おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

コーラス

2021-02-13 09:20:10 | 映画
「コーラス」 2004年 フランス


監督 クリストフ・バラティエ
出演 ジェラール・ジュニョ
   ジャン=バティスト・モニエ
   ジャック・ペラン
   フランソワ・ベルレアン
   マリー・ビュネル
   カド・メラッド

ストーリー
1949年、フランスの片田舎。
失業中の音楽教師クレマン・マチューは、「池の底」という名の寄宿舎に赴任する。
この学校には、親をなくした子供や、素行に問題があり親元を離れた子供たちが集団生活していた。
赴任当日、校門の前でマチューが目にしたのは、「土曜日に迎えに来る」という言葉を残して去っていった両親を待つ幼い少年ペピノだった。
今日が何曜日か分からないほど幼いペピノは、決して迎えに来ない両親をひたすらに待ち続け、毎日のように校門の外をじっと眺めているのだった。
複雑な思いを抱いたまま学校内に足を踏み入れたマチューは早速、過激ないたずらで用務員に大ケガを負わせた子供たちと遭遇する。
さらに驚いたことに、「淋しさ」ゆえに心のすさんだ子供たちに、容赦ない体罰を繰り返す校長先生がいた。
学校全体が、温かさのかけらもない殺伐とした雰囲気で溢れかえっていた。
もちろん、マチューも早々に子供たちのいたずらに手を焼くことになり、まともに授業もできない。
しかしそんな子供たちの心を理解したマチューは、決して彼らを叱らず、体罰も加えないと決意する。
子供たちに本来の純粋さや素直さを取り戻そうと、マチューは彼らに「あること」を教えることを思いつく。
それは「合唱団」を結成し、歌う喜びを教えることだった。
最初は面白半分だった子供たちも、徐々に歌うことの素晴らしさ、楽しさに目覚めていく。
そんなある日、マチューは誰もいないはずの教室から“奇跡の歌声”を耳にする・・・。


寸評
「池の底」という名の寄宿舎に入っている問題児の少年たちを、音楽を通じて矯正していく音楽映画であるが配置されている人物はお決まりの人々である。
高圧的で強権をふるう校長が居て、反抗する子供たちを力で押さえつけようとしている。
校長に同調する教師たちが存在し、子供たちに理解を示す用務員のようなマクサンスという老人が登場する。
子供たちに理解を示して、彼らをかばいながらが合唱団を組織して指導していく善良な教師が音楽教師のクレマン・マチューである。
自分たちをかばってくれていることが分かっていても、反抗期の子供たちはマチューに対しても従わない。
図式だけを見ればよくある学校物語のパターンである。
反抗的だった子供たちが立ち直っていくきっかけがスポーツだったりすることも多いが、この作品ではそれが音楽、更に言えば合唱団である。

マチューは生徒たちをそれぞれのパートに分けるが、唄うことができない幼いペピノを自分の助手に任命する。
また音痴でどうしようもない子は譜面台として楽譜を持たせて自分の前に立たせる。
兎に角全員参加で合唱団の稽古にいそしむのだが、その様子は微笑ましいものがある。
マチューはモランジュという少年が天使の歌声を持っている事を発見し、彼をソリストとした指導を開始する。
物語にアクセントをつけているのが、矯正施設から送られてきた協調性が少なく狂暴性が強い性格のモンダンという少年の存在と、モランジュの母であるヴィオレットの存在である。
モンダンは矯正が難しい不良少年で、寄宿舎にとんでもないことを仕出かす。
ヴィオレットは未婚のうつくしい女性で、マチューは彼女に行為を抱く。
その事に対するマチューの行動が可笑しいし、モランジュの反抗的態度には理解できるものがある。

モランジュにはソリストとしての自惚れがあったのだろう。
マチューはそれを見て取って、モランジュが居なくても合唱は出来ると突き放す。
そして伯爵夫人の前で披露される合唱のシーンは、やはり音楽映画として感動的場面となっている。
紙ヒコーキを飛ばしたり、サッカーボールをぶつけられてもはしゃいで見せるなど、心変わりがしたかのように描かれ始めた校長だが、やはり本質は変わっていなくてマチューは解雇されてしまう。
生徒たちと心を通わせていたと思っていたマチューは、見送りに出てくれないことにがっかりするが、そこで再び感動的な場面が用意されている。
しかし、マチューはすべての手紙を拾って去っていない。
普通の人ならすべての手紙を拾い集めて去っていくのではないかと思う。
冒頭で大人になったペピンがモランジュを訪ねてきて、マチューの日記を手渡しているのだが、なぜペピンがマチューの日記を持っていたのか疑問に思っていたのだが、最後のエピソードで納得させられた。
冒頭で大人になったペピンとモランジュが描かれたのだから、最後はやはりこの二人のシーンが登場しないと映画として成り立たない。
そしてその後のことがペピンによって語られるが、それぞれが納得の出来事である。
目新しくはないが良心的な作品だ。

幸福

2021-02-12 07:01:52 | 映画
「幸福」 1981年 日本


監督 市川崑
出演 水谷豊 永島敏行 谷啓 中原理恵
   永井英理 黒田留以 市原悦子 浜村純
   草笛光子 加藤武 常田富士男 河合信芳
   小林昭二 三條美紀 川上麻衣子

ストーリー
社会福祉員を目指す大学生の中井庭子(中原理恵)は、恋人の刑事、北(永島敏行)に1時間ほど遅れると電話していた。
午後、書店で射殺事件が起こり、野呂(谷啓)、村上(水谷豊)、北の三人の刑事が現場に向った。
そして、三人の被害者の中に、何と庭子がいた。
庭子は父親(浜村純)と二人暮らしだったが、父親は離婚後、幼い庭子を男手一つで育て上げもう愛していた。
あとの二人は大学教授の雨宮、サラリーマンの遠藤という名が判明。
手がかりは、遠藤が死の間際に“ウドウヤ”と言ったことだけだった。
三人の被害者の身辺捜査が始まり、福祉センターで、身寄りがないという嘘がばれてヘルパーが行かなくなっている車崎るい(市原悦子)のところに庭子が出向いていたことが分った。
るいには非行グループの兄貴株の吾一(倉崎青児)と、少し頭の弱いみどり(川上麻衣子)という二人の子供がいたのだが、吾一が不憫でならない妹を思わず抱いてしまったことで、みどりは吾一の子を身ごもっていた。
数日後、近所の川の土手でみどりの死体が発見された。
みどりは、やむを得ず庭子の手配で堕胎するも、手術の経過が悪く、庭子の用意した宿泊施設に行けず、荒川の土手で死亡していたのだ。
車崎家のアパートを訪れた村上刑事に対して吾一が暴力を働いた傷害事件も、吾一が母親が連行されるからと勘違いしたことが判明し、当初、警察はみどりの死亡事件と今回の銃撃殺人事件の関連性を疑っていたが、車崎一家は射殺事件に関係ないとなり、捜査はふりだしに戻った。
北は庭子の父親から別れた妻の良子(草笛光子)の居場所など知らないと言われるが、父親は良子を呼び出して「庭子を殺したのはあの男に違いない」と告げる。


寸評
まず目に付くのがくすんだように見えるカラー処理である。
市川崑はモノクロでの撮影を望んだようだが、製作会社から反対されたために特殊現像処理を施して撮り上げたようで、独特の雰囲気を出している。
特に雨のシーンは風情があって、しっくりくるなあと感じた。
始まってすぐに書店で三人が射殺された事件が起きる。
映画はその被害者である3人の関係者から犯人の手がかりをつかもうとする捜査状況と、捜査員の一人で妻に家出されて二人の子供を抱えて苦労している村上刑事の姿を並行して描いていく。
その中に事件直前の出来事が小気味よく挿入されてサスペンス性を高めている。
村上一家と同様に、被害者家族も問題を抱えていたことが判明して、それぞれに新たな問題提起がなされる展開も小気味よい。

庭子の父親の中井は幼い庭子がいたにもかかわらず離婚して、以来、庭子を男て一つで育て上げ、女も一人で生きていける力をつけるべきだと言っている人物である。
それを理由に庭子の結婚話には乗り気でないのだが、実際は庭子を手放したくないのである。
理由に挙げる行動を妻が取ろうとしたことが離婚の原因だから、言っていることとやっていることが違う典型的な言行不一致の人物で、最後の方で北に要求する内容などは通常の神経ではない。
しかし、そうは言いながらも娘を突然失くした悲しみは分らぬでもない。
一方で北が指摘するように庭子がいなくなると自分が不自由になるからという打算的理由も感じさせるのがよい。
別れた妻と会って「あの男が犯人ではないか」と問い詰める当たりはミステリアスだが、推理劇としてはもう少しドラマチックに演出できたように思う。

庭子が福祉センターのアルバイトを通じて面倒を見ていたと言う車崎るいの一家は一番ひどい。
非常に貧しい家庭で、兄の吾一は非行グループのリーダーで、妹のみどりは少し頭が弱い。
るいは病気を装っているいい加減な女だし、庭子も絡んで、みどりに起きた事は悲惨この上ない。
殺された遠藤の妻は夫が転勤後に仕事で悩んでいて転職を考えているなんてことは知らない。
夫の悩みに妻は気が付かないし、夫は妻の気持ちに気が付かないのも夫婦なのだろう。
大学教授の雨宮の家庭は5人の子供を抱え、残された妻にはもうすぐ6人目が生まれる。
妻は途方に暮れ、泣き崩れるのみだ。

事件は被害者の遺品から急展開するが、被害者の遺品なんて捜査の進行上で真っ先にチェックされるものではないのかと思うので、突然被害者の遺品で容疑者が特定されるのには違和感を感じた。
したがって、犯人逮捕に至るまでの描き方は端折り過ぎの感がある。
もっとも市川崑の狙いはサスペンスよりも、家族の幸せとは何なのかにあるのだろう。
村上の家庭は大変な状況だが不幸せではないし、多分妻は戻ってくることになるのだろう。
女は本当のことを言わないと語る場面が何度かあったが、それでも男は女の気持ちを思わねばならない。
それが家庭円満の秘訣なのだと再確認した。

好人好日

2021-02-11 10:02:23 | 映画
「好人好日」 1961年 日本


監督 渋谷実
出演 笠智衆 岩下志麻 淡島千景 川津祐介
   高峰三枝子 乙羽信子 北林谷栄 三木のり平

ストーリー
奈良の大学の数学教授である尾関(笠智衆)は、こと数学にかけては世界的な学者だが、数学以外のことは全く無関心で、とかく奇行奇癖が多く世間では変人で通っている。
妻の節子(淡島千景)はこんな尾関につれ添って三十年、彼を尊敬し貧乏世帯をやりくりしてきたのである。
娘の登紀子(岩下志麻)は市役所に勤めていて、同じ職場の佐竹竜二(川津祐介)との縁談がある。
二人は好きあっているし節子もこの縁談を喜んでいる。
竜二の家は飛鳥堂という墨屋の老舗で、竜二の姉美津子(乙羽信子)はお徳婆さま(北林谷栄)に気に入るように色々と格式にこだわっていた。
登紀子は両親の顔をおぼえぬ戦災孤児で、尾関に拾われ今日まで実の娘と同様に育てられてきたので、彼女は父のそばを離れるのが忍びない。
竜二は尾関がしばしば近所のミルク・ホールにテレビを見に行くことを聞き、ある日、自分で組立てたポータブル・テレビを持参すると、尾関は喜ぶどころか怒ってしまった。
竜二もかっとなり怒鳴ったが、文化勲章受賞の報せで中断された。
尾関は勲章など欲しくなかったが、五十万円の年金がつくと知り、もらう気になり節子と上京した。
東京では学生時代にいたオンボロ下宿に泊って主人の作平(小川虎之助)を感激させた。
その夜宿に泥棒(三木のり平)が忍びこみ文化勲章が盗まれた。
奈良では尾関の帰りを待ちうけて数々の祝賀会が計画された。
そんなわずらわしいことの大嫌いな尾関は、とうとう姿をくらまし、関係者を慌てさせた。
そんな騒ぎの中で登紀子は節子が落ちついているのを不思議に思った。
「お父さんは下市の和尚さんのところよ」と、自信ありげに節子はいうのだった。
登紀子は下市に行き、母の予想が当ったのを知った。


寸評
小津安二郎が描くような中流の庶民生活の中にある親子の愛情物語なのだが、これが渋谷実の手になると上質の人情喜劇となる。
笠智衆と淡島千景の尾関夫妻はじつにいい夫婦だ。
娘の岩下志麻は戦争孤児で夫妻に引き取られたのだが実の娘のように育てられ、明るく快活ないい女性で羨ましくなるような平和な家庭を形作っている。
可笑しいのは笠智衆の数学教授が変人で、彼の妻に発する言葉が実に可笑しい。
尾関はまったくの下戸で酒は一滴も飲めないのだが、妻は日本酒が大好きで夫の目を盗んではやっている。
娘もそのことは承知なのだが、実は尾関だってとっくに承知している。
娘に注いでもらったお酒を飲みほした時に、尾関がウサギを貰って帰ってくる。
妻の節子は取り繕うが、「酒を飲んだお前と同じように目が赤い」と言う。
そんな愉快な会話が散りばめられていて、けっして嫌味に聞こえない夫婦間のやり取りに噴き出してしまう。

登紀子が付き合っている竜二の家は飛鳥堂という墨屋の老舗である。
奈良は習字に使う墨の生産地である。
格式を重んじるこの家は、お婆さんと竜二の姉との三人家族だ。
と言うことはこの兄弟の両親はなくなっていて、姉である乙羽信子の夫は婿養子で亡くなっているのか、死に別れて実家に戻ってきているのかもしれない。
この家を取り仕切っているような北林谷栄の婆さんも脇役とは言え面白い存在となっている。
尾関はコーヒーが何よりも好きで近所のミルク・ホールに通っているのだが、店の看板が「コーヒ」となっているのが時代を感じさせ、コーヒーを巡るやり取りも笑わせる。
尾関は物欲がなく、アメリカの大学行きの話にも興味はないが、文化勲章はもらうことになる。
東京までの車中で交わされる会話にも笑わされるのだが、とにかく尾関と言う人物が面白いキャラクターとして描かれていて、この作品を喜劇に仕立て上げている。
人の好さもあって、宿泊先に入った泥棒にもライトを照らして手助けしてやるお人よしだ。
文化勲章を巡る騒動は権威に対する風刺である。
尾関の叙勲を知って周りの人たちは見る目を変えるし、記者が大勢押しかけ大騒ぎとなる。
植木屋などは無償で以前は不満を漏らしていた垣根の修理を申し出る。
金鵄勲章を貰っていた男が登場するのだが、金鵄勲章は日本唯一の武人勲章とされ、武功のあった軍人および軍属に与えられた ものである。
尾関が天皇陛下から頂いた勲章を失くしたことを叱責するが、戦争の負の遺産でもある金鵄勲章と文化勲章は全く違うのだと、暗に戦争非難も行っている。
そうでなければこの尾関を非難する男の登場は唐突過ぎる。

東大寺が度々登場し、奈良を舞台にした映画なので関西人の僕は昔の風景を見ているだけでも心が洗われたのだが、尾関が娘の結婚を認めて淡島千景が「こんないい日はない」とつぶやくシーンは泣けた。
日本映画の最盛期にはこのようなほのぼのとした映画をたくさん撮っていたのだなと思わせる作品だ。

恍惚の人

2021-02-10 09:30:47 | 映画
「恍惚の人」 1973年 日本


監督 豊田四郎
出演 森繁久彌 高峰秀子 田村高廣 乙羽信子
   篠ヒロコ 伊藤高 市川泉 中村伸郎
   杉葉子 吉田日出子 神保共子 野村昭子
   浦辺粂子 若宮大祐 大久保正信

ストーリー
立花家は、84歳の茂造、その息子夫婦の信利と昭子、子供の敏が同居していた。
茂造は老妻が死んで以来、ますます老衰が激しくなり、他家へ嫁がせた自分の娘の京子の顔さえ忘れていた。
それどころか、息子の信利の顔も忘れ、暴漢と錯覚して騒ぎ出す始末。
突然家をとび出したり、夜中に何度も昭子を起こしたりする日が何日か続いた。
昭子は彼女が務めている法律事務所の藤枝弁護士に相談するが、茂造の場合は、老人性うつ病といって老人の精神病で、茂造を隔離するには精神病院しかないと教えられ、昭子に絶望感がひろがった。
ある雨の日、道端で向い側の塀の中からのぞいている木の花の白さに見入っている茂造を見た昭子は胸を衝かれ、茂造には美醜の感覚は失われていないと昭子は思った。
その夜、昭子がちょっと眼を離している間に茂造が湯船の中で溺れかかり、急性肺炎を起した。
だが、奇跡的にも回復、昭子の心にわだかまっていた“過失”という文字が完全に拭いとられた。
そして、今日からは生かせるだけ生かしてやろう……それは自分がやることだ、と堅い決意をするのだった。
病み抜けた茂造の老化は著しくなった。
そんな時、学生結婚の山岸とエミが離れに引っ越してきた。
茂造は今では昭子の名さえ忘れ“モシモシ”と呼びかけるが、何故かエミにはひどくなつき、エミも色々と茂造の世話をしてくれるようになった。
しかし、便所に閉じ篭ってしまったり、、畳一面に排泄物をこすりつけるなど茂造の奇怪な行動は止まなかった。
ある日、昭子が買い物で留守中、茂造は恐怖のあまり弾けるように外へ飛び出した。
血相を変えて茂造を捜す昭子の胸に、迷子になり母の姿をみつけた少年のような茂造がとび込んできた。
それから二日後、木の葉の散るように茂造は死んだ。


寸評
老人性痴呆症と介護医療問題を描いた作品だが、時代を先取りした感がある。
1970年代は老人問題が顕著でなかったし、介護医療問題も深刻ではなかった。
現実にはそれらの問題が忍び寄っていたのだろうが、社会は問題視していなかった。
中にはここに描かれたような家庭があり、苦しんでいた家族もあったに違いないのだが、団塊の世代が最前線で働き始め、世の中は活気に満ちていた。
有吉佐和子はそんな世の中に警告を発したのだろう。
彼女はその後も「複合汚染」などを発表し、現代の社会矛盾に目を向けた作品を発表している。

立花茂造おじいちゃん(森繁久彌)は痴呆症の症状が出ていたが、妻の死でそれが顕著になる。
息子の信利(田村高廣)も娘の京子(乙羽信子)もわからず、嫁の昭子(高峰秀子)だけを頼りにする。
どうやら昭子はこの家に嫁いでから舅にもつらく当たられていたようでいい思い出はなさそうだ。
しかし、どうしたわけか茂造は昭子だけは判別がつくらしく、彼女の言うことだけは聞く。
昭子の大変さは分かるが、そのやり取りは滑稽ですらある。
夫の信利は自分が暴漢だと思われていることを理由にして介護から目を背けている。
介護が嫁に押し付けられてしまう現実が描かれていくが、身につまされる。
現在ではやっと介護休暇なども制度化されてきたが、しかしそれが常態化しているとも思えず、やはり嫁にその負担がいっているのが現実だ。
もっとも、ここに描かれたような同居生活そのものが崩れてきて、独居老人問題などが新たに発生していることは、有吉佐和子も予想外だったかもしれない。

映画は介護を通じた森繁久彌と高峰秀子の一騎打ちである。
ボケている茂造が時々まともなこと言うのが可笑しい。
昭子は夫に不満を感じ反発しながらも茂造に献身的に尽くし、その姿は痛々しいぐらいだ。
それと対照的なのが実の娘の京子の存在で、彼女は冷たいというか非常に現実的な女性である。
この対比が昭子の献身性をより一層際立たせている。
京子は小姑的振る舞いを見せるが、実の親に対しては親身でない。
おむつを換えようとしても、悪臭がするからとやめてしまう。
茂造が死んでも厄介者がいなくなって良かったと思っている。
京子は家が臭いと言うが、昭子の息子(市川泉)は「臭いほうがいいんだ。おじいちゃんがいるような気がするから」と言う。
別居していた者と、同居していた者の感情の差なのだろう。

茂造が泰山木 (たいさんぼく)の花の白さに見とれるシーンは美しい。
雨の日に徘徊した茂造が大木の下で昭子を発見し「お母さん・・」とつぶやく姿は涙を誘う。
鳥かごの小鳥に「モシモシ」と呼びかける昭子の姿が胸を打つ。
現在、深刻性を帯びてきている問題を先取りした先駆的作品だ。

恋人たち

2021-02-09 07:42:37 | 映画
「恋人たち」 2015年 日本


監督 橋口亮輔
出演 篠原篤 成嶋瞳子 池田良 安藤玉恵
   黒田大輔 山中崇 内田慈 山中聡
   リリー・フランキー 木野花 光石研

ストーリー
都心に張り巡らされた高速道路の下。
橋梁のコンクリートに耳をぴたりと付けた篠塚アツシ(篠原篤)が、ハンマーでコンクリートをノックする。
機械よりも正確な聴力を持つ彼の仕事は、音の響きで破損場所を探し当てる橋梁点検。
しかし、彼は数年前に愛する妻を通り魔殺人事件で失い、今では健康保険料も支払えないほど貧しい生活を送っていた。
妻を殺した犯人を極刑にすることだけを生きがいにして裁判のために奔走するアツシだが、親身になってくれる弁護士はいない。
次第に社会そのものに恨みを抱くようになった彼はある日、破滅的な行動を起こしてしまう……。
東京近郊では高橋瞳子(成嶋瞳子)が自分に関心を持たない夫・信二郎(高橋信二朗)と、そりが合わない姑・敬子(木野花)と3人で暮らし退屈な毎日を送っていた。
同じ弁当屋に勤めるパート仲間と共に皇室の追っかけをすることと、小説や漫画を描いたりすることだけが楽しみな平凡な日々。
だがある日、パート先で知り合った取引先の男・藤田弘(光石研)とひょんなことから親しくなり、次第に瞳子は藤田に惹かれていく。
やがて養鶏場の経営を夢見る藤田に誘われた瞳子は家を出る決意をするが……。
企業を対象とした弁護士事務所に務める四ノ宮(池田良)は、エリートである自分が他者より優れていることに疑いを持たない完璧主義者。
高級マンションで同性の恋人・中山(中山求一郎)と一緒に暮らしているが、実は学生時代からの親友・聡(山中聡)を秘かに想い続けていた。
そんな中、些細な出来事がきっかけで四ノ宮と聡の間に微妙な亀裂が生じ始める……。
そんな不器用ながらも懸命に日々を生きている3人だったのだが…。


寸評
主人公の三人はもがきながらも生きている。
その三人がわずかに係わり合いながら物語が進行していく。
アツシは自分と共に歩いていこうとしてくれた妻を通り魔に殺されてしまった。
しかし犯人は精神異常で判断能力がなかったと罪に問われていない。
犯人の親に誤ってもらっても、自分を励ましてくれた妻は戻ってこない。
平凡な主婦の瞳子は満たされない日々を過ごしている。
狭い家に姑を含めた三人で暮らしているが夫との会話は少ない。
パート先で知り合った男からもらった鶏肉のことで暴力も振るわれたりしている。
四ノ宮はゲイだが、そことで親友だった聡の妻から敬遠され親友とも疎遠になってしまう。 

三人を通して、今の日本を覆う矛盾に満ちた空気、世の中に存在する嫌な言動や偏見を気をてらうことなくリアルに細部まで見せていく。
主人公たちは今の自分とは違うが、間違いなく自分たちと同じ今を生きているという真実味がある。
アツシは悲しみから抜け出せず裁判に奔走するが、困窮も手伝って日に日に追い詰められていく。
犯人は罪に問われず、世の中が残された遺族を運が悪かった程度で置き去りにしていく矛盾は、異常者の通り魔殺人事件が起きるたびに感じることだ。
犯人を殺してやりたいと思うができない。
裁判に訴えて裁いてやろうとしても、弁護士からは無理だと言い放たれる。
じゃあ、一体どうすればいいんだともがき苦しむ。
瞳子は諦めたような生活を送っているが、ある日恋に落ちる。
相手の男は怪しいと思っていながらも、気持ちには逆らえずその男の元へ走ろうとするが、その夢も無残に打ち砕かれる。
自分は平凡に誰からも注目されずに生きることしかできないのかと悩む。
四ノ宮は特別なことを何もしないで、ごく普通に付き合ってきた親友から拒絶されるようになる。
親友の聡は四ノ宮がゲイであることを受け入れているが、どうもそれを知った聡の妻がゲイを嫌っているようなのだ。
子供の耳を触って「お父さんの耳と似てるね」と言っただけで嫌悪感をあらわにする。
四ノ宮はなぜ聡が遠ざかって行くのかが分からない。
自分は一体何をしたのだと叫ぶ。

彼らが置かれている状況は、アツシがやっている仕事そのものだ。
表面上は何ともないように見える橋梁が、実は内部に異常をきたしている危険なものだということである。
アツシはそんな橋梁が数多くある川を船に乗って現場に通う。
彼等を取り巻いている危険な雰囲気の中で、彼らは必死に生きている
そんな彼らの姿を普通に描き続けるから重い、暗い。
見ているこちら側としては、その救いようのない姿に気持ちが沈んで行ってしまう。
そんな気持ちを振り払うように、最後には希望に満ちた未来を見せる映画は多いが、市井の人々の哀しみを描いてきただけにその光はわずかなものである。
アツシの同僚は身体障害者でハンデを背負っているが、「殺しちゃいけないよ、こうして話が出来なくなってしまうじゃないか」と諭す。
瞳子、四ノ宮が感じる光明もわずかなものである。
映画は彼等を覆っていた皮を一枚剥いで、その下に隠れていたわずかな優しい部分をあぶりだしていた。
こんな日本でどう生きていけばいいのかと問いながらも、だけどわずかなことに喜びを感じて生きていくしかないじゃないかと語りかけてきた。
つらい現実を描きながらも、優しく見守る橋口監督らしい作品だった。 

恋におちて

2021-02-08 07:59:16 | 映画
「恋におちて」 1984年 アメリカ


監督 ウール・グロスバード
出演 ロバート・デ・ニーロ
   メリル・ストリープ
   ハーヴェイ・カイテル
   ダイアン・ウィースト
   ジェーン・カツマレク
   ジョージ・マーティン

ストーリー
ニューヨーク郊外のウエストチェスターから通勤者たちを乗せた満員の列車に、モリー・ギルモアがアーズレイ駅から乗り合わせていた。
もう1人、フランク・ラフティスが、ダブス・フェリー駅から乗った。
モリーはグラフィック・アーチストで、重病に瀕している父のジョンを看病するために、マンハッタンに通っていた。
夫のブライアンは医者として成功していたが、モリーとの夫婦生活は順調とはいえない。
一方、フランクは建築技師で、妻のアンと息子たちに対して変わらぬ愛情を捧げていた。
通勤電車が、グランド・セントラル駅に到着し、フランクもモリーも、それぞれの目的を終えると、クリスマス・プレゼントを買うために有名なリゾート書店に足を向けた。
買物を終えた二人は身体がぶつかり、買物包を床にまき散らしてしまった。
お互いの包みを拾って、笑いながら別れた二人だったが、家に帰って包みを開いて、それが相手のものであることに気づいた。
モリーとフランクは、通勤電車の中で偶然に再会し、クリスマスの時のヘマを互いに笑う二人。
その夜、ウエストチェスターへ帰る通勤列車の中で、フランクはモリーを探し回り、ようやく彼女を見つけ、これからは、いつも同じ列車に乗ろうと提案した。
翌日も朝の列車で乗り合わせた二人は、ランチもいっしょに食べることになった。
それからも二人はデートを重ねたが、あくまで精神的なもので、お互いの身の上話しなどが中心であった。
やがて、二人の想いは、だんだん抑えきれないものになっていった。
フランクはテキサス州のヒューストンに1年間出張する仕事を依頼され迷っていた。
そんな中、フランクは友人のアパートにモリーを誘ったが、二人は体を重ねることができない・・・。


寸評
おしゃれで上品なニューヨーカーの生活ぶりを生かしながら、それでいて青春時代の恋のような切ない感覚を思い起こさせる雰囲気の中で、ロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープの演技が実に自然なムードで展開するロマンチックな大人の恋愛作品である。
駅でモーリーと出会う機会をうかがうフランクの様子や、着ていく服をあれこれと迷うモリーの姿など細かい描写を積み重ねることによって、ゆっくりと次第に大きくなっていく二人の感情をうまく表現していた。

ある程度の期間が過ぎると夫婦の間にも溝が出来てくる。
家庭を壊すまでの不満ではないが、そこには結婚した当初の初々しい気持ちが失せている。
フランクは友人が愛がなくなったとの理由で離婚するらしいことを妻に話すと、妻のアンは今更愛なんてといったような返事を返しているから、家庭の平穏は夫婦間の愛を感じさせなくしているのだろう。
いわゆる倦怠期がやって来ていたのかもしれない。
そんな時にふとしたことで知り合った二人は新鮮なものを感じ、気が合う相手を発見した気分になる。
お互いに家庭を持っているので、当初は心が安らぐ相手と出会ったというような感覚だったのだろうが、それが恋心に代わっていくと、年齢などは関係ない。
二人はまるで若いカップルの様なときめきを見せる。
あくまでもプラトニックな関係を続ける様子が微笑ましいし、青春の時とは違う感情が湧いてくる。
その感情は若い観客には分からないものだと思う。

デートを重ねる二人の様子の変化を、フランクの妻もモリーの夫も気づく。
妻のアンに問い詰められたフランクは、肉体関係はなかったことを打ち明けるが、アンはその方が悪いと告げる。
アンにしてみれば浮気心の肉体関係より、気持ちでつながっている方が許せないのである。
モリーの夫で医師のブライアンは何とかモリーを引き止めようとする。
それぞれの伴侶が知った時にとる態度の男女の違いが出ていてなかなかの心理分析だと感じた。
モリーがブライアンを振り切って飛び出していき、フランクがモリーへかけた電話にブライアンが出る。
このあたりからはメロドラマとしての盛り上がりを見せていく。
フランクとモリーがすぐさまメデタシメデタシとなっては一昔も、二昔もまえのメロドラマで、ここはそうならないのがいいし、この時代のメロドラマであると思う。
例の場所が出てきて、ああこれはここで出会って・・・と思って見ていたらもう一工夫あった。
二人は元気でいたことを伝え合うが、今の境遇を語ることをしない。
どこまでも抑えた二人なのだ。
多分二人はお互いに今の立場を知ることになるのだろう。
そこからの展開を想像させるような余韻を残して終わったのは上手い描き方で、恋愛映画はその雰囲気を映画館の外まで味わいながら出ていきたいものだから、その意味でもいいエンディングだった。
ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープという決して美形ではない二人のサビの効いた演技が素晴らしかった。
「FALLING IN LOVE」というタイトルもいいし、名優二人があっての映画だった。
中年の恋は家庭が絡んでいるだけに切ない。

恋するトマト

2021-02-07 10:15:37 | 映画
「恋するトマト」 2005年 日本


監督 南部英夫
出演 大地康雄 アリス・ティクソン
   富田靖子 村田雄浩 ルビー・モレノ
   織本順吉 いまむらいづみ でんでん
   阿知波悟美 あき竹城 石井光三
   アレックス・アルジェンテ
   清水紘治 藤岡弘

ストーリー
野田正男は中年になっても結婚出来ずに老いた両親と共に農作業に勤しむ。
周りの農家仲間も同様に嫁のもらい手は無く、苦渋の選択ながら農業に見切りをつけて土地を売り払ってしまう等深刻な後継者不足に喘いでいる。
そんな中、田舎暮らしに憧れる女性と婚約寸前まで漕ぎ着けるも御破算となってしまい、落ち込む正男を農家仲間がフィリピンパブへ誘い、そこに働くホステスと遂に婚約する事になる。
フィリピンの両親へ挨拶するため正男はフィリピンへ向かい、妻になる女性の家族に挨拶し、結納金を渡すものの一晩開けたら一家は消え去っていた。
妻になる女性を日本へ派遣したタレント事務所を頼りに向かうもののそんな女性は知らないと一蹴される。
失意の正男は行くあても無く放浪し浮浪者となってしまう。
そんなどん底の正男を拾ったのが先のタレント事務所で、真面目な正男を事務所の社長も大変気に入り、車と金を与えて自由な裁量で仕事させていた。
正男は偶然通りかかった水田地帯に故郷を想い、農作業をしている人達を見ているうちに農家の血が騒ぎ手伝う事になり、その農作業の人達の中にホテルのラウンジで働いていたクリスティナと出会う。
正男はクリスティナと親しくなるにつれ徐々に農作業に傾倒してゆく。
正男はタレント事務所を辞め日本に帰ってクリスティナと結婚する事を決心した。
しかし父親は戦前の日本人の粗暴さに恐々として断った。
またしてもどん底に落ちた正男は豪雨の中、日本へ帰るのであったが・・・。


寸評
日本農家の後継者問題、外国人女性労働者問題などの社会問題に加えてラブロマンスが上手い具合に配分されていて、主演の正男を演じている大地康雄の手になる脚本は上手くまとまっている。
農家の後継者問題、特に嫁不足は深刻である。
正男は婚活に積極参加していながら何度も失敗に終わっているが、今回の田舎生活にあこがれている富田靖子とは上手くいきそうな雰囲気である。
ところが最後になって、やはり農業をやっていくには自信がないと断られてしまう。
僕も農業をやったことはないが農家上がりなので農業の大変さは少年の目ながら体感している。
自給自足が出来るものの、気候に左右されるし、体力勝負の重労働が待ち構えている。
土にまみれた仕事は決してきれいな仕事ではない。
もっと楽で収入が得れる仕事は色々あるのだから、何を混んで農家などにと思うのだろう。
正男の婚活は、嫁に来てくれるのなら誰でもいいようなところがある。
ましてや相手が富田靖子なら大万歳だったはずだが、そうは上手くいかない。
富田靖子は田舎に憧れているだけの軽いキャラにぴったりなキャスティングであった。

正男はフィリピン・パブでルビー・モレノと知り合い、結婚の許可を得るためにフィリピンに向かうが、ルビー・モレノの一家は結婚詐欺一家で行方をくらましてしまう。
正男は結婚式の費用と当座の生活資金として父親に200万円を渡すと、父親は「これだけあれば一生暮らしていける」と言っているから、日本との経済格差はそれぐらいあると言うことだろう。
正男が訪ねたルビー・モレノがいると思われる場所はスラム街なのだが、その向こうには首都マニラの高層ビル群が見えている。
僕がシンガポールに行った時にも同じような光景に出会い、貧富の差のひどさと大都会とスラム街が隣り合わせなことに驚いたものだ。
正男は落ちぶれて、芸能人スカウトの仕事をやることになるが、実態は女の子を日本に送り込み水商売やら売春やらをやらせるものである。
アジア系の女性が風俗店で不法就労している実態は珍しくはない。
実際にその為のブローカーは存在しているに違いなく、彼らは正男のような手口で女性を募っているのだろう。
日本にとっては恥ずかしいことだが、フィリピンに於ける売春ツアーやじゃぱゆきさん等の日本・フィリピンが抱える深刻な問題を描いている。
このパートをかなりの時間を割いて描いているのだが、正男の人間性が一番出ているパートでもある。

正男の実家は茨城県の霞ヶ浦近くにあり、フィリピンで同じような景色に出会い故郷を思い出し、フィリピンの農家を手伝うようになる。
そこにはクリスティーナという女性が絡んでいて、正男とのラブロマンスが展開されるのだが、その展開に違和感はなくエンタメ性に富んだものとなっている。
この組み立ては大地康雄の筆の力によるもので、「恋するトマト」は主演俳優としても、企画者、脚本家としても大地康雄の代表作になるだろう。

恋するシャンソン

2021-02-06 11:15:57 | 映画
「こ」の第1弾として2019年5月20日から6月14日まで掲載しました。
今日から第2弾となります。

「恋するシャンソン」 1997年 フランス / スイス / イギリス


監督 アラン・レネ
出演 アンドレ・デュソリエ
   アニエス・ジャウィ
   サビーヌ・アゼマ
   ランベール・ウィルソン
   ジャン=ピエール・バクリ
   ピエール・アルディティ

ストーリー
不動産会社に勤めているシモンは、ツアー・ガイドのカミーユをひそかに愛している。
それで彼女に、自分はラジオドラマ作家をしていると嘘をついてしまった。
中世の農民騎士に関する論文を書いているカミーユは、不動産仲介業者のマルクに夢中である。
マルクはシモンの上司であり、カミーユの姉オディールにアパルトマンを売り付けようとしている。
オディールは夫クロードの無言の反対にもかかわらず、そのアパルトマンを買う決意をしている。
そんなオディールの前に、何年も音沙汰のなかった友人ニコラが現れる。
クロードは若い女性と浮気しているが、ニコラの存在に妻の心が揺れ動いていることに我慢できなかった。
ニコラは実はシモンの客で、近ごろは体の調子がおかしく毎日病院通い。
妻のジェーンともうまくいっていないが、見栄っ張りで、表向きは幸せな家族生活を装っている。
そしてオディールの新居での引っ越しパーティーの日、初めて全員が顔を合わせた。
クロードは来る前に愛人と別れており、妻オディールにも別れを告げるつもりだった。
そんな時、マルクとカミーユの仲に嫉妬するシモンが、マルクに彼は不良物件を売り付けたのだと非難した。
クロードがマルクを問い詰めると、言い逃れしながら退散するマルク。
クロードはオディールを慰め、ふたりの仲は戻った。
ニコラは携帯電話でイギリスの妻ジェーンとヨリを戻す。
シモンは鬱病に悩まされているカミーユを励まし、皆から嫌われてしまったマルクはひとり自分を嘆くのだった。


寸評
映画の冒頭でドイツ将校がいきなり女性歌手の声で歌い出すのを聴いたとき、なんておかしなミュージカルなんだと思ったのだが、正確に言えばこれはミュージカルではない。
普通の会話の途中で曲のフレーズに合わせて俳優たちが口パクするのだが、採用されている曲がブツ切り状態で終わってしまうので戸惑いが生じてしまう。
俳優自身の声が採用された曲のフレーズそのものに入れ代わってしまうため、男の声が女の声に、女の声が男の声に代わってしまうことも有るのだが、この唐突な歌のフレーズの挿入と消滅の ギクシャクしたリズムに乗れるかどうかが観客の支持と直結している。
多分フランス人には馴染みのある曲だったり、聞き覚えのあるメロディなのだろうが僕はほとんど初めて聞く曲で、シルビー・バルタンの歌う「アイドルを探せ」しか分からなかった。
それでもシャンソンが好きな僕は1フレーズだけでも結構楽しめた。
こういう形式で歌を使った映画は今までなかったように思う。
アラン・レネ75歳での作品だが、この新たな挑戦には驚かされたし、僕は受け入れることが出来た。

話を誰か一人に絞っているわけではないので少々まどろっこしいところがある。
オディールと愛人のいるクロードの夫婦には隙間風が吹いていて、クロードは妻が新居を買おうとしている事に対し、そんなに急いで決めなくても良いとアドバイスしている。
オディールは窓からの眺めが良いことで購入を決めているのだが、そのこととクロードの忠告がラストにつながる伏線となっている。
マルクとシモンが思いを寄せるのがオディールの妹であるカミーユだ。
マルクは父親から引き継いだ不動産会社の社長で、シモンはそこの社員で若くはない。
オディールの前に妻と上手くいっていない友人のニコラが現れ、オディールはニコラに気があるようだがカミーユは嫌悪感を抱く。
カミーユもニコラもシモンもうつ病を患っているらしい。
この人間関係が入り乱れていて、僕は状況把握に時間がかかってしまった。

オディールとクロードにカミーユ、マルクとシモン、ニコラとニコラの妻と7人の男女がそれぞれ男女間に生じる問題を繰り広げているのだが、アラン・レネの男女を見る目は時には厳しく、時には優しい。
最終的には男女を温かく見守っている。
クロードは夫婦関係を清算するつもりだったが、悲嘆にくれる自分を優しく慰めてくれたことでクロードを見直し、クロードも離婚を思いとどまっている。
カミーユはマルクの偽善に気付きシモンの優しさを感じている。
ニコラはイギリスにいる妻とヨリを戻しそうだ。
メデタシメデタシの結末なのだが、そこにはアラン・レネの登場人物への愛情を感じる。
ところで、ニコラがマルクから借りた携帯電話は一体どうなったのだろう。
借りっぱなしになってしまわないか?
そう言えば、クロードの愛人との一悶着は出てこなかったなあ。

原爆の子

2021-02-05 09:01:43 | 映画
「原爆の子」 1952年 日本


監督 新藤兼人
出演 乙羽信子 滝沢修 宇野重吉 山内明
   清水将夫 細川ちか子 北林谷栄
   多々良純 東野英治郎

ストーリー
石川孝子(乙羽信子)は昭和20年8月6日の原爆が投下された時に広島に住んでいて、家族の中で彼女一人だけが生き残った。
その後瀬戸内海の小さな島で女教員をしていた孝子は、原爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みを利用して久しぶりに広島を訪れた。
街は美しく復興していたが、当時の子供たちは果たしてどんなふうに成長しているだろうか。
幼稚園でともに働いた旧友の夏江(斎藤美和)から住所を聞いて次々と訪問していく孝子だった。
三平も敏子も平太も中学生になっていた。
三平は子だくさんな貧しい父母の元で靴磨きをして家を助け、敏子は原爆症で寝ていた。
孤児の敏子は教会に引き取られて看護されていて明るい顔をして生きていたが余命いくばくもない。
平太も親を失って兄や姉の手で養育されていたが、一家は明るくまじめに生き抜いていた。
孝子が平太を訪ねた日は姉が嫁いでいくという日だった。
孝子は亡き父母の下で働いていた岩吉爺や(滝沢修)に出会ったが、息子夫婦を原爆で失い、老衰し、盲目になり、七歳になる孫の太郎(伊東隆)と乏食小屋で暮らしているのだった。
孝子は二人を島へ連れていこうとしたが、どうしても承知しないので太郎だけでも引き取りたいと思った。
初めは承知しなかった岩吉も隣りに住むおとよ婆さん(北林谷栄)の説得で、孫の将来のためにようやく太郎を手離すことにした。
孝子は広島を訪れたことによって色々と人生勉強をし、また幼い太郎を立派に育てようという希望を持って島へ帰っていくのだった。


寸評
原爆投下がもたらした悲劇を描いていて、米軍が進駐統治していた時なら恐らく撮影許可が下りなかったであろう内容となっている。
島倉千代子が唄った「東京だよおっかさん」が初めて靖国神社や皇居が歌詞に使用されたと同じように、本作で初めて原爆が取り上げられた映画ということである。
それまでは靖国神社を歌った歌謡曲や、米軍投下の原爆を取り上げた映画はタブーだったということだろう。

8月6日、孝子はいつものように幼稚園に向かう。
空襲警報が解除され、市内は平穏を取り戻し、市民は日常生活を送り子供たちは楽し気に遊んでいる。
8時15分に原爆が投下され、それまでの平和な時間が一瞬のうちに地獄絵図となってしまうシーンが強烈だ。
あっという間に27万人が死に、生き残った人々にも過酷な生活をもたらしている。
孝子が訪ねる3人の子供たちと、かつて孝子の家で働いていた岩吉老人を通じて原爆がもたらした悲劇を描いていくが、その生活は悲惨なものである。
孝子は広島に行き、幼稚園でともに働いた旧友の夏江の家に宿泊させてもらう。
夏江は原爆の為に子供が産めない体になっているが、死んだ人に比べれば生きているだけで幸せだと言い、どうやら知り合いから生まれた子供を貰うらしい。
この頃には子供がない夫婦が、兄弟や知人から子供を貰うということが結構行われていたから、今から見ればそんなことってあるのかと思うが公開された頃には抵抗なく見ることができただろう。

最初に訪ねた三平の家では父親が原爆症の為に臨終を迎えていた。
孝子はお悔やみを言うが、母親は「お悔やみを言われても夫は戻ってこない」ときつく言う。
孝子は原爆の悲惨さと自分の無力を悟ったことだろうが前に進む。
敏子は両親を亡くし、自分も原爆症で寝込んでいて、自分の命が短いことを自覚している。
それでも両親のいるところに行けるのだからいいと言って静かに目を閉じる。
その後に映る原爆でただれた手を握り、祈りを捧げる女性の映像が胸を締め付ける。
暗くて悲しいことばかりが描かれるが、わずかな救いとなるのは3人目の平太のエピソードだ。
平太一家は兄弟4人で暮らしているが、孝子が訪ねた日は姉の奈良岡朋子が嫁いでいく日である。
奈良岡朋子も倒壊した家の下敷きになって片足が不自由になっている。
兄の宇野重吉は妹の結婚を諦めていたが、復員してきた婚約者が約束通り妹と結婚してくれることに感謝し、いい人はいるものだと語り、唯一と言っても良い希望を感じさせる。
切ないのは岩吉老人のエピソードで、岩吉老人の滝沢修は映画を引き締めている。
息子夫婦をなくし、目が見えなくなっている彼は物貰いをしながら孫の太郎を施設に預けて生きている。
被爆したことでケロイドが顔を覆っていて、みすぼらしい生活をしているが太郎だけが生き甲斐の老人である。
孝子は見かねて太郎を自分が引き取りたいと申し出る。
その後の物語は涙を誘う話の連続であるが、孝子はまるで天使のようである。
まだ大映所属だった乙羽信子さんには天使の姿を浮いたものにしない雰囲気がにじみ出ている。
夏江が「これが再び使用されたらぞっとする」という言葉が迫ってくる良質の作品である。

ケンタとジュンとカヨちゃんの国

2021-02-04 08:06:32 | 映画
「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」 2009年 日本


監督 大森立嗣
出演 松田翔太 高良健吾 安藤サクラ
   宮崎将 柄本佑 洞口依子
   多部未華子 美保純 山本政志
   新井浩文 小林薫 柄本明

ストーリー
同じ児童養護施設で兄弟のように育ったケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)。
2人は、工事現場で壁の破壊を行う“ハツリ”と呼ばれる仕事をして暮らしていた。
だが、職場は低賃金、劣悪な労働環境に加え、先輩の裕也(新井浩文)からの執拗ないじめに遭い、快適さからは程遠い場所だった。
ある日、カヨちゃん(安藤サクラ)という女の子と知り合ったジュンは彼女の家に転がり込む。
一方、ケンタは毎月、裕也に金を払い続けていた。
ケンタが13歳のとき、兄のカズ(宮崎将)が幼女誘拐事件を起こした。
それを馬鹿にした裕也は、カズにナイフで切りつけられ負傷。
その賠償金と称して、裕也はケンタから金を巻き上げていたのだ。
そんなある夜、ケンタとジュンはハンマーを手にして裕也の車を破壊すると、カヨちゃんを連れて逃走し、カズのいる網走刑務所を目指して車を走らせる。
ケンタは、行き詰った毎日にカズが風穴を開けてくれるに違いないと期待していた。
道中、闘犬を飼う男(小林薫)、同じ施設で育った片目の洋輔(柄本佑)、キャバ嬢のゆみかちゃん(多部未華子)など、様々な人々との出会いを繰り返すうちに、ケンタとジュンの間には少しずつズレが生じてくる。
やがてたどり着いた刑務所で、ケンタは期待を胸に兄と面会したが、カズは味気ない返事を返すばかり。
その様子に失望した3人は当てもなくバイクを走らせる。
やがて、希望を失ったケンタは暴走を始める。
拳銃を手にして追ってきた裕也に立ち向かうと、夜にはキャンプファイヤー中の若者たちに襲い掛かる。
野獣のようなケンタを、裕也から奪った拳銃を手に制止するジュン。
だが、ケンタの挑発に思わず引き金を引いてしまう。
夜明け。血まみれでグッタリするケンタの肩を抱いて歩くジュンは・・・。


寸評
重くて暗くて、感動も爽快感もなく感情移入もできないのだが、閉塞感を突き破り何か新しい道を開きたいという彼らと同じ願望は共有できるという作品だ。
僕は歳をとってしまって、今更新しい道をとは思っていないのだが、端っこに追いやられたような気分を持っている人間はいるだろうから、彼等の心情を察するにはいい教材となる映画だ。
閉塞感は若者にだけあるわけではない。
社会人だって会社組織の中で感じている者は少なからずいるはずだ。
期待をされていないことを感じながらも、生活の糧を得るためと家族の信頼の重圧に耐えている社員と言われれば思い当たる人間がいるのではないか。

ケンタの兄のカズは幼児誘拐事件を起こし、ロリコンとからかった裕也に切りつけ、カッターナイフで体に幾筋もの切り傷を残した。
今はそのことで網走刑務所にいるが、その賠償金としてケンタは裕也に毎月金を巻き上げられイジメられている。
同じ施設出身のジュンはイジメられているケンタを助けることが出来ず、高圧的な裕也に従うしかない。
仕事場から解放された彼等は仲良がよい。
二人でナンパなんかを繰り返すが、そこで知り合ったのはブスで馬鹿で腋臭のカヨだ。
カヨは自分がブスであることを認知していて、誰とでもセックスする投げやりな生き方をしている。
三人とも内心では現状を打破したいと思っているのだがどうすることもできない。
何処にも行き場がないから、そこにいると言った感じなのだ。
その事は昔の仲間である洋輔が務めている障害者施設を訪ねた時に語られる。
障害を持つ人々と触れ合う場面では、社会的に弱い立場にあるところに共感するのか、この時の2人は実に生き生きとしていて明るい。
なのに、「こいつらどこにも行き場がないんだよなぁ」という言葉に暗澹とした気分になってしまうのだ。
彼らが施設を去るときに洋輔の母(洞口依子)とすれ違い、挨拶をする彼等を無視して通り過ぎた母親を散々ののしる。
そして「アンタよりずっと洋輔のことが好きだからな!」という言葉を投げつけて去っていく。
無表情だった母親がこの時少しだけ微笑む。
これは息子の洋輔にもそんな友人がいたことへの喜びだったのだろうか?

ロードムービーとして、盗んだ銅線を買い取ってくれた男と出会ったり、旧友の洋輔と再会したりするのだが、それが現状打破につながるような出来事としては描かれていない。
物語が静かすぎる。
その為なのか、最後の衝撃的な出来事も、出来事の割にはインパクトがない。
これは好みの問題かもしれない。
僕としてはもう少しメリハリが欲しかった。
彼らが入っていった海の向こうには、彼等の知らない世界があったのだろうか?
最後に映し出されるカヨの美しい表情がそれを想像させる。

ゲッタウェイ

2021-02-03 07:54:04 | 映画
「ゲッタウェイ」 1972年 アメリカ


監督 サム・ペキンパー
出演 スティーヴ・マックィーン
   アリ・マッグロー
   ベン・ジョンソン
   アル・レッティエリ
   サリー・ストラザース
   スリム・ピケンズ

ストーリー
テキサスのサンダースン刑務所からドク・マッコイが出所した。
銀行強盗の罪で10年の刑に服していたのだが、4年間服役したところで突然釈放になったのだ。
彼は地方政界の実力者ベニヨンと取引を行い、出所と引き換えに町銀行を襲って奪った金を山分けすることになっていたのだ。
ドクを、愛する妻キャロルが待っていた。
やがて銀行襲撃の綿密な計画が立てられ、ベニヨンは2人の殺し屋、ルディとジャクソンを送り込んできた。
襲撃計画は成功したかのように思えたとき、ジャクソンが守衛の1人を射殺してしまった。
ドクの仕掛けた時限爆弾が爆発し、混乱に乗じてドクとキャロル、ルディとジャクソンは別々に逃走した。
その途中、ルディは足手まといのジャクソンを射殺し、車から放り出すと、落ち合いの場所に急行した。
ドクは、ルディが金を1人じめしようとしていることを知り、一瞬早く彼の胸板をぶち抜いた。
ドクはルディが動かなくなったのを見届けると、ベニヨンが待つ農場に向かった。
その場でベニヨンは、一介の囚人の出所にわざわざ手を貸したのは、魅力的なキャロルがいたればこそと言い、暗に彼女との情事をほのめかした。
その時、車で待っていたはずのキャロルがいつの間にか近づき、やにわにベニヨンを射殺したが、ベニヨンの言葉がドクに与えたショックは大きかった。
2人は駅のロッカーに金の入ったバッグを預けたが、鍵をすりかえられ、盗まれるというよきせぬアクシデントが起き、ドクの必死の探索で取り戻したものの、この1件でドクは指名手配の身となってしまう。
一方、ドクに撃たれたルディは命を取りとめ彼を追ってエル・パソに向かい、ベニヨン一味もエル・パソに迫った。


寸評
ドクはベニヨンの口利きで保釈されるのだが、その条件としてベニヨンが計画している銀行強盗を行い強奪金を山分けする約束がなされている。
その交渉をドクの妻であるキャロルが行うわけだが、その際に行われた行為が物語のバックボーンとして横たわっている。
服役中のドクの様子や、キャロルの行動などから二人は深く愛し合っていることが分かり、キャロルの行動も観客にとっては理解の内だ。
それをベニヨンを訪問した時のキャロルの服装や、ベニヨンの思わせぶりなセリフで我々に知らせている。
このことでギクシャクした関係を持ちながら、二人で逃亡を続けるのがメインのストーリーだ。

ドクが奪った金は50万ドルだったのに、報道では75万ドルと伝えられると言うカラクリが明らかになるのは一ひねり効いていた。
慎重なドクが防弾チョッキを身に着けて銀行強盗に出かけるのに対して、ルディはそんなものはいらないと言っていたことも伏線となっていた。
このルディのキャラクターは作品の中で目立っていて、医者夫婦を脅かして傷の治療を行うのだが、彼等に対する態度が可笑しく、医者の妻のバカぶりが輪をかける。

逃亡劇なので、思わぬ出来事が起きるのは必然の成り行きで、それが上手く描かれているかが作品の出来を左右するのは、この手の映画の宿命だ。
ペキンパーらしく上手く処理されていたと思う。
一つはジャクソンが守衛を殺してしまうことで、ジャクソンの軽薄さは事前に描かれていた。
さらに大きな出来事は、ベニヨンがキャロルによって射殺されることで、これが物語の大きな伏線だ。
そして奪った金の入ったバッグを詐欺師にだまし取られるくだりが続き飽きさせない。
指名されたドクの手配書が回り、身元がバレたドクが必死の逃亡劇を繰り広げるのは当然の成り行きとして観客を引き付け、ゴミ収集車の一件までの展開がスリリングだ。

最終局面は予想された通り、エル・パソのホテルでの銃撃戦だ。
ショットガンを手に入れたドクは警察との銃撃戦をくりぬけ、ホテルでルディやベニヨン一味と壮絶に撃ち合う。
「ワイルドバンチ」ほどの驚きはないが十分に堪能できる。
驚くのは銃撃戦よりも結末である。
銃撃戦を切り抜け、ドクとキャロルはトラックに乗り込んで逃亡するが、なぜかこのトラックの持ち主の老人はドク達に協力的だ。
生き生きとして「わしも警察は嫌いだ」との理由だけで逃亡を手助けしている。
ここで見せるキャロルの太っ腹も小気味いい。
その結果として、彼等の逃亡は成功するのだが、アメリカ映画で強盗犯の逃亡がかくも明確に成功するのは珍しく、悪事は成功裏に終わらないという鉄則が破られ、その結末は新鮮ですらある。
ペキンパーが「俺たちに明日はない」を描くとこうなるのかもしれない。

汚れなき悪戯

2021-02-02 06:26:22 | 映画
「汚れなき悪戯」 1955年 スペイン


監督 ラディスラオ・ヴァホダ
出演 パブリート・カルヴォ
   ラファエル・リベリュス
   アントニオ・ビコ
   アドリアーノ・ドミンゲス

ストーリー
聖マルセリーノ祭を迎えたスペインのある小さな村。
楽しげに丘の上の教会へ村人達が向う頃、貧しい家で病床に伏す少女を訪れた一人の僧侶は、この日にまつわる、今は忘れられた美しい奇蹟の物語を話して聞かせる……。
かつて戦争で荒れ果てたこの村が平和をとり戻し始めた頃、三人の老いた僧侶が訪れて来て丘の上の廃墟に僧院を建てたいと村長に頼んだ。
農夫たちの協力で僧院が建立された十年後、僧侶らはある朝、門前に幼い捨子を発見。
彼等は赤児の両親が今は亡いと知ると、マルセリーノと名付け世話を始めた。
五年の後、マルセリーノは天使のように無垢な悪戯っ子になっていた。
少年は、天国にいると思われる母親のことを想う日が多くなった。
ある日、野原で出逢った農家の若妻に母の姿を見た少年は、同じ年頃のマヌエルという男の子がいると知って、彼を空想の友達と考えて、一人ぼっちの遊びも楽しいものにした。
祭の日、村に行った少年の僅かな悪戯は思いがけぬ混乱に発展、負傷者まで出た。
村長の後を継いでいた鍛冶屋は、これを僧侶らに対する口実とし、一ヵ月以内に僧院退去を命じた。
何も知らぬ少年は一人、空想のマヌエルと遊ぶ中、納屋で十字架のキリスト像を発見、飢えと寒さで悩むように思われるキリストの許へパンや酒を運ぶ。
ある嵐の晩、やって来た少年にキリストは好意に報いようとその願いを尋ねた。
少年は天国のお母さんに会いたいと答え、古椅子に寄ったまま永遠の眠りに就いた。
そのまわりには、どこからともなく光が輝く。
奇蹟は村中に伝わり、葬式には鍛冶屋を始め総ての村人が参加した。


寸評
少年と修道士たちのかかわりが微笑ましい映画であるが、一方で悲しい物語でもある。
物語は一人の修道士が病気で祭りに行けない少女に聞かせる形で始まる。
マルセリーノは捨て子だったが修道士たちに可愛がられ、台所さんと呼ぶ修道士を初め、共に暮らす修道士たちを12人のお父さんと思っている。
マルセリーノは母親の味を知らず、友達は名前を聞いただけの空想の世界にいる。
孤独に思える境遇だが、修道士たちから受ける愛情によって不幸には思えない。
しかしそれでも、やっぱりお母さんに会いたいと思う気持ちがあり、そこが泣かせる。

マルセリーノが修道士たちに行う悪戯や、初めて町に出た時にやらかす騒動などは愉快なものであり、それだけを見ているとよくある子供を主人公にした微笑ましい映画に見えるが、実はそうではない。
キーとなるのは冒頭で登場する少女だ。
少女は病気で寝ているのだが何の病気でどういう状態なのかははっきりしない。
神父は医者としての知識を持っているのかもしれず、母親に様子を聞くと容体は変わらないと言う。
どう変わらないのか分からないが、雰囲気的には相変わらずよくないように思えた。
聖マルセリーノの話をしてあげようと言う神父に、「今日でなければいけませんか」と聞く父親に神父はちょっと考えてから「そうだ」と答える。
母親はハッとしたような表情で夫を見ると、神父は半分は親のためでもあると言う。
この少女は冒頭のシーン以外には登場せず、映画は神父の話の締めくくりと共に終わってしまうが、僕はこの少女は亡くなったのだと思う。
可愛いマルセリーノが死んでしまうことは理不尽な気がするし、この少女が病気で死ぬのも理不尽である。
少女の両親の嘆きと悲しみは想像できると言うものだ。
それがわかるから神父はマルセリーノの話をしたのだと思う。
少女に対しては、天国へ召されることは悲しいことでも怖いことでもないということ、両親に対しては、子供はとてもいいところへ行くのだということが言いたかったのではないか。
話し終えた神父が去っていくが、僕はこのシーンを見て少女は安らかな眠りについたのかもしれないと思った。

半ば愉快に繰り広げられてきた物語だが、一気に緊張をもたらすのが大きなキリスト像の手が動くシーンだ。
マルセリーノはファンタジーの世界へ、神と一体化した世界へと入っていく。
神はマルセリーノの願いを聞き入れる。
台所さんはマルセリーノの死という結果だけを見たのだろうか。
いや多分、マルセリーノがキリストとの会話する姿を目撃し、そしてマルセリーノが天国に召される姿を目撃したのだと思う。
子供を使えば自然と楽しい映画になるという典型的な作品の様に思えていたが、ここに至って極めて宗教的な作品なのだと分かった。
僕はこの映画のテーマ曲をどこで聞き覚えたのだろう。
初めて見た時には、すでにそのメロディは僕の頭の中にあったのだ。

競輪上人行状記

2021-02-01 10:27:26 | 映画
「競輪上人行状記」 1963年 日本


監督 西村昭五郎
出演 小沢昭一 伊藤アイコ 南田洋子
   高原駿雄 高橋昌也 加藤嘉
   加藤武 渡辺美佐子

ストーリー
宝寺院の住職伴玄道(河合健二)の死は、妻みの子(南田洋子)を悲しませたばかりか、坊主が嫌いで寺を飛び出して教師をする次男の春道(小沢昭一)を悲嘆の底に落した。
それはこの寺を父親の玄海(加藤嘉)からまかせられたばかりか、兄嫁みの子をも背負はされる事実に直面したからだ。
新興宗教に押されて不景気なこの寺、犬の葬式を引受けては、犬寺とあだ名されるみの子の生き方に反撥を感じながら、本堂再建の資金をかせぐには、どうする事も出来ぬ現実に直面していた。
資金集めに奔走したある日、松戸競輪で車券を一枚買ったのが、運よく大穴となり、“現ナマをつかむこつは、ここにあり"と由来競輪のとりこになった。
もともと少しのお布施をもらう坊主にはあきたらなかった春道だが、競輪づいてからは寺には寄りつかず、大金を使い果した。
父親の玄海の出した教師の退職願いが受理されたと聞いて、激怒した春道は、本堂再建費としてためていた百万円余りを使い果して、寺の犠牲になるのは御免とばかり、飛び出していった。
しかし、父の突然の死は春道に坊主になる決意を固めさした。
頭をまるめて京都大本山に行った春道は修業の末、下山し寺の再建に精を出した。
そこへ、かつての教え子サチ子(伊藤アイ子)が春道を頼って訪れた。
貧しく、義父との間にいざこざが絶えないサチ子を、春道は寺にひきとった。
まもなく春道はみの子に結婚を申し込んだが、みの子の口から父玄海と関係があったと知らされ、ヤケになった春道は、再び競輪にこり始めた。
競輪で本堂再建資金を作った春道は、寺をみの子にまかせ、サチ子を連れて青森にむけて発った。
五年後とある競輪場で予想屋春道の弁舌がひときわさわやかに響き渡っていた。


寸評
小沢昭一は名バイプレーヤーだったと思うが、このような役をやらせると抜群だった。
主演作としてこの作品でも光っているが、後年に本作の脚本に参加している今村昌平で撮った『「エロ事師たち」より 人類学入門 』でも素晴らしい演技を見せ、主演作品がもっとあっても良かった俳優だったと思う。
小沢演じる春道はたまたま行った競輪で大穴を当てる。
いわゆるビギナーズ・ラックというやつで、ギャンブルをやったことのある者なら経験があるのではないかと思う。
初めての時は何も考えずに買うから案外と当たるのだが、一度味を占めると欲が絡んできて配当金などを考え出すから負けが込んでいく。
僕も競馬を始めたころはそんなことがあって、春道ならずとも競馬って小遣い稼ぎになるんだなと思ってしまった。
その後の結果は言わずもがなである。
はなから25%の上前をはねられて掛け金を分け合っているのだから勝つわけがない。
この作品でも春道が競輪にはまっていき借金で身動きが取れなくなる。
この映画を見て春道のことを笑えない人間は大勢いるだろう。
僕の身内にもギャンブルに手を出し、それが元でヤクザにからまれ財産をなくした者がいる。
僕はそうなってしまう自分の性格を恐れ、会社で経理に配属された時にギャンブルから足を洗った。

西村昭五郎は僕の学生時代に登場した日活ロマンポルノの監督と言うイメージなのだが、デビュー作である本作が彼の最高傑作ではないかと思う。
宗教法人を皮肉っているわけではないし、ギャンブルを呪っているわけでもなく、必死に生きる庶民の姿を追い続けているスタイルがなかなかいい。
死んだ兄の妻であるみの子も父親の玄海も寺の存続が一番の人間で、その為には何でもやると言う人物である。
みの子はそのためには内職もやるし、犬の葬式を行いその肉を売ることを何とも思っていない。
彼女によれば「衛生的に処理している」ということなのだが、春道は衛生の問題ではなく道徳の問題だと説くのだが、その春道もどこに道徳観があるのかという人物である。
玄海は寺の後継者を得るために、子供を宿せない長男に代わりみの子と関係を持ち子供を産ませている。
玄海もみの子も寺の存続しか頭にないのである。
もしかすると死んだ長男も同じ気持ちでいたのかもしれない。
サチ子は義父に犯されて身ごもったが、春道のもとでけなげに生きている。
初井言栄のシマという老婆は出来の悪い息子の為に金を残し、サチ子を嫁にもらいたいと思っている。
それぞれがそれぞれの立場で必死に生きているのだ。

春道は最後の大勝負を掛けるのだが、ここで出会った渡辺美佐子とのエピソードは凄みがある。
彼らが買った車券が何だったのかが分からない描き方もいい。
渡邊美佐子と行ったホテルで春道がコップを落とすシーンはいいし、そこからの展開が素晴らしい。
何よりも法衣をまとって予想屋をやる春道の姿は、彼の生きていくことへのバイタリティを示すものとして秀逸で、その口上には聞きほれてしまうものがある。
素晴らしいエンディングとなっている。