ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

イス-ハマ紛争 日本の外交姿勢を問う

2023-10-31 09:45:16 | 日記
昨夜、夕餉の食卓で次のニュースを聞いた。


イスラエル軍がパレスチナのガザ地区での軍事行動を拡大していることについて、上川外務大臣は、人道目的の一時的な戦闘の休止を関係国に働きかけていく考えを示しました。
(中略)
上川外務大臣は、大阪市で行った記者会見で『現地の緊張度は刻一刻と増していて、深刻な懸念を持って情勢を注視している。わが国としては人道的休止や人道支援活動が可能な環境の確保が重要だという立場で、各国と連携しつつ関係者に働きかけるなど積極的に取り組む』と述べ、人道目的の一時的な戦闘の休止を関係国に働きかけていく考えを示しました。

(NHK NEWS WEB 10月29日配信)


このニュースを聞いて、私は、「ははあ、上川外相は日本が〈人道〉の理念を重んじる国だということを、アピールしようとしているのだな、ご苦労なことだ」と思った。


な〜に、いいではないか、と言う人がいるかもしれない。〈人道〉の理念を重んじることは、なにも恥ずべきことではない。日本は平和憲法を守る平和主義の国家なのだ。日本が〈人道〉の理念を重んじる国だということは、むしろ胸を張ってアピールすべきだ、ーーそう言う人がいるかもしれない。


けれども、問題にすべきは、この発言が日本の外務大臣の発言だということである。問われているのは、日本の国家としての外交姿勢なのである。


憶えておいでの人も多いと思うが、国連総会は先日、イスラエルとハマスの軍事衝突をめぐり『敵対行為の停止につながる人道的休戦』を求める決議案を採択した。このとき、日本はどういう投票行動を示したのか。
言うまでもない。日本は「棄権」をした。「賛成」票を投じなかったということだ。親分であるアメリカに「御意の通り」と追従したのである。


きょうの「朝日川柳」にこんな句があった。


休戦にYESと言えぬ悲し国


日本は、親分のアメリカに気を遣って、二枚舌を使うしかない「悲し国」なのである。


日本のこの悲しい外交姿勢を、「仕方がないのさ」と言って済ますことはできない。平気で二枚舌を使う国、態度が首尾一貫しない国を、国際社会は信用するだろうか。いや、信用するはずがない。二枚舌の風見鶏国家は、かえって馬鹿にされるだけである。


上川外相は申し訳のように

「わが国としては人道的休止や人道支援活動が可能な環境の確保が重要だという立場で、各国と連携しつつ関係者に働きかけるなど積極的に取り組む所存です」

と述べたが、こんな見えすいた白々しい文句を並べたところで、従者の国・日本はそっぽを向かれるのがオチだろう。


おまけに日本は、ガザ地区の人道支援として、1千万ドル(約15億円)を拠出すると公表した。これは恥の上塗り以外の何ものでもない。「カネを出せばいいんでしょ、カネを出せば!」という拝金主義の態度は、「またかよ、日本は」と、物笑いの種になるだけだろう。


なけなしのカネを支払う悲し国


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中国に対抗 武器は大丈夫か

2023-10-30 14:28:07 | 日記
国の存続と国民生活の安寧をはかるのは、政府の役割である。それを妨げようとする外圧があれば、それに対抗しようとするのは当然のことだ。
水産物の輸入停止など、輸出入の規制を行うことにより、日本に圧力をかけようとする中国の「経済的威圧」の企てが、「外圧」として日本を脅かしている現状がある。これに対抗するには、日本はどうすれば良いのか。
きのう閉幕したG7=主要7か国の貿易相会合は、中国に対抗するために設(しつら)えた一種の舞台装置だったと言えるだろう。


きのうのNHKのニュースによれば、G7=主要7か国の貿易相会合は「中国による日本産の水産物の輸入停止を念頭に、不必要に貿易を制限するいかなる措置も直ちに撤廃することなどを求めた閣僚声明を採択した」という。


このニュースを聞いたとき、私は奇妙な既視感にとらわれた。え?貿易を制限する、だって? 昔、どこかで聞いた言葉だな・・・。


奇妙な既視感をかみしめながら、私は遠い記憶を探りはじめた。やっと探り当てた記憶を裏打ちする、こんな記事が見つかった。


日本政府は28日(=2019年8月28日)、輸出管理の優遇国から韓国を除外する。これに猛反発する韓国は日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄するなど、両国の関係は最悪の事態を迎えつつある。
(ニュースイッチ2019/8/28)


そうそう、日本はたしか4年ほど前、韓国に「経済的威圧」を加えるべく、軍事転用が可能な物品への輸出規制を行ったのだった。


これはまさに今、中国が「放射性物質が含まれている恐れがある」との口実で日本産海産物の輸入を規制し、日本に「経済的威圧」を加えようとしているのと同じことではないか。


日本の経済を守ろうとする政府の、その意気込みはよい。その目的を達成するために、G7=主要7か国とタッグを組もうとする戦略もよい。ただ、中国に対抗しようとして日本が持ち出した、その武器=非難の口実はどうなのか。


「経済的威圧」を理由(口実)に中国の外交姿勢を非難すれば、その矛先はブーメランとして日本に返ってくる。


べつに政府の対中戦略に水をさすつもりはないが、霞が関の官僚や与党の政治家諸君を含む政府関係者には、日本の歴史も踏まえて、理論武装をしっかりやってもらいたいと願うのである。G7とタッグを組み、衆を頼んだとしても、くりだす武器に欠陥があったのでは、戦いに勝てないからね。

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国連総会と〈人道〉の理念

2023-10-29 10:38:52 | 日記
いや〜、よかった。ひとまずはよかった。「我が意を得たり」とは、まさにこのことである。


以前のブログで、私は次のように書いた。


「ここ(=国連安保理で行われたイスラエル、パレスチナ双方の外相による非難の応酬)では、はっきりと〈人道〉の理念が、イスラエルに武力攻撃の停止を迫る攻撃の砲弾として撃ち出されている。
〈人道〉の理念に訴えるこのイスラエルへの要求は、一体どの程度の効果を持つのだろうか。
国連安保理は、おそらく一部の国の利害がらみの拒否権発動によって、イスラエルに武力攻撃の停止を命じる決議の採択には至らないだろう。
だがこの〈人道〉の理念は、国連安保理の決議などとは別に、イスラエルに攻撃を思いとどまらせる実質的な効力を有すると私は信じる。」
(10月25日〈イスラエルと人道の理念〉)


私がこう書いたのはかれこれ4日前のことだが、その4日後のきょう10月29日、私が目にしたのは、朝日新聞の以下のようなニュース記事だった。


国際世論示す休戦決議 国連総会、反対14票 米、孤立傾向
国連総会(193カ国)が27日、イスラエルとハマスの軍事衝突をめぐり『敵対行為の停止につながる人道的休戦』を求める決議案を採択した。このことは、国際世論の潮目の変化を浮き彫りにした。激しい空爆などで人道危機を引き起こしているイスラエルや、イスラエルを支える米国が、数の上では世界で孤立している傾向が示された。
 米東部27日夜時点の国連発表によると、決議案にはイスラエルや米国など14カ国が反対する一方、120カ国が賛成した。

(朝日新聞10月29日)


この記事で「国際世論」と言われているのは、「人道に悖(もと)ることをするな!」という、〈人道〉の理念を叫ぶ声のことにほかならない。「国際世論の潮目の変化」というのは、利害がらみの国際政治の動向よりも、〈人道〉の理念のほうが力を持つようになったということである。


この記事がいうように、この国連総会決議は拘束力を持たない。拘束力を持つのは国連安保理での決議だが、「本来責任を負うべき国連安全保障理事会が、拒否権を持つ米ロなどの対立で機能していない」現状では、この総会決議により、「休戦」が国際社会の一定の意思として示されたことの意義は大きい。パレスチナのマンスール国連大使は「我々は勝利した」と述べたというが、イスラエルとパレスチナのどっちが勝った、負けたの問題ではない。ロシアとアメリカのどっちが勝った、負けたの問題でもない。勝ったのは、あえて言うなら、国際世論に力を与えた〈人道〉の理念なのである。


いや〜、よかった。ひとまずはよかった。「ひとまずは」というのは、イスラエルがこの国連総会決議に従って「休戦」に応じるかどうかが、まだ判らないからである。休戦に応じなければ、イスラエルは国際社会からさらに孤立し、ずっと厳しい状況に立たざるを得ないだろう。

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ブログを書く私の「自己」は

2023-10-28 12:07:22 | 日記
ブログを書くとは、ブロガーにとっては、「自己を表現する」という意味を持つ行為である。ーーきのうのブログで、私はそう書いた。
きょうも私は、(自己を表現すべく)「自己」の内部を覗き込んでみた。だが、そこには何もなかった。そこにあるのは、ただの空虚だった。
そこで私は、自分の心を揺さぶった社会的な出来事を探してみた。社会的な出来事という外部からの刺激に反応する、心の様々な様態、外部の刺激によって生じる私の心の様々な思いも、ある種私の「自己」の表現の形に違いない。


新聞記事に目を向けてみた。19世紀のドイツの哲学者・ヘーゲルは次のように述べている。
「毎朝、新聞を読むことは、リアリストの朝の祈りである。」


私も、(どこかに「自己」の片鱗が見出せないかと)祈るような気持ちで、「朝日新聞紙面ビューアー」を開いてみた。


第1面には、「『真の自由を』訴え」という見出しがでかでかと打たれていた。きのうは袴田巌さん(87)の裁判をやり直す再審の初公判が静岡地裁であったという。57年前の1966年、静岡県で一家4人を殺害したとして、強盗殺人罪などで死刑が確定したあの袴田さんの、再審・初公判である。


大変申し訳ないが、ーーというより、私の非情な「自己」を見る思いで汗顔の至りだが、この記事を読んでも、私の心はさして動かなかった。私の心を揺さぶったのは、次の件(くだり)だろうか。


袴田さんは47年超の拘禁生活で精神を病み、意思疎通が難しい。地裁は刑事訴訟法の規定に基づいて出廷を免除し、秀子さんが『補佐人』として代わりに法廷に立った。
(朝日新聞10月28日)


私の心を揺さぶったのは、むしろきのうの記事にあった次の件のほうである。


姉の秀子さん(90)はテーブルの上に手紙を広げた。一審公判中の67年から第1次再審請求中の95年に届いたもの。私信ではあるが、冤罪(えんざい)を訴える巌さんの思いを広く知ってほしい、という思いが、秀子さんにはある。
 《神さま――。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。此処(ここ)静岡の風に乗って、世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って、僕は叫ぶ》(67年1月ごろ)
 当初は母宛てだったが、母が亡くなってから秀子さんに送られてくるようになった。

(朝日新聞10月27日)


母親に手紙を書き、自分の無実を必死の思いで訴えていた獄中の袴田さんと、その後、拘禁反応で精神を病み、意思疎通がとれなくなった袴田さん、半世紀以上も無念の拘禁生活を強いられた袴田さん、ーーこれが捜査当局のでっちあげた冤罪だとしたら、そんな罪作りをした捜査当局の罪は大きい。バカヤローである。


捜査当局という名の国家権力。その国家権力の横暴に憤りを感じる「自己」の姿を、たしかに私は見た。


今にして思い起こすのは、私が大学に入学した半世紀前、キャンパスを中心に燃え盛っていた「新左翼」の反政府運動である。その過激な運動に接した経験が、「三つ子の魂」のように心に棲み着いてしまっている。それが紛れもない「自己」なのだと知らされた天邪鬼爺である。

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自己と行動 ゲーテの言葉から

2023-10-27 17:14:24 | 日記
絶望名人カフカ✕希望名人ゲーテ』(草思社文庫)。
最近はデイサにこの本を持っていくようになった。何ごとでも絶望に傾きがちなペシミストのカフカと、何ごとにも希望を見出したがるオプティミストのゲーテ。この2人の文豪を対比的にとらえ、テーマ別にそれぞれの文章を紹介した、おもしろい趣向の文庫本である。その中に見たゲーテのこんな文章が心に沁みた。


自分自身を知るには、どうすればいいのか?
じっと見つめていたってわかりはしない。
行動してみればわかる。
自分の義務を果たしてみよう。
そうすれば、すぐにわかる。自分に何がそなわっているのか。


だが、義務とは何か?
目の前のやらねばならないことだ。

(ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代)


ゲーテのこの言葉には、編訳者・頭木弘樹氏の以下のような解説文が添えられている。


「自分が知っている自分とは、『過去にこういうことをした』という自分の過去の行為の積み重ねだということでしょう。」


私の心にゲーテの言葉が沁みたのは、「ブログを書く」という自分の日々の行為について考えさせられたからである。


ブログを書くとは、ブロガーにとっては、「自己を表現する」という意味を持つ行為である。だが、その「自己」とは何かーー。


そう問われても、私はうまく答えられないし、自分が書いたこれまでのブログを読み返してみても、その答えを見つけられそうにない。


それはなぜか、と考えたとき、自分には行動がーー行動によって得られた経験がーー欠けているからではないか、という答えに行き着いたのである。


お気づきの読者も多いと思うが、私は2011年に脳出血に倒れて以来、手足の自由を奪われ、思いのままに行動することができなくなった。部屋を出て、自由気ままに街を歩くことができなくなった。
行動によって得られる経験といっても、週2回のデイサ通いで得られる何の変哲もない経験ばかり。ーーそんな代り映えのしない貧血じみた経験を、ブログに書き綴っても何の面白みもない。


私は、自分の書く文章に面白みが欠けていることを何かと痛感し、そのことに引け目を感じている。それは、文章を書くこの私自身に面白みが欠けていることと無縁ではないのかもしれない。ーーそう思いながら、はたと気づいたのである。


ブログを書くという行為、それこそが私が日々行っている行動の形であり、ブログのネタとして取り上げる様々な社会問題と、それに寄せる私の心の様々な思いを通じて、私は曲がりなりにも自己を表現しているのではないか。その表現の形に面白みが欠けているとしたら、それも自分の個性ではないのか。だったら、そのことに引け目を感じる必要などないのではないか・・・。


「希望名人」の文章をかみしめながら、そんなふうに考えたきょうの「惑い名人」・天邪鬼爺である。

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