ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

鳩山新党「共和党」 「友愛」とは何か

2019-10-31 11:05:32 | 日記
鳩山新党「共和党」の第4の理念「友愛」について検討しよう。これについて、鳩山氏は次のように述べている。
「友愛という考え方は最も重視したい。自由が行きすぎても弱肉強食になる。平等が行きすぎてしまうと無気力な社会になる。働いても働かなくても同じだけ所得が得られるというような社会になると、やる気がどこまで呼び起こされるかということが怪しくなる。この自由と平等という2つの違う理念を結びつける発想に、友愛、人間同士の愛情が大変重要だ。自立と共生。一人一人が自立する心を持つということ、自己の尊厳を尊重するということと同時に、他者の尊厳を尊重する友愛精神、自立と共生の考え方が大変重要だ。祖父の鳩山一郎は青年活動をしていく中で、友愛とは相互尊重、相互理解、相互扶助という言葉で表した。その方が分かりやすいかとは思うが、お互いに理解しあいながら、お互いに足りないところを助け合っていこうという精神が友愛精神だ」

さすがは「友愛」の元祖・鳩山一郎を祖父に持つ、鳩山由紀夫氏である。「友愛」について語った件(くだり)は他の3つの理念よりも数段長く、しかも力が入っている。

だが、その中身となると、どうなのだろう。残念ながら、私はこれに疑問を呈さざるを得ない。「自由が行きすぎて、弱肉強食になった社会」。他方で、「平等が行きすぎて、無気力になった社会」。この2つを結びつけるのが「友愛」の理念だと鳩山氏が言うとき、彼は、自由主義の欠点と、共産主義の欠点を克服するのが「友愛」の理念だと言いたいらしい。

しかしながら、自由が行きすぎると弱肉強食の社会になる、というのは、その昔、共産主義者が自由主義を批判するために使った言い草にほかならない。また、平等が行きすぎると無気力な社会になる、というのは、その昔、自由主義者が共産主義を批判するために使った言い草である。

そんなふうに批判される「弱肉強食の社会」、「無気力な社会」などというのは、しかし、両陣営が相互にでっち上げた極端な幻想に過ぎず、そんな社会は実際には存在しないと言ってよい。自由主義陣営は「弱肉強食」云々の誹(そし)りを免れるため、税制に累進税を導入するなどして、格差の是正につとめてきた。また、共産主義陣営は「無気力」云々の弱点を克服するため、国民の経済活動に競争原理を取り入れるなどしてきた。

両陣営のそうした歴史的企図を(無かったことのように)シカトして、いきなり「友愛」を持ち出すのは、なんとも短絡的である。きっと鳩山氏の頭からは、現実の歴史認識がぽっかり抜け落ちているのだろう。友愛、人間同士の愛情、他者の尊厳を尊重する友愛精神、相互尊重、相互理解、相互扶助、等々、・・・どんな美辞麗句を並べようと、虚しさが募るだけである。

これまで5回にわたり、鳩山新党「共和党」と、その柱である正義、美徳、卓越、友愛の4つの理念について検討してきた。さて鳩山氏は、これらの理念を携えて、懸案の現実的な外交問題にどう対処しようとするのか。次回はそれについて考えることにしたい。
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デイサとホストクラブ

2019-10-30 11:08:45 | 日記
鳩山新党「共和党」について、あれこれ論じてきた。気づけば、同じようなテーマを4日連続して取りあげたことになる。これではさぞ読者も辟易しているだろうから、ちょっと話題を変えてみたい。私の予定では、このあと本ブログでは「共和党」の第4の理念である「友愛」について論じ、そのあとで現実的な外交問題に関するこの党の方針を取りあげるつもりである。堅苦しい話ばかりでは、読者も息が詰まるだろう。きょうはちょっと小休止といったところである。

私が週に2日通っているリハビリ・デイサの話をしたい。このデイサは、私が通っている時間帯も含め、全体的に女性(お婆さん)よりも男性(お爺さん)の占める比率のほうが高く、これは珍しいことらしい。

この現象について、このデイサのトレーナー(40代、男性)が二度、彼なりの分析を述べたことがある。
「これは多分、僕がイケメンではないからだと思います。イケメンではないから、女性の利用者さんが少ないのだと思います」
これは、彼が運営推進会議で述べた言葉である。「運営推進会議」というのは、市役所の担当者、ケアマネさん、民生委員、利用者とその家族などからなる年に2度のセレモニーのようなもので、私は「利用者代表」としてその会議に出ていた。

中年の大泉洋似のこのトレーナーの見解は、(自虐ネタの)冗談ではなく、彼なりに冷静な分析を述べたものだった。「ちょっと違うのではないかなあ」と思いながら、私はその発言を聞いていた。

何がどう違うのか。それは、「デイサはホストクラブではない」ということである。トレーナーがイケメンであるとか、ないとか、セクシーであるとか、ないとか、そんなことで老人はデイサを選んだりはしない。お婆さんたちの感性は、(異性である)私には解らないが、少なくとも私に関して言えば、私がこのデイサを選んだのは、このデイサの女性スタッフが魅力的だったからではない。

いや、ある意味、魅力的だと私が思ったのは確かだが、それは「キャバクラの若い女の子を見る、中年オヤジのねちっこい視線」で見てのことではない。「体験通所」で見たこのデイサの若い女性スタッフは、明るく、親切そうで、人柄が良さそうだった。こんなスタッフが働くデイサなら、楽しい時間が過ごせそうだ。そう私は思ったのである。

中年男性トレーナーの発言は、まったく根拠のないものではなかった。近くに同系列のデイサがあり、このデイサのトレーナーは、20代と年が若く、しかも羽生ゆずくん似のイケメンだった。このゆずくん似のトレーナーは、利用者のお婆さんたちからとても人気があるという噂を聞いたことがある。

だが、この「人気」の中身はどうなのか。SMAPや嵐が「人気がある」というときの「人気」とは違うのではないか、と私は思っている。彼は我がデイサに「助っ人」として何度か来たことがあるから、私も知らないわけではないが、彼は、老人たちを和やかな気分にしてくれる明るい好青年だった。要するに、問題なのは(イケメン云々ではなく)人柄なのである。

我がデイサの中年トレーナーは、人柄的にイマイチ魅力に欠ける、と言いたいわけではない。彼が利用者の老人たちの前で、こう語ったことがある。
「このデイサは、男性の利用者さんよりも、女性のほうが少ないのですが、これは多分、僕がイケメンではないからだと思います。僕がイケメンではないから、女性の利用者さんが少ないのだと思います」
これは、数日前の運営推進会議のときと同じ趣旨の発言だが、ニュアンスは多少違い、このときは冗談っぽい、自虐ネタのペーソスが感じられた。

意外だったのは、これを聞いて、若い女性スタッフのAさんがこう返したことである。
「そうなんです。男性の利用者さんが多いのは、私が美人だからなんですね。Eさん(中年男性トレーナー)が言いたいのは、そういうことなんですよ。Eさん、どうも有難うございます」

Aさんのこの言葉を聞いて、私は、自分がなぜ嫌がらずにこのデイサに通い続けているか、その理由がわかった気がした。AさんとEさんとの、掛け合い漫才のような楽しい言葉のやり取り、ビジン・ツッコミとブナン・ボケのユーモラスな口撃の応酬、それがデイサの時間を明るく楽しいものに彩ってくれている。それがビター・チョコのように後を引くのである。


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鳩山新党「共和党」 「卓越」とは何か

2019-10-29 14:19:49 | 日記
きょうは鳩山新党「共和党」の3番目の理念「卓越」について考えてみよう。
これについて、鳩山氏は次のように述べている。
「卓越という考え方、よりすぐれたものをつくる必要性、より高いものを求めていくという姿勢は常に必要なのではないか。富国強兵から富国有徳に行こうとしている中で、日本の信用や技術、評価を取り戻すのは、よりすぐれたもの、日本はこれが卓越しているぞというものを求めていく必要があるのではないか」

この言葉を聞いて、「なんだか、どこかの製造会社の社長か、会長の就任のスピーチを聞いているみたいだ」と感じるのは、私だけではないだろう。メーカーが生き残りをかけ、しのぎを削る製造業の世界では、「よりすぐれたものをつくる必要性」が大事なのは言うまでもない。「日本の信用や技術、評価を取り戻す」ことで、生産大国ニッポンの復権をめざすには、「日本はこれが卓越しているぞというものを求めていく必要がある」、ーーこう述べるとき、鳩山氏は、きっと「株式会社ニッポン製造」の社長にでもなった気分なのだろう。

だが、政治家であるからには、鳩山氏は優秀な社員、卓越した技術者を生み出すだけでなく、「卓越した国民」を生み出す術を考えなければならない。「卓越した国民」とは、では、どのような国民なのか。それは、「国民としての徳」をそなえた国民である。

「卓越」を示す言葉は、ギリシア語では「アレテー」という。このギリシア語は、日本語ではまた「徳」とも訳される。このことが示すように、「卓越」は「徳」を含意しているのである。

それでは「国民としての徳」とは何なのか。それは、何よりもまず自分の国を思う心である。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」という言葉を使ったが、これに倣って言えば、求められるのは「日本・ファースト」の心性にほかならない。

元来「コミュニタリアニズムの党」である鳩山新党「共和党」は、「日本・ファースト」の心性をもりたてようとする政党だとみてよい。

この「日本・ファースト」心性を「愛国心」とか「ナショナリズム」と言い換えると、戦前の日本の姿が想起され、とたんにきな臭さが漂いはじめるが、何を隠そう、これがこの新党の影の一面なのである。鳩山新党「共和党」は、たしかにきな臭い復古的な一面を持っている。このことを見逃してはならない。
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鳩山新党「共和党」 「美徳」とは何か

2019-10-28 11:37:08 | 日記
鳩山由紀夫氏は新党「共和党」の結成準備会で、この党の理念として4つの公準を掲げた。「正義」、「美徳」、「卓越」、「友愛」がそれであるが、きのうはこのうちの「正義」を取りあげた。きょうは次に「美徳」の理念について検討しよう。これについて、鳩山氏は次のように述べている。
「美徳という考え方も重要で、徳を持った者が、それなりの力というものが備わっているわけだ。いまの政治、行政に致命的に欠如しているのが美徳ではないか。」

これも一読する限りでは、たしかに鳩山氏の言う通りである。今の政治家には「美徳」が決定的に欠けている。有徳の士には程遠いゴロツキ共が、政治屋として跋扈するのが、現今の政界だと言えるだろう。

では、政治を志す人がそなえるべき美徳とは、一体どのようなものなのか。それは、自分の利益よりも、公共の利益を大事に考える品性である。我が身第一のエゴイズム(利己主義)を捨て、人類の福祉のために自己を犠牲にする精神である。ーーいやいや、「人類のために」などという大袈裟な理想主義は、利害の渦巻くこの現実社会には通用しない。となれば、求められるのは、自分よりも「日本が大事」と考えるナショナリズムの精神だろうか。

ともあれ、個人よりも共同体を優先しようとする考え方が、ここでは求められている。そこで真っ先に思い浮かぶのは、共同体主義(communitarianism )という言葉だが、実際、鳩山氏は次のように述べている。
「勉強会を2年あまり続けていく中で、コミュニタリアニズムというものの良さ、コミュニティーというものを大事にするということが1つの答えとしてあり得るなということになった。ただ、コミュニティー、あるいはコミュニタリアニズムという言葉自体がなかなか分かりにくいというか、言うときには舌をかんでしまう可能性があるようなことであり、なかなか、それでは理解はいただけないだろうということで、さらに勉強を進めていくなかで、今日、共和主義という考え方を、これは重要ではないかという思いに至ったわけだ。」

つまり、はじめは「コミュニタリアニズムの党」と名のりたかったが、それでは分かりにくいので、(馴染みやすい)「共和党」と名のることにしたというのである。政党名の由来を知ることは、この党の性格を知る上で大いに参考になる。鳩山新党「共和党」は、(私という個人よりも)コミュニティー(共同体)を第一と考える政治団体なのである。

鳩山新党は共同体に立脚する政党であり、つまり個人主義はとらない、ーーこのことを肝に銘じておこう。
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鳩山新党「共和党」 「正義」とは何か

2019-10-27 11:30:57 | 日記
鳩山由紀夫氏は新党「共和党」の結成準備会で、この党の理念として、4つの公準を掲げた。「正義」、「美徳」、「卓越」、「友愛」がそれである。きょうはまずこのうちの「正義」を取りあげよう。これについて、鳩山氏は準備会で次のように述べている。
「日本の政治、行政、経済に最も欠けているのはこの正義だ。正義の面からみて政策をどう作るのかが、真っ先に求められることではないか」

なるほど、今の日本の社会には「正義」が欠けている。たしかにその通りだ。そこで、我が「共和党」は、何よりもまずこの「正義」を取り戻し、これを軸に政策を立案するのだ、ーーこれは、結党のキャッチフレーズとしてはなかなか魅力的な文句である。私などが文句をつける筋合いではないが、一つだけ言わせてもらうなら、この「正義」の中身が問題だろう。

「正義」は、黄門様の「ご印籠」のように、あるいは維新政府の「錦の御旗」のように、それを掲げれば、だれもが「ははぁ〜」とひれ伏さざるを得ないような、ある種の権威の象徴である。だが、徳川幕府の「正義」、維新政府の「正義」、はたまた「アメリカの正義」、「イスラムの正義」等々と、さまざまな「正義」があり、どれが正しいのか、どれが〈ホントの正義〉なのかが定まっているわけではない、というのが実情ではないだろうか。

「正義」の相対性を、鳩山氏はどう考えるのか。また、さまざまな「正義」が入り乱れ、我を主張する世界のアリーナで、鳩山氏の「共和党」は一体どの「正義」に与するというのだろうか。

まずそれを明らかにしてもらわないと、我々としては、この新党にどういう態度でのぞめばいいか、それが皆目、判らない。関わりたいと思っても、態度の取りようがないのである。

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