ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

米朝チキンレース ドゥテルテの発言は

2017-04-30 17:09:22 | 日記
国際政治の現場に身をおき、いつも強(したた)か、かつ的確な判断を見
せるので、ついつい感心させられてしまう人物がいる。先が見えない難し
い状況が立ちはだかるとき、こういう人物の判断を参考にしたいと思うの
は、私だけではないだろう。

さてその人物とは、本ブログでも何度か取り上げたことのあるあの人、そ
う、あのフィリピンのドゥテルテ大統領である。今日になって、この人の
動向を伝える情報が入ってきた。

東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議が29日にフィリピンで開かれ、
議長を務める同国のドゥテルテ大統領が、「米国は朝鮮半島から手を引く
べきだ」と発言したという。この人のアメリカに対する姿勢については本
ブログでも再三言及したが、トランプの米政権が空母を派遣して、北朝鮮
をめぐる緊張が高まっている時期だけに、この発言は注目に値する。

報道によれば、ドゥテルテ氏は(金正恩・朝鮮労働党委員長を念頭に)
「北朝鮮のあの男を止めるのは、中国に任せるべきだ。核戦争に勝者はい
ない。(派遣された)米国の軍艦は恐怖を呼んでいるだけだ」とも述べた
という。

また彼は、「二つの国は危険なおもちゃで遊んでいる。(電話会談では)
トランプ氏にやめてくれ、と言わないといけない」とも語ったという。

ドゥテルテ氏の発言の根底にあるのは、「米朝のチキンレースは、はた迷
惑な火遊びだ。東南アジアに大きな火の粉を撒き散らす。我々としては、
何としてもこれを制止しなければならない」という認識である。
北朝鮮の近隣に位置する点で、フィリピンと日本は同じ立場に立つ。日本
の安倍首相のように対米べったりではなく、アメリカとは一歩も二歩も距
離をとろうとするドゥテルテ氏の判断は、強(したたか)か者が時局を冷
静、かつ客観的に見通せる立場から下した判断として、大いに参考にな
る。

「火遊びに現(うつつ)を抜かす米朝の両国に、ともかく自制をうながす
ことが大事だ。強者でもあり、まだしも分別がありそうなトランプの説得
は我々が行うこととし、もう一人のキ●●●であるあの男の説得は、中国
に任せよう。」
相変わらずこの人らしい現実的な提案だが、これを蔑(ないがし)ろにす
ることがあってはならない。そう思うこの頃である。
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「声優のアイコ」の罪を問え

2017-04-29 14:15:01 | 日記
東京地裁は28日、無職の神(じん)いっき被告(33)に懲役10年(求刑
懲役15年)の実刑判決を言い渡した。神被告は平成25年から26年にかけ
て、「声優のアイコ」を名乗り、知り合った男性を睡眠薬で眠らせて現金な
どを奪ったとして逮捕された。

この事件をめぐる裁判では、「犯行の主体はだれか」が問題になった。
というのも、神被告は、多重人格の症状が出る「解離性同一性障害」
を持っていたからである。

弁護側は、被告が「解離性同一性障害」のため、犯行の際は別の人格
だった。だから責任能力はない、として無罪を主張した。
被告自身も、自分の中に複数の人格がいると主張し、法廷で(「ゲンキ」
という人格が現れ)幼い子どものような口調で話し始めることもあった
という。

一方、検察は(犯行の主体は)別の人格ではなかったとして、懲役15年
を求刑した。

判事はこれに対して、どういう判断を下したのか。東京地裁の石井裁判
長は「被害者の男性と一緒にいるときに元の人格の状態で友人と携帯電
話でやり取りするなど、別人格の犯行だとすると説明が困難な事実が存
在する」などとして、責任能力があったと指摘した。そのうえで、「ふ
だんは男性として生活していながら女性に変装して金品を奪った計画的
な犯行で、手慣れた常習性もうかがわれる」として懲役10年を言い渡
した。

要するに裁判所は、犯行の主体が「声優のアイコ」なる別の人格である
ことを認めず、「神いっき」という同一人格の一貫性を認定したことに
なる。犯行の主体は神いっきという同一人格であり、この人格には責任
能力がある。ゆえに神いっき被告を罪に問うことは可能だ、という判断
である。

逆に考えれば、こういうことになる。「声優のアイコ」なる別人格が存
在し、この別人格が犯行の主体だったとすれば、つまり、「神いっき」
という被告の人格が犯行の主体ではなかったとすれば、被告を罪に問う
ことはできないということになる。

だが、どうなのだろう。犯行の主体が「声優のアイコ」なる別人格だっ
たとすれば、罪に問われるべきはこの「声優のアイコ」だということに
なるが、そのことに何か不都合があるのだろうか。「声優のアイコ」を
罪に問うことに、何か不都合があるのだろうか。

たしかに、不都合があるようにも思える。「懲役10年」という判決を下
したとしても、(「声優のアイコ」という)人格だけを懲役刑に服させ
ることはできないからである。「声優のアイコ」は、「神いっき」の人
格と同じく、(「神いっき」を名乗る男の)同じ一つの身体に宿った人
格である。「声優のアイコ」を懲役刑に科すれば、この人格が宿る身体
を懲役刑に科することになり、そうなれば、この身体に宿る「神いっき」
なる人格をも懲役刑に科することになってしまう。ところがこの「神いっ
き」なる人格は、犯行の主体ではないから、彼(?)に懲役刑を科する
ことは大いに問題なのである。

罪を「声優アイコ」なる人格に帰するか、「神いっき」なる人格に帰する
か、そのいずれかだ。こう考える点では、原告も被告も裁判所も、ほぼ
共通している。だからこそ、この裁判では「犯行の主体はだれか」が争
点になったのである。

だが、三者に共通するこの考え方は、一つの前提によって支えられてい
る。判決の妥当性を問おうとするなら、このことに留意しなければなら
ない。

では、この裁判の根底にある一つの前提とは、何なのか。それは、「心と
身体は別物だ」、あるいは「心は身体から離れて機能する」とする考え方
である。このような考え方にことさら目を向け、「この考え方に問題は
ないのか?」と問題提起をするとき、私は、もう一つ別の考え方の可能性
を思い描いている。

では、それはどういう考え方なのか。それは、「考えるのは身体である。
思考は身体の機能である」とする考え方である。この考え方からすれば、
昏睡強盗を思いつき、企て、実行したのは、「声優のアイコ」ではなく、
この人格が宿る身体のほうだということになる。――いや、「宿る」とい
う言い方は適切ではない。「声優のアイコ」なる人格は、身体と別個のも
のとして存在し、それに「宿る」ようなものではなく、この身体の活動の
一環としてそこに「現前する」ものだからである。この身体は、ときには
「声優のアイコ」として現前し、またときには「幼児のゲンキ」として現
前し、たいていの場合には「神いっき」として現前するが、そのいずれも
が同一身体の働きなのである。

「声優のアイコ」の身体であり「神いっき」の身体でもあるこの身体は、
「声優のアイコ」を動かす主体であり、したがって犯行の主体である。
それゆえ罪に問われるべきは、まさしくこの身体だということになる。
「神いっき」としては、「やったのは俺じゃない!不当だ!」と怒りに
駆られるだろうが、彼(?)を怒りに駆り立てているのは、「神いっき」
なる人格ではなく、実はこの身体(の、自己実現を求める働き)なので
ある。

ニーチェ張りのこの考え方については、まだまだ検討の余地があるが、
今回はここまでにしよう。いろいろ考えたら、さすがに疲れてしまっ
た。
――あ、疲れたのは私の頭ではなく、私の身体のほうなんだけれどね。
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審議拒否に見る 野党の本分

2017-04-28 13:37:19 | 日記
国会審議の役割とは、どういうものなのだろうか。それは、内閣なり議
員グループなりが提出した法律案の、その妥当性を審議検討することで
あるに違いない。各政党は、自らがかかげた政策に照らして、それが適
切であるかどうかを検討する。適切だと判断される場合には、その法律
案に賛成し、そうでない場合には、反対するか、修正を要求する。適切
な修正がなされなければ、反対する。これは日本国という国家の公益の
ためであり、あるいは、自らがかかげた政策を実現するため、つまり
「党益」のためである。

にもかかわらず、最近の野党のふるまいを見ていると、そうは思えなく
なってくる。「政権与党のために付き合ってやっているのだ」、「俺た
ちの言うことを聞いてくれないのなら、協力してあげないよ」と、すっ
かり外様大名か、お客さんの気分なのだ。「天下国家のために、自分た
ちは与党と切磋琢磨して、頑張っているのだ」という気概がちっとも感
じられない。

「仕方がないのだ。一強の支配で、万事が安倍自民党のなすがまま。弱
小政党としては、これが精一杯の抵抗の形なのだ」と野党議員は言うか
も知れない。

しかし弱小政党でも、野党としてできることは他にあるはずだ。法律案
の審議の場で、当該法案の問題点をズバズバ指摘する。野党の指摘を無
視して与党が強行採決しようとしたら、野党は事の理非を国民の分かる
ように訴えればよい。次の国政選挙では、(無理を通す)政権与党に票
を入れるほど、国民はバカではない。そんなアピール戦術は効果がな
い、と考えるとしたら、野党は国民をバカにするにも程があると言うべ
きだろう。

アホ内閣のアホ村復興相がアホ発言をしたことで、野党が審議拒否の挙
に出たという。「どうせ私たちは、国政運営には無縁の、お飾り同然の
補完勢力ですから」と自ら言ってしまっているような民進党や共産党に
は、次の政権を任せる訳にはいかない。そう思いませんか?
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復興相のアホ発言 その構造と本質

2017-04-27 13:00:21 | 日記
「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」。

東日本大震災をめぐり、こう語ったアホ村復興相の天才的なアホ発言。な
ぜこんなアホが生じたのかを考えてみた。
事の本質は、「原発」という特殊な問題の特異性に根ざしている。

では原発問題の特異性とは何か。それは、この問題が「経済の論理」と
「福祉の論理」に搦(から)め捕(と)られながら、その緊張関係のなか
で成り立っていることである。

原発が東北の過疎地に建設されるのは、「費用便益分析」の然らしめると
ころである。これは前回の本ブログで述べたことだが、そのような形で、
原発施設の立地は「経済の論理」に支配されている。

「経済の論理」に支配されているのは、なにも国策の立案者や電力会社の
経営陣だけではない。他ならぬ東北の人々、原発施設の建設候補地の、そ
の周辺に居住する人々も、同じく「経済の論理」によって搦め捕られてい
る。働き口がなく、収入源がなく、人口の流出がやまない過疎の寒村に、
安定した「飯の種」が(まるで打出の小槌のように)現れるのだ。この地
方の人々が、その収入源を魅力的に感じ、歓迎しないはずがない。

ただ原発施設には、事故による放射能汚染のリスクが常に付きまとう。
いったん事故が起きれば、その土地一帯は放射能に汚染され、住民は健康
被害を免れない。彼らは行政によって、あるいは自らの判断で自主的に、
泣く泣く住み慣れた故郷を捨て、見ず知らずの土地に避難し移住せざるを
得ないことになる。フクシマの多くの住民が強いられた、そういう悲しく
苦しい体験を、いつ自分たちも強いられることになるか分からない。
――「福祉の論理」から湧き上がるそういう不安と恐れが、「原発歓迎!」
の姿勢をとることをためらわせる。

「経済の論理」と「福祉の論理」と―ー。この二つの論理の狭間に生まれ
る緊張のなかで、東北の人々は日々不安をいだき、その不安をなだめすか
しながら生きている。だから諸手をあげて「原発ウェルカム!」とも、
「原発反対!」とも言うわけにはいかないのだ。

さて、問題はアホ村復興相である。アホ村復興相の例の天才的なアホ発言
。――その本質は、もっぱら「経済の論理」を前面に出すことによって、
緊張の微妙なバランスを崩し、かろうじてバランスを保つ東北の人々の心を、
深く傷つけかき乱してしまったことにある。
なぜそんなアホなことをしでかしたのかといえば、アホ村くんが、東北の弱
い人々の立場に立ってものを考えることができず、この人たちの心の痛みを
理解することができなかったからである。

最高学府の法学部を出ても、齢を70回重ねても、アホ村くんの心はまだま
だ幼稚園児並みなんだね。アホ村くんの心がなぜ成長をやめてしまったの
か、それは私にも分からない。ひょっとすると、受験や猟官の技術しか学
んでこなかったからなのかな。
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復興相の失言 そのアホさの真相

2017-04-26 15:01:38 | 日記
経済学には「費用便益分析」(cost- benefit analysis)という考
え方がある。仰々しい名称だが、経営者なら日頃だれもが実践している
損得勘定である。

たとえば原発施設の立地を検討しているとしよう。候補には首都圏の市
街地A市と、首都圏から遠く離れた寒村B村が挙がっている。建設する
原発から見込める収益(便益)は、どちらの場合も変わらない。ただ、
土地の取得費用も、事故が起こった場合の対策費用も、市街地のA市に
建設した場合のほうが、寒村B村に建設した場合よりも圧倒的に大きい。
したがって、便益から費用を差し引いた純益は、寒村B村に原発施設を
建設したほうが、はるかに多く見込めることになる。

どこの国でも、原発は人口が少なく、交通の便が悪い僻地に作られるが、
それは、こうした費用便益分析がそこに働いているからである。

きのう、アベ内閣のアホ村復興相が東日本大震災の復興に関連して、次
のように述べたという。

「(地震と、それに伴う原発事故による)社会資本などの毀損も、いろ
んな勘定のしかたがあるが、25兆円という数字もある。これは、まだ東
北のほうだったからよかったが、もっと首都圏に近かったりするとばく
大な額になる」。

けれども、以上のような費用便益分析のことを考えれば、首都圏への原
発施設の建設は本来あり得ず、したがって首都圏での原発事故も、それ
による社会資本の毀損も、そもそも起こり得ないのだ。

アホ村復興相は、本来あり得ない無意味な想定を述べたに過ぎないのだ
が、無意味なことを述べながら、人の心を深く傷つけてしまうとは、こ
れほどアホなことはない。そういうアホなことをしでかして辞任に追い
込まれたアホ村くんは、輪をかけたアホだとしか言いようがない。

アホ村という人物を大臣に任命した安倍首相も、同類のアホだと言える
だろう。アホ村を大臣に任命した場合、このアホ村大臣から見込める利
益と、アホ村大臣によって支払わなければならないコストを秤に掛けれ
ば、答えは明らかだったはずなのに。

この組閣の計算ミスも、アベ首相の手痛い失策である。
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