ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

核廃絶の倫理と論理

2016-10-30 15:48:13 | 日記
おととい10月28日、日本政府は「核兵器禁止条約」の決議案に
対して、意外にも反対票を投じた。その日本政府の姿勢を擁護す
るように、産経新聞が《核兵器禁止条約 惨禍防ぐ手立てになら
ぬ》(10月30日)と題した社説をかかげている。論旨はタイト
ルにあるとおりだが、簡単に言うと、こういうことである。

「拳銃を手にして、「俺の言うとおりにしろ」と叫んでいる男が
いる。核兵器禁止条約は、この男に丸腰で立ち向かえと言ってい
るようなもので、荒唐無稽もはなはだしい。男の身勝手な言動を
抑止するには、こちら側にもそれなりの武器が必要なのだ。」

これはアメリカの、銃規制に反対する人々の言い分以外の何もの
でもない。アメリカではこの種の論理がまかり通り、銃規制が実
現しないので、乱射事件など、惨禍は絶えることがない。

これに対しては、「だから、日本のように法律で銃の所持を禁止
すればよい。核兵器に関しては、これが核兵器禁止条約なのだ」
と言いたくなるが、そう簡単にはいかないのが、悩ましいところ
である。

銃の所持を規制する法律にせよ、核兵器の所持を禁止する条約に
せよ、これに効力を与えるのは、武力の力である。日本の場合
だったら、警察権力がこの法律の行使を可能にしている。

はて、各国が核兵器を所持するのを禁止する、この国際条約の場
合は、どうなのか。日本における 警察権力のように、この条約に
効力を持たせる上位の権力、超・国家権力は、残念ながら国際社
会には、存在しない。これまでも存在しなかったし、これからも
存在する見通しはない。北朝鮮の核兵器開発の企てを阻止できな
い国際社会の現状が、このことをよく物語っている。

産経の社説が言うように、「核拡散防止条約(NPT)が定める
核軍縮交渉義務の履行を促していく、漸進的な方策」をとったと
しても、同じだろう。とても残念なことだが、どのみち人類の未
来に光はさしそうにない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「法の支配」とは何か

2016-10-29 11:57:24 | 日記
ドゥテルテ大統領は10月25日に訪日して、翌26日に安倍首相と
首脳会談を行い、あからさまなパフィーマンスで親日の姿勢を強
調した。このとき、日比協調のキーワードとなったのは、「法の
支配」である。

安倍首相が南シナ海問題について、「(この問題は)地域の平和
と安定に直結する国際社会の関心事項だ」と述べたのに対して、
ドゥテルテ大統領は、「法の支配の下、国際法に基づいて(この
問題を)平和裏に解決したい」と語ったという。

南シナ海で領有権を主張する中国に対して、常設仲裁裁判所はこ
れを認めない判決を下した。ドゥテルテ大統領は、この判決を無
視しようとする中国に対して、日本とともにこの判決に従うよう
に迫るフィリピンの立場を、明確に表明したことになる。

中国の膨張主義を牽制するために使われたこの「法の支配」とい
う言葉は、よほど人口に膾炙する美辞麗句なのだろう。正論を正
面にすえたがる新聞の社説でも、最近はこの文句をよく見かける
ようになった。タイトルだけを拾ってみても、以下のとおりであ
る。

朝日新聞《中比首脳会談 「法の支配」を忘れるな》
(2016年10月22日)
毎日新聞《中比と南シナ海 法の支配は脇に置けぬ》
(2016年10月22日)
東京新聞《比大統領来日 法の支配を共通項に》
 (2016年10月25日)
読売新聞《日比首脳会談 「法の支配」で連携を強めたい》
  (2016年10月28日)
産経新聞《日比首脳会談 法の支配貫く関係強化を 》
 (2016年10月28日)

そこできょうは、この「法の支配」という考え方の(タテマエで
はなく)ホンネの部分に照明を当ててみたいのだが、各新聞社が
好むこの「法の支配」という考え方の尤もらしさは、プロレスの
試合をイメージしてもらうと分かりやすいだろう。

ルールなどお構いなしに行われる、あの血みどろの場外乱闘の
シーンを思い起こしていただきたい。これがショーの一環だと分
かってはいても、あの血なまぐさい地獄絵図だけはどうにもいた
だけない、と思う人は多いだろう。爽快さを求めるのであれば、
勝負はルールに則って、つまり反則行為など行わずに、粛々と、
正々堂々と、戦われるべきなのだ。

こう考えて、フェアプレーを要求するのが「法の支配」の原則で
あるが、ここでちょっと立ち止まり、少し考えてみよう。「法の
支配」というとき、この「法」が、つまりルールが、どういうも
のかによって、この「法の支配」の原則の、その内実も変わって
くるのではないか。

こう述べるとき、私は、「法」やルールはどうにでも変えられる
ものだという考え方に立っている。大袈裟な言い方をすれば、ど
の時代にも、どの地域にも適切な規範として通用する、つまり、
普遍妥当性をもって通用する、法やルールなどないのではない
か、と私は疑っているのである。

法には良い法もあれば、悪法もある。それが悪法だった場合、そ
れでも我々はこの法に従わなければならないのだろうか。

法を持ち出すと話がいきなり物騒になるので、ここでは、人の生
き死にには直接関わらない、スポーツ・ルールの話を持ち出すこ
とにしよう。
たとえば五輪競技で、スキージャンプのルールに、見過ごせない
変更がなされたことがある。
長野五輪までは「身長+80cm」のスキー板の使用が許されてい
たのに、長野五輪の翌年、「スキー板の長さは身長の146%以内
」というルールへと変更がなされたのである。このルール変更
は、身長の低い日本人には不利に働くため、日本人を上位入賞か
ら締め出すための、欧米の陰謀ではないかと取沙汰されたもので
ある。

目をスポーツの外へと転じれば、もっときな臭い例もある。良い
例は「核拡散防止条約」である。この条約は「核軍縮」を名目に、
アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国以外の核
兵器の保有を禁止するものであり、核兵器の独占を許すものとし
て、不平等条約の悪評を買っている。これは条約であって法では
ないから、締結しなければそれまでだが、もしこれが国際法と同
等の拘束力をもって通用するようになったとき、「法の支配」が
声高に叫ばれたとしたら、一体どうなるのか、考えただけでも
ぞっとする話ではないか。

敗戦国日本の一国民である私としては、(敗戦後、日本に進駐し
た連合国軍の総司令部GHQが定めた)独占禁止法の、その理念が
国際政治の場に持ち込まれ、核兵器の保有にも適用されるよう、
望みたいところである。

奇しくも昨日28日のことであるが、「核兵器禁止条約」の決議案
が、国連総会の第1委員会で、123か国の賛成多数で採択された。
この条約こそ、5大国による核兵器の独占体制を打破するもので
あり、その決議案の採択は画期的なことと言わなければならない。

ところが、な、なんと、日本はこの条約に反対の票を投じたとい
うのだから、あいた口が塞がらない。日本は唯一の被爆国ではな
いか。いやはや。多くの人が驚き、呆れたらしいが、そんな日本
の(「アメリカのポチ」のような)姿を見て、ドゥテルテ大統領
はどう思っただろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥテルテ大統領の謎を解く

2016-10-26 15:48:41 | 日記
ドゥテルテ大統領の言動は、きわめて分かりにくい。我々からす
れば支離滅裂にも見え、ほとんど理解不能だが、この分かりにく
さが、――支離滅裂ぶりが、破天荒なこの人物の魅力になってい
ることも否定できない。きょうはこの分かりにくさの本質に、少
しでも近づいてみたい。

ネットで公になっている、最近のドゥテルテ大統領の言動を整理
してみよう。以下の記事には、彼の言動の特徴がコンパクトにま
とめられている。

「米国政府はここ数カ月、ドゥテルテ大統領の反米的な言動に目
をつぶってきた。だが同大統領は20日、さらに一歩踏み込んだ。
長年の同盟国である米国と「決別」し、中国と再び協力すると表
明したのだ。さらには、ロシアとの協力強化をも示唆した。中国
とロシアは、米国にとって戦略的な2大ライバルである。」(ロ
イター10月23日)

彼の言動を特徴づけているのは、何よりもまず(1)非常に強い反
米意識である。反米的な言辞だけでなく、彼は最近では、米国と
の軍事同盟から「決別」する姿勢まで示し始めている。
反米意識のなせる業か、(2)彼はまた、他方で中国とロシアに接
近する姿勢を示し始めた。中国とロシアと言えば、記事にもある
ように、アメリカにとっては宿命的なライバルである。アメリカ
が危機感をあらわにするのは当然である。

ここまでは分かりやすい。きわめて分かりやすい。反米と親中・
親露はなんら矛盾することではないからだ。こうした文脈から考
えるとき、分かりにくいのは、――ほとんど理解不可能なのは、
以下の報道である。

「フィリピンのドゥテルテ大統領は24日、来日を前に首都マニラ
で共同通信など日本の一部メディアと会見し、中国を念頭に「米
国と同盟関係にあるので、他のどの国とも軍事同盟は結ばないだ
ろう」と述べた。
 ドゥテルテ氏は米国と距離を置く発言を繰り返す一方で、中国
とは先週の首脳会談でも軍事協力を推進することで一致。中国と
急接近しているが、軍事同盟関係までには踏み出すことはないと
言明した形となった。」(共同通信10月25日)

この記事にもあるように、ドゥテルテ大統領は中国に接近して
も、軍事同盟関係までは踏み出さない。自らそう言明したという
のだったら、それなりに筋は通っている。彼は優柔不断で、はっ
きりした決着を避け、どっちつかずの煮え切らない態度を示して
いる、というだけの話だろう。この計算高い男は、米中の両方か
ら、「こっちにおいで」と飴玉をぶら下げられて、迷っているの
だと読み解くことも不可能ではない。

けれども、見逃せないのは、彼が「米国と同盟関係にあるので、
他のどの国とも軍事同盟は結ばないだろう」と述べていることで
ある。彼を中国、ロシアに接近させるほど、それほど彼の反米意
識が強いのだとしたら、彼はなぜ「米国以外には軍事同盟は結ば
ない」と言明したのか。

この疑問に答えるには、彼の反米意識の性格を見きわめる必要が
ありそうだ。読売新聞(10月26日付)によれば、ドゥテルテ氏
はベトナム反戦運動が盛んだった時代に学生生活を送り、フィリ
ピン共産党創設者に師事するなどして、左翼的な思想に影響を受
けたという。また、ダバオ市長時代には、爆発事件に関与した疑
いのある米国人男性が、FBI捜査官の関与の下に国外逃亡した事
件を経験し、以降、対米不信を募らせたという。

ドゥテルテ氏の反米意識は、例えてみれば、沖縄米軍基地で、ア
メリカ軍人が傍若無人にふるまう姿を見聞きし、その中で芽生え
た嫌米感情を核にして培われた根深いものなのである。ドゥテル
テ大統領が、米国との軍事同盟から「決別」すると表明したと
き、彼の脳裏には、たぶん傍若無人にふるまうこうしたアメリカ
軍人たちの記憶があったに違いない。米国との軍事同盟が、フィ
リピン人にとって侮辱ともいえるそういうふるまいを許すのな
ら、自分が大統領になった今後は、そういう歪(いびつ)な同盟
関係はとても認められない、と思ったのだ。

それでもドゥテルテ大統領は、どこまでもリアリストである。中
国に接近しても、彼はこの国に決して信頼を寄せてはいない。
フィリピンと中国との関係は、あくまでも一時的な「取引」上の
結びつきであって、情勢次第では、中国がふたたび自国に牙を剥
くこともあり得ると彼は読んでいる。彼にとって米国との軍事同
盟は、来るべきその時の、いわば保険のようなものなのではない
だろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥテルテ大将の皮算用

2016-10-25 21:10:06 | 日記
フィリピンのドゥテルテ大統領が来日した。彼が我々の関心を集
めるのは、この特異な人物が、米中の雌雄を決する亜細亜合戦の
ただ中で、勝敗のカギを握るキーパーソンの一人と見なされるか
らだろう。今のことろ、彼がどちら側につくのかは分からない。

彼の心境は、関ヶ原の戦いに際して、徳川軍と豊臣軍と、そのど
ちら側につこうかと皮算用をしている武将の心境に似ていると私
は推察する。

徳川軍と豊臣軍、そのどちら側についたほうが、自分をより高く
売れるのか。もちろん、そんなことよりも前に、勝馬に乗ること
のほうが肝要だ。敗軍の将になったのでは、領地の安堵もおぼつ
かず、目も当てられない。

さて、どちらが勝馬になるのか。フィリピン藩ドゥテルテ大将の
見通しは、日本藩の一庶民である我々のそれなんかよりも、ずっ
と正確だろう。ドゥテルテ大将の乗った馬が勝馬になる蓋然性が
高いと見てよさそうだ。さてさて彼の判断はどうなるのか。日比
首脳会談の詳報が待たれる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自爆老人の不幸

2016-10-24 17:45:51 | 日記
宇都宮市に住む元自衛官の老人が、きのう公園で、爆弾を用いて
自殺した。元妻との離婚訴訟をかかえ、裁判所や調停員に怒りを
募らせていたという。この怒りが自殺の直接の動機になったかど
うかは分からない。

きのうのブログを書き終えた後で、このニュースを知った私は、
「やっぱりなあ」と、妙な感慨にとらわれた。きのう、「生涯
独身でも、不幸とは限らない」というタイトルのネット記事を
読んで、強い共感を覚えた私は、そのことについてブログの文
章を認(したた)めたのだが、このニュースによって私が知った
のは、「独身でなかったために、不幸になった」男の実例に他な
らなかった。

では、この男は独身を通していたら不幸にならなかったのか。む
ろんそんなことは、だれにも分からない。分かるはずがない。だ
がこの男は、結婚したから、離婚することになり、離婚訴訟に巻
き込まれたのだ。結婚しなかったら、離婚することもなく、離婚
訴訟に巻き込まれることもなかっただろう。これは確かなことで
ある。

この確かな事実に「幸福」や「不幸」といった主観的属性を結び
つけることには、たしかに無理がある。けれども私がこのニュー
スを聞いて、「なるほどなあ」と思ったことも、紛れもない事実
である。幸福のただなかにいる人が自殺をする、それも、爆弾を
用いて自殺するなんて、考えられないからである。もっとも、幸
福でないから不幸、とは言えないとも思うんだけれどね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする