「反逆児」 1961年 日本
監督 伊藤大輔
出演 中村錦之助 桜町弘子 岩崎加根子 杉村春子 佐野周二
月形龍之介 東千代之介 北沢典子 安井昌二 河原崎長一郎
ストーリー
武田の大軍を迎えて鮮かに勝利を収めた家康の一子三郎信康は、一躍織田陣営に名をあげ岡崎の城に凱旋したが、次女を生んだ妻徳姫は気位高く信康が産室を見舞うことを許さなかった。
今川義元の血をつぐ築山御前を母に持ち、九歳で信長の娘徳姫を娶った信康は戦国時代とはいえ、血の相剋に生きる運命児だったのだ。
父母は身の立場から浜松と岡崎に居城を別にしている有様、築山御前の冷い仕打に妻としての態度も忘れかけた徳姫との溝が深まって行くのも仕方がなかった。
苦悶の続くある日、信康は野で菊を摘む花売のしのに一度だけの愛を与えたが、築山御前と情を通じる鍼医減敬の配下亀弥太に目撃されていた。
妻には心の隔りを感じる信康にも服部半蔵、天方、久米ら忠誠の部下があった。
信康だけを愛する母築山御前は、亀弥太の情報から一計を思いつき、しのに今川家を建てる男子を孕ますべく侍女小笹と名を変えさせて信康の身辺に置いた。
母の企みに気ずいた信康にも、まして徳姫の打撃は大きかった。
築山御前の謀略は意外に大きく、武田方に織田徳川の情報を売ろうとしていたことも明らかになった。
徳姫は十二カ条の訴状を父信長に屈けた。
夫婦の誤解もとけてひしと抱きあう二人だったが時は遅く、かねてから信康の抬頭を快く思っていなかった信長は、秀吉の入智恵をもって訴状をたてに、信康と築山御前の断罪始末を家康に命じてきたのだった。
母は既に浜松に護送され信康の死場所も二俣城に決ったが、介錯は事もあろうに服部、天方、久米。
三者三様の慟哭のうちに信康最期の時が訪れた。
時に天正七年九月、そして信長が本能寺の変に倒れたのは、信康自刃の二年八カ月後の事であった。
寸評
織田信長が徳川家康に正室築山御前と一子松平信康の処刑を命じ、家康はそれに従ったという史実は知識として持っている(諸説あるようだが)。
実際はどのような女性たちであったのかは知らないが、僕は築山御前と徳姫には良い印象を持っていない。
築山御前は出自を鼻にかける息子可愛さ一途のいやらしい姑の印象しかないし、徳姫は築山御前以上に信長の威光を笠に着るプライドだけが高い女のようなイメージを抱いているのだ。
松平信康はその器量の大きさから信長に疎まれ殺されたのだという説もあるようで、総じて好男子のイメージがあるようだが果たしてどうだったのか。
徳姫の信長への訴状では、信康が徳姫に暴力を用いたことや、僧侶を無為に殺害したことや、妊婦の腹を割いたことなどもしたためてあったようだから、夫婦仲は良くなかったのかもしれない。
築山御前が自分につらく当たる姑根性を見せていることも12か条の中に含まれていたようで、古今を」問わず嫁と姑の問題もあったようだ。
武田家との内通問題が一番大きな要因だったのだろうが、当然のごとく築山御前、信康の二人は罰せられた。
信長が家康の忠誠心を試そうとしたとの説もあるが、ここではその事には触れられずにこの一件が描かれている。
築山御前は僕の印象通りで、今川を滅ぼした織田信長の娘である徳姫を毛嫌いし、男児を生まぬように呪う築山御前を杉村春子が熱演している。
世継を産めぬ徳姫に変わって側室を信康にあてがおうとする姿などで嫁姑問題を浮かび上がらせる。
彼女は信長、徳姫と同様に家康をも藁人形にくぎを打ち付ける呪いをかけている。
実際の家康と築山御前の関係もそのようなものだったのかもしれない。
そのように築山御前の執念はすごいものがあるのだが、それにしても岩崎加根子の徳姫の描き方はちょっと中途半端なような気がした。
彼女を築山御前に拮抗する女性として描けば嫁姑問題がもっと前面に出ていただろう。
ひとり中村錦之助の三郎信康だけはいい男として描かれている。
桜町弘子演じる花売り娘・しのと河原で関係を結んだにもかかわらず冷たく捨て去っているにもかかわらず正当化されている。
悲劇の武将としての松平信康を描くという意図なのでそれも納得だ。
しかし「反逆児」というタイトルが示すものは一体何だったのだろう。
信康は一体何に反逆していたのだろう。
今川の人質となっていた父・家康が意に添わぬ今川義元の血縁者を押し付けられたっということ、あるいは信長という支配者に屈服させられて娘を押し付けられたという政略結婚に対する反抗だったのだろうか。
だとすれば本当に愛した女性が登場して、例えば、しのに対する秘かな慕情などを描いても良かったはずだ。
不本意ながらも切腹して果てた姿に反逆者の思いを込めたのだろうか。
切腹シーンにおける介錯者である服部半蔵の立ち回りは少々芝居じみていたけど・・・。
甘いと思うところもあるのだが、プログラムピクチャの中で撮った伊藤大輔らしい作品の一つではある。
この合併劇は、小が大を吞むもので、日活系の人は皆冷や飯組になったのです。
戦後の伊藤大輔では、阪妻と組んだものに良いものがありますが、他は不振です。
私は、戦後の伊藤は、市川雷蔵の『薄桜記』などの脚本に良いものがあったと思うのです。
偉大な方に間違えはありませんが。
なにしろ、「時代劇」という言葉を作られたのですから。
これもあまり感心できなかった作品です。