学者という職業には一長一短がある。学者は公平無私である。学者は嘘をつかない。彼らの見解には誤りがない、等々。そういう偏見が巷に満ち溢れているせいで、彼ら学者先生は聖人君子のように崇められるが、半面、それが重荷になることもある。彼らは自分がそういう人物ではないことをよく知っているからである。
質(たち)が悪いのは、聖人君子でないのに、世間の評価に惑わされ、自分を聖人君子だと錯覚している学者先生たちだが、そういう似非(えせ)学者の類(たぐい)は論外として、ここでは除外することにしよう。
見過ごせないのは、彼らが聖人君子とは程遠い俗物であることを知りながら、彼らを聖人君子のように崇めることで、彼らを自分の思い通りに操ろうとする政治家のセンセ方である。彼ら政治家は、自分に都合のよい言辞を「専門家」の学者先生から引き出し、それを金科玉条のごとく世に喧伝することで、「どうだ」とばかりに、政治家としての自分の正当性を顕示しようとする。(自分に都合のよい)学者の言辞は、黄門様の葵の印籠のような役割を果たすのである。
かくのごとく政治家や権力者に利用されることに甘んじ、その待遇にあぐらをかいて、むしろそれを学者としての自分の名声・権勢を高める手段にしようとする輩(やから)を「曲学阿世の徒」というが、このような輩も論外とし、これもここでは除外することにしよう。
学者先生に対する政治家の扱い方が端的に表れたのが、コロナ対策のために政府が設置した「専門家会議」の顛末である。政府は緊急事態宣言の発令など、コロナ対策を進めるにあたり、事あるごとにいちいち「専門家会議」の見解を引き合いに出したが、ある時点から、「専門家会議」の見解は政府の望む方向とは合致しないものになった。政府は緊急事態宣言を撤回し、コロナ対策よりも経済対策を優先する方向に舵を切ろうと考えたが、「専門家会議」の疫学者たちはこれに反対し、経済対策よりもコロナ対策を優先すべきだと主張したのである。
このとき政府はどうしたのか。わずか4か月前のことだから、憶えておられる読者も多いだろう。政府は、疫学者に経済学者を加えた「コロナ対策分科会」なるパネルを新設し、従来の「専門家会議」を廃止したのである。つまり、有り体に言えば、政府は(政府と意見を異にする)学者たちをオミットし、お払い箱にしたのである。
政府と意見を異にするとはいえ、(無謬であるべき)学者の見解となれば、これを無下に退けるわけにはいかない。そこで政府は、「コロナ対策分科会」なる新しいパネルを立ち上げることにより、政府と意見を異にする学者たちを闇に葬ったということである。
断っておくが、私は、経済対策よりもコロナ対策を優先しようとした学者たちの見解が正しく、コロナ対策よりも経済対策を優先しようとした政府の方針が誤っていた、と言おうとしているのではない。疫学を専門にする(専門バカの)学者たちには、不況にあえぐ商店主たちの苦境も、経済対策の必要性も目に入らなかった。一方、政治家は、苦境にあえぐ人々の救済を最優先のこととして目配りをしなければならない。その方向に舵を切った政府の対処を、私は正しかったと評価している。
私が問題にしようとしているのは、そのときに政府が見せた、学者に対する対処の仕方である。一般論になるが、政府の方針と見解を異にするとはいえ、学者の提言は、政府の政策が正しいか、そうでないかを検討するきっかけを与え、政策論に深みや幅や新たな見方を与える点で、政府にとっても国民にとっても有益なものと言わなければならない。それをオミットし、闇に葬ろうとは、とんでもハップンの禁じ手そのものである。
政府と見解を異にする学者を闇に葬るなど、してはならないことは当たり前田のクラッカーだが、それにしても新しい衣(コロナ対策分科会)によって古い衣(専門家会議)を切り捨てた安倍政権のやり方は、実に巧妙だったと言わなければならない。この「目の上のたん瘤切り捨て事件」は、国会でも問題にならなかった。それほど巧妙に、このやり方は国民の目も野党議員の目も欺いたのである。
それに比べれば、「日本学術会議」に対してとった今回のスガ首相のやり方は、いかにも稚拙で乱暴きわまりないものだった。「オレはあんたらを切る。理由は、言わなくても解るよな」。
これではいくら何でも世間が納得しない。こんなことはオブラートに包んで、目立たないようにコッソリやるべきことなのだ。
臆面もなく恥ずべき振る舞いを堂々と行ったスガ首相のやり方は、傲岸不遜の謗りを免れない。
質(たち)が悪いのは、聖人君子でないのに、世間の評価に惑わされ、自分を聖人君子だと錯覚している学者先生たちだが、そういう似非(えせ)学者の類(たぐい)は論外として、ここでは除外することにしよう。
見過ごせないのは、彼らが聖人君子とは程遠い俗物であることを知りながら、彼らを聖人君子のように崇めることで、彼らを自分の思い通りに操ろうとする政治家のセンセ方である。彼ら政治家は、自分に都合のよい言辞を「専門家」の学者先生から引き出し、それを金科玉条のごとく世に喧伝することで、「どうだ」とばかりに、政治家としての自分の正当性を顕示しようとする。(自分に都合のよい)学者の言辞は、黄門様の葵の印籠のような役割を果たすのである。
かくのごとく政治家や権力者に利用されることに甘んじ、その待遇にあぐらをかいて、むしろそれを学者としての自分の名声・権勢を高める手段にしようとする輩(やから)を「曲学阿世の徒」というが、このような輩も論外とし、これもここでは除外することにしよう。
学者先生に対する政治家の扱い方が端的に表れたのが、コロナ対策のために政府が設置した「専門家会議」の顛末である。政府は緊急事態宣言の発令など、コロナ対策を進めるにあたり、事あるごとにいちいち「専門家会議」の見解を引き合いに出したが、ある時点から、「専門家会議」の見解は政府の望む方向とは合致しないものになった。政府は緊急事態宣言を撤回し、コロナ対策よりも経済対策を優先する方向に舵を切ろうと考えたが、「専門家会議」の疫学者たちはこれに反対し、経済対策よりもコロナ対策を優先すべきだと主張したのである。
このとき政府はどうしたのか。わずか4か月前のことだから、憶えておられる読者も多いだろう。政府は、疫学者に経済学者を加えた「コロナ対策分科会」なるパネルを新設し、従来の「専門家会議」を廃止したのである。つまり、有り体に言えば、政府は(政府と意見を異にする)学者たちをオミットし、お払い箱にしたのである。
政府と意見を異にするとはいえ、(無謬であるべき)学者の見解となれば、これを無下に退けるわけにはいかない。そこで政府は、「コロナ対策分科会」なる新しいパネルを立ち上げることにより、政府と意見を異にする学者たちを闇に葬ったということである。
断っておくが、私は、経済対策よりもコロナ対策を優先しようとした学者たちの見解が正しく、コロナ対策よりも経済対策を優先しようとした政府の方針が誤っていた、と言おうとしているのではない。疫学を専門にする(専門バカの)学者たちには、不況にあえぐ商店主たちの苦境も、経済対策の必要性も目に入らなかった。一方、政治家は、苦境にあえぐ人々の救済を最優先のこととして目配りをしなければならない。その方向に舵を切った政府の対処を、私は正しかったと評価している。
私が問題にしようとしているのは、そのときに政府が見せた、学者に対する対処の仕方である。一般論になるが、政府の方針と見解を異にするとはいえ、学者の提言は、政府の政策が正しいか、そうでないかを検討するきっかけを与え、政策論に深みや幅や新たな見方を与える点で、政府にとっても国民にとっても有益なものと言わなければならない。それをオミットし、闇に葬ろうとは、とんでもハップンの禁じ手そのものである。
政府と見解を異にする学者を闇に葬るなど、してはならないことは当たり前田のクラッカーだが、それにしても新しい衣(コロナ対策分科会)によって古い衣(専門家会議)を切り捨てた安倍政権のやり方は、実に巧妙だったと言わなければならない。この「目の上のたん瘤切り捨て事件」は、国会でも問題にならなかった。それほど巧妙に、このやり方は国民の目も野党議員の目も欺いたのである。
それに比べれば、「日本学術会議」に対してとった今回のスガ首相のやり方は、いかにも稚拙で乱暴きわまりないものだった。「オレはあんたらを切る。理由は、言わなくても解るよな」。
これではいくら何でも世間が納得しない。こんなことはオブラートに包んで、目立たないようにコッソリやるべきことなのだ。
臆面もなく恥ずべき振る舞いを堂々と行ったスガ首相のやり方は、傲岸不遜の謗りを免れない。