口は禍の門。物言えば唇寒し秋の風。
毎朝、訪問させてもらっているブログ「団塊シニアのひとりごと」の冒頭で、けさ「団塊シニア」さんが以下のように書いていた。
「自分の思いや考えがそのまま100%相手に理解されることは難しい、だからそういう前提で人とのつながりを考えたほうがいい場合がある。
たとえば家族、友人など、どんな親しい人でも自分とは違う、だから他人への期待が過剰であればあるほど、それが叶わなかった時の失望感は大きいものだ。 」
この文章を読んで、私は思わず「そうだよなあ!」と膝を打った。毎週「出勤」するリハビリ・デイサで、私が目下直面している窮状が、まさにそのようなものだったからである。
かなり長期間このデイサに「通勤」したためか、デイサのスタッフと私との心理的なディスタンスは徐々に狭まり、それなりに親しい間柄になってきた。その「親しさ」がかえって仇となり、「禍の門」となった格好である。
「親しき中にも礼儀あり」というが、親しくなればなるほど、「礼儀」がーーつまり、「どんな親しい人でも自分とは違う」という前提で「人とのつながり」を考え直すことがーー必要になるらしい。
どういうことか。このデイサでは、最後に「スクエアステップ」の訓練が行われる。高齢者の転倒予防や体力づくりのために、マス目の描かれたマットを使って行う訓練だが、そのなかで「デュアルタスク(ながら動作)」の訓練も行われる。トレーナーのEさんが、マス目上での脚の運びを指示しながら、同時に、「きょうは何日ですか?」とか、「きのうは何を食べましたか?」などと、他愛ない質問をする。答えに窮した老人は、考え込んで脚の動きを止めてしまうが、それでは失格である。リハビリを受ける利用者は、脚を動かしながら、同時に質問にも答えるという「デュアルタスク」を行わなければならない。
おじさんトレーナーであるEさんは、私に対しては、ことさら答えにくい質問を出して楽しむサディスティック趣味を発揮する。毎週のように「A子さんの良いところは?」とか、「B子さんの良いところは?」などと意地悪な質問をぶつけてくるのである。
こんな他愛ない質問に、なぜ私は答えられないのか。一度、こんなことがあった。スタッフのA子さんがドライバーを務める送迎車の中で、私はこんな「失言」をしてしまったのである。「美人は3日で飽きるというけど、A子さんはいつまでも飽きないから、良いですよね」。これを聞いたA子さんが怒りだしたのは言うまでもない。しまった、と思った私は、こう言い添えて難を逃れた。「いや、並の美人は3日で飽きるけど、A子さんの場合は、いつまでも飽きない並外れた美人だということです、はい」。
美醜にこだわるA子さんの性格を知った私は、以来、「A子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問には、「A子さんの良いところは、美人であることです」と答えることにしている。そう答えないと、「帰りは送っていってあげませんからね。途中で降ろしちゃいますからね」と言われかねないからである。こういう言葉の応酬ができるようになったのも、A子さんと私が「親しき仲」になった証かも知れない。
「B子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問に、同様、私は「B子さんの良いところは、優しいことです」と答える。実際、看護師のB子さんは私に優しく接してくれるからである。
だが、あに図らんや、B子さんはこの私の答えがお気に召さなかったようだ。私には思いも及ばない女心の複雑さ・微妙さである。私がA子さんの場合と同じように「良いところは、美人であることです」と言わなかったことで、私がB子さんの「美人であること」を否定したと、B子さんは受けとったようなのだ。
それはまあ良い。問題は、新入りトレーナーのC子さんである。先週のこと、ドSのEトレーナーは、臆面もなく「C子さんの良いところは?」と質問をぶつけてきた。この質問に、私の頭は真っ白になり、何も答えることができなかった。かろうじて「ノーコメントです」と答えるのがやっとだった。だって、そうではないか。C子さんは私の前ではマスクを外さず、素顔を見せたことがない。だから私は、C子さんが美人であるとか、ないとか、言うことができないのだ。また、C子さんが利用者に優しく接している姿を、私は見たことがない。だから「C子さんは優しい」と言うこともできないのである。
意外だったのは、C子さんが私の「ノーコメント」の答えに、怒りをあらわにしたことである。「**さん、私を怒らせたらどうなるか、わかりますか。来週は見ていてくださいよ」。
その「来週」が、あしたに迫っている。私は一体、どう答えれば良かったのだろうか。C子さんの心理が、私は今でも解らない。こんな謎の異人種とは「親しき仲」になりたくないものだとつくづく思う天邪鬼爺のこの頃である。このデイサとのつながりも、そろそろ考え直す時期にきているのかも知れない。
毎朝、訪問させてもらっているブログ「団塊シニアのひとりごと」の冒頭で、けさ「団塊シニア」さんが以下のように書いていた。
「自分の思いや考えがそのまま100%相手に理解されることは難しい、だからそういう前提で人とのつながりを考えたほうがいい場合がある。
たとえば家族、友人など、どんな親しい人でも自分とは違う、だから他人への期待が過剰であればあるほど、それが叶わなかった時の失望感は大きいものだ。 」
この文章を読んで、私は思わず「そうだよなあ!」と膝を打った。毎週「出勤」するリハビリ・デイサで、私が目下直面している窮状が、まさにそのようなものだったからである。
かなり長期間このデイサに「通勤」したためか、デイサのスタッフと私との心理的なディスタンスは徐々に狭まり、それなりに親しい間柄になってきた。その「親しさ」がかえって仇となり、「禍の門」となった格好である。
「親しき中にも礼儀あり」というが、親しくなればなるほど、「礼儀」がーーつまり、「どんな親しい人でも自分とは違う」という前提で「人とのつながり」を考え直すことがーー必要になるらしい。
どういうことか。このデイサでは、最後に「スクエアステップ」の訓練が行われる。高齢者の転倒予防や体力づくりのために、マス目の描かれたマットを使って行う訓練だが、そのなかで「デュアルタスク(ながら動作)」の訓練も行われる。トレーナーのEさんが、マス目上での脚の運びを指示しながら、同時に、「きょうは何日ですか?」とか、「きのうは何を食べましたか?」などと、他愛ない質問をする。答えに窮した老人は、考え込んで脚の動きを止めてしまうが、それでは失格である。リハビリを受ける利用者は、脚を動かしながら、同時に質問にも答えるという「デュアルタスク」を行わなければならない。
おじさんトレーナーであるEさんは、私に対しては、ことさら答えにくい質問を出して楽しむサディスティック趣味を発揮する。毎週のように「A子さんの良いところは?」とか、「B子さんの良いところは?」などと意地悪な質問をぶつけてくるのである。
こんな他愛ない質問に、なぜ私は答えられないのか。一度、こんなことがあった。スタッフのA子さんがドライバーを務める送迎車の中で、私はこんな「失言」をしてしまったのである。「美人は3日で飽きるというけど、A子さんはいつまでも飽きないから、良いですよね」。これを聞いたA子さんが怒りだしたのは言うまでもない。しまった、と思った私は、こう言い添えて難を逃れた。「いや、並の美人は3日で飽きるけど、A子さんの場合は、いつまでも飽きない並外れた美人だということです、はい」。
美醜にこだわるA子さんの性格を知った私は、以来、「A子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問には、「A子さんの良いところは、美人であることです」と答えることにしている。そう答えないと、「帰りは送っていってあげませんからね。途中で降ろしちゃいますからね」と言われかねないからである。こういう言葉の応酬ができるようになったのも、A子さんと私が「親しき仲」になった証かも知れない。
「B子さんの良いところは?」というEトレーナーの質問に、同様、私は「B子さんの良いところは、優しいことです」と答える。実際、看護師のB子さんは私に優しく接してくれるからである。
だが、あに図らんや、B子さんはこの私の答えがお気に召さなかったようだ。私には思いも及ばない女心の複雑さ・微妙さである。私がA子さんの場合と同じように「良いところは、美人であることです」と言わなかったことで、私がB子さんの「美人であること」を否定したと、B子さんは受けとったようなのだ。
それはまあ良い。問題は、新入りトレーナーのC子さんである。先週のこと、ドSのEトレーナーは、臆面もなく「C子さんの良いところは?」と質問をぶつけてきた。この質問に、私の頭は真っ白になり、何も答えることができなかった。かろうじて「ノーコメントです」と答えるのがやっとだった。だって、そうではないか。C子さんは私の前ではマスクを外さず、素顔を見せたことがない。だから私は、C子さんが美人であるとか、ないとか、言うことができないのだ。また、C子さんが利用者に優しく接している姿を、私は見たことがない。だから「C子さんは優しい」と言うこともできないのである。
意外だったのは、C子さんが私の「ノーコメント」の答えに、怒りをあらわにしたことである。「**さん、私を怒らせたらどうなるか、わかりますか。来週は見ていてくださいよ」。
その「来週」が、あしたに迫っている。私は一体、どう答えれば良かったのだろうか。C子さんの心理が、私は今でも解らない。こんな謎の異人種とは「親しき仲」になりたくないものだとつくづく思う天邪鬼爺のこの頃である。このデイサとのつながりも、そろそろ考え直す時期にきているのかも知れない。