ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

デイサもそろそろ

2021-03-31 12:39:13 | 日記
口は禍の門。物言えば唇寒し秋の風。
毎朝、訪問させてもらっているブログ「団塊シニアのひとりごと」の冒頭で、けさ「団塊シニア」さんが以下のように書いていた。

「自分の思いや考えがそのまま100%相手に理解されることは難しい、だからそういう前提で人とのつながりを考えたほうがいい場合がある。
たとえば家族、友人など、どんな親しい人でも自分とは違う、だから他人への期待が過剰であればあるほど、それが叶わなかった時の失望感は大きいものだ。 」

この文章を読んで、私は思わず「そうだよなあ!」と膝を打った。毎週「出勤」するリハビリ・デイサで、私が目下直面している窮状が、まさにそのようなものだったからである。

かなり長期間このデイサに「通勤」したためか、デイサのスタッフと私との心理的なディスタンスは徐々に狭まり、それなりに親しい間柄になってきた。その「親しさ」がかえって仇となり、「禍の門」となった格好である。

「親しき中にも礼儀あり」というが、親しくなればなるほど、「礼儀」がーーつまり、「どんな親しい人でも自分とは違う」という前提で「人とのつながり」を考え直すことがーー必要になるらしい。

どういうことか。このデイサでは、最後に「スクエアステップ」の訓練が行われる。高齢者の転倒予防や体力づくりのために、マス目の描かれたマットを使って行う訓練だが、そのなかで「デュアルタスク(ながら動作)」の訓練も行われる。トレーナーのEさんが、マス目上での脚の運びを指示しながら、同時に、「きょうは何日ですか?」とか、「きのうは何を食べましたか?」などと、他愛ない質問をする。答えに窮した老人は、考え込んで脚の動きを止めてしまうが、それでは失格である。リハビリを受ける利用者は、脚を動かしながら、同時に質問にも答えるという「デュアルタスク」を行わなければならない。

おじさんトレーナーであるEさんは、私に対しては、ことさら答えにくい質問を出して楽しむサディスティック趣味を発揮する。毎週のように「A子さんの良いところは?」とか、「B子さんの良いところは?」などと意地悪な質問をぶつけてくるのである。

こんな他愛ない質問に、なぜ私は答えられないのか。一度、こんなことがあった。スタッフのA子さんがドライバーを務める送迎車の中で、私はこんな「失言」をしてしまったのである。「美人は3日で飽きるというけど、A子さんはいつまでも飽きないから、良いですよね」。これを聞いたA子さんが怒りだしたのは言うまでもない。しまった、と思った私は、こう言い添えて難を逃れた。「いや、並の美人は3日で飽きるけど、A子さんの場合は、いつまでも飽きない並外れた美人だということです、はい」。

美醜にこだわるA子さんの性格を知った私は、以来、「A子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問には、「A子さんの良いところは、美人であることです」と答えることにしている。そう答えないと、「帰りは送っていってあげませんからね。途中で降ろしちゃいますからね」と言われかねないからである。こういう言葉の応酬ができるようになったのも、A子さんと私が「親しき仲」になった証かも知れない。

「B子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問に、同様、私は「B子さんの良いところは、優しいことです」と答える。実際、看護師のB子さんは私に優しく接してくれるからである。

だが、あに図らんや、B子さんはこの私の答えがお気に召さなかったようだ。私には思いも及ばない女心の複雑さ・微妙さである。私がA子さんの場合と同じように「良いところは、美人であることです」と言わなかったことで、私がB子さんの「美人であること」を否定したと、B子さんは受けとったようなのだ。

それはまあ良い。問題は、新入りトレーナーのC子さんである。先週のこと、ドSのEトレーナーは、臆面もなく「C子さんの良いところは?」と質問をぶつけてきた。この質問に、私の頭は真っ白になり、何も答えることができなかった。かろうじて「ノーコメントです」と答えるのがやっとだった。だって、そうではないか。C子さんは私の前ではマスクを外さず、素顔を見せたことがない。だから私は、C子さんが美人であるとか、ないとか、言うことができないのだ。また、C子さんが利用者に優しく接している姿を、私は見たことがない。だから「C子さんは優しい」と言うこともできないのである。

意外だったのは、C子さんが私の「ノーコメント」の答えに、怒りをあらわにしたことである。「**さん、私を怒らせたらどうなるか、わかりますか。来週は見ていてくださいよ」。
その「来週」が、あしたに迫っている。私は一体、どう答えれば良かったのだろうか。C子さんの心理が、私は今でも解らない。こんな謎の異人種とは「親しき仲」になりたくないものだとつくづく思う天邪鬼爺のこの頃である。このデイサとのつながりも、そろそろ考え直す時期にきているのかも知れない。
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民主主義のゆくえ その欠点の認識から

2021-03-30 14:28:16 | 日記
きょうこそは本題に戻り、当初の考察を進めることにしよう。民主主義が持つ第2の問題点は何か。それが問題だった。この問題について考える前に、では民主主義が持つ第1の問題点はどういうものだったか、それについて簡単におさらいをしておくことにしよう。

民主主義が持つ第1の問題点、それは、この政治システムが衆愚政治( ochlocracy )に陥りがちな傾向を具えていることである。民主主義( democracy )とは、文字通り、民衆( demos )が権力( kratia )を握るような政治システムだが、民衆はとかく有力インフルエンサーの煽動に動かされやすく、また、世論の同調圧力にも流されやすい。その結果、民主主義の社会では、(一部のインフルエンサーが唱道する)偏見混じりの独断と、それに毒された「民意」が幅を利かせることになる。また、(不満から生じる)一部国民のヘイト感情が、インフルエンザ・ウイルスのように蔓延して社会を席巻することになる。

さてもう1つの問題、それは、選挙によって選ばれる側の人間、すなわち統治者となるべき人間に関わっている。民主主義では、国のトップは国民の投票で選ばれ、(タテマエ上は)国家運営に民衆の意思(民意)が反映される仕組みになっている。

だが、国民の投票によって選ばれた国家指導者は、つねに民意に気を配るとは限らない。権力は人間の品性を変える。いったん権力を掌握した政治家は、初志を忘れ、民意に気を配ることを忘れ、やがては自己の利益を確保することに、さらには自己の権力を維持し増大することに汲々とし始める。彼は自分が再選されやすいように選挙制度を変え、長年に亘って権力を握り続けるかも知れない。

「自分が再選されやすいように選挙制度を変える」という言葉から、中国の習近平国家主席や、ロシアのプーチン大統領のことを思い浮かべる人がいるかも知れない。また、「自己の権力を維持し増大することに汲々とする」という言葉から、ドイツのヒトラー総統のことを思い浮かべる人がいるかも知れない。

このように私が習近平やプーチンやヒトラーといった大物の名前を挙げると、次のように反論する人もいることだろう。習近平にしても、プーチンにしても、ヒトラーにしても、彼らはすべて民主主義とは縁もゆかりもない人物であり、むしろ専制主義が咲かせた徒花(あだばな)ではないか、と。

それに対して、私が言いたいのは、こういうことである。ほとんどの政治家は権力の獲得をめざし、いったん権力を手に入れれば、それをできるだけ長く握り続けて、これを増大しようと企てはじめる。問題は、政治家のその野望を食い止める仕組みを、政治システムが具えているかどうかである。具えていなければ、その政治システムは強大横暴な独裁者を生み出すことになり、結果からして、問題の多い「専制主義」の政治システムと呼ばれることになる。

では、民主主義の政治システムはどうなのか。権力に執着する政治家の野望に歯止めをかける仕組みを、民主主義の政体もまた具えていないのではないか。その限り、民主主義政体の下でも独裁者は同じく出現すると見なければならない。つまり、独裁者の出現に歯止めをかけるブレーキの仕組みを具えていないことが、民主主義のもう1つの欠点なのである。

最後に、誤解のないようひと言だけ申し添えておきたい。私はこれまで民主主義の欠点をいろいろ論(あげつら)ってきたが、これによって私は、民主主義を全否定しようとしているわけではない。「民主主義はダメだ。代わりにもっとマシな政治システムを」と言おうとしているわけではないし、ましてや「民主主義はダメだ。専制主義こそ素晴らしい」などと言おうとしているわけでもない。

私が言いたいのは、民主主義を素朴にーー無批判にーー受け入れることの危険性である。「民主主義は素晴らしい。何が何でも素晴らしい」と褒め称えるよりも、「民主主義にはいろいろ問題があるが、他の政体に比べればそこそこ素晴らしい」と醒めた目で注意深くウォッチするほうが、ずっと健全な見方だと私は思うのである。

民主主義の欠点をあれこれ論う私のような者を、「聞き捨てならぬ」と問答無用で退けようとする態度は、怠惰の誹りを免れない。そう私は思うのだが、いかがだろうか。
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日本の国民感情 その過去を問う

2021-03-29 11:39:13 | 日記
民主主義は国民のヘイト感情に流されて、少数者の虐殺へと向かう怖さを持っている。ーーきのうの本ブログで、私はそのように書いた。為政者と国民感情との関係に限っていえば、国民の中に生まれるこの感情(ヘイト感情)は、為政者の扇動によって増幅され、より先鋭的なものへと肥大化する側面を持っている。

それを端的に示すのが、日露戦争後の日本の国状である。大国ロシアと戦い、奇跡的に勝利したわが日本の国民は、勝利の美酒に酔いしれ、自信と自負の念を深めた。それによって「欧米、何するものぞ」の気概にとらわれた当時の日本人は、「行け行けドンドン」と闘争心を燃え上がらせ、軍人たちと心を合わせながら、東洋の覇者として、西洋列強を相手の戦争へと突き進んでいったのである。

要するに、「偏に西洋文明の輸入を計画したる吾が日本人は、此の戦勝に由りて、西洋文明必ずしも恐るるに足らず、却て自家の文明に尊ぶべき或物あるべしと考ふるに至」ったわけなのだが(河上肇「日本独特の国家主義」)、こうした日本人の自己認識の変化は、軍部による扇動と相まって、誇大妄想気味に肥大化していったと言えるだろう。

こうした事例から、我々は次のように言うべきなのだろうか。専制主義は国民のヘイト感情を煽り、無謀な戦争へ突き進む危うさを持っている、と。だが、「無謀な戦争へ突き進む」のは、専制主義に特有の傾向なのかどうか。「無謀な戦争へ突き進む」のは、民主主義の体制下でも起こり得ることなのかどうか。これはもう一度、よく考えてみなければならない問題である。

以上は、きょうの朝ドラ「おちょやん」を見て、これに触発される形で、私の脳裏に浮かんだ生煮えの考えである。きょうの「おちょやん」では、日本が太平洋戦争に突入した頃の時代の有様が描かれていた。若手の劇団員が軍隊に召集され、劇団が解散を余儀なくされた、というシーンには、「軍部は加害者、庶民は被害者」というステレオタイプが暗黙裡に強調されていた。

だが、登場人物の一人が、こう呟いたのである。「軍歌のレコードがえらい売れてましてな、私ら、これで食うていけてますのんや」。このセリフを聞いて、私は「これだ!」と思ったのである。軍歌という戦意高揚の歌を熱烈に歓迎したのは、ほかならぬ民衆だったのではないか、と。

1クール前の朝ドラ「エール」では、主人公の古関裕而は戦時中、数々の軍歌を作曲しながら、日本が戦争に敗れた後は、戦犯扱いされて意気消沈する。だが、戦後になって古関裕而を非難した一般民衆は、自分たちが戦時中、彼の作曲した軍歌を熱烈に歓迎したことを、幸か不幸かすっかり忘れてしまっているのである。

というわけで、きょうこそは民主主義が持つ第2の問題点について述べようと予定していたのだが、きょうも予定通りには行かなかった。自室に籠っていても、私の中には時々刻々、さまざまな情報が入ってくる。それらの情報をインプットし、このインプットをフィードバックしながら、私は一歩一歩考えを進め、日々のブログを書いている。予定通りに行かないのは、そのためである。諒とされたい。
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ミャンマーに見る民主主義の問題点

2021-03-28 11:59:50 | 日記
ミャンマーのクーデター事件がメディアを賑わせている。きょうの朝日新聞は朝刊1面に『ミャンマー国軍、91人殺害 トップはクーデター正当化』という見出しを掲げ、記事はこんなふうに書いていた。

「クーデターで国軍が権力を掌握したミャンマーで27日、治安部隊が発砲などで抗議デモを弾圧し、ロイター通信によると91人が殺害された。1日の犠牲者としては2月1日のクーデター後、最悪となった。」

この記事の文面からは、「軍政(専制主義)は悪だ。民主主義は善だ」とする暗黙の主張が読みとれる。ーーだが、ちょっと待って欲しい。ミャンマー国軍が弾圧しようとしている抗議デモの勢力、つまり民主勢力は、ホントに「無条件に善」と言えるものなのだろうか。

民主勢力がトップに祭りあげるのは、言わずと知れたアウンサンスーチー女史である。かつて「ミャンマー民主化の女神」と崇められ、長らくNLD(国民民主連盟)指導者の地位にあって、国家顧問の地位にも就いたこのスーチーさんが、(国家顧問として)政府の指導的立場にあった当時、何をし、何をしなかったかを思い起こしていただきたい。

留意しなければならないのは、ミャンマーの民衆が当時、ロヒンギャを(自分たちの生活を脅かす)「不法移民」とみなし、ヘイト感情を募らせていたという事実である。ミャンマー政府は、ロヒンギャに対するこうした国民感情をいいことに、ロヒンギャを虐待してきた。

問題は、民主勢力のトップだったスーチーさんの言動である。スーチーさんは当時、国家顧問として政府を指導する立場だったにも関わらず、従来の政府のロヒンギャに対する虐待方針に異を唱えなかった。異を唱えないことで、政府のロヒンギャに対する虐待方針を支持したとも言えるのである。

なぜか。それは、彼女が民主主義のシンボルとして、ロヒンギャに対する民衆の意思を、つまりロヒンギャに対する民衆のヘイト感情を、体現せざるを得なかったからである。

民主主義は国民のヘイト感情に流されて、少数者の虐殺へと向かう怖さを持っている。ーーなぜこんなことに言及するのかというと、現在の民主主義国家・アメリカでは、アジア系市民が白人によって殺害される残虐な事件が続発しているからである。この事件の背景に、アジア系の人種に対する白人のヘイト感情があることは明らかだが、アメリカのこの事件をミャンマーのロヒンギャ虐殺にからめて考えれば、アメリカの「民主的」指導者が今後、アジア系市民の虐殺を是認する可能性もゼロではないと言わざるを得ないのである。

アメリカのジャパンバッシングが激しさを加えたのは、1970年から80年代にかけてのことである。「アメリカを苦しめているのは、エコノミック・アニマルの日本人だ」という偏見が復活すれば、白人のヘイト感情がいつ日本人に向かわないとも限らない。

きょうは民主主義が持つ第2の問題点について述べる予定だったが、第1の問題点をパラフレーズする結果になった。アドリブの寄り道をした格好だが、これもまあブログならではの醍醐味といえるのではないだろうか。民主主義が持つ第2の問題点については、また次回に取り上げることにしよう。
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民主主義か専制主義か

2021-03-27 14:02:04 | 日記
米バイデン大統領は就任後初の記者会見を開き、米中対立を「民主主義と専制主義の戦い」として特徴づけた。こうしたレッテル貼りに「うん、尤もだ」と頷く人は多いだろう。ーーだが、ちょっと待てよ、と天邪鬼爺は一言口を挟みたくなる。

私が気にかかるのは、レッテルを貼ったバイデン大統領も、このレッテルを見て溜飲を下げる大多数のアメリカ国民も、「民主主義は善だ。専制主義は悪だ」と決めてかかっていることである。私が問題にしたいのは、「民主主義は善だ」とする決めつけである。

民主主義は善だ。この決めつけは西側諸国では今や常識に近いが、それでは民主主義は無条件に「善だ」と言えるほど、問題のない完璧な政治システムだと言えるのだろうか。

私の見るところ、民主主義には大きな問題がある。1つは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが指摘したように、それが衆愚政治( ochlocracy )に陥りがちな傾向を具えていることである。民主主義( democracy )とは、文字通り、民衆( demos )が権力( cratia )を握るような政治システムだが、民衆は政治指導者の煽動に動かされやすく、また、世論の同調圧力に流されやすい。アメリカのトランプ前大統領が「偉大なアメリカを!」と唱え、アメリカ国民の利己心と愛国心を煽った結果、この大国が自国中心主義に走り、国際協調と平和主義の精神を破壊したことは、まだ記憶に新しい。それでも「民主主義は善だ。民主主義は素晴らしい」と言えるのだろうか。

民主主義にはもう1つ大きな欠点があるが、それについてはまた次回に述べることにしよう。
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