ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

年越しに2つの大波

2020-12-31 11:26:34 | 日記
行く年と来る年の境目が2つの大波に襲われている。1つは、コロナ感染の第3波である。小池都知事はきのうの記者会見で、コロナ感染について「かつてない大きさの『第3波』が襲いかかっている」と危機感を示し、感染対策の徹底を求めた。

コロナ禍に対しては、頼みの綱として数種類のワクチンが開発されているが、これが対策の決定打となるのかどうか、どうにも心許ない。アメリカでは看護師が、コロナワクチンの接種を受けてから1週間後に、コロナに感染したとの聞き捨てならない報告がある。

こんな情勢では、私は正月に子供たちファミリーが東京からわが家に帰省するのを、とても歓迎する気にはなれない。65歳以下で、基礎疾患持ちでない妻は、しきりに子供たちをわが家に呼び寄せたがっている。私は表立って「来るな」と言うわけにもいかず、ただただ途方に暮れるばかり。はてさてこの正月はどうなりますことやら。

来る年2021年は期待に反して、相変わらず多難な年になるのではないか。そんな気がする。

もう一つの大波はどうか。数年に1度といわれる強烈な寒波。その大波が日本列島に流れ込み、日本海側では大雪になるのではないかと懸念されている。これについては、(関東平野の住人である)私には何とも言いにくいところがある。雪害とは無縁の私が「大変だ」と言っても、所詮は他人事のような嘘臭さが拭えない。「豪雪地帯の皆様には、お見舞い申し上げます。お怪我などなさいませんよう、お気をつけください」と言ったところで、同じだろう。関東平野でぬくぬくと暮らす私が「同情します」などと言っても、当の私自身がこそばゆさを感じ、同時に嘘っぽさを感じてしまうのである。

私が恐れているのは、こんな声が返ってくることである。「おまえは最近、エアコンを買い替えたんだってな。さぞ快適なステイホームなのだろうな。いい気なものだ」。
はい、その通りです。申し訳ありません。
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2020年最大の謎

2020-12-30 11:31:58 | 日記
今年も残すところわずかだが、ここ1年の出来事を振り返ると、最大の謎はアニメ作品「鬼滅の刃」の大ヒットである。聞くところによれば、アニメ映画の「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は、興行収入が324億円を超え、「千と千尋の神隠し」を抜いて歴代1位となったという。驚いたことに、公開から2カ月あまりで観客動員数は2404万人にのぼるというのだ。

噂に目のない天邪鬼爺のことである。私もさっそくアニメ作品の「鬼滅の刃」をのぞき見してみた。だが、全然面白くない。何の感慨も湧かないのである。
私は寝る前、スマホをかざし、アマゾンの動画サービスサイトでこのアニメ作品を見たのだが、いつもつまらなくなって眠ってしまう。それでも「いや、多くの人を感動させる何かがあるはずだ」と思い直し、再三再四チャレンジしたが、そのつど眠ってしまうのが常だった。

断っておくが、私はアニメ作品が嫌いなのではない。漫画やアニメを軽蔑する人種もいるが、私はそういう人種ではない。大学生だった頃は、行きつけの定食屋で、備え付けの『少年マガジン』に連載中の「あしたのジョー」に夢中になった憶えがあるし、歳をとってからは動画サイトGYAOで配信されたアニメ作品の「るろうに剣心」に熱をあげたこともある。

私は決して冷酷な無感動人間ではない。夜、寝る前に私はよくTVer やアマゾンの動画サービスを利用するのだが、石原裕次郎が主演の昭和期の映画作品を見てはぼろぼろ涙を流し、最近では、仲間由紀恵が主演の「ごくせん」シリーズを見て、げらげら笑い転げたりしている。

そんな私が見ても、「鬼滅の刃」に感動できないのは、一体なぜなのだろう。そんな「鬼滅の刃」が今年大ヒットしたというのは、一体どういうわけなのだろうか。

きょうの朝日新聞の社説では、「鬼滅の刃」が大ヒットした理由がいくつかあげられている。曰く、「努力、成長、友情、家族愛など普遍的なテーマが幅広い世代に支持された」ためではないか。「はかなく弱い存在だからこそ、人間は思いを強く持ち、信頼し合い、ともに立ち上がることができると訴えている。それがコロナ下に生きる人たちの切ない共感を呼び、静かに力づけているのではないか」とする学者先生の見解も紹介されている。

朝日の社説があげるそれらの理由は一々尤もだが、問題は、この私が「鬼滅の刃」に感動できなかった理由である。私は「努力、成長、友情、家族愛など普遍的なテーマ」に決して無関心な人間ではない。また、「はかなく弱い存在」としての人間に共感できない唐変木秀才のエリート人間でもない。凡俗の代表を自認するこの私、天邪鬼爺が「鬼滅の刃」になぜ感動できなかったのか、ーーそれが私にとっての最大の謎なのである。
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ただの言い訳

2020-12-29 12:09:18 | 日記
4回にわたった「幸福論」シリーズがやっと一段落した。一区切りがついたところで、ホッと一息、今は年末年始の「師走」どきでもあるし、ブログはしばらくお休みにしよう、・・・と思ったが、それにつけても悲しいのは我が貧乏性。パソコンのキーボードに向かわないと、どうにも気持ちが落ち着かない。ブログを更新しないとズル休みをするようで、何か後ろめたい思いが拭えないのである。

とはいえ「これだけは書きたい、皆に知ってもらいたい」と思う格好のネタがあるわけではないし、垂れ流したくなるほど面白いネタが滾々(こんこん)と湧き出てくる状況でもない。

とはいえ「う〜む、ネタ切れだ、何も出てこない!!」と頭を抱えるほど切羽詰まった心境でもない。ブログを更新しない「ズル休み」の言い訳をして、後ろめたさから逃れたいだけなのである。皆勤だけが取柄の劣等生が、ーーあるいは、ブログ更新のルーティンがすっかり習い性になってしまったロートル・ブロガーが、ただ休まないためだけに、苦しいアリバイ作りをしていると思ってもらえばいい。

とはいえ休まないからといって、ギャラが出るわけではないのだけれどね。
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ラッセルの幸福論(2)

2020-12-28 12:32:11 | 日記
今回は、ラッセルの幸福論の続編である。

ラッセルの幸福論は次の2つの主張から成り立っている。
(1)不幸の原因は「まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣」にあり、とりわけ「まちがった道徳」が作り出す罪悪感にある。
(2)不幸の原因は「他人と比較してものを考える習慣」(から生じる妬みや疎外感)にある。

今回は(2)の主張に沿った部分を取りあげる。前回と同様、S・I 准教授の論文『哲学における幸福論ーーヒルティ、アラン、ラッセルーー』からの抜粋である。

********************************

われわれはいつでも他者を怖れている。他者から許されない限り、他者たちで構成されたこの世間で生きていくことはできない。われわれが義務を守り道徳に従うのも、他人から否定されるのを恐れるからである。人の上に立ち、権力を持とうとするのも、あるいは他人のために尽くし、善行をしようとするのも、それが他人から感謝され世間から称賛されることだからである。自分が幸福になる可能性、いやむしろこの世間で生き延びていく可能性は、他人にどう思われるかに掛かっている。生殺与奪の権は他人が握っているのだ。その他者に排除されるのではないかという恐ろしい妄想の中で、われわれは他者の顔色を見て生きているのである。
だが、そうした他者依存の生き方が、われわれを自分自身の真の幸福から疎外していることもまた事実である。

彼(幸福な人間)は自分が喜ぶように生きている。彼は自分の幸福のために生きようとするのだ。幸福な人間とは自分の幸福を生きる人間である。彼は自分を貴ぶのである。
こうしてラッセルは言う。「自尊心がなければ、真の幸福はまず不可能である」。
自尊心のある人間とは、他人を顧慮しない人間である。

不幸な人間は絶えず他人の方を向いている。
それなら、他人への恐れを捨てれば幸福になれるのか?
そうではない。なぜなら「他人に対する恐れを捨てる」ことは、まず「自分を排除する恐ろしい他人」を措定した上で、その「恐ろしい他人に対する恐れを捨てる」ことだからである。この循環する自縄自縛のなかで「他人に対する恐れ」を消去することはできない。なぜなら「恐ろしい他人」を作っているのは、彼自身だからである。「自分を排除する他人」はそもそも実在しないのだ。彼は周りの人間たちを「恐ろしい他人」だと見ている。そしてその「他人」に縛られているのである。彼は、自ら作った敵で構成されたその世界でいつも緊張し、自分の居場所を拡張しようとしているのだ。だとすれば彼が真に見ているのは「恐ろしい他人」ではない。「他人に排除される自分」なのである。

例えば私が美しい公園の隣に住んでいるとする。不幸な人間は、その公園を毎日散歩すると誰かに変だと思われるのではないかと不安に思って公園に出かけないかもしれない。あるいは散歩などで時間を浪費すべきではないと自分を責めて出かけないかもしれない。あるいは公園を散歩するなら人が羨むような立派な運動着を着なければならないと思って無理をして運動着を買って公園に行き、もっと最新の運動着を着ている人を見てがっかりして散歩をやめてしまうかもしれない。
あるいは私は隣にある美しい公園を楽しみ、部屋着のままでふらりと公園に行き、気持ちのいい風に吹かれ、夏の初めの青葉の匂いを嗅ぎ、たとえ変な人に出会い思わぬ出来事に遭遇したとしても、それら自分の出会う様々な人・様々な出来事をまるで「地質学者が岩石に対し、考古学者が廃墟に対していだく興味」を持つように興味深く観察し、私に与えられたその日の公園を享受して生きるかもしれない。
不幸な人間の目には他人が映っている。だが幸福な人間の目には美しい一日が映っている。幸福な人の人生は、彼に与えられた世界の風景で満ちているのだ。彼は自分の目の前にある世界を享受し、世界の中で自分の思う通りに生きている。そしてそのことになんの躊躇も持たないのである。

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幸福を阻害する原因は(1)「まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣」にあり、とりわけ「まちがった道徳」が作り出す罪悪感にある。また、(2)「他人と比較してものを考える習慣」(から生じる妬みや疎外感)にある。ラッセルはそのように述べるが、今回取りあげた部分、すなわち(2)の「他人と比較してものを考える習慣」(から生じる妬みや疎外感)についての論述が、いちばん私の心に沁みた。

私は今はもう深酒はやらない。罪悪感にとらわれることもない。だが、他人の幻影にはいまだに悩まされる。リタイアして10年が経つというのに、たまに現役だった頃の夢を見る。そんなとき、私はいつも同僚に打ちのめされ、惨めな気持ちになって落ち込んでいる。暗い気分のまま目が覚める。夢の中で私を打ちのめした同僚が私の作り出した妄想の産物だということを、私は知っている。でも、わかっちゃいるけど、やめられない。この妄想はトラウマのように、私の身体の奥深くに食い込んでしまっているのだ。

その葛藤を描くラッセルの言説と、それを紹介するS・I 准教授の筆致は、生々しいリアリティをもって私に迫ってくる。おそらくラッセル自身が「他人と比較してものを考える習慣」に悩まされた経験を持っていたのではないだろうか。

人間である限り、私の中から他人の存在を消し去ることは難しい。人は人との間でこそ人間である。これはドイツ観念論の哲学者フィヒテの言葉だったと思うが、この言葉が正しいとすれば、人は人間である限り「人との間」に生きるしかなく、その限り不幸の爆弾をかかえて生きるしかない。不幸こそ人間である証だと言えるだろう。
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ラッセルの幸福論(1)

2020-12-27 11:40:30 | 日記
今回はラッセルの幸福論を取りあげる。前回と同様、以下はS・I 准教授の論文『哲学における幸福論ーーヒルティ、アラン、ラッセルーー』からの抜粋である。

ただ今回の引用は、いかんせん分量が多い。内容に応じて、いくつかに分割しながら紹介することにしよう。

ラッセルの幸福論は2つの主張から成り立っている。
(1)不幸の原因は「まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣」にあり、とりわけ「まちがった道徳」が作り出す罪悪感にある。
(2)不幸の原因は「他人と比較してものを考える習慣」(から生じる妬みや疎外感)にある。

今回は(1)の主張に沿った部分からの抜粋である。

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不幸は、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるものだとラッセルは言う。それが変わらないかぎり不幸な人はどこまでも不幸なのだ。

大食漢は身体がはちきれるまで食べる。たとえ自分の健康を損なっても彼は食べるのをやめることができない。自分には何かが足りないのだ。その何かを満たし自分の欠落を忘却するために彼は浴びるように食べ、そして飲む。彼は「根深い悩みをかかえていて、亡霊から逃れようとしている」のであり、「求めているのは、対象そのものを楽しむことではなく、忘却」なのである。食べて楽しいわけではない。食事を詰め込んで欠落が埋まるわけでもない。だが形だけでも自分を「満たす」手段は食べ物しかない。彼は不幸だから食べるのだ。そして食べても埋まらない欠落を忘れようとして食べ続けるのである。

彼らの中には、たとえば罪悪感を持つ人間がいる。
罪悪感を持つ人間とは、罪の意識に取り憑かれた人間である。彼が何か具体的な悪事を働いたわけではない。だが彼は「絶えずわれとわが身に非難を浴びせている」。なぜなら「彼は、自分はかくあるべきだという理想像をいだいている。そして、その理想像は、あるがままの自分の姿と絶えず衝突している」からである。彼はいつも自分自身を隅々まで見張り、あるべき自分に達していない不完全な自分を責めて不幸になっている。彼は常に自分に理想を強いる「良心的」な人間であり、したがって常に「理想に達していない罪」で、あるまがままの自分を咎め続ける「罪びと」なのである。だが、その「罪」というのは、「どんな人にも親切に振る舞わなければならない」・・・といったような「ばかばかしい道徳律」であることが多い。こうした「ばかばかしい道徳律」が彼の「無意識の中に根を下ろして」彼を苛み続けているのだ。
こうした道徳律は、ラッセルによれば「ほとんどすべての場合、当人が6歳以前に、母親や乳母の手から受けた道徳教育」に由来する。

ラッセルは言う。「不合理をつぶさに点検し、こんなものは尊敬しないし、支配されもしないぞ、と決心するのだ。不合理が、愚かな考えや感情をあなたの意識に圧しつけようとするときには、いつもこれらを根こそぎにし、よく調べ、拒否するといい。」

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ここであげられているのは、(a)大食漢の例と、(b)「ばかばかしい道徳律」に呪縛された人の例である。

(a)大食漢の例は、身につまされる。現役だった頃、私は大酒飲みだった。自分が脳出血に罹ったのは、過剰な飲酒癖のせいだったと自戒している。焼酎のお湯割りを飲みながら、だが当時の私は、それを美味いと思いながら飲んだことがなかった。私は焼酎を呷(あお)ることで、(ラッセルが言うように)自分の中の「欠落」を埋めようとしていたのだと思う。職場のストレスから逃れ、自分の中にある「欠落」を忘れようとしていたのだと思う。
そんなふうにして過ごす夜は、「まちがった生活習慣」の産物以外の何ものでもない。飲んだくれ、酔っ払った私は、明らかに不幸だった。

(b)「ばかばかしい道徳律」に呪縛された人の例も、よく見られる。
「あなたは女の子なのだから、お淑(しと)やかにしなければいけません。お転婆はダメよ」。
幼少期に「毒親」の母親からそう言われて育った多感な少女は、この言葉に抑圧され、トラウマを抱えながら生きるしかない。この呪縛を解かない限り、彼女が幸福になることはないだろう。
「おまえは男なのだから、もっと男らしくしなければダメだぞ」、「おまえは日本男児じゃないのか」などの言葉が作る「ばかばかしい道徳律」と、そこからくる罪悪感も、不幸の原因になる。

私は、そうした罪悪感よりも、「他人と比較してものを考える習慣」(から生じる妬みや疎外感)のほうが不幸の原因としては大きいと思っている。それについては、また次回に。
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