシーンが別角度から捉えられて挿入されている。
これなども前作を見ておかないと何をしているのかが分からない。
詰まるところパート2はパート2だけで楽しめるものとはなっていないので、パート1の評判を聞いてパート2から見始めた人には極めて不親切な作品となってしまっている。
シリーズ物には宿命なのかもしれないが人間関係や出来事の因果関係が引き継がれていくので、途中からのファンにはつらいものがある。
そしてどうやらパート3は西部劇となるようだ。
繋ぎとしての導入部を見せるというよりもダイジェスト的に場面を短い時間で切り取ったと思われるものが付加されているのだが、前述の事情から、予告篇付の作品に編集したと思われる。

蜂の巣の子供たち

2023-01-12 10:15:14 | 映画
「蜂の巣の子供たち」 1948年 日本


監督 清水宏
出演 岩波大介 夏木絢子 御庄正一 久保田晋一郎 千葉義勝
   岩本豊 中村貞雄 平良喜代志 硲由夫 三原弘之 川西清

ストーリー
復員して来たが、帰るべき家もなければ親兄弟もいない、何のアテもない島村修作であった。
浮浪児達が、入って来る列車をめがけて何かにありつこうと狼群のように襲いかかる。
だがこれは復員列車で獲ものにならなかった。
浮浪児達の失望した顔、その顔に並んで一人の若い女が、これもぼけたように立っている。
行くアテを見失ってすっかり考え込んでいる引揚者の夏木弓子である。
彼女も修作も浮浪児達も皆同じ様な立場であった。
弓子は最後の頼みの知人を訪ねて行くといって去った。
修作と浮浪児達はたちまち仲良くなったのだが、普公、義坊、豊、丹波、寛市、源之介、弘之、清の八人組の浮浪児達を操っている男があった。
図星の政という一本足の暴れ者で、彼は浮浪児を手下に使い、コソどろ、かっ払いをやらせてそのピンをはねているのである。
八人組の子供達に修作は特に教えたわけじゃなかったが、子供達は働かねば食えぬという事を覚えた。
修作の実践が子供心にも影響を及ぼし、彼等は次第に修作と離れ難い親密の度を増して行く。
彼等を支配する図星の政は、ヘタな事をしやがると、修作をつけねらうが、反って修作にのされる。
山陽線を海岸沿いに、歩いたり汽車に乗ったり、野宿をしたり広島の近くまで来た時、豊は母を恋いながら病気になって死んだ。
修作達は、広島で弓子に会ったが、彼女は愛情を求めて、やはりさすらいの旅をしていたのである。
今はすっかり心のつながれた、修作と、子供達とそれから弓子であった。


寸評
僕にとって清水宏は馴染みの薄い監督で、戦前の「有りがたうさん」、「風の中の子供」がテレビ放映されたのを見た記憶がある程度で、「蜂の巣の子供たち」は辛うじて印象深く残っている作品となっている。
むしろ市川崑の「映画女優」の中に登場する清水宏がモデルと思われる男の印象が強くて、一言で言えば田中絹代に付きまとう嫌な男だったのだが、この映画を通じて彼が終戦以来、浮浪児問題に大きな関心を寄せて、自らも何十人かの浮浪児と生活を共にしていたと知り、彼へのイメージが変わった。
この映画はその子供たちを出演させたもので、ある種のロードムービーである。

最初に「この子たちを知りませんか」という字幕が表示されることに驚かされる。
ドラマでありながら人探しを行っていて、想像もしなかった幕開けであった。
出演者の演技は素人くさいが戦後間もない頃の空気は生々しい。
僕はまだ生まれていないのだ。
昭和23年という時代における「戦災孤児の物語」でありながら、どこかおおらかで子供たちはバイタリティにあふれていて大人びている。
サイパンからの引き上げ途中で母を亡くしたヨシ坊の悲しい物語や、途中で知り合ったお姉さんの切ない物語も描かれているが、全体としては活気に満ちている。
それでいながら昭和23年の世相を間違いなく:切り取っていると思う。
当時の人が見れば現実とは違うのかもしれないが、少なくとも僕にはそう見える。
大きな要因は全編ロケで撮影されているからで、風景を始めドキュメンタリー的雰囲気を持っているからだ。
まだまだ引揚者が多くいた頃だったのだと分かる。
外地から下関に引き上げてきた青年は話しかけてきた浮浪児にパンを差し出すが、少年は半分でいいと言う。
一個のパンは浮浪児の元締めの男が取り上げ、むき出し状態で売りさばいている。
半分なら売り物にならず、浮浪児たちが食べることができるのだ。
そんな時代があったんだなと思わされる。

青年と子供たちは徐々に心を通わすようになり仕事をしながら旅を続ける。
引揚者も浮浪児たちと何ら変わらない存在で、彼らの苦労がしのばれる。
地道な仕事は割が合わないと逃げ出す子供もいて、塩田の作業中には皆で追いかけていく。
仕事をほっぽり出して抜け出すなんて許されたのかとツッコミを入れたくなるが、人々は親切である。
次の旅先での仕事も紹介してくれている。
廃墟からの復興に向けて人々はお互いに助け合うというモラルは失われていなかったのだろう。
単一民族の素晴らしさかもしれない。
青年は施設の出身者で不良の時期もあったらしいのだが、そんな中で成人し徴兵されて戦地に行っている。
彼の人生も過酷なもので、浮浪児たちと同じような境遇で育ってきたと思うのだが、どのようにして好青年になったのだろうと思うし、この子供たちはその後どうなったのだろうとも思う。
僕よりは年上の筈だが、生存している人も多いはずで、今どうしているのだろうと思い浮かべた。
この映画以上に清水宏は立派だったと改めて思った次第である。

八月のクリスマス

2023-01-11 08:02:12 | 映画
「八月のクリスマス」 1998年 韓国


監督 ホ・ジノ
出演 ハン・ソッキュ シム・ウナ シン・グ イ・ハンウィ
   オ・ジヘ チョン・ミソン

ストーリー
主人公ジョンウォン(ハン・ソッキュ)は父親の跡を継いでソウルで小さな写真館を経営している。
彼は不治の病を抱えており余命が限られているのだが、その事は彼と彼の家族だけが知っている。
彼はそんな状況でも、写真館の仕事や同居するやもめの父親との家事をこなし、笑顔を絶やさず穏やかな毎日を送っている。
ある夏の日、駐車違反取り締まり員のタリム(シム・ウナ)が違反車の写真を拡大して欲しい、とやってくる。
その日からふたりはほとんど毎日のように町中で偶然、もしくは写真館にタリムがやって来るという形で会うようになる。
季節が夏から秋へと変わり、遊園地で初めてデートをしたのを最後に、ジョンウォンは写真館から姿を消す。
様態が急変して病院に入院したのだ。
それを知らないタリムは、毎日のように写真館を訪れ、ある時手紙を書いて写真館のドアに挟む。
数日後、受け持ち地区の移動を間近に控えたタリムは、訪れた写真館に相変わらずジョンウォンを見つけられず、思いあまって写真館のガラスに石を投げつけるのだった。
冬の始め、退院したジョンウォンは写真館でタリムからの手紙を見つける。
彼女の移動した地区を探し当て、タリムを見かけるジョンウォン。
しかし声もかけず、遠くから見守るだけだった。
やがてジョンウォンはタリムヘの返事も投函しないまま、帰らぬ人となった。
雪が降ってクリスマスの装いを見せる町。
タリムは久しぶりに訪れた写真館のショーウインドウに、以前ジョンウォンが撮影した自分の写真が飾ってあるのを見て微笑むのだった。


寸評
余命わずかな男性が出会った女性との日々を、淡々と、穏やかに描いている純愛映画だが、美男美女によるベタな純愛映画ではない。
そもそも女性は男性をオジサンと呼んでいて、その呼び方は最後まで変わらない。
つまり駐車違反取り締まり員である若いタリムから見れば、写真館を営むジョンウォンは若さが残っているとは言え素直にオジサンと呼べる年齢なのだ。
ジョンウォンは治癒が難しい病気のようで、その為に結婚もしていないようなのだが、笑顔を絶やさず時間を大切にしながら余生を過ごしている。
死を感じて友人と酔いつぶれることも有るが静かな男である。
父親も妹も彼の心情を知りつつも声をかけることはせず、静かに見守っているだけだ。
青春時代に恋した女性は幸せとは言い難い生活を送っているようだが、恋を蘇らせることもなく女性からは写真を捨ててほしいと伝えられる。
恋は想い出となって通り過ぎていく。

無言のシーンを多く取り入れ、不要な説明を省いて直接的な表現はせずに観客にいろんな感情を引き起こさせる演出方法が激情型の純愛映画とは違うしっとりとした愛を感じさせる。
携帯電話が普及してお互いがすぐに連絡を取り合える時代にはないロマンを感じ取れる。
タリムはジョンウォンが入院中であることを知らず、何度も写真館を訪れるが店は閉まったままである。
何も言わず会えなくなったことに怒り、タリムは写真館のガラスを割ってしまう。
一方で、ジョンウォンは退院したにもかかわらず喫茶店の中からタリムをガラス越しに見つめるだけで声を掛けようとしない。
タリムを愛する気持ちを持ちながらも自らの死期を悟っているジョンウォンと、秘かな愛を覆い隠しているタリムの間には目に見えない壁があるのだ。
若いタリムは2人の間にある壁を壊そうとしているが、死期が近く別れを悟っているジョンウォンはその壁を壊すことができない。
窓ガラスは二人の感情における微妙な違いを表していたと思う。
疑問点を残しながら映画は終わり、観客に顛末を想像させる。
ジョンウォンはタリムに手紙を書いて思い出の詰まる箱に仕舞いこんでいたが、あの手紙はタリムの手に渡ったのだろうか?
タリムはジョンウォンの死を知ったのだろうか?
ジョンウォンの書き残した操作説明書によって父親は写真館に出入りしているから、タリムは父親に声をかけて彼の死を知ったかもしれないが、それを感じさせるシーンはない。
タリムは写真館に飾られた自分の写真を見つけ、微笑みながら去っていく。
楽しかった日々を思い出したのだろうか?
恋は想い出となってしまったことへの自嘲気味の微笑みだったのだろうか?
ジョンウォンの生き様とか遺影を撮り直すお婆さんのエピソードなど、死と向き合う姿勢を感じさせた映画でもあり、僕の気持ちを後押しする作品でもあったような気がする。

八月の狂詩曲(ラプソディー)

2023-01-10 07:07:56 | 映画
「八月の狂詩曲(ラプソディー)」 1991年 日本


監督 黒澤明
出演 村瀬幸子 井川比佐志 茅島成美 大寶智子 伊崎充則 根岸季衣
   河原崎長一郎 吉岡秀隆 鈴木美恵 リチャード・ギア

ストーリー
長崎から少し離れた山村に住む老婆・鉦(かね)のもとに一通のエアメールが届いた。
それは鉦の兄であるハワイの大富豪・錫二郎(すずじろう)の息子・クラークからで、不治の病にかかり余命短い錫二郎が、死ぬ前に鉦に会いたいというものだった。
ところが、兄弟が多い鉦には錫二郎という兄の記憶がなく、そんな鉦の気持ちとは裏腹に、突然現れたアメリカの大金持ちの親せきに興奮した息子の忠雄、娘の良江はハワイに飛んで行ってしまう。
それによって残された4人の孫・縦男、たみ、みな子、信次郎は夏休みを鉦の家で過ごすことになった。
孫たちは鉦がいつも話す昔話を聞いて、原爆で祖父を亡くした鉦の気持ちを次第に理解するようになる。
そして、鉦がついにハワイに行く気になり、縦男はその旨を手紙に書いてハワイに送る。
それと入違いに忠雄と良江が帰って来て、さらに突然クラークがハワイからやって来る。
縁台で鉦と手を取り合って対面を喜ぶクラークは「ワタシタチ、オジサンノコトシッテ、ミンナデナキマシタ」とたどたどしい日本語で語った。
そして長崎で孫たちと楽しい日々を送っていたとき、錫二郎の死を告げる電報がクラークのもとへ届き、クラークは急いで帰国するのだった。
そしてこの時から鉦の様子がおかしくなっていく。
そして雷雨の夜、突然「ピカが来た!」と叫びだし、翌朝、豪雨の中で鉦は風に揺られながら駆け出していく。
そんな鉦を忠雄、良江、それと4人の孫たちはこみあげる気持ちで、泣き叫びながら追いかけていくのだった。


寸評
僕は「どですかでん」以降の黒澤作品はイマイチだなあと思っているので、その先入観もあって見ていても「八月の狂詩曲」には雑な描き方が目についた。
冒頭、縦男たち4人の子供がおばあちゃんの家に来ている。
四人の関係はよく分からなくて、誰と誰とが兄弟姉妹なのかを理解できるようになるのは随分経ってからである。
最初の食事のシーンで信次郎が口火を切って鉦の料理が不味すぎると不満を漏らしだすのだが、その料理はどんなものなのかさっぱり分からない。
縦男の言によれば「いんげん豆とかぼちゃと鶏肉の煮付けで、どれがどれだか見分けが付かないぐらい真っ黒」と言うことなのだが、それならその料理を見せるべきで、若者受けしない料理であることを示すべきなのだ。
申し出が通り、言い出した信次郎を褒め上げ「お婆ちゃんの不味い食事を食べなくて済むようになってラッキー」と喜こび、縦男を中心に「ハワイへ行くために一致団結しよう」と浮かれたりしていた子供たちが、長崎市内へ買い出しに行くと随分と変わる。
たみは高台から市内を眺め「このきれいな長崎の町の下には、一発の原子爆弾に消えてしまったもう1つの長崎があるの」と、急に生真面目なことを言い 出す。
みな子と信次郎も軽く受け流したりせず、真面目に聞いたり質問したりしている。
おじいちゃんが死んだ学校でも同様で、僕はこの子供たちの豹変ぶりに驚いてしまい、戸惑いさえ覚えた。
ハワイに行っているのは両親の片親だけで、一方は日本に残っていた事が描かれるが、そうなら何故子供たちはおばあちゃんの家にくる必要があったのだろう。
その辺の経緯は描かれていても良かったのではないか。
勘の悪い僕は彼らの関係と状況把握を理解するのに随分と時間を要した。

それ以上に違和感を感じたのは、子供たちの田舎での様々な体験が描かれていることである。
子供たちの一夏の経験がテーマではなく、原爆や戦争をテーマとしているのだから、描かれたことにどのような意味があったのだろうと思ってしまう。
心中杉を見に出掛けた縦男がたみにキスを迫るシーンは一体何だったんだろう。
河童の話を聞いた信次郎 が河童のコスプレで皆を驚かせるのは、本来のどかであった田舎をイメージさせる為のものだったのだろうか。
大人たちは金持ちの親戚と繋がりを持ちたいという意識に溢れており、だからアメリカ国籍を持つ親戚に原爆のことに触れようとしない。
最初はパイナップル畑の立派さを語り、日本支店の重役への就任を夢見たりして浮かれた気持ちだったが、すぐに原爆のことを真摯に受け 止め戦争のことを真面目に考えるようになる。
描かれ方は、子供は純真で、大人は汚れているという単純図式である。
リチャード・ギアの登場は日米の和解と融和なのだろうが、僕には彼の登場で物語が大きく変わったと言う気がせず、突然現れて突然去っていったとう印象である。
僕が一番印象に残ったのは、小学校に亡くなった当時の同級生がモニュメントに慰霊で訪れたシーンであった。
彼らがモニュメントを清掃している向こうでは、同じ小学校の今の生徒たちが無邪気に走り回っているのである。
原爆は、戦争は、忘れ去られようとしていて遠くになりつつあるような気がしたのだ。

裸の太陽

2023-01-09 09:32:07 | 映画
「裸の太陽」 1958年 日本


監督 家城巳代治
出演 江原真二郎 丘さとみ 中原ひとみ 仲代達矢 高原駿雄
   山形勲 星美智子 岩崎加根子 東野英治郎

ストーリー
驀進する機関車のハンドルを握るのは機関士の崎山(高原駿雄)、助手は木村(江原真二郎)。
崎山は妻の房江(星美智子)の出産が明日なので落着かない。
木村には房江の妹でゆき子(丘さとみ)という恋人があり、二人は十万円の結婚資金をためている最中。
その木村は明日は一緒に海水浴に行くのでウキウキしている。
木村が乗務員詰所に戻ると、そこでは親友の前田(仲代達矢)が同僚達に囲まれて不穏な空気が漲っていた。
同僚の金がなくなり、日頃競輪にこったり素行の悪い前田が疑われたのだった。
木村は前田をかばったが、彼は何も弁解しなかった。
喫茶店で木村とゆき子は、水着を買うために貯金を下すことに決めた。
寮から通帳を取っての帰りに木村は前田に会い、金を貸してくれといわれる。
一度は断ったものの、なにか事情があるのを察し、貯金を全部貸してやる。
ゆき子はせっかくの楽しみが駄目になって怒り出す。
二人で町を歩いている時、ビアホールから出て来る前田をみかける。
木村は金の使いみちを詰問し大喧嘩となって、警察に連行されてしまった。
怒りもとけたゆき子は、警察から戻った木村になんとかして海に行こうという。
ところが翌日、木村は警察を出てから行方不明の前田の代りに勤務を命じられる。
これで海水浴もとうとう駄目になった。
浮かぬ気持で寮に帰った木村のところへ、河合富子(岩崎加根子)が前田に貸した金の礼をいいに来た。
昔、前田は富子を愛していたが、富子はそれを知らずに他へ嫁いでしまっていた。
前田は最近富子に会って、富子の夫が胸を病んで困っていることを知り金の工面をしてやっていたのだ。
木村もゆき子も前田の愛情に感動し、昔の仲良しに戻った。


寸評
描かれているのは1950年代の若者たちの、ほほ笑ましい日常である。
SLのカマ焚きである江原真二郎が義兄の高原駿雄と運転席に乗っていて、紡績工場に近づくと江原が運転手の高原に頼んで汽笛を鳴らしてもらう。
紡績工場に勤める恋人の丘さとみへの合図なのだが、SLが走り抜けると大きな空と原っぱや水田が広がり、そこに白いブラウス姿のヒロインが走りながら現れて、恋人の乗務するSLに向かって右手をぐるぐる回す。
この牧歌的な開放感は現実社会でもう味わうことはできない。
僕の最寄り駅の近くに鐘紡の紡績工場があったのだが、今ではマンション群となっていて作中で登場したような紡績工場は日本社会から消え失せている。
メインとなっているのは江原眞二郎扮するSLの機関助士・雄二と、丘さとみ演じる、紡績工場勤めの女性・ゆき子との青春ラブストーリーである。
それも、時代を感じさせるラブストーリーで、当時の社会状況を写し取る風俗映画のように感じる。
街の風景や職場の様子はもちろんことで、登場人物の服装も印象的で急速な経済成長を遂げようとしていることがうかがわれる。
喫茶店でかき氷を食べる雄二とゆき子のデートシーンは時代を感じさせる。
JRの前身である国鉄協賛、文部省推薦と言った趣で、杉の木と名付けられた職場サークルの連中はコーラスをやっていて、働く若者たちの美しき青春を賛美しているようである。
登場人物は江原真二郎とその恋人の丘さとみがメインで、丘さとみの妹が中原ひとみ(江原と中原は後に実生活で結婚する)、丘さとみの姉は星美智子で、彼女の夫は高原駿雄であるから、要は国鉄一家なのである。
当時は国鉄一家と呼ばれる家庭がそこそこに存在していたと思う。

一方の主役は蒸気機関車で、SLの撮影は非常に良く出来ていると思うし、運転席の描写も臨場感がある。
見ている限りにおいては、実際に走っている機関車内で撮影したように思え、そうだとすれば撮影時の苦労と国鉄の協力に賛辞を送りたい。
クライマックスは、SLに乗務した江原が急勾配の箇所で機関車の先頭に腹這いになって線路に砂を落として坂を登りきるところだ。
SLの運転に際して、機関車はこんな風にして坂を登ることも有ったのだと知ると、やはり手に汗握る。
頑張って走る機関車を映しても、機関車が新鮮な魚が待つ駅にたどり着き大喜びされると言うシーンはない。
機関車を持ち詫びる人々よりも、やはり主役は機関車そのものなのだと思わせた。

江原は中学で同級生だった仲代達矢と国鉄に就職したようである。
仲代は酒と競輪におぼれている不良職員で、江原と丘が二人の結婚資金として貯金していた1万7千円を江原から借りる。
当初、競輪で使ったのかと疑っていたが、実は昔好きだった女の岩崎加根子の夫が結核になってしまい、その治療費に貸したことが分かる。
この世の中には悪い人間はいないということで、健全映画の結末らしい。
プールに飛び込む丘さとみの水着にくっきりと縫われた跡が残っていたのがラストシーンを飾っている。

はじまりのみち

2023-01-08 09:14:16 | 映画
「はじまりのみち」 2013年 日本


監督 原恵一
出演 加瀬亮 田中裕子 ユースケ・サンタマリア 濱田岳 斉木しげる
   光石研 濱田マリ 藤村聖子 松岡茉優 大杉漣 宮崎あおい

ストーリー
太平洋戦争下の日本。
政府から戦意高揚の国策映画づくりを映画界に要求されていた時代。
木下惠介(加瀬亮)が昭和19年に監督した「陸軍」は、内容が女々しいと当局の不興を買い、次回作の製作が中止になってしまう。
夢を失った木下は松竹に辞表を提出し、失意のうちに郷里である浜松市の気賀に向かった。
最愛の母(田中裕子)は病気で倒れ、療養を続けていた。
失意の中、惠介はたまに「これからは木下惠介から本名の木下正吉に戻る」と告げる。
しかし、戦局はいよいよ悪化の一途をたどり、気賀も安心の場所ではなくなってくる。
惠介は戦局が悪化する中、母をより安全な山間の村へと疎開させることを決意する。
その夏、一台のリヤカーに寝たままの母を、もう一台には身の回り品を乗せ、恵介は兄・敏三(ユースケ・サンタマリア)と、雇った“便利屋さん”(濱田岳)の3人で、夜中の12時に気賀を出発し山越えをする。
途中の休憩時に「惠介が前は映画監督をしていた」と言いかけた敏三を惠介は遮ったが、便利屋はそれを「映画館で働いていた」と勘違いする。
激しい雨の中、17時間歩き続け、ようやく見つけた宿で母の顔の泥をぬぐう惠介。
疎開先に落ち着いて数日後、たまは不自由な体で惠介に手紙を書く。
そこにはたどたどしい字で「また、木下惠介の映画が観たい」と書かれていた……。


寸評
木下恵介の母への愛、映画への愛を描いた映画。
便利屋の濱田岳が狂言回し役になって木下の思いを代弁させているところが、メッセージ性を強調することなく木下の人となりを浮き出させて得な役回りで、彼の存在がこの作品を映画らしくしていた。
でもまあこれは映画ファンへのプレゼント作品だったと思う。

「陸軍」は、田中絹代演じる母親が戦地へと向かう息子を延々と追う姿が女々しいとされ、当局に睨まれたいわく付きの作品だが、「陸軍」は母親の子供への愛情だけではなく、東野英治郎演じる桜木常三郎に息子の安否を何回も聞かせて、父親の息子への愛情も同時に描いていた。
当局の要望を満たしながらも反戦的なメッセージを盛り込んでいる苦心が良く判る映画だ。
便利屋さんではないが、やはりラストシーンは泣けたなあ。
便利屋は、また映画館で働けたら『陸軍』を見ることを薦め、あのラストシーンはよかった、いい映画だった、親の気持ちがよく伝わってきたと述べる。
惠介は「息子に立派に死んでこいという母親はいない」と語るのだが、「陸軍」を見る機会のあった僕はあの映画のラストシーンを思い起こしていた。

宮崎あおいの先生の場面などは「二十四の瞳」の構想を暗示していたように思うし、最後には木下作品が当時のフィルムとともに次々と紹介される。
紹介される作品は全部で15作品なのだが、これだけ多く紹介されると、何故この15作品が選ばれたのかとの疑問がわいてしまう。
でも、見た記憶を次々呼び起こしながらそれらの作品を眺めていた時に、映画を見て来て良かったなと改めて思ったりもした。
木下恵介という監督は日本初のカラー作品である「カルメン故郷に帰る」だったり、「野菊の如き君なりき」の縁取り画面とか、「楢山節考」の歌舞伎調セットによる画面切り替えなど、斬新な手法を好んで使った監督さんだったのかなと思う。
しかしこの作品を「木下惠介生誕100年記念映画」と銘打つならば、もう少し監督木下恵介が描かれても良かったのではないか。 たんなる母子物語になっていたのはちょっと寂しい気がする。
撮影と映像は手抜きが所々に見受けられる。
山越えでは夏の暑さの表現としては物足りないし、踏破する苦労も少し弱い気がする
時代を感じさせる風景も少なく、背景に映り込む人物の動きもぎこちない。
「陸軍」のラストシーンに見られるような映画的高揚感に欠けていると思う。
木下作品を見てきた者、木下恵介を知る人には懐古的な意味も付加されて見ることが出来るのだろうが、一本の映画として見た場合、映画が持っている独特の映画的映像を用いた表現には劣っている作品だったと思う。

役柄上、セリフの少ない田中裕子は流石の存在感で、その母の顔を濡れ手ぬぐいで拭いてやるシーンに代表される母への愛情も切々と伝わってきたが、見終わって先ず第一に思ったことは木下恵介と言う監督への再評価と感謝の気持ちだった。

運び屋

2023-01-07 10:47:18 | 映画
「運び屋」 2018年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド ブラッドリー・クーパー
   ローレンス・フィッシュバーン ダイアン・ウィースト
   タイッサ・ファーミガ アリソン・イーストウッド
   マイケル・ペーニャ アンディ・ガルシア

ストーリー
退役軍人のアールは花のコンテストで賞を貰うが、同じ頃、娘のアイリスはどこかで結婚式を挙げていた。
孫娘のジニーは結婚式にアールが来る事を期待していたが、アールの前妻メアリーは彼がいつもの様に皆を落胆させるに違いないと思っていた。
数日後、アイリスの結婚式に出席しなかったアールがジニーの誕生日に姿を現すと、誕生日パーティーに来ていたジニーの友人が生活に困っているアールを見ると名刺を渡し、ドライバーを探している知り合いがいると仕事を紹介する。
早速仕事を引き受けたアールのトラックに数人のメキシコ人たちがバッグを積み、彼にバッグの中身を絶対見ない事を約束させた。
トラックを言われた場所まで運転していくという簡単なタスクを終わらせたアールは報酬として大金を手にする。
同じ頃、麻薬取締局では新しい捜査員コリン・ベーツを採用し麻薬組織メンバーの逮捕を計画していた。
アールはトラックの運転で得た金で新しい黒いトラックを買い、差し押さえられていた自宅も取り戻す。
再びトラックの運転をするアールは、バッグの中身が麻薬であることに気づくがそのまま仕事を続行し、その90歳とは思えない良い仕事ぶりで雇い主であるメキシコの麻薬組織カルテルのボス、ラトンに一番使える運び屋として“エル・タタ”と言うあだ名で呼ばれ感心される。
麻薬取締局では、運び屋エル・タタの存在を知り、その正体を暴くため捜査を続ける。
彼らがエル・タタについて持っている情報は、彼が他の運び屋より多くの麻薬を運んでいる事、黒いトラックを持っている事のみだった。


寸評
イーストウッドが演じるといえば、寡黙で頑固な人物を思い浮かべるが、本作における主人公のアールは最初から軽口を叩き陽気な振る舞いを見せる。
アールはひょんなことから麻薬の運び屋になってしまい、その報酬としてつかんだ大金で孫娘の結婚パーティーの資金を出したり、差し押さえにあった自宅も取り戻し、火事にあって閉鎖の危機にあった退役軍人の施設を再開させるなどする。
やっていることは犯罪だが、アールは人生で失ったものを取り戻そうとしているように見える。
アールが失った最も大きなものは家族である。

アールは何度目かの運送時に運んでいる荷物が麻薬であることを知るが、銃を携えた依頼者の様子を見れば、最初からこの仕事はやばいものだと思っていたはずだ。
アールは運送の仕事で全米を走り回っていた時期があったようで、この仕事を引き受けたのは金に困っている以外に「昔取った杵柄で、歳は取ってもまだまだやれる」という自負心が持ち上がったのかもしれない。
そんなわけでアールは、楽しそうに運び屋稼業に精を出すが、その仕事ぶりは自由気ままに目的地を目指すもので、その行いが可笑しくて拍手を送りたくなる行為でもある。
「年寄りをなめるんじゃない」とは言っていないが、そんなアールのつぶやきが聞こえてきそうだ。
アールは警官に呼び止められても動じず煙に巻いてしまい、そんな彼に最初は反感を持っていた見張り役も徐々に親しみを感じて来るのだが、観客である僕も彼の自由人的な行動にあこがれを抱いてしまうキャラクターをイーストウッドが飄々と演じている。

映画では、アールの運び屋稼業の様子と並行して、ベイツ捜査官をはじめとした麻薬取締局の動向が描かれ、麻薬組織と捜査当局をめぐるサスペンスとしての要素が加わってくる。
そんな中で、アールがベイツ捜査官に人生について語る場面など含蓄に富んだ言葉がたくさん飛び出す。
アールの言葉は、若い世代に向けた人生の先輩からのメッセージでもある。
映画におけるアールの人生が、皺だらけになったイーストウッド自身の人生と重なって味わい深く感じられる。
アールは朝鮮戦争に従軍していたようで、戦争を経験した者として怖いもの知らずだ。
命を失う怖さを乗り越えていそうで「100歳まで生きたいと思うのは99歳の人間だけだ」などと言っている。
この世代の男として、仕事一途だったのだろう。
彼よりはるかに若い世代の僕も、現役時代は家族が一番と思いつつも仕事優先の毎日だった。

終盤、アールが妻と対面した時に流れる哀愁を帯びたトランペットの音色は、長年にわたる夫婦の愛憎を見事に象徴し、死の床にある元妻の「来てくれてうれしかった」に胸が詰り、娘との和解にほっとする。
そしてエンディングに流れる歌の「歳を忘れろ」という内容は、この映画の最大のメッセージだろう。
妻のいる僕は独り者のアールのように歳を忘れてバカ騒ぎは出来ないが、しかし気持ちは若くありたいと思うし、イーストウッドのように映画を撮ることは出来ないが、僕が出来うる何事にも意欲を失いたくないものだとも思う。
ユーモラスなタッチは最後まで続き、娘さんが言う「いるところが分かっているだけで安心」には笑ってしまった。

幕末純情伝

2023-01-06 10:22:30 | 映画
「幕末純情伝」 1991年 日本


監督 薬師寺光幸
出演 渡辺謙 牧瀬里穂 杉本哲太 伊武雅刀 木村一八 伊藤敏八
   角田英介 貞永敏 財前直見 松金よね子 桜金造 石丸謙二郎
   榎木孝明 柄本明 津川雅彦

ストーリー
江戸の大通り、新選組隊員の募集広告の立札を見る近藤勇(伊武雅刀)と土方歳三(杉本哲太)の前に一人の道場破りらしい若者が現れる。
美男子で見事な剣さばきで数人の追手をなんなく峰打ちにしてしまったその男こそ沖田総司(牧瀬里穂)だった。
所変わって京都・鴨川、新選組の近藤や総司が屋形船をうかがっている。
船の中にいたのは桂小五郎(柄本明)と坂本竜馬(渡辺謙)で、大声で薩長同盟や倒幕論議をしていた。
そんな彼らに新選組は立ち向かうが、竜馬は何を勘違いしたのかいきなり総司に抱き着き、壮烈な切り合いの中で強引に口説き始めるが、その時、総司は吐血してしまい倒れてしまう。
鴨川の活躍で新選組の評判は一気に高まり、特に総司の人気はすさまじい勢いで、総司の病床には女の子のファンからのお見舞いが山をなしていた。
一方、倒幕の秘策を練る桂や岩倉具視(津川雅彦)、西郷隆盛(桜金造)、大久保利通(石丸謙二郎)を尻目に竜馬は大胆にも朝幕大連合政権の大風呂敷広げ、朝廷はおろか幕府にも工作を計っていた。
そして、なぞの女スパイ・深雪(財前直見)も絡み、京の町は大混戦となる。
総司たちの活躍もますます勢いに乗るが、総司は女だという噂も旋風のように京の町を走った。
そして、総司の一途な思いをよそに深雪に熱を上げる土方、その総司を追い回す竜馬。
そんな新選組に冷水を浴びせたのは、他ならぬスポンサー松平容保(榎木孝明)の手にした請求書の束だった。
活躍のあまり、器物破損のツケがまわってきたのである。
新選組はその活躍ゆえに全員クビになってしまい、さらにそんな時、総司が桂たちにさらわれてしまう。
いきり立った竜馬は土方と共に斬り込み総司を助け出す。
何とか逃げのびた三人が寺田屋でシャモ鍋をはさんでいた時、桂たちの一軍が旅館を取り巻いていた。


寸評
新選組はよく映画に取り上げられる題材である。
近藤や土方を主人公にした正統派時代劇もあれば、新選組に参加した名も無き武士のひたむきな生き様を描いた滝田洋二郎 の「壬生義士伝」や、新選組を男色の視点で描いた大島渚の「御法度」など視点を変えた作品も数多く存在している。
本作は新選組にあって一番の剣客だった沖田総司が女だったという脚色で物語が展開されている。
沖田総司を演じているのは愛くるしい牧瀬里穂である。
牧瀬里穂と言えばJR東海が流していたテレビ・コマーシャルの「クリスマス・エクスプレス」シリーズが懐かしい。
僕たちの世代の男は彼女の見せる新幹線を背景にした恋模様に胸をときめかせたものだ。
映画デビュー作となった相米慎二監督の「東京上空いらっしゃいませ」、続いて市川準監督の「つぐみ」と監督に恵まれ、3作目がこのコメディ時代劇で彼女が一番華やいでいた頃の作品である。

沖田総司、坂本竜馬などが画面狭しと暴れまくるが、コメディだけに時代考証は滅茶苦茶である。
長州の桂小五郎、薩摩の西郷隆盛、公家の岩倉具視などは馬鹿っぽさを通り過ぎて気味が悪い存在で、まともなのは坂本竜馬ぐらいと思わせるのだが、その坂本竜馬も沖田総司にゾッコンになってしまい、フンドシをほどいて襲い掛かるというハチャメチャぶりだ。
後半になってこのズッコぶりの力が落ちて行ったのは残念に思う。
面白いのは坂本は沖田に恋しているが、沖田は土方を思っているという三角関係だ。
土方も沖田を好いていると思われるのだが、御前試合で女の沖田に打ちのめされたという屈辱感が邪魔をしていて素直になれないでいる。
喜劇の中でこの屈折した愛をじっくり描き込んでいればもっと奥深いコメディとなったような気がする。
実は遠い昔の小学生の頃の話ではあるが、僕も土方と同じような経験をした思い出がある。
当時、好きだったスポーツ万能の女の子がいて、プールの授業でその子が良い泳ぎ方の手本として泳ぎを披露したのだが、先生は続いて悪い泳ぎ方の例として僕を指名したのである。
その時の好きな女の子の前で不様な姿を見せた情けない気持ちは誰にも言えなかった。
その屈辱感は彼女との関係において常に影を落としていたように思う。

沖田が土方に恋しているのは、助けた深雪という女に親切にする土方に焼きもちを焼いていることでも分るのだが、しかしこの深雪の描き方は中途半端で終わっているのはいただけない。
どうやら深雪は敵方のスパイの様で、土方に助けられたのも仕組まれた上でのことだったと思われるが、結局彼女は何だったのかと言うような形で終わってしまっている。
ラストで坂本竜馬は大演説を行うが、どうも僕にはピンとこなかった。
坂本竜馬の大演説と言えば、黒木和雄監督の「竜馬暗殺」の方が迫力があったと思い起こした。
土方は傷ついた背中の沖田に蝦夷地に行くぞと告げるが、土方が沖田とともに蝦夷地に行こうと思った心の内がよくわからなかった。
坂本竜馬の渡辺謙が第一主演なのだろうが、牧瀬里穂の可愛さが目立った作品で、これぞB級作品と言った感じで素直に楽しめる作品となっている。

幕末

2023-01-05 07:57:03 | 映画
「幕末」 1970年 日本


監督 伊藤大輔
出演 中村錦之助 三船敏郎 吉永小百合 仲代達矢 小林桂樹
   中村賀津雄 江利チエミ 山形勲 神山繁 江原真二郎 仲谷昇
   御木本伸介 松山英太郎 天田俊明 大辻伺郎 太田博之

ストーリー
ある雨の日、不自由な足に下駄を引摺った一人の小商人が藩の上士・山田にぶつかり無礼討ちされた。
土佐藩では士分以外に下駄は禁制。
下士・中平は怪我人に下駄と雨傘を与えた親切があだとなり、「御法度破りの同類」として山田のために討ち果たされた。
上士の横暴を許すことができない坂本竜馬は、土佐藩を脱藩して江戸の千葉道場で落ち着くことになった。
開国論者の先鋒と見られる勝海舟を斬りに行った竜馬は、本人と話をするうち、お互いに国を愛する気持ちに変わりないことを知り暗殺を断念する。
ちょうど、勤王倒幕の雄藩、薩・長二藩の主導権争い激しき折りだった。
慶応元年。竜馬は長崎に「社中」を創設し海運業に乗りだした。
だが、竜馬は海運業に携わるよりも、中岡と共に薩・長二藩連合のために奔走する方が多かった。
同正月二十日。竜馬は長州の桂と薩摩の西郷との間を周旋して、ついに両藩積年の確執と反目を解消させた。
だが、それと同時に竜馬は幕吏に狙われるところとなり、お良と結婚したものの安住の地はなかった。
幕威に比し薩・長二藩の実力は伸長している現実に周章したのは公武合体論の士佐藩だった。
土佐藩家老後藤象二郎は竜馬に助言を求め、竜馬は「将軍慶喜をして大政を奉還せしめる」ことを説いた。
慶応三年十月十五日、大政奉還がなったその頃、竜馬は河原町通りの醤油商・近江屋に下宿していた。
同年の十一月十五日、風邪の見舞に来た中岡と竜馬は「新政府綱領八策」について議論していた。
刺客が疾風の如く躍り込りこんで、二人の生命を奪い去ったのは、その最中だった。
時に竜馬三十三歳、中岡三十歳であった。


寸評
伊藤大輔は無声映画時代から監督を続けてきた人だ。
無声映画からトーキーへの時代を経験し、戦前、戦中、戦後と映画を撮り続け「時代劇の父」とも称された映画史そのもののような監督である。
この「幕末」は、その伊藤大輔最後の監督作品ということでの記念碑的作品なのだが、出来栄えはイマイチかな。

この作品は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をベースにしているが、中村錦之助の坂本龍馬はどうもそこからイメージされる竜馬像とは違う。
そもそも僕たちが描く竜馬像は司馬遼太郎によって形作られたものではないかと思っているので、その違和感が映画への違和感となってしまっている。
違和感は吉永小百合のお良にもあって、男勝りの勝気な女性というイメージは出ていなかった。
結婚後に眉を剃り落としてお歯黒にしている吉永小百合を描かなくてもよかったんじゃないか。
わざわざ吉永小百合を引っ張り出して、あんな姿をやらさなくてもなあというのが感想。

もっともこの頃はスタープロが大はやりで、石原プロ、三船プロ、勝プロなどに加えて中村プロもあって、この作品も中村プロの制作。
そして興業的な見地から、スタープロの盟主同士の共演が相次いでいた時代だった。
この作品でも三船敏郎が後藤象二郎役で少しばかり登場している。

映画は坂本竜馬ダイジェス版といったような作りで、竜馬に対する切込不足感は拭えない。
むしろ中村錦之助の弟である中村嘉津雄がやった、饅頭屋の近藤長次郎が「亀山社中」の規約違反の罪で詰腹を切らされるエピソードの描きたなどの方が、冒頭に繰り広げられる上士による町人の無礼斬りや、下士への仕打ちと相まって、土佐藩あるいは特権階級の身分蔑視に切り込めていた。
近藤長次郎は頭脳明晰で亀山社中では重要な地位についていたのだが、饅頭屋の出身ということで仲間の武士階級から妬みを受けていたのだ。

同志のケチな差別根性を中岡慎太郎(仲代達矢)に罵倒させているのだが、それは監督・伊藤大輔の叫びでもあったと思う。
伊藤の主張はラストシーンでの坂本竜馬による天皇制批判にも現れていて、現人神としての天皇及び天皇制を否定する演説を竜馬にさせている。
実際の坂本竜馬がそのような思想を持っていたかどうかはわからないが、伊藤大輔の思想歴からみておそらく伊藤監督の信念だったのだろう。
しかし伊藤大輔は大衆受けする作品を撮り続けた人で、思想性や社会性をを前面に打ち出す肩の凝る映画は撮らない監督だったと思うし、この作品でもそのような主張がメインにはなっていない。
だから寺田屋事件では竜馬に大乱闘のチャンバラ劇をさせているし、ラストでも大芝居をさせて観客をうならせるような演出を行っている。
僕は竜馬が一撃のもとに倒された場面で終わったほうが迫力があったのにと惜しんでいる。

白熱

2023-01-04 16:57:16 | 映画
「白熱」 1949年 アメリカ


監督 ラオール・ウォルシュ
出演 ジェームズ・キャグニー ヴァージニア・メイヨ
   スティーヴ・コクラン エドモンド・オブライエン
   マーガレット・ワイチャーリイ フレッド・クラーク

ストーリー
凶悪殺人ギャングのコーディ・ジャレツは、一味と共に財務省の郵便馬車を襲って現金30万ドルを強奪した後、母と妻ヴェルナの待つ山のかくれ家に逃げ、官憲迫ると見て、瀕死の部下だけを残して逃亡した。
Tメン(財務省防犯課)はこの事件をコーディ味の仕業と推定、ひそかに内定を進めた末、課長エヴァンスはロサンゼルスのホテルにひそむ一味を発見したが逃げられてしまった。
コーディは捜査を免れるためイリノイのホテルを強盗して自首して出た。
官憲はその裏を察して望み通り投獄した上、課員のハンク・ファロンを同じ監房に潜入させた。
一方ヴェルナは、夫が獄入りしたのを待ちかねて一味のビッグ・エドと通じ、エドは獄中の手下に連絡してコーディをひそかに亡き者にしようと図った。
作業中の事故に見せかけて殺害するという計画はハンクの機敏な働きで未遂に終わったが、そのためコディはすっかりハンクを信頼するようになった。
ハンクはコーディに脱獄をそそのかし、一味の本拠を突き止める計略をたてた。
ところがコーディは新来の受刑者から母が死んだことを聞いた途端、持病の神経性発作に襲われて病室行きの身となったので、ハンクから連絡を受けたTメンは全員引き揚げてしまった。
一方病室へ入ったコーディは医者を脅迫しつつ信頼するハンクらを引き連れてみごと投獄してのけた。
一行はエドとヴェルナのひそむ山小屋に辿りつき、コーディは母の仇とばかりエドを殺害した。
ハンクは一味の重要人物になり上がっていったが、官憲に通報する暇もないまま、コーディと共にロング・ビーチの大化学工場を襲うことになった。
彼はラジオ部品をトラックに装置し、警官を誘導して工場に入った。
金庫焼き切りの現場でハンクは財務省のイヌであることを見破られてしまったが、やっと警官の元へ逃れ、唯一人大タンクに逃げ昇ったコーディは、大爆発と共に散っていった。


寸評
製作年の1949年(昭和24年)は僕が生まれた年であるが、当時の映画としてはスピーディなストーリー展開で引き付けるものがある。
主人公のギャングは社会の矛盾によって生み出された悲劇的ヒーローではなく、狂気と暴力をほとばしらせながら破滅へ向かっていく。
しかもマザーコンプレックスの傾向があり、仲間であろうと殺してしまう凶暴な幼児性をもった異常性格者としていることでジェームズ・キャグニーが強烈な印象を残している。
さらに遺伝からくるものかコーディは発作的に頭痛に襲われるのだが、それも上手く処理されている。
医者によって精神異常と診断されてしまうと病院送りとなって取り逃がすので、その診断が下りるまでに逮捕しないといけない時間的制約も付け加えられている。

コーディがマザコンであることは捜査当局の調書によって述べられているが、それが現実に示されるのは刑務所の大食堂での食事シーンだ。
母親が殺害されたことを耳打ちされたコーディが、悲嘆と怒りの余り凄絶な雄叫びを上げながら食堂じゅうを滅茶苦茶に暴れ回る。
その為にハンクが計画した偽装脱獄計画が水泡と消えてしまうのも無理がない描き方だ。

母親が犯罪に加担しているが、この母親は防犯課の尾行を巻いてしまうなどなかなかの切れ者である。
それに反してコーディの妻であるヴェルナはその場しのぎの態度をとる軽薄な女で、金に目がないがコーディの恐怖から逃れられないでいる。
ヴェルナは手下のビッグ・エドと出来ていて、ギャング団もいつ仲間割れをしてもおかしくない状況であることもスリルを生み出している。
コーディは平気で仲間を見捨てるし、邪魔になればいとも簡単に殺してしまう冷徹な男だ。
機関車の蒸気で大やけどを負った仲間を、一番親しい男に殺させようとする。
さすがにそこまで冷酷なれなかった犯人の一人のとった温情によって彼等の存在が判明する描き方も無理がないし、何よりも仲間の射殺も含めて展開が早く、無駄なエピソードを持ち込んでこないのがいい。

ジェームズ・キャグニーが演じるコーディという異常な男を描いたギャング映画であるが、同時に潜入捜査官を描いた潜入物作品でもある。
したがって潜入捜査官のハンク(エドモンド・オブライエン)が、刑務所に入ってからどのようにしてコーディに近づいていくのかにも興味が湧いてくる。
潜入物の定石として、どこかでその身分が知られるはずだし、情報をいかにして捜査当局に伝えるのかも大きな見どころになるはずで、そのスリル感も期待を裏切らない。
犯人側にも、話している内容を唇の動きで読み取る男がいたりして、なかなか凝っている。
弟のように信頼していた人物が潜入捜査官だったというあまりにも大きすぎる裏切りに、コーディは精神的崩壊状態になるラストも迫力がある。
「やったぜママー!世界の頂点だ!」と発狂するラストは壮絶で印象的だった。

白蛇抄

2023-01-03 10:29:33 | 映画
「白蛇抄」 1983年 日本


監督 伊藤俊也
出演 小柳ルミ子 杉本哲太 仙道敦子 鈴木光枝 宮口精二 辻萬長
   北林谷栄 岡田奈々 夏木勲 若山富三郎

ストーリー
石立うた(小柳ルミ子)は二年前に京都で火事にあい、夫を失って絶望のあまり若狭の心中滝に身を投じた時、華蔵寺の住職懐海(若山富三郎)に助けられ、そのまま後妻として寺に住みついていた。
懐海にはひとり息子の昌夫(杉本哲太)がおり、出家の身で来年高校を卒業すると本山に行くことになっている。
ある日、華蔵寺にうたの遠い親戚に当るという十五歳の少女鵜藤まつの(仙道敦子)が引きとられてきた。
この寺での初めての夜、まつのは異様な女の呻き声を耳にした。
夜ごとうたの体に執着する懐海と、それを覗き見する昌夫。
彼はうたに惹かれていた。
もうひとり村井警部補(夏八木勲)もうたが身を投げ救助された時に立ち会って以来、彼女に魅せられていた。
投身の時、うたが抱いていた石骨の中味に疑問を抱いた村井は、石骨を取り戻そうとするうたに力づくで情交を迫った。
その石骨はうたの死んだ赤ん坊であった。
かけつけた昌夫は村井の後頭部に石を投げつけうたと共に逃げた。
雨が降り出し、山小屋へ駆け込んだ二人はいつのまにか抱き合っていた。
その日から昌夫は大胆になり、うたも日ごと昌夫の体に溺れていった。
そうしたある日、懐海はうたと昌夫が密会している場所に動ける筈のない体を引きずっていって殺された。
昌夫は本山に修業に出た。
懐海の死に不信を抱いた村井は、まつのに死んだときの様子を問いただし、うたと昌夫が愛し合っていることを知った。
うたは昌夫に会うべく京都に向ったが、昌夫もうたに会いたいために寺を飛び出していた。
若狭に戻り、心中滝に立つうたの背後に村井が近づいて懐海を殺したのではないかと詰め寄った…。


寸評
小柳ルミ子は「わたしの城下町」で歌手デビューして160万枚の大ヒットを飛ばした清純派歌手だった。
旅情歌手のレッテルを貼られてその後、「お祭りの夜」、「雪あかりの町」、「瀬戸の花嫁」とヒットを飛ばした。
当人は清純派と呼ばれることに抵抗があったようだが、天地真理・南沙織らとともに1970年代前半を代表するアイドル歌手であった。
日本歌謡史に名前を刻む歌手の一人であることは疑う余地がない。
宝塚音楽学校首席卒業だけあって、演技力もそれなりにあって1982年の「誘拐報道」では立派に女優業を務めていたと思う。
翌年に同じく伊藤俊也監督が小柳ルミ子を主演にメガホンをとったのがこの「白蛇抄」で、小柳ルミ子は見事な脱ぎっぷりを披露している。
これだけの体当たり演技を見せれば女優としてシリアスなドラマにお声がかかっても良かったと思うが、その後の作品は数本しかなく見るべき作品もないのは残念な気がする。

僕の子供の頃、田舎の家の天井に青大将だと思われる蛇が夜中にネズミを捕らえてバタンバタンと大きな音を立てていたのだが、それが白蛇だと神様の使いだと母や祖母が言っているうちにどこかへ行ってしまった。
祖母は蛇の抜け殻は縁起がいいとも言っていたのだが、タイトルのバックに流れていたのは蛇の抜け殻だったと思うので、映画を見終ると、それは石立うたの抜け殻となった最後の姿でもあると感じられた。

小柳ルミ子は魔性の女で、男たちは彼女の虜になっていく。
住職の懐海は病気の為に体は不自由だが性欲だけは旺盛な老人である。
自殺未遂の小柳ルミ子を介抱したのが村井刑事の夏八木勲で、中年男の彼は小柳に恋慕してしまう。
後妻となった小柳ルミ子の身体を夜な夜なまさぐる住職の行為をのぞき見しているのが、住職の息子で高校生の杉本哲太で、小柳ルミ子の体を求める男三人は三世代の男たちである。
老人の住職はうたとの交わりだけを生命力としている。
中年の村井は独り身の淋しさからうたを求めている。
思春期の昌夫は性に目覚めた若者で、うたへの愛よりもうたの体への欲求が強いと思える。
愛欲渦巻くエロスの世界が描かれるが、その奥にある女の情念のようなものはあまり感じ取れない。
ただただ小柳ルミ子のヌードシーンが目に焼き付く。
石立うたが小柳ルミ子でなかったら、僕は興味半減していたかもしれない。
うたは昌夫にのぞき見されているのを知っているし、まつのもその事を知っているのだから、ここに登場する女たちも愛と性に関しては異常な精神の持ち主たちである。
うたは夫と子供を亡くして自殺未遂を起こし懐海に助けられたのだが、村の人からは色仕掛けで住職の後妻になったと噂されていることは、あながち噂とも思えない。
住職を看病し体を提供する姿は、うたの色欲の果ての姿のように思えてくる。
昌夫とも関係を持つのだが、それは単に若い肉体に魅かれたからなのだろうか。
どうしようもない女の性(さが)を描いていたのかもしれないが、どうもそこには行きついていない。
小柳ルミ子が脱ぎ過ぎたことによるのではないかと僕は思っている。

破戒

2023-01-02 10:25:43 | 映画
「は」行になりますが、「は」で始まる映画は多いようです。
前回も多数紹介しています。
1回目は2019/12/27の「ハート・ロッカー」から「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」「博士の愛した数式」「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」「薄桜記と続き、2020は1/1の「麦秋」から始まり、続いて「ハクソー・リッジ」「奕打ち 総長賭博」「白熱」「薄氷の殺人」「幕末太陽傳」「箱入り息子の恋」「ハスラー」「ハスラー2」「裸の島」「八月の濡れた砂」「8 1/2」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「バックドラフト」「はつ恋」「初恋のきた道」「ハッシュ!」「パッチギ!」「パットン大戦車軍団」「ハッピーアワー」「ハドソン川の奇跡」「波止場」「華岡青洲の妻」「花とアリス」「HANA-BI」「母なる証明」「バベットの晩餐会」「バリー・リンドン」「春との旅」「晩春」「反撥」まででした。
2回目は2021/8/28の「バーディ」から「ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌」「バーバー吉野」「廃市」「馬鹿まるだし」「初恋・地獄篇」「八甲田山」「バッテリー」「花筐/HANAGATAMI」「はなれ瞽女おりん」「バニー・レークは行方不明」「母と暮せば」「バファロー大隊」「バベル」「ハリーとトント」「パリ、テキサス」「巴里の屋根の下」「パリは燃えているか」「(ハル)」「遥か群衆を離れて」「遥かなる山の呼び声」「バルジ大作戦」「パルプ・フィクション」「バンコクナイツ」「半世界」と続きました。
今回は3回目です。

「破戒」 1962年 日本


監督 市川崑
出演 市川雷蔵 長門裕之 船越英二 藤村志保 三国連太郎 中村鴈治郎
   岸田今日子 宮口精二 杉村春子 加藤嘉 浜村純 嵐三右衛門
   浦辺粂子 潮万太郎 見明凡太郎

ストーリー
天の知らせか十年ぶりで父に会おうと信州烏帽子嶽山麓の番小屋にかけつけた、飯山の小学校教員瀬川丑松(市川雷蔵)は、ついに父の死にめに会えなかった。
丑松は父(浜村純)の遺体に、「丑松は誓います。隠せという戒めを決して破りません、たとえ如何なる目をみようと、如何なる人に会おうと、決して身の素性をうちあけません」と呻くように言った。
下宿の鷹匠館に帰り、その思いに沈む丑松を慰めに来たのは同僚の土屋銀之助(長門裕之)であった。
だが、彼すら被差別部落民を蔑視するのを知った丑松は淋しさを感じ、下宿を蓮華寺に変えた。
士族あがりの教員風間敬之進(船越英二)の娘お志保(藤村志保)が住職(中村鴈治郎)の養女となっていたが、好色な住職は彼女を狙っていた。
「部落民解放」を叫ぶ猪子蓮太郎(三國連太郎)に敬事する丑松であったが、猪子から君も一生卑怯者で通すつもりか、と問いつめられるや、「私は部落民でない」と言いきるのだった。
飯山の町会議員高柳(潮万太郎)から自分の妻が被差別部落民だし、お互いに協力しようと申しこまれても丑松はひたすらに身分を隠し通したが、丑松が被差別部落民であるとの噂がどこからともなく流れた。
校長(宮口精二)の耳にも入ったが、銀之助はそれを強く否定した。
校長から退職を迫られ、酒に酔いしれる敬之進は、介抱する丑松にお志保を嫁に貰ってくれと頼むのだった。
町会議員の応援演説に飯山に来た猪子は、高柳派の壮漢の凶刃に倒れた。
師ともいうべき猪子の変り果てた姿に丑松の心は決まった。
丑松は「進退伺」を手に、校長に自分が被差別部落民であると告白し、丑松は職を追われた。
骨を抱いて帰る猪子の妻(岸田今日子)と共に、丑松はふりしきる雪の中を東京に向った。
これを見送る生徒たち、その後に涙にぬれたお志保の顔があった。


寸評
同和問題を扱った作品だが、このような内容の作品がプログラムピクチャとして制作されていたことに驚くとともに、当時の日本映画界の懐の深さに感心する。
同和教育の成果もあって部落民という言葉と存在が無くなりつつあるが、それでもまだまだ一部には差別意識が残っているような気がする。
長い歴史を通じて存在してきた被差別部落及び部落民への差別意識は簡単には無くならないのかもしれない。
「被差別部落」や「被差別部落民」を定義する方法もないのだが、従来の最下層であった農民以下の身分の非人として都合よく存在してきたのだろう。

瀬川丑松は小学校の教員として立派な青年で、生徒たちからも慕われている。
廻りの期待も大きいのだが、丑松自身は自分が部落民であることから今以上の昇進を望んでいない。
彼はひたすら自分の出自を隠し、猪子蓮太郎から一生卑怯者で通すつもりかといわれても明かさない。
被差別者の苦しみを知る猪子はそんな瀬川を責めることはしない。
猪子は自分が部落民であることを宣言して生きている。
彼の妻も「部落民かと問われたら部落民だと答えて自信をもって生きなさい」と諭す。
故人の評価に出自や身分は関係がないのだとの主張である。
部落民解放運動をしている猪子蓮太郎より、猪子の妻である岸田今日子の正面切った説諭が心に響く。

市川雷蔵は生まれながらにして不幸を背負っている青年を演じるとピタリとはまってしまう役者だ。
同監督になる「炎上」における青年僧にも通じるものだ。
猪子は自分たちを理解する人々も存在していると説くが、そのような救いを見せる人物の象徴が長門裕之が演じる土屋の存在である。
かれは瀬川の友人で理解者でありながら当初は被差別部落民を蔑視しているのだが、ついにはその無理解を瀬川に詫び、子供たちを連れて東京へ去っていく彼を見送りに駆けつけてくる。
被差別部落民への理解者が育っていることの象徴である。
親たちは差別意識を持ち、子供たちもその親の影響を受けていただろうが、土屋と共に瀬川を慕って雪道を追いかけてくる。
象徴的なのは、子供の一人が母親から預かってきたというゆで卵を渡す場面だ。
その母親が登場してこないことで、世間を気にしてまだまだ表立っては行動できないが心の内では被差別部落民への理解を生じさせていることを暗に描いているのだと思う。
そのような意識の広がりがない限り被差別部落への差別意識はなくなっていかないだろう。
長い歴史がある問題だから、排除にも長い時間が必要なのかもしれない。

この作品がデビュー作となり、役名をそのまま芸名にした藤村志保はこれまた薄幸な女性がよく似合う風貌で、かよわいながらも強い意志も見せ、この作品のなかでは女神のようにさえ見える。
この作品が時代錯誤的に見える感じもするので、社会的にはいい方向に進んできているということだろう。