ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

犬も食わない米中マウント合戦

2020-07-31 13:59:25 | 日記
国際問題は難しい。難しいから、あえて単純化して考えてみよう。最近とみに激化の度を加えている米中対立は、今までのボス犬と、近ごろ力をつけてきたライバル犬とのマウント合戦の結果だと言えるだろう。

「トゥキディデスの罠」という言葉がある。ナンバー2の国が勢力を伸ばすと、ナンバー1の国は不安に駆られる。その結果、偶発的な事柄から戦争に突入することを指す。アメリカの政治学者グレアム・アリソンは、古代国家スパルタとアテナイ間の緊張関係が 大きな戦争(ペロポネソス戦争)に発展した歴史的事例を念頭におきながら、米中戦争の可能性と必然性に言及した。

大国同士の戦争は、周辺諸国にも多大の厄災をまき散らす。周辺諸国の一角を占めるわが日本は、では、この戦争の可能性に対して、どう臨めば良いのか。朝日新聞は社説でこう論じている。

「ほとんどの国にとって、米国か中国かの陣営の選択は不可能な話だ。グローバル化した世界の安全保障と経済を考えれば、もはや力による対決は非現実的であり、協調による共存が望ましいのは自明のことだ。
日本は米国の密接な同盟国であるとともに、中国とは歴史的につながりの深い隣国である。アジア、そして世界の不安を和らげるためにも、米中の対立悪化を防ぐための固有の役割を、もっと意識すべきだろう。」
(7月28日《米の対中政策 力の対決では道開けぬ》)

問題は、どうやって米中の仲立ちをするかである。朝日のこの社説が念頭においているのは、おそらく二階自民党幹事長ら「媚中派」の役割である。この「媚中派」は、ではどういう働きをしたのか。

「自民党外交部会などの合同会議は6日、中国が香港統制を強める『香港国家安全維持法』の施行を受けた党の決議について議論した。外交部会役員会は習近平国家主席の国賓来日中止を求める案をまとめていたが、中国に深いパイプを持つ二階俊博幹事長が反発。同日の会議では、決議案に対し賛否両論が出された。今後の対応は中山泰秀外交部会長に一任されたが、決議案の修正も含め検討する見通しだ。
決議案をめぐっては、外交部会役員会が3日に『国賓来日中止』を求める案をまとめた。しかし、二階氏が周辺に『(日中関係に関わった)先人の努力を水泡に帰すものだ』と唱え、文言調整を求めていた。」
(JIJI.COM7月6日配信)

この二階幹事長の反応は、当然といえば当然である。米中対立の本質はマウント合戦にある。「どうだ、我が国は一番なんだぜ。我が国が一番強いんだぜ」と勢力を誇示したがる中国に対して、「あんたたちのやり方は間違っている」と〈正義〉の鉈を振えば、「なんだと!そう言うおまえはアメリカの手先なのか!」と、猛反発をくらうに決まっている。だから「(日中関係に関わった)先人の努力」を無駄にしないためには、この国が行った数々の悪逆無道に対して、目をつぶるしかないのである。

しかしなあ・・・。

「政府は『(習近平国家主席の)来日が実現すれば、日本が(香港の)国安法を容認していると国際社会に受け取られかねない』」(閣僚経験者)と懸念する。」
(東京新聞電子版7月8日配信)

そうなんだよなあ。日中関係に波風を立てまいと思えば、『日本は中国の悪逆無道を容認している』と受け取られかねないからなあ。二階の爺さん、一体どうするつもりかね。
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コロナの影と闘う

2020-07-30 10:49:10 | 日記
きょうはこれからリハビリ・デイサに「出勤」の予定がある。先週は腰痛がひどくて「欠勤」をしたから、A子さん、N子さんのご尊顔を拝するのはきょうが2週間ぶりになる。

だが、逡巡の気持ちがある。怯えの気持ちがある。原因は言わずと知れたコロナである。そう、妖怪コロナが、ふたたび猛威をふるい始めたようなのである。きのう届いたメルマガ「読売新聞緊急速報」によれば、新型コロナの新規感染者が国内で1000人を超え、岩手県でも初の感染者(2人)がでたとか。いよいよ「第2波」の到来なのかも知れない。

わが茨城県では、きのうの新規感染者は9人だった。私が住む○▲市では、新規は2人。累計はずっと27人だったが、きのうで37人までふくれあがった。きのうの2人はいずれも、近くのJ市ですでに感染が確認された人の、その濃厚接触者だという。感染経路が判れば、多少は不安もやわらぐ。県庁所在地の水戸市は、クラスターが発生して感染源になったと思われるキャバクラ店の具体的な店名を公表した。水戸市民の不安をやわらげる意味でも、これは賢明な措置と言えるだろう。

さて、問題はきょうの雨。じゃなくて、きょうのデイサ。行くべきか、休むべきか。判断を迫られると、想像の産物に過ぎなかった妖怪コロナが、俄然リアリティーを伴って私を脅かしはじめる。

しかしまあ、うだうだ考えていても、何も始まらない。きのうの新規感染者2人は感染経路から判断する限り、わがデイサ関係者との接触の可能性はゼロ(に限りなく近い)と考えられるから、感染がなぁ・・・と怯えるのはナンセンスだ。
仕方がない、億劫だが「出勤」することにするか。どっこいしょっと。
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日日是好日

2020-07-29 15:20:51 | 日記
筑摩書房の編集者の方からメールがあり、船木亨さんのメルアドを知ることができた。船木さんは私の友人で、新著『死の病いと生の哲学』を私に送ってくれた人である。メルアドも住所も分からず、お礼の気持ちを伝える手段がないのを、かねがね心苦しく思っていた。やっと彼のメルアドを知ることができたので、さっそくお礼のメールを送り、私のブログ(本ブログ)にご著書の感想をアップした旨伝える。これで胸の支(つか)えがおりた気がした。

きょうはメール・ソフトの調子が良くない。私は通信端末を何台も使っているのだが、そのどれでメールを開こうとしても、「有効期限切れ。再度ログインの設定を」の通知が出て、面倒なログイン設定の手続きを強いられる。3台目のタブレットでログインの設定手続きができなくなったが、これは、短時間に何度も設定の操作をやりすぎたからだろう。世の中は、なかなか思い通りには行かないものだ。ブログの書き込みに支障がないのが、せめてもの慰めである。

とはいえきょうは船木さんにメールを書いたり、メーラーのログイン設定に精力を削がれたり、筑摩書房の編集者の方にお礼の返信メールを書いたり、はたまたアマゾンから送られてきた欠陥商品の返品手続きをしたりで、まともなブログ記事を書く余力はほとんど残っていない。

きょう筑摩書房の方から教えてもらった船木さんのメルアドは、彼の勤務校の公式メルアドだった。彼は私より2歳年下だから、68歳になるはずだが、まだ定年退職していないようだ。このコロナ禍では、大学の授業も実質的にはやっていないのだろうが、70歳近くになり、がんを患った身体では、(もし授業をするとすれば)準備がきついだろうな、と(他人事ながら)心配になる。我が身を振り返り、身体は不自由でも、退職していてほんとに良かった、不幸中の幸いだと胸をなでおろす。
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救済としての共同幻想

2020-07-28 11:35:18 | 日記
NHK Eテレの教養番組「100分 de 名著 吉本隆明 “共同幻想論” 」を視聴した。今回が最終回である。この番組を見ながら、私は「そういえば、むかし『歎異抄』に関心を持ったこともあったっけな」と妙なことを思い出した。

最終回の「100分 de 名著」はどんな番組だったのか。講師の先崎氏が語った内容を、テキストに沿って跡づけてみよう。

「以上の二つの死(芥川『歯車』における死と、『遠野物語』における死)をめぐる違いはなんでしょうか。後者の死は集落の共同幻想に関わっていることです。死者である母親が帰る場所は、土着仏教の三途の川のむこう岸です。これは集落の歴史のうえに積もった時間が生み出す共同幻想を意味します。集落の者たちは皆、死をこのような幻想によって理解していて、母胎に帰るように亡くなっていきます。常民の生死のサイクルは円環のように続いていきます。
一方、芥川の死の予感には、こうした共同幻想は一切存在しません。(中略)芥川は都市下層庶民の共同幻想にも、知識人のサロンという共同幻想にも所属できませんでした。どこにも居場所を持たない芥川は、結果、自死を選ばざるを得なかった。」

以上の先崎氏の言葉を使って言えば、私は『歎異抄』に、(「集落の共同幻想」に代わる)「土着日本人の共同幻想」を求めたのだと言えるだろう。かつて私は本ブログで次のように書いたことがある。

「『救う』とは、そうした恐怖(=死の恐怖)、一種の虚無感覚にとらわれた自分から、ーー悩める自分から、自分自身を解き放つことではないのか。そしてこの救済は、『阿弥陀仏が私を救いに来てくださる』という仏教の物語の中に、自分の身をおくことではないのか。悟りに向けた禁欲的な修行は、この共同幻想の中に自分の身をおくことを通して、それをリアルに体験し、この体験の積み重ねによって、虚無感覚(煩悩)にとらわれた自分を、自身から解き放つことではないのか。」
(《連休の日に親鸞を思う》2019.4.28)

しかし私は、結局のところ『歎異抄』の世界観に没入することはできなかった。

「私がすぐに『歎異抄』に向かわなかったのは、仏教思想そのものに一種わだかまりのようなものを感じていたからである。『阿弥陀仏が私を救ってくださる』という教えが、私にはどうしても受け入れられなかった。(『救世主のイエス様が私を救ってくださる』というキリスト教の教えも、私には同様である。私は宗教的人間ではないのだろう。)」
(同前)

ここで(先崎氏が解説する)吉本隆明の概念を援用すれば、私は、「土着日本人の共同幻想」に素直に融け込めない自分自身の「個人幻想」をーー「土着日本人の共同幻想」に「逆立」した自分自身の「個人幻想」をーー、つよく意識せずにはいられなかったのである。この私の自意識、私自身の「個人幻想」とどう折り合いをつけるかが、今後の私の課題になるだろう。
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自殺の幇助はなぜいけないのか〜再論〜

2020-07-27 10:29:31 | 日記
ALSの女性患者の依頼を受け、自殺を幇助したとして、医師2人が嘱託殺人の疑いで逮捕された。この医師の行為に対しては、むろん賛否両論があるだろう。私はこの医師たちの行為を是認するが、当然、反論の声もあり得る。

きょう私が閲覧したブログは、後者の声の代表として、安藤泰至・鳥取大准教授の意見を紹介していた。

「重い病者や障害者、高齢者などに対し、不幸と決めつけるような考えが進んでいるような感じがします。これは、生きる価値を、仕事がどれだけできるかというような生産的な能力でばかり考え、自分のモノというよりは、私たちがそれによって生かされている『いのち』の本質的な価値を考えることが少なくなっているためではないでしょうか。・・・・中略・・・・自己責任による生き残り競争にさらされた人たちが、より弱い人を探して攻撃するような社会になっているのかもしれません。私は今回の事件が、安楽死の法制化ではなく、どんな人も生きやすくなる社会について考えるきっかけになってほしいと切に願っています。」

このブログの筆者は、毎日新聞に掲載されたこの安藤氏の意見を紹介したあとで、次のように書いておられる。
「嘱託殺人の疑いで逮捕された医師たちを糾弾したり、安楽死の法制化等を考えるより先に、まず、私たち、ひとり一人が、『いのちの選別』について、しっかり考えてみなければいけないのではないかと思います。」

このブログ記事を読んで、私はつよい違和感をおぼえた。ここに援用された安藤氏が「いのちには無条件の価値がある」とする常識にとらわれている点は良いとしても、その「いのち」の「質」について、彼は根本的に勘違いをしているように思われるのである。

私は本ブログで、以前、こう書いたことがある。
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自殺の手助けをするのと、自殺を思いとどまるよう説得するのと、その二つの行為の違いは、一体どこにあるのだろうか。そこにあるのは、他人の生命を否定するか、肯定するかの違いだとさしあたりは言えるだろう。生命を肯定し、これを促進しようとすることは「善い」こと、生命を否定し、これを抹殺しようとすることは「悪い」こととされるのである。
他人の自殺に手を貸せば、「あいつはとんでもない奴だ!相手は見ず知らずの若い女性だったというではないか。きっと奴は、自分の殺人欲求を満たすためにやったに違いない」などと、白い目で見られることになる。

ここにあるのは、「生きることは、無条件に良いことだ」とする価値観である。世の中は今も昔も、常識と化したこの価値観によって動いている。
もう40年以上も前のことになるが、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)の折、当時の首相・福田赳夫は「人の命は地球よりも重い」として「超法規的措置」をとり、身代金の支払いや犯人グループの釈放など、ハイジャック犯の要求に応じた。犯人側は、日本政府が要求に応じなければ、人質の命を奪うと警告していた。

それでは〈生命〉を無条件に肯定し、これを尊重するこの価値観は、どこまで正しいのだろうか。「ただ生きるのではなく、よく生きることが大事だ」と言ったのは、古代ギリシアの哲人・ソクラテスである。ソクラテスが差し出したのは、「ただ(安逸に)生きる」か、「よく(道徳的に)生きる」か、という選択肢である。彼はこれら二項の間で二者択一を迫り、「ただ(安逸に)生きる」ことを否定するように勧めた。

けれども、ソクラテスが描いたこの生き方のモデルに当てはまらない人もいる。目の前に「苦しみながら生きる」か、「生きるのを止める」か、という選択肢しか持たない人もいるのだ。ただ生きるだけでも、生きるのに多大の苦しみが伴うような、そういう生き方しかこれからも望めないとしたら、人はなぜそれでも生きようとしなければならないのかーー。

「こんな生き地獄のような生き方、僕はもう止めにしたいよ」と思い、この思いを実行に移そうとしている人がいたとしよう。その人があなたに「お願いだ。僕を殺してくれ」と手助けを求めてきたとしたら、慈悲深いあなたは、きっとこう思うだろう。「この人は困っている。苦しんでいる。何としてもこの人を助けてあげなければ・・・」。

だが、この人の依頼を聞き入れれば、あなたは「自殺幇助罪」という罪を引き受けなければならないのだ。あなたは途方に暮れ、友人に素朴な疑問を投げかける。「なあ、困っている人を助けることが、なぜ犯罪なのだろう? どうしてなのだろう?俺にはさっぱり解らない」
さて、慈悲深いこの男の、年来の友人であるあなたは、この疑問にどう答えるだろうか。
(《自殺の幇助はなぜいけないのか》2019.10.11)

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私が「この疑問」にどう答えるかは、先日アップした本ブログ(《自殺の幇助はなぜいけないのか〜再考〜》7月25日)に書いた通りである。
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