ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

諫早湾干拓 公共事業と司法の判断

2018-07-31 14:31:29 | 日記
きょうの新聞に、諫早湾干拓事業についての記事が載っていた。福岡高裁が
出した控訴審判決についてだったが、これが何のことやらチンプンカンプン、
まったく解らない。法律の専門家に向けた記事でもないのに、理解できない
のは私の頭がボケたからなのか。気分が悪い。癪に障るので、この一件を何
とか飲み込もうと奮闘努力することになった。

事は2017年の4月までさかのぼる。当時、諫早湾干拓事業について 長
崎地裁が判決を出したのだが、このときにも私は 新聞記事の内容がよく理
解できなかった。何とか理解しようとして書いたのが、本ブログの記事《諫
早湾干拓事業のアポリア》(2017年4月19日)である。まずはこの記事を
おさらいすることから始めよう。

**********************************************************
U太「う~ん、よく分からないな。一体どういうことなのだろう」

U次郎「何のことだい?」

U太「きのうのことなんだけど、諫早湾の干拓問題で、長崎地裁が判決を
出したよね。それが、堤防の水門を開門するのを禁じるというんだ。なん
でも、水門を開くと、農業に大きな被害が出るから、というんだね」

U次郎「それが何か?」

U太「だって、おかしいじゃないか。7年前には福岡地裁が、逆に漁業者
の主張を認めて、水門を開けるように命じているんだ。水質調査をするた
めに、5年間ということだけど。裁判所が真逆の結論を出すなんて、一体
どういうことなのだろう」

U次郎「これはまさに政治の原点だな。相反する利害関係があって、対立
が生じたとき、その利害を調整するのが政治の役割だと俺は考えている。
マルクス主義だとか資本主義だとか、そんなことは大した問題じゃない。
ここにあるのは、漁業者と農業者・営農者との間の深刻な対立だ。どっち
の立場に立つかで、結論も違ってくる」

U太「そういえば、きのうの判決はある程度予測できたことだ。干拓に
よって、漁業者は被害をこうむる。でも国は、今回の裁判では、漁業者の
被害には目をつぶって、そのことを正面切って主張しなかった。国は農業
者の立場に肩入れしたのだ」

U次郎「まあ、そんなところだろうだな」

U太「おかしいのは、そこなんだよ。7年前には、国は福岡地裁の判決を受
け入れて、上告しなかった。福岡地裁の判決は、干拓と漁業被害との因果
関係を認めて、開門を命じている。この判決に異を唱えなかった国は、こ
の時には漁業者の立場に立っていたことになる。国の姿勢がどっちつかず
で、ふらふら揺れているから、混乱が生まれるんだ」

U次郎「国は口先だけでごまかそうとしていたみたいだな。タテマエとホ
ンネを使い分けながらね。口では『開門しなければ』と言いながら、陰で
はそうさせないように振る舞っていたという話じゃないか。自分たちが進
めてきた公共事業が失敗だったこと、それが表沙汰にならないように、う
まく立ち回っていたつもりなんだろうが」

U太「罪作りで、ひどい話だ。その結果どうなったかというと、有明海で
は不漁が深刻化したらしい。それもあって、漁業者の後継者難も深刻だ
という。国は漁業者に補償金を支払っているし、有明海の再生事業にも取
り組んでいる。でも、その効果はなく、有明海の漁業は疲弊して、衰退の
一途をたどっているらしいんだな」

U次郎「国はまず、干拓事業者としてのメンツにこだわる姿勢を改めなく
ちゃ。メンツにはこだわらないで、堤防の開門も考えてみたほうがいい。
その上で、農業者のこともきちっと考えないと」

U太「メンツか・・・。たしかに国にとって大事なのは、下々の暮らしがど
うか、などということよりも、まずもって自分たちのメンツだからな。
とにかく、そこをまず変えてもらわないと」

U次郎「その通りだ」
*********************************************************

この対話を踏まえた上で、きょう配信された毎日新聞のネット記事を読むこ
とにしよう。《諫早湾干拓 開門命令無効 異議訴訟、国が逆転勝訴 福岡
高裁》と見出しがふられている。

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国営諫早湾干拓事業(長崎県、諫干)を巡り、潮受け堤防排水門の開門を強
制しないよう国が漁業者に求めた請求異議訴訟の控訴審で、福岡高裁(西井
和徒裁判長)は30日、国の請求を退けた1審・佐賀地裁判決(2014年
12月)を取り消し、国に開門を命じた福岡高裁判決(10年確定)を事実
上無効化する逆転判決を言い渡した。

確定判決に従わない国の姿勢を容認する異例の判断で、漁業者側は最高裁に
上告する方針。確定すれば国に開門を強制する司法判断が失われる。また、
福岡高裁は同日、開門に応じない国に科された制裁金の執行停止も決めた。
国はこれまで漁業者らに1日90万円の制裁金を支払い、総額は今月10日
現在で約12億円に上る。今後は支払う必要がなくなり、国はこれまで支
払った制裁金の返還請求を検討する。
(中略)
開門を巡っては、漁業者らが02年、堤防閉め切りで漁業被害が生じたとし
て国に工事差し止めを求め提訴。1審・佐賀地裁判決、2審・福岡高裁判決
とも諫干と漁業被害の因果関係を認めて国に5年間の開門を命じ、民主党政
権当時の菅直人首相が上告せず確定した。一方、長崎地裁は13年、開門す
れば農業被害が出るとして開門差し止めの仮処分決定、17年には開門差し
止めの判決を出し、司法判断にねじれが生じていた。
(中略)
請求異議訴訟では1審・佐賀地裁判決が国の請求を退けたが、国側は控訴審
で「漁業権の消滅」の主張を追加した。福岡高裁は今年3月の和解協議で、
開門せずに100億円の漁業振興基金を設ける国の和解案を「唯一の現実的
な方策」と評価。同案での和解を勧告したが、漁業者側の反発で和解協議が
決裂していた。
*********************************************************

つまり、これまでは潮受け堤防排水門の開閉をめぐって、「開門すべし」と
する(漁業者側に立った)判決と、「開門すべきでない」とする(農業者側
に立った)判決との、2つの相反する判決が下され、判決にねじれが生じて
いたが、今回の福岡高裁の判決は、「開門すべし、という(以前の佐賀地裁
と福岡高裁の)判決は無かったことにするから、開門しなくてもいいよ」と
言っているのである。「開門はしませんが、かわりに100億円の漁業振興
基金を設けますから、これで手を打ちましょうや」という国の和解案を、そ
のまま認めた格好である。札束で頬をたたく国(行政)のやり方を、裁判所
(司法)が追認するとは、一体どういうことなのか。この国の今後が思いや
られる。
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基地問題に寄せて

2018-07-30 17:12:57 | 日記
沖縄県の翁長知事は27日、アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設
事について記者会見を行い、仲井眞前知事が行った埋め立て承認の撤回に向
け、手続きを始めることを表明した。沖縄防衛局が環境保全対策などを県に
示さずに工事を実施し、事業者の義務に違反しているとの理由からである。

ガン治療の影響からか、身体の衰弱は否めないが、そんな中、毅然として初
志を貫徹しようとする 知事の古武士のような姿が印象的だった。

翁長知事の姿勢は、現行の法律を駆使して、反基地闘争を展開しようとする
ものだが、米軍基地に伴う諸悪の根源は日米地位協定にある。この協定があ
るために、米軍も、アメリカ軍人も、傍若無人・やりたい放題なのだ。この
協定にメスを入れないかぎり、基地問題は解決しない。常々そう思っていた
私にとって、次のニュースは朗報だった。

札幌市で開かれた全国知事会議で、日米地位協定の抜本的な見直しを盛り込
んだ「米軍基地負担に関する提言」が全会一致で採択された。
米軍基地のない自治体を含む全47都道府県の知事会が地位協定改定を含む
提言をまとめるのは初めてである。
地位協定は米軍に特権的な地位を与えている。改定は米軍基地が集中する沖
縄の問題と矮小(わいしょう)化されがちだったことを考えれば、知事会が
提言した意義は大きい。「国民の声」といっていいだろう。
        (フクナワ=沖縄タイムス×福井新聞 7月29日付)

基地問題は沖縄だけの問題ではない。事故続きで悪名高い 物騒なオスプレイ
は近々、東京の横田基地にも配備されることになっている。それだけではな
い。次のような報道もある。

在日米軍が2011年6月、厚木基地(神奈川県)と三沢基地(青森県)で
放射性物質を含む汚染水12万リットル以上を下水道に流していたことが分
かった。本紙が米軍の内部資料を入手した。
汚染水は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故後の「トモダチ作戦」に
参加した軍用車両や装備品の除染で発生していた。
米太平洋軍(当時)と在日米軍の内部討議資料によると、11年5月3日時
点で「液体低レベル放射性廃棄物」が厚木に9万4635リットル(2万5
千ガロン)、三沢に3万283リットル(8千ガロン)あった。
                   (沖縄タイムス7月30日付)

う〜む、弱った。ここまで書いてきて、私は壁に突き当たった。そんな感じ
がする。フクシマの後始末に伴う放射性廃棄物ーー。その後処理の問題は難
しい。日米地位協定を見直しても、放射性廃棄物は無くならない。日米地位
協定を見直せば、放射性廃棄物が魔法のように消えて無くなるというわけで
はないのだ。基地問題だけでなく、原発問題に関しても、再度検討が必要だ
ということだろう。(地域住民の味方であるはずの)全国知事会議は、原発
問題に関して、どういうスタンスなのかな。
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米政権の対北政策 その混乱は

2018-07-29 11:15:50 | 日記
アメリカの対北政策には、混乱が見られる。最近、2つの報道を目にした。
1つは、以下の通りである。

国際オリンピック委員会(IOC)が、北朝鮮へのスポーツ用品の輸出を国
連制裁の適用対象外とするよう国連安全保障理事会の北朝鮮制裁委員会に求
めたところ、米国が反対して阻止したことが26日、わかった。安保理は
「娯楽用スポーツ用品」をぜいたく品に制裁指定し、北朝鮮への輸出を禁じ
ている。米国はこの分野でも厳格な制裁で、非核化に向けて圧力をかける姿
勢を変えていない。
(中略)
ポンペオ米国務長官は20日、国連本部で「制裁の実行なしに北朝鮮の非核
化が成功する見込みはない」と強調し、各国に制裁の厳格履行を要求。洋上
で船を横付けして荷物を積み替える「瀬取り」問題でも、北朝鮮が石油精製
品の密輸入を繰り返し、北朝鮮の年間輸入上限量を超えたとして、各国に全
取引の即時停止を呼びかけるなど、米国は安保理で対北朝鮮の圧力維持を呼
びかけている。
                 (朝日新聞DIGITAL7月28日配信)

この記事を真に受けるかぎり、アメリカは北朝鮮に対して、融和路線ー
ー(飴と鞭の)飴路線ーーから、圧力路線ーー(飴と鞭の)鞭路線ーーへと、
方針を転換したように見える。(体制の保証という)飴をぶら下げるだけで
は効果は期待できず、(経済制裁という)鞭を振るわなければ、北朝鮮の非
核化は実現できない、とーーそう判断するに至ったように見えるのだ。

アメリカはふたたび従来の対北強行路線に戻り、チキンレースの果てに、北
へ軍事攻撃を強行するのではないか。ーーこの記事を見て、私はそう考えた
のだが、きょうの新聞を見ると、あらら、なんとまあ、私の予想を覆すよう
な、こういう記事が載っていた。

トランプ米政権が北朝鮮との非核化交渉で、当初求めていた「完全かつ検証
可能、不可逆的な非核化」(CVID)という言葉を使わないようにしてい
ることが分かった。米政府関係者によると、政権内で7月初旬、「CVID
を使わないようにせよ」という指示が出たという。CVIDという文言で
圧力をかけられることを嫌う北朝鮮への配慮とみられる。
                      (朝日新聞7月29日付)

この記事を真に受けるなら、アメリカは北朝鮮指導部のご機嫌を伺い、北朝
鮮の機嫌を取ろうとしている。そんな弱腰の米政権が、北朝鮮に戦争を仕掛
けられるはずはない。

この2つの記事を前にして、私は「アメリカの対北政策には、混乱が見られ
る」と断じたのだが、この「混乱」の由来は、もしかすると米政権にではな
く、これを報道するメディアの側にあるのかも知れない。これら2つの報道
のうち、我々はどちらを真に受ければよいのか、と問う必要がありそうだ。

厄介なことに、これらの報道は(電子媒体と紙媒体の違いはあるものの)ど
ちらも同じ朝日新聞によるものである。最初の記事はニューヨークの金成隆
一記者の署名記事であり、2番目の記事は、ワシントンの清宮涼記者が書い
ている。朝日新聞国際政治部のデスクは、この2つの記事に齟齬があること
に気づいていないらしい。

あるいは天下の朝日新聞、もとい東洋の島国・日本の一新聞に過ぎない朝日
新聞は、「米政権の対北政策」という巨大なネタを前にして「群盲象を撫で
る」の状態にあるのだろうか。ニューヨークの金成隆一記者と、ワシントン
の清宮涼記者。この二人の「群盲」の、その取材結果の突き合わせを望みた
い。「群盲」を束ねるボスのデスクは、(二日酔いで)不在なのかな。
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死刑廃止論の再検討

2018-07-28 13:48:52 | 日記
オウム真理教の元幹部13人の死刑執行に抗議する集会が、きのう27日に
あったらしい。元幹部の弁護人らが、再審請求などの手続き中に死刑が執行
されたことを強く批判し、参加者たちは「内閣や法相はこれを機に、死刑廃
止に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択したという(朝日新聞
DIGITAL 7月27日配信)。

私はこの記事を、「死刑制度の是非」を問う社会運動の、その具体例として
読もうとした。だが、その当てははずれたと言わなければならない。記事は
こんなふうに書かれていた。
「E元死刑囚の再審請求で弁護人だったH準弁護士は「恩赦の出願もしようと
言っていた。非常に残念だ」と語った。H氏は、地下鉄サリン事件の散布役で
唯一、担当した車両で死者が出なかったY元死刑囚との面会も振り返り「人を
殺していない人間を死刑にするのは正義に反する」と声を震わせた。
(中略)
T元死刑囚の弁護人も27日、コメントを発表した。「教団の教義の問題性
に気づき、脱会した以上、再犯のおそれもなかった。執行は暴挙ではないで
しょうか。死刑にする必要が本当にあったのでしょうか」と執行に疑問を投
げかけた。」

つまり、ここでそれぞれの弁護人が訴えているのは、起訴から求刑を経て死
刑の執行へと至る、その手続きに瑕疵が見られるということであって、彼ら
は死刑制度そのものの不当性を訴えているわけではないのである。

にもかかわらず、この集会の参加者たちは、「これを機に、内閣は死刑廃止
に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択した。裁判の渦中にあった
当事者と、批評家的な立場でこれを傍観する第三者との、そのアプローチの
落差がここには見られる。

私も野次馬的・第三者的な立場から、この問題にアプローチすることにしよ
う。この記事を見たとき、私は2つのことを思い浮かべた。
1つは、EUの駐日代表部が加盟国の駐日大使らと連名で、オウムの死刑囚へ
の刑の執行停止を日本政府に求めたとする、先日の報道(毎日新聞7月6日
配信)である。
もう1つは、2016年の10月に日弁連が死刑廃止宣言をだしたとする、
だいぶ前の報道である。この件については、当時 私は 本ブログでも取りあげ、
管見を述べたことがある(2016年10月9日付《死刑は殺しなのか》、
10月12日付《死刑廃止論ふたたび》)。

これを機に、死刑制度の是非に関する私の見解を整理しておきたい。
1.殺人行為を放置すれば、社会の秩序が維持できなくなる。国家は殺人者
になんらかの処罰を行わなければならない。
2.その刑罰は、死刑がふさわしい。殺人者は、殺人を行うことで「人の命
を奪うことを是とする」というテーゼを立てた以上、このテーゼを自分自身
に対しても妥当することとして引き受けなければならない。
3.国家が死刑を執行することで、社会秩序は守られ、被害者遺族の処罰感
情も充足される。
4.ただ、(神ではない)人間がすることであるから、誤認による推断の誤
り(すなわち冤罪)の可能性は排除できない。
5.誤りによって死刑に処された容疑者は、二度と生き返らず、死刑は不可
逆性を免れない。つまり「覆水盆に返らず」である。

ーーこうした見解に基づいて、私は以前、本ブログで次のように述べたの
だった。

死刑制度廃止派の論拠である「覆水盆に返らず」の理屈は、無視できない。
ならば、
(1)凶悪犯は無期懲役にして、かれを永久に社会から排除する。
(2)また、死と同等の苦役をかれに課し、死を上回る苦痛を味わわせる。
(3)その惨めな姿を世にさらすことで、凶悪な犯罪を予防する手立てにすると
ともに、
(4)被害者の遺族には、これをもって加害者に対する処罰感情を宥めてもら
う――。

私のこの代替案は卓抜奇抜なものであり、このアイデアに対して、私は今
でも変える必要を感じないのだが、さて、読者諸賢はいかがお感じだろうか。
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ミズタはスギタの・・・

2018-07-27 14:29:47 | 日記
最近は所要のため、ーーもとい小用のため、早朝4時頃に目覚めることが多
い。ぼんやりした頭から我に返って、まず思い浮かべるのは、「さて、きょ
うのブログは何を書こうか?」ということである。何もアイディアが浮かば
ないときは、焦りに似た苛立ちが私をとらえる。私はスマホを取りだし、
ニュースサイトや、いくつかの時事ネタのサイトに目を走らせる。ブログで
取りあげる、そのネタを探すためである。

おもしろそうなネタが見つかったとき、私は「これだ!」と膝を打ち、安堵
してふたたびまどろみへと落ちる。書くべきテーマが見つかりさえすれば、
それでよい。あとはキーボードを前にしてからのお楽しみということになる。
ああでもない、こうでもない、と推敲している時間が、私はとても好きなの
だ。

逆に書くネタが見つからないときは辛い。ブログ記事を毎日更新することが
苦行のように思えてくる。「だったら、止めればいいのに!義務でもないの
に、どうして続けるの?」、「強制されたわけでもないのに、なんで止めな
いの?ボランティアのつもり?それとも、あんたは自虐趣味なの?」
そういう声が聞こえてくるが、それでも私がブログを書き続けるのは、おも
しろいネタをめぐって、キーボードをたたく快楽が忘れられないからである。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。苦がなければ楽もない。ーーそういうこ
とである。

けさ私が見つけたのは、次のようなタイトルの記事だった。
「杉田水脈氏、名前を覚えてもらえない 枝野氏「水田」小西氏「水田」報知
「水田」...」(JCASTニュース)

記事の本文にはは、こう書かれていた。
「『悪名は無名に勝る』という言葉もある。ただ、杉田氏の場合、肝心のそ
の名が、なぜか間違われ続けている。「水田」なる誤った名前で呼ぶ人が、
一般層はもとより、政界、さらにはメディアにも、後を絶たないのだ。」
立憲民主党の枝野代表しかり、小西洋之参院議員しかり。スギタ議員を擁護
する人まで「ミズタ議員は・・・」と間違えるという。この記事は、私が見た
「スポーツ報知」のネット記事(「江原啓之、『LGBTは生産性がない』発
言の水田議員をバッサリ『無視するべき』」)にも言及していた。

JCASTニュースのこの記事は、これだけのことを書きながら(残念なこと
に)こういう間違いが頻発する、その理由についてはまったく触れていな
い。間違いが頻発する理由は、一体どこにあるのか。それは「結婚に伴う
改姓」から来ているのではないか、と私は先日のブログで書いたが、この
記事は、その可能性についてすら触れていないのだ。JCASTニュースの記
者は、スギタ氏が既婚者であるとは、思ってもみなかったのだろう。

それはともかく、スギタ議員をネタにして、これで3回ほどブログが更新で
きたことになる。ーーこんなふうに書くと、「ブログを書くためにネタ探し
なんて、本末転倒じゃないか」とおっしゃる向きもあるかも知れない。しか
し、ブログ記事を書くとき、私からすれば、それは「私小説もどき」を書い
ている気分なのである。

私小説の作家は、身辺雑記を書き綴る。近くの街を歩き、出会った体験を文
章にする。足が不自由で、街を自由に出歩けない私は、代わりにネットの森
を散策する。私小説の作家も、そのうちネタを探す必要から、街に出ていく
ようになるだろう。私がネタを探しに、ネットの森を渉猟するのと同じこと
である。

何事であれ、継続するのは容易ではない。継続は力なり。継続には(ネタを
追いかける)力も必要なのだ。
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