ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

慰安婦問題 その記憶の闇から

2016-07-30 15:53:50 | 日記
日韓関係の改善を登山にたとえるなら、交渉のプロセスはいよい
よ最後の胸突き八丁の段階に差しかかったことになる。

日韓両国は昨年末、いくつかの条件を出して「手打ち」を行っ
た。そのときの合意に基づいて、きのう韓国政府は、元慰安婦を
支援する「和解・癒やし財団」を発足させたのである。財団は、
日本政府から10億円の拠出を受け、元慰安婦らに癒し金を支給す
るとともに、彼女らの心の傷を癒すこと、そして名誉と尊厳を回
復することをめざすとしている。

この財団の成功が、日韓関係の改善に向けた最終的な段階の取り
組みを意味するにもかかわらず、それが「胸突き八丁」であるの
は、そこに、乗り越えなければならない、高い大きなハードルが
待ち構えているからである。

登頂をはばむ壁として懸念されるのは、元慰安婦の支援団体や左
派野党が、合意への反対姿勢を崩していないことである。昨年末
の合意で日本政府は、慰安婦問題は日本軍の関与の下で起きた問
題であるとして、その責任を認め、安倍首相が謝罪と反省の意を
表明した。ところが韓国の(一部の)元慰安婦や支援団体は、日
本の法的責任や国家賠償を日本政府は明確に記していないと反発
して、合意の白紙撤回を求めている。
27日には、ソウルの日本大使館前で1000人規模の反対集会が開か
れ、財団発足の記者会見場では、反対を叫ぶ学生が乱入する騒ぎ
も起きた。

この壁は、どうしたら乗り越えられるのか。財団設立に反対の姿
勢を示す支援団体や左派勢力と、元慰安婦の人たちとを、ひとま
ず切り離して考える必要がある。「和解・癒やし財団」の目的は、
元慰安婦の人たちとの和解を成し遂げ、彼女たちを癒すことにあ
る。ならば、まずは彼女たちとの和解を実現することが急務であ
るが、この和解はどうしたら可能なのか。

はっきりさせなければならないのは、彼女たちが日本軍による強
制連行の「被害者である」という判断が、どこまで事実に即した
ものであるかである。というのも、管見によれば、日本軍が朝鮮
半島で少女たちを強制連行したという見方は、いわば捏造であっ
て、事実に基づくものではないからである。この見方は、吉田清
治が著書『朝鮮人慰安婦と日本人』(1977年)で行った「告白」
に基づいている。しかしこの吉田証言が根拠のないフィクション
であることは、その後の歴史的調査によって明らかにされている
(この問題に興味のある方は、Wikipediaの「朝日新聞の慰安
婦報道問題」の項を見ていただきたい)。

にもかかわらず、彼女たちが「自分は日本軍による強制連行の被
害者だ」という自己認識を持つのは、彼女たち自身が記憶の捏造
を行っているからである。我々のだれもがそうであるように、人
は得てして自分の記憶を捏造する。捏造することで、自分の記憶
を受け入れやすいものに変造し、そうすることで、自分の存在そ
のものを受け入れる。

「私は先祖の呪いのせいでこんなに不幸になったのだ」と思える
人が、そう思えない人に比べて不幸であるかどうかは、一概には
言えない。「私が不幸になったのは、不実なあの男のせいだ」と
思える人が、そう思えない人に比べて不幸であるかどうかは、一
概には言えない。

「自分は日本軍の被害者だ」という自己認識を持つ彼女たちは、
自分自身が創りあげたこの自己認識によって、日本に対する憎悪
を増幅させる。日韓が和解すればやり場を失うこの憎悪を、--
この怒りを、どこに向けさせれば良いのか。何よりも怒りそのも
のを宥め、和らげることが大切だろう。そのためには、身寄りの
ない、不幸な境遇の老女たちに癒しの場を作り、提供することが
必要である。「元慰安婦」というレッテルにこだわることはない。
身寄りのない老人たちがそうであるように、彼女たちが求めてい
るのは、自分たちが少しでも心穏やかな余生を過ごせるような、
福祉の体制が充分に整った、暖かいコミュニティの場であるのか
も知れない。心穏やかに余生を過ごしてもらうには、彼女たちを
政局に巻き込み利用しようとする策動家たちの喧騒から、年老い
た彼女たちを遠ざける仕組みも考えなければならない。


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精神異常者の罪と罰

2016-07-28 13:55:45 | 日記
数日前の深夜、精神に疾患を持った男が,相模原市にある知的障害者福祉施設に押し入り、刃物で19名の入所者の命を奪った。私が関心を持つのは、この26歳の男が今後、どういう罪の裁きを受けるかである。

この男は精神に疾患を持つという点では、自身が知的障害者であるから、司法はこの点を考慮し、責任能力がないという理由で、この男を不起訴処分にするであろう。再犯の可能性を考慮して、男には通院治療、または入院治療が課せられることも考えられるが、いずれにしても、男が刑務所などの隔離施設に収容される可能性はない。

現行の刑法では最も可能性の高いこのような処分に、かねてから私は疑問を持っている。

問題を一般化して考えてみよう。人は精神疾患以外にも、パラノイアの気質を持つなど、何らかの事情である特定の思想を、自分の心の奥底に固着させることがある。この思想が「成り上がりの金持ちは許せない」といった程度なら問題はないが、問題なのは、「▲▲は生きている価値がないから、俺がぶっ殺す!」というように、ユダヤ人、朝鮮人、障害者、金満家など、特定の属性を持つ人たちの抹殺を、積極的に是認するような過激な考え方である場合である。こういう考え方は、なぜ問題なのか。

もう数十年も前のことになるが、深夜のテレビ討論番組で、若者が「人はなぜ人を殺してはいけないんでしょうか?」という問いを発して、話題になったことがあった。知識人といわれる人たちがだれ一人、この問いに答えられなかったことから、言論界には、これがセンセーショナルなことと受けとめられたのである。

私は当時、この青年には、こう答えればよいと思ったものだ。「それじゃ君は、自分が殺されても良いと思えるの?」

人は皆、他人から殺されたくないと思って生きている。生存権を基本とする自分の人権を、他人から尊重されたいと思いながら生きている。そう思う以上、我々はだれも、他人の人権を尊重しなければならないのだ。他人を殺そうとしてはならないのだ。
この理屈はもちろん、「生きたい。殺されたくない」と思っている人にだけ通用する。「生きたくない」と思っている自殺志願者には通用しない。

自分の人権などどうでもよいと考える自殺志願者は、他人の人権を尊重する義務を負わない。平気で他人の命を奪おうとするそういう人を、私は自分の敵であるとみなす。我々としては、そういう人とは戦うしかない。戦いの結果、彼が命を落とすことになっても、それは自業自得、我々の知ったことではない。

さて、「▲▲は生きている価値がないから、俺がぶっ殺す!」と考えるパラノイア、あるいは精神疾患者であるが、彼らも他人の人権を尊重せず、他人の命を奪うことをいとわない点では、自殺志願者と変わらない。彼らもやはり我々の敵なのだ。社会の敵、と言ったほうが分かりやすいだろう。我々は彼らと戦い、彼らを社会から排除しなければならない。

私が望むのは、司法の判断が、我々の戦いを援護するものになってくれることである。重ねて言う。彼らの〈人権〉を配慮し尊重するなんて、愚の骨頂である。
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中国の姿勢と〈正義〉

2016-07-27 15:00:38 | 日記
事の発端は、オランダ・ハーグの仲裁裁判所が先ごろ、中国の主
張に関して下した判決である。領有権をめぐる中国とフィリピン
との係争に関して、仲裁裁判所は、(南シナ海のほぼ全域に自国
の主権が及ぶとする)中国の主張を全面的に退けた。

中国はこの判決を認めようとせず、判決に従わない姿勢をあらわ
にした。国際社会のルールを無視して、無法者のようにふるまう
中国のこの姿勢を、日本とアメリカは強く非難し、東南アジア諸
国連合(ASEAN)外相会議で、また、続く東アジアサミット(EAS)
外相会議でも、(中国を非難する)己の立場への支持を取りつけ
ようとした。そして中国への非難を共同声明に盛り込もうとした
のだが、意に反して、この企てはいずれも成功しなかった。

不首尾の原因ははっきりしている。中国がチャイナ・マネーを餌
にして、参加国の取り込みを図ったからである。国際社会のルー
ルを無視して無法者のようにふるまえば、中国は孤立して、いず
れ衰退の道をたどるだろう。これが、私のいだいた長期的な展望
である。しかし、そんなことは中国もとっくにお見通しで、周辺
諸国を自分の味方に引き込み、孤立を避けようと、潤沢なチャイ
ナ・マネーに物を言わせて、着々と裏交渉を重ねていたというこ
とである。

ルールに従わずに、金の力で国際社会を牛耳ろうとする、--こ
の中国の姿勢を、日本もアメリカも非難することはできない。ド
ルの力で軍備を増強し、その軍事力に物を言わせて世界を牛耳ろ
うとしてきたアメリカ。その傘下に入って安逸をむさぼってきた
日本。その基本姿勢は、いずれも中国のそれと大同小異だと見る
ことができる。

昨今では、アメリカが金をケチって軍備を縮小し、世界各地から
軍事基地を撤収して、自国第一の「引きこもり」の姿勢を見せ始
めている。このことを考えれば、最近のこうした中国の動きは、た
しかに日本の安全保障にとっては大きな懸念材料だと言える。

とはいえあまり悲観することはない。中国は南シナ海における係
争について、「当事国同士の直接的な話し合い」を重視する姿勢
を打ち出している。これは、係争の原因になっている利害の衝突
を、金銭的な取引によって調整し解消しますよ、という意思表示
であろう。〈正義〉が元来、利害の調整原理であることを考えれ
ば、利害の調整を欧米流の〈正義〉とは別の手段に求めようとす
るこうした中国の姿勢は、必ずしも非難すべきものではない。

南シナ海の領有権をめぐって仲裁裁判所に中国を訴えたフィリピ
ンにしても、中国側の主張を受け入れる代償として、莫大なチャ
イナ・マネーを手に入れることができるなら、「それならば話は
別だ」と思い直し納得して、引き下がるのではないだろうか。

「いや、損得勘定の問題ではない。問題は〈正義〉なのだ!」と主
張する向きもあろうが、学者先生の議論世界ならいざ知らず、国際
政治の現実世界では、そんな議論は何の意味も持たないことを知る
べきである。
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「決め方」の技術

2016-07-26 14:45:09 | 日記
国家ぐるみでドーピングを行ったロシアの、その選手団にリオ五
輪への参加を認めるかどうかの問題について、国際オリンピック
委員会(IOC)はこのほど、この国に所属する選手を全面排除す
ることはせず、出場の可否を各国際競技連盟(IF)の判断に委ねた。
過去にドーピング違反がないなどの条件を満たした選手には、出
場する道が残されたことになる。

IOCのこの決定について、新聞各紙の評価はおおむね厳しい。な
かでも批判の急先鋒は、産経の社説《ロシア除外見送り 五輪は
瀕死の危機にある IOCの判断は責任放棄だ》(7月26日付)
のそれであろう。それによれば、IOCの判断は「誤った判断」で
あり、「責任放棄の丸投げ」とも言うべきものであって、これに
より「スポーツと五輪は、瀕死(ひんし)の危機に陥る」ことに
なる。IOCの判断は、「大国の威圧に屈し、巨大マーケットを失
うことを恐れての弱腰判断と非難されても仕方がない」ものであ
り、これによって「致命的な薬物疑惑も、圧力と交渉次第で不問
に付されると、誤ったサインが広まる恐れもある」からだという。

他方、IOCの判断に理解を示すのは、東京新聞の社説《ロシアと
薬物 五輪の原点忘れるな》(7月26日付)である。東京は言う。
「組織ぐるみの不正の中での個人の権利、経済的な影響、スポー
ツ大国であるロシアとの摩擦を避けたいという思い。これらを考
え合わせれば、今回のIOCの決定はギリギリの判断で下された
ものであり、その落としどころに一定の理解はできる。」
IOCがロシア選手団をリオ五輪から全面除外する決定を下した場
合、そこにどんな事態が生じのるか。東京によれば、
(1)薬物に手を出していない潔白な選手が、不当に出場の権利を
奪われる。
(2)ブラジル経済が大きな打撃を受ける。
(3)IOCとロシアの関係に遺恨を残す。

こうした事態が生じる可能性を考慮したとき、ロシア選手団をリ
オ五輪から全面除外する決定をしなかったIOCの判断は、充分に
理解できるものであり、賢明な判断だったというのである。

この東京新聞のIOCに対する評価が、適切で妥当な判断だと私は思
う。私は「IOCの判断、そんなに悪くないと思うよ」派なのだが、
読者諸賢はいかがだろうか。

産経と東京と、この両極の間で揺れるその他の社説は、苦しまぎ
れに説得力の乏しい主張を展開しているように私には思える。

たとえば朝日はどうか。朝日は、「国ぐるみのドーピングの責任を、
個々の潔白な選手全員にも負わせるのは理不尽の感が否めな
い」と言いながら、次のように述べている。
「疑問なのは、不正にかかわったと思われるロシア・オリンピック
委員会に明確な処分を科していない点だ。個々の選手らは救済
されるべきだが、不正関与の疑いが濃厚な関係組織は調査し、責
任を問うのが当然の対応ではないか。」
ドーピングの不正にかかわった責任を、ロシア・オリンピック委員
会という組織だけに負わせ、そこに属する潔白な(?)選手個人には
負わせない、--そういう都合のよい処分は、具体的に、どういう
裁定によって可能になるのか、どうにも私には分からない。朝日が
打ち出そうとする具体策の展望が、私には見えないのである。

それでも朝日はまだマシなほうで、朝日に比べれば、読売や毎日
はもっといい加減だ。

読売は主張する。「IOCは、五輪で主要な位置を占めるロシア
との全面衝突を避けたのだろう。弱腰の対応と批判されても仕方
がない。」(7月26日付《露ドーピング IOCはなぜ自ら判断
しない》)

また毎日は、「クリーンな選手とスポーツの高潔さを守るため
ドーピングに対する闘いを主導する」責任がIOCにはある、とし
た上で、「今回の(IOCの)判断はその責任を果たしたとは言え
ない」と主張する(7月26日付《IOCの判断 リオで公正さ保
てるか》)。

私が問題だと思うのは、両紙とも、この主張の論理的な根拠をまっ
たく示していないことである。「国家ぐるみでドーピング不正をや
らかしたロシアはけしからん!」という感情だけが先走っているよ
うに思えるのである。感情は、論理の裏づけを持たなくては、説得
力を持たないんだよねえ。
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テクノロジーと人間 その現状と未来(その2)

2016-07-24 11:12:45 | 日記
テクノロジーは人間に、己の能力を増強する力を提供する。と
はいえ、テクノロジーが提供するこの力をどう活用するかは、人
間個々人の能力にdependentだ。テクノロジーだけがあって、
その力を活用するスキルが人間の側に伴わなければ、テクノロ
ジーが提供する力も所詮は無に等しい。

それを示す極端な好例が、自動車レースだろう。高性能のカー・
マシンほど、それを操るドライバーの操作能力を要求する。ドラ
イバーの操作能力が低ければ、いくらマシンの性能が高くても、
レースには勝てない。逆にドライバーの操作能力が高くても、マ
シンの性能が低ければ、やはりレースに勝てない。高いレベル
での人馬一体が要求されるのが、カー・レースの世界である。

テクノロジーと人間。この両極はどんどん近づいてきている。今や
ロボットは、人間の姿かたちをしたヒューマノイドに近づき、作業の
内容も、工業製品の生産工場にとどまらず、福祉・介護の現場か
ら、原発事故の処理現場までと多岐にわたって、多方面で活躍す
るようになってきている。
AI(人工知能)が囲碁の勝負でプロ棋士を破ったというニュースは
記憶に新しいが、また他方では、犬や猫のようなペットの姿かたち
をしたロボットが、介護や医療の現場で、心身が弱った人間に癒や
しを与えているというほほえましい現状もある。
そうかと思えば、そのまた他方では、HALのようなロボットスーツが、
人間の身体能力を補助して、介護や工場の現場で役立っていると
いう例もある。
テクノロジーは平和に資するだけではない。国家の軍事部門が
このロボットスーツに目をつけ、その技術の軍事への転用・応用
を企てている。それが現実のものになるのは、もうすぐのことだ。

ゆくゆくはドーピング薬物を摂取した選手と、ロボットスーツを身
に着けた選手が、同じ種目のスポーツ競争をし、さらには、ドー
ピングを行った選手と、人間そっくりのヒューマノイドの選手がタ
イムを競い合う未来が訪れるだろう。国家がテクノロジーの優劣
を競い、テクノロジーの優劣が勝敗を左右するこの世界では、
「スポーツの公正さ」はもはや何の意味も持たない。

国家がテクノロジーの優劣を競うのはなぜか。スポーツの世界の
延長線上には、戦場の現実世界がある。ロボットスーツを着用し
た兵士と、ヒューマノイドの兵士が最先端の兵器を操って、派手に
殺し合い(?!)を演じる世界は、ゲームの仮想世界にとどまらず、
現実のすぐ間近まで来ている。
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