ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「道」を見るために

2016-02-28 10:59:48 | 日記
前回のエントリーの末尾で、私は次のように書いた。

猿ではなく、猿回しの親方の目で人生の意味を考えると、

自ずから「道」は見えてくる、と。

だが、末尾のこの文章は、前回のエントリーの全体で

私が言いたかったことではない。

猿と猿回しの話が面白かったので、

その面白さに引きずられて、

筆がすべったというか、

つい書いてしまったのである。

でも、こう書いたことで、かえって

全体の趣旨が見失われるといけないので、

まずはこのことを付言しておく。

前回、私が言いたかったのは、こういうことだ。

世俗的な価値基準を持ち込んで

人生の意味を考えると、

「道」は見えなくなる、ということである。

よい例を思いついたので、記しておこう。

私が時々観るテレビ番組に、「人生の楽園」というのがある。

田舎暮らしを始めた人たちを取りあげた番組で、

田舎暮らしへの憧れがある私には興味深いのだが、

ただ一つ、この番組の最大の難点は、

「人生の楽園」というレッテルを意識するあまり、

幸福についてのありふれた、陳腐で世俗的な、ワンパターンの価値基準を

これでもかこれでもかと、

強く強くしつこく押しつけてくることである。

リタイアして田舎暮らしを始めたシニア層が

登場人物であることがほとんどなのだが、

主人公は必ず夫婦仲睦まじく、決まって彼らは

その土地の住民であるご近所さんたちと

和気あいあいの交流を持っている。

まるでそれが「人生の幸福」であると言わんばかりだ。

私にはそれが、どうしようもなく鼻につくのである。

私は、番組の型どおりに捏造されたこんな「人生」と

自分の人生を比べる気になどならない。

そんなことをしたら「道」が見えなくなることは請け合いである。

などと言いながら、性懲りもなく、ついつい

この番組を観てしまう、愚かで

どうしようもなく世俗的な私。

そんな私が言うのもナンだが、「道」を見ようとすれば、

こんな番組は観ないに越したことはない。

そもそも、この番組の主人公こそ、

こんな番組など観ていないのではないか。

そう思う。
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人生と猿回し

2016-02-27 11:54:58 | 日記
荘子の「斉物論」(2-11)を読んでいく。
 
この箇所に着目するのは、ほかでもない、
 
この箇所を読んだとき、
 
「うん、分かるなあ」と思ったのだ。

それだけのことである。
 
私は目下、事の成り行きからして、
 
「人生の意味」というテーマについて考えているのだが、
 
例を挙げる。
 
次の言葉などはどうだろう。

「世俗の人間どもはいったい何を根拠に、

あるものを「然り」とし、また「然らず」と断定するのか。

彼らはただ世間の常識と習慣に従って、

世間の人間が然りとするものを自己もまた然りとし、

世間の人間が然らずとすることを自己もまた然らずとしているにすぎない。」


私は今、現役だったころの自分の生き方をふりかえり、

それは「然り」と是認できるものだったのか、

それとも、「然らず」と否定すべきものだったのか、

あれこれと思案している。

私がその答えを出そうとするとき、

私は、世間の人々のさまざまな生き方を思い浮かべ、

これらと照らし合わせながら、

「俺の生き方、あの頃はしんどかったけど、いま考えてみれば、

まあまあだったんじゃないかな」

などと思いをめぐらせている。

このとき私は、荘子の言うとおり、世間の常識や習慣を基準にして

判断を下していると言えるだろう。

私と同じく、世間の人々も、生活の便宜上、

常識的・平均的な物差しを持ち込んでいるだけなのだが、

上には上があり、下には下があるから、

この物差しの上のほうに目を合わせれば、

私の現役人生は「然らず」ということになり、

下のほうを基準にして考えれば、

「然り」ということになる。

「然らず」でもあり、「然り」でもあるような私の現役人生、

その内実は一緒なのだが、

是非の価値判断はこのように対立した相反するものになるのである。


内実は一緒、ということを示す面白い話を、荘子は紹介している。

「世俗の人間どもは本来一つである実在の真相を悟らないが、

彼らのこのような愚かさこそ、

「朝三(チョウサン)」と呼ぶのである。

それでは「朝三」とは何か。

昔ある所に狙公(ソコウ)、すなわち猿回しの親方がいて、

多くの猿を飼っていたが、ある朝、彼は猿どもに餌として、

とちの実を分けてやりながら、こういった。

「朝は三つずつ、夕方には四つずつやろう」

すると猿どもは歯をむいていきり立った。

そこで猿回しの親方がさらに、

「それならば、朝は四つずつ、夕方には三つずつにしよう」

といったところ、多くの猿どもはキャッキャッと喜んだ。

結局、同じ内容の、異なった表現にすぎず、

いくら名(ことば)を変えてみたところで

実質には何の変化もないのである。」

 
以上、猿ではなく、猿回しの親方の目で人生の意味を考えると、
 
自ずから「道」は見えてくる、というお話でした。

猿でいたのでは「道」は見えませんよ、ということである。
 
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荘子の道を登る

2016-02-26 16:35:28 | 日記
荘子の読解も、そろそろ佳境に入ってきた。

道に迷ったと思いこんで、

あちこちうろついていたら、

いつの間にか山頂の付近に立っていた、

という感じがする。

我々は前回、達人が看破する「大いなる一切肯定の世界」

に論及したのだが、まさにこのニーチェ的な境地こそ

「道」という、荘子思想の真骨頂の境地

に他ならないからである。

荘子は言う。

「究極の境地とは何か。

是非の対立を越えた是(ぜ)に、いいかえれば自然のままの道に、

ひたすら因(よ)り従うことである。

ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという

意識さえもなくなること、

この境地をこそ道というのである」

(斉物論第二-12)

この重たそうな概念、「道」という概念は

老子にも見られたが、

荘子が老子とともに「道教」の祖の一人とされ、

「老荘思想」と一くくりにされることを思えば、

荘子があちこちで「道」を説くのも、

ごくごく当然のことと言えるだろう。


さて、老子の場合もそうだったが、

話が「道」に及ぶと、

登頂の道筋はとたんに険しくなる。

西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」などと同様に、

私は難解な形而上学的議論が苦手だし

好きではないので、

その種の議論はなるべく(敬して?)遠ざけてきた。

しかし、いつまでも逃げ回っていたのでは

埒が明かない。

そろそろこの問題に向き合う時期なのだろう。

ただ、向き合うといっても、

正面から向き合ったのでは、

これも埒が明かないので、

私としては、ここで一つの戦略を立てて

これに臨みたいと思う。

荘子には、「道は**によって明らかになる」という肯定形、

また、「道は**によっては明らかにならない」という否定形、

その両方の言い回しが見られるが、

私は前者、肯定形の主張に焦点を当てるという、

まっとうな正攻法の攻め方は取らずに、

後者、否定形の主張に重点的に焦点を当て、

「道でない」ものを徹底的に浮かび上がらせ、

これをそぎ落としていって、

逆にそこから「道である」ものを浮き彫りにするという、

迂回的かつ邪道じみた

レリーフの手法を取りたいのである。

はて、うまくいくかどうか。

それは私にも分からない。
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荘子が見る人生の矛盾

2016-02-24 16:19:53 | 日記
生きていくのは厄介なことだ。

入りたかった会社に無事就職することができたとしても、

入社すれば、そこにはライバルとの競争が、

生きるか死ぬかの熾烈な競争が待っている。

毎日の生存競争に疲れ果て、疲れ切った自分を

アルコールで騙しながら、やっと定年までこぎつけたあなた。

さあ、これからはのんびりと、趣味でも見つけながら、

第二の青春を謳歌するぞ! そう思いを新たにしたあなたは、

今の自分の姿を肯定し、ここに至るまでの自分の

会社人としての生き方をも肯定したい思いに駆られるだろう。

ところが荘子は、こんな言葉を遺している。

ぐさりと胸を突きさす言葉だ。

「世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、

他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、

その人生を早馬のように走りぬけ、

これをとどめるすべを知らないのは、

なんと悲しいことか」(斉物論第2-6)

あなたの会社人としての人生を全否定するような荘子の言葉。

これをどう受け止めたらいいのか、

これに対して、どういう反論がありうるのか、

この問題を考えてみたい。

まずあなたは、ほかならぬ荘子の言葉を盾にとって、

こう言い返すだろう。

自分はこれまで、「ライバルに負けたくない」という自分の感情に忠実に、

素直に従って、生きてきたつもりだ。

荘子さん、あなただってこの私の態度は否定できないはずですよ。

心胸に生起する感情を「自然」のものとして受け入れ、

これに従うとき、我々はこの人間的なものを超越することができる、

と言っていたのは、荘子さん、あなたではありませんか。

ふむふむ。たしかに、荘子は矛盾したことを言っている。

私はこれを、ただ矛盾として受けとめるのではなく、

この矛盾を解消したいのである。

一方の見解(会社人としての人生を全否定する見解)を、

徹底的に粉砕するための確固たる論拠を、

荘子自身の言説の中に見出し、

そういう形でこの矛盾を解消したいのである。


ーー聡明な読者は、もうお気づきだろう。

そう大見得を切るからには、お前はその確固たる論拠とやらを

すでに見つけているに違いない、と。

お察しの通りである。私はすでにその論拠を見出している。

しかも、そういう目で読み進めてみると、

荘子の「斉物論」には、その種の論拠があふれているように思えるのだ。

例えば、次の言葉を、我々はどう受けとればよいだろうか。

「(本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。

(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。

道はあらゆる場所に存在するし、

言葉はどんな場合でもそのすべてが「可」である。

道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、

言葉は虚栄と、はなやかな修飾によって是非の対立を生むのだ。」
                 
                   (斉物論第2-8)


人生という道。私がリタイアするまでに歩んできた

これまでの人生の道。

荘子によれば、それは本来真とか偽とかと言えるものではない。

「然り」と是認すべきものでも、逆に「否」と否定すべきものでもない。

そういう是非の区別や対立をそこに持ち込むのは、

「小さな成功を求める心」なのだ。

「私は望ましい人生を歩んできた」と思いたい心、

自分を人生の成功者として位置づけたいと望む心が、

そうさせるのだと言ってよいだろう。

そういう心で見るとき、私の人生は、

是認すべきもの-否定すべきものという対立を抱え込んだ矛盾的存在になる。

会社人のあくせく人生を全否定する荘子の言葉が入り込んで

鋭い茨の棘になるのは、こういう心に対してなのだ。

荘子はヘーゲル張りに、

「一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのだ」と

述べるが(斉物論第2-9)、

世界が矛盾したものに見えるのは、

我々がそこに「心知の分別」を加えて見ているからである。

これに対して、そうした「心知の分別」を加えずに、

世界のあるがままの姿を、

そのまま自然として眺め受け入れるのが、

達人の境地である。

「達人は分別の知恵を用いないで、

すべてを自然のはたらきのままにまかせる」(斉物論第2-12)

のである。


荘子は言う。達人が看破する世界、そこでは

「すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、

「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、

「然らざるはなし」と肯定される。

この大いなる一切肯定の世界が、

道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界

にほかならない。」(斉物論第2-11)


実在の世界は「大いなる一切肯定の世界」だとする

達人・荘子の見方からすれば、

会社人のあくせく人生も、

肯定されるべきものだということになる。

そうではないだろうか。
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荘子でふり返る人生

2016-02-23 11:54:35 | 日記
荘子を読み進んでいく。

「斉物論」のある個所を読んで、

私はひどく落ち込んでしまった。

初めてのことである。

これまでは荘子を読むと、

大らかな気持ちになったり、勇気づけられたりしたが、

この箇所を読んで、私は荘子に、思いきり頭を殴られた気がした。

え? なぜなのだ?

どうして荘子はこんなことを言うのか?

その意図が、私はすぐには飲み込めなかった。

いや、いまだに飲み込めないで、私は途方に暮れている。

固く大きな石を口の中に入れてしまったようだ。

荘子にも、やはり「石」はあったのだなあ。そんな思いにとらわれている。

たとえば荘子は、こんなふうに述べている。


「世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、他と争い傷つけあって、

自己を耗(す)りへらして、その人生を早馬のように走りぬけ、

これをとどめるすべを知らないのは、なんと悲しいことか。」


この荘子の言に従えば、私の人生は「悲しい」ものだった

ということになる。

まだ現役のとき、私は職場で、同僚のライバルたちと

争わなかっただろうか。傷つけあわなかっただろうか。

その生存競争の中で、自己を耗りへらさなかっただろうか。

私はそういう人生を早馬のように走りぬけ、

早期退職して、今、ここに、こうしてブログを書いている。

書きながら、走馬灯のように過ぎ去った日々を、

忸怩たる思いをいだき、苦々しい気持ちで振り返っている。

組織のトップに登りつめたい、というような、大そうな抱負によってではない。

ライバルに負けたくない、という(嫉妬心に似た)小さな感情に駆り立てられて、

私は組織の中の人生を走りぬけてきた。

まるで私は回し車の檻の中に放り込まれた一匹のネズミのようだった。

「檻の外」があることなど思ってもみず、

檻の外に抜けだそうなどと考えることもなく、

私はただひたすら両足を前に出し続けた。

それだけのことで過ぎた人生。

そこには成功も、失敗も、勝ちも負けもあるわけがない。

そう思いながらも、やはり荘子のことばは私の胸にぐさりと突き刺さる。


「その生涯をあくせくと労苦のうちにすごしながら、

しかもその成功を見ることもなく、

ぐったりと疲労しきって、

落ち着く所を知らない有様。

哀(あわ)れというほかないではないか。」


荘子が「哀れ」と喝破した人生。

それこそ私の人生ではないか、と私は思わないわけにはいかない。

いや、そう思うのは、なにも私だけではないだろう。

仕事をリタイアした人は、多かれ少なかれそんなふうに思って、

夜、眠れなくなることもあるのではないか、と私は推察する。

「でも、俺はこうしてちゃんと生きている。それで充分だ」

というのは、気休めのことばに過ぎない。

荘子はこう追い打ちをかける。


「人はそれでもなお、「俺は生きている」と言うかもしれないが、

これほど無意味な人生がまたとあろうか。

その肉体がうつろい衰えて、心もそれと同時に萎(しぼ)んでしまったのである。

これを大きな哀(かな)しみといわずにいられるであろうか。」


不意に、私にぶつかってきた大きな「石」。

この大きな石に私は言いたい。

荘子よ、あなたは、たしかこう言っていたのではないか。

我々の心胸に生起するざまざまな感情は、

「天(自然)」がしからしめるもの。

これをそのようなものとして素直に受け入れ、

これに従うとき、

我々はこの人間的なものを超越することができる、と。

よく理解できないながらも、私はこのことばにぐっときて、

激しく同意したのですよ。

その私ですが、私だって「ライバルに負けたくない」という感情に

素直に従っただけなのですがね、荘子さん!


荘子のこの「石」を噛み砕くことが、

次の私の課題になりそうである。
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