リバイバル復活した「桜」問題だが、最近は新型コロナの猛威に押されて、影が薄くなった感がある。とはいえこの問題が再び脚光を浴びたことにより、アベ前首相が嘘をついていたことが明らかになった。
「桜」の前日に開催された後援会主催の懇親会。この懇親会の会費の一部に安倍事務所からの費用補填が「あった」のに、「なかった」と答えた嘘。前首相が嘘つきだったことを知って、私は腹が立つと同時に、半分はホッと胸をなでおろしている。わが国の統治者が嘘をつける人であって、ああ、ヨカッタ、と。
お前は何を言っているのだ!気でも狂ったのか、と怒りだす人もいるだろうから、さっそく老子先生にお出ましいただこう。先生はこう述べておられる。
「故貴以身爲天下、若可托天下。愛以身爲天下、若可寄天下。」
(書き下し文:「故(ゆえ)に身を以(も)って天下を為(おさ)むるより貴べば、若(すなわ)ち天下を托(たく)すべく、身を以って天下を為むるより愛すれば、若ち天下を寄(よ)すべし。」
現代語訳:「故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべきである。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。」)
おかしいなあ、と、あなたは訝るかもしれない。老子がそんなことを言っているなんて、何かの間違いではないのか。現に老子は第7章で、聖人は無私無欲であり、「自分の身を度外視する」と言っているではないか。その老子が「天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい」と言うなんて・・・。
これは一体どういうことなのか。上にあげた問題の文章(第13章)の前半には、こういう文章がある。
「寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。」
(書き下し文:「寵辱(ちょうじょく)には驚くが若(ごと)し。大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身の若くなればなり。何をか寵辱には驚くが若しと謂(い)う。寵を上と為(な)し、辱を下と為し、これを得るに驚くが若く、これを失うに驚くが若し。これを寵辱には驚くが若しと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。われに大患有る所以(ゆえん)の者は、われに身有るが為なり。われに身無きに及びては、われに何の患(わずら)い有らん。」
現代語訳:「尊敬されたり、侮辱されたりという事に人々は一喜一憂して暮らしている。それらから得られる得失を自分の身の事のように心配するからだ。どうして尊敬や侮辱に一喜一憂するのかと言えば、尊敬を良いものと考え、侮辱を悪いものと考えて、褒められれば喜び、叱られれば悲しむからだ。そうして人々は他人の評価に一喜一憂している。それではどうして他人の評価からもたらされる得失を自分の身のように心配するのか。そもそも得失によって幸福になったり不幸になったりするのは自分の身があるからなのだ。自分の身が無くなってしまったりしたら、一体何を心配する必要があるだろうか。」)
老子のこの文章を、私は次のように解釈したのである。
自分の身を第一に考える人は、他人から尊敬される喜びや、他人から侮辱される悲しみに敏感になり、嘘をつくことがある。そういうふうにして他人による評価を気にし、他人のことを重視する人こそが、統治者になるべきだ。他人のことなど眼中にない自己中の人が統治者になると、彼はどこかの国の肥え太った若者のように、過激な独裁者になるので、危険極まりない。それは人民にとって不幸であり、それだけは避けるべきだ。
ともあれ、アベ前首相は嘘をつく人だったことで、独裁者失格であることを自ら証明した。彼はしょせん独裁者の器ではなかったのだ。ヨカッタ、ヨカッタ。
とはいえこの嘘が覆い隠そうとしたのは、れっきとした犯罪である。それはそれでしっかり追及しなければならない。
「桜」の前日に開催された後援会主催の懇親会。この懇親会の会費の一部に安倍事務所からの費用補填が「あった」のに、「なかった」と答えた嘘。前首相が嘘つきだったことを知って、私は腹が立つと同時に、半分はホッと胸をなでおろしている。わが国の統治者が嘘をつける人であって、ああ、ヨカッタ、と。
お前は何を言っているのだ!気でも狂ったのか、と怒りだす人もいるだろうから、さっそく老子先生にお出ましいただこう。先生はこう述べておられる。
「故貴以身爲天下、若可托天下。愛以身爲天下、若可寄天下。」
(書き下し文:「故(ゆえ)に身を以(も)って天下を為(おさ)むるより貴べば、若(すなわ)ち天下を托(たく)すべく、身を以って天下を為むるより愛すれば、若ち天下を寄(よ)すべし。」
現代語訳:「故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべきである。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。」)
おかしいなあ、と、あなたは訝るかもしれない。老子がそんなことを言っているなんて、何かの間違いではないのか。現に老子は第7章で、聖人は無私無欲であり、「自分の身を度外視する」と言っているではないか。その老子が「天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい」と言うなんて・・・。
これは一体どういうことなのか。上にあげた問題の文章(第13章)の前半には、こういう文章がある。
「寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。」
(書き下し文:「寵辱(ちょうじょく)には驚くが若(ごと)し。大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身の若くなればなり。何をか寵辱には驚くが若しと謂(い)う。寵を上と為(な)し、辱を下と為し、これを得るに驚くが若く、これを失うに驚くが若し。これを寵辱には驚くが若しと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。われに大患有る所以(ゆえん)の者は、われに身有るが為なり。われに身無きに及びては、われに何の患(わずら)い有らん。」
現代語訳:「尊敬されたり、侮辱されたりという事に人々は一喜一憂して暮らしている。それらから得られる得失を自分の身の事のように心配するからだ。どうして尊敬や侮辱に一喜一憂するのかと言えば、尊敬を良いものと考え、侮辱を悪いものと考えて、褒められれば喜び、叱られれば悲しむからだ。そうして人々は他人の評価に一喜一憂している。それではどうして他人の評価からもたらされる得失を自分の身のように心配するのか。そもそも得失によって幸福になったり不幸になったりするのは自分の身があるからなのだ。自分の身が無くなってしまったりしたら、一体何を心配する必要があるだろうか。」)
老子のこの文章を、私は次のように解釈したのである。
自分の身を第一に考える人は、他人から尊敬される喜びや、他人から侮辱される悲しみに敏感になり、嘘をつくことがある。そういうふうにして他人による評価を気にし、他人のことを重視する人こそが、統治者になるべきだ。他人のことなど眼中にない自己中の人が統治者になると、彼はどこかの国の肥え太った若者のように、過激な独裁者になるので、危険極まりない。それは人民にとって不幸であり、それだけは避けるべきだ。
ともあれ、アベ前首相は嘘をつく人だったことで、独裁者失格であることを自ら証明した。彼はしょせん独裁者の器ではなかったのだ。ヨカッタ、ヨカッタ。
とはいえこの嘘が覆い隠そうとしたのは、れっきとした犯罪である。それはそれでしっかり追及しなければならない。