「ウクライナの大統領は」
夕餉の食卓で、私は妻に言った。テレビではNHKのニュースが、ウクライナの悲惨な現状を伝えていた。
「ゼレンスキーだったかな。この大統領は、アホなんじゃないか。政治家としては無能というか、とても有能とはいえないと思うよ」
「あら、どうして?」と、妻。
私は言った。
「大統領のいちばん大事な役目は、国民の生命(いのち)と安全、それに財産を守ることではないのか。戦争になれば、それが守れないことになる。ゼレンスキーは、戦争を回避するように、もっと努力すべきだった」
「あら、それじゃあ、強いものに屈するほうが良いということなのかしら」
「良いとか悪いとかの問題ではなく、賢明か愚かかの問題さ」
「でも、強いものに屈するなんて・・・」
妻は明らかに不満そうだった。私は言った。
「太平洋戦争の末期に、『竹槍でアメリカに立ち向かえ』と言った軍人がいたそうだが、あれはどう見ても賢明とは言えない。そもそも政治の基本は、国民の生命(いのち)と安全を守ることなんじゃないのか。竹槍でアメリカ軍に立ち向かったら、殺されるに決まっている」
言いながら、私はふとクラウセヴィッツの言葉を思い浮かべた。
「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続である。」(『戦争論』)
政治とは、交渉や協議によって行う利害の調整行為にほかならない。ウクライナとロシアとの間でも、事が戦争に至るまでに、交渉や協議が何度も重ねられ、両国の利害を調整しようとする試みがなされていたに違いない。
交渉や協議では埒が明かない、と判断したロシアのプーチン大統領は、到頭しびれを切らし、交渉や協議とは別の手段、つまり武力という手段によって決着をつけようと決断するに至った。彼が武力という手段を選択する前に、もっと別の手段を選択するように仕向けることが、ゼレンスキーにはできなかったのだろうか。
プーチン大統領個人への便宜供与でも、ハニートラップでも、何でも良い、あらゆる手を尽くして、プーチンが武力という最悪の手段を選択するのを阻止することが、ゼレンスキーにはできなかったのだろうか。
強いものに諂(へつら)う、と言えば、聞こえは悪いが、清濁併せ呑むのも政治家としての度量である。プライドが邪魔をしてそれができなかったとしたら、ゼレンスキーの器も結局はそれまでということである。
きょうの報道によれば、プーチンは核兵器の使用をちらつかせ始めたという。米欧諸国による経済制裁がロシアに与えたダメージがそれだけ大きかったということだが、核の使用をちらつかせるのは、やはり尋常ではない。狂人には、それなりの対処の仕方がある。