ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

旅と旅行と(その4)

2015-09-27 12:23:18 | 日記

 数年前にリタイアして、私と同じく「毎日がサンデー」の境遇にあるあなたなら、きっとパスカルの見解に共感を覚えるに違いない。写真クラブに入って有名撮影ポイントに毎週足を運ぶあなたにしても、近所の公園で毎日のようにゲートボールに精を出す昔の職場の上司Aさんにしても、あるいはコーラスのサークル活動にいそしむお隣の奥さんにしても、パスカルからすれば、我々がおこなう趣味の行為はすべて退屈をしのぎ、暇をつぶすためにする気晴らしの行為だということになる。
 そうそう、かつての職場の部下Bさんは、定年で退職してからパチスロにはまっているという話だが、彼らのような俄かギャンブラーも、あなたのようなアマチュアカメラマンや、私のようなサンデー毎日アングラー(になりそこなった人)と同じ穴の狢だということになる。
 「おいおい、俺のは芸術なんだぜ。悪いけど、高尚な趣味なんだ。釣りはまだしも、あんなパチスロみたいな下劣な娯楽と一緒にしないでくれよ」と写真が趣味のあなたは言いたくなるであろう。あなたのその気持ちが私にはよく分かる。パスカルの見方は、一切合切を「退屈しのぎ」という、あくどい色の絵具で一色に塗りつぶしてしまうようなもので、ちっとも面白味がない。味噌糞だと言っていい。
 パスカルの見方からすれば、この面白くないブログの文章を書く私も、この私の面白くないブログの文章を読む、そう、あなたも、フクシマや常総でボランティア活動をしている大学生の息子も、さらにはオンラインゲームに熱中する中高生も、だれもが同じ穴の狢だということになってしまう。
 趣味だけではない。額に汗する仕事の労働も、手に汗握るゲームの興奮と同じで、退屈しのぎの行為だということになれば、子を持つ母親は、ゲームに熱中して勉強をしない我が息子に、小言の一つも言えなくなってしまうだろう。『パンセ』の思索に興じるインテリ中高年も、ゲームに興じるヤンキー少年と同じだというのでは、おそらく青瓢箪のパスカル先生も納得しないだろう。
 旅の話がはからずもゲームやパチスロの話になってしまったが、これらは全く別物だと私は言いたい。江戸時代後期に十返舎一九が書いた『東海道中膝栗毛』の作中人物、弥次郎兵衛と喜多八は、スマホのゲームアプリ『やじきた道中記乙』に血道をあげる平成の中高生とは断じて同じではないのである。前者は架空の作り話、後者もバーチャルな空間での話という点では、似ている点もなくはないのですがね・・・。

 さてこのブログですが、最初は退屈しのぎのつもりで始めたこの私のブログも、当初に感じた高揚感や緊張感は失せ、最近では、文章を書くことがしんどくなってきました。マンネリ化した繰り返しの行為に飽きてしまったのか、パソコンに向かう前には、息苦しささえ感じ始めています。スランプというか、ネタ切れというか、息切れとでも言うのでしょうか。ゲームではないといっても、仕事でもないので、しばらくお休みして、充電の時間をいただきたいと思っているのですが、さてどうなりますことやら。

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旅と旅行と(その3)

2015-09-26 11:48:38 | 日記

 ゴールよりも、そこに至るプロセスを楽しむ、という意味での旅( ――私はこの「旅」という言葉を、旅行とは別のものとして、旅行と区別して使っている―― )は、むしろ釣りや登山などの趣味の娯楽に近いと言うべきであろう。
 釣りには釣果というゴールがあるが、アングラーにとっては、釣果そのものはたいした意味を持たない。彼/彼女にとって意味を持つのは、仕掛け作りやポイントの選択に始まって、その釣果を得るまでのプロセスのほうであり、自分で釣り上げたそこそこのサイズの真鯛一匹は、スーパーの魚売り場にずらりと並ぶ同じサイズの真鯛とは決定的に違うのだ。
 こう書きながら、私は、『パンセ』にあるパスカルのウサギ狩りの話を思いだす。とはいえこの私、最近は年をとって認知症にでもなりかけているのか、どうも記憶が定かでないので、ひとつgoogleで検索をして、記憶の欠落を補いながら考えることにしよう。
 たしかパスカルは、『パンセ』のなかでこう述べていた。ウサギ狩りを趣味にしている人は、汗だくになりながら野山を駆けずり回ってウサギを追いかけ、獲物の有無に一喜一憂するが、彼に向かってあなたが一匹のウサギを差しだし、「君が欲しいのは、ほら、これだよね。これ、あげるよ」と言ったとしたら、彼は喜ぶどころか、嫌な顔をするであろう。彼が求めているのは、獲物のウサギではなく、夢中になって野山を駆け回ることそのことだからである。
 この話によってパスカルが言おうとするのは、私が言おうとすることとは少し違っている。観点が違うのだ。彼はこの話によって、暇をつぶし、退屈をしのぐというそのために、気晴らしの行為に興じないではいられない、愚かでおかしな人間の姿を描こうとしているからである。人間という輩は、ずっと自分の部屋にいると退屈してしまって、どうにもじっとしていることができない厄介な生き物なのだ。
 ホント、厄介だよね。性懲りもなくこんなブログの文章を書いている私も。そして、面白くもないこんな文章につき合っているあなたも。(つづく)
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旅と旅行と(その2)

2015-09-26 11:42:05 | 日記

 ゴールよりも、そこに至るプロセスを楽しむ、という意味での旅( ――私はこの「旅」という言葉を、旅行とは別のものとして、旅行と区別して使っている―― )は、むしろ釣りや登山などの趣味の娯楽に近いと言うべきであろう。
 釣りには釣果というゴールがあるが、アングラーにとっては、釣果そのものはたいした意味を持たない。彼/彼女にとって意味を持つのは、仕掛け作りやポイントの選択に始まって、その釣果を得るまでのプロセスのほうであり、自分で釣り上げたそこそこのサイズの真鯛一匹は、スーパーの魚売り場にずらりと並ぶ同じサイズの真鯛とは決定的に違うのだ。
 こう書きながら、私は、『パンセ』にあるパスカルのウサギ狩りの話を思いだす。とはいえこの私、最近は年をとって認知症にでもなりかけているのか、どうも記憶が定かでないので、ひとつgoogleで検索をして、記憶の欠落を補いながら考えることにしよう。
 たしかパスカルは、『パンセ』のなかでこう述べていた。ウサギ狩りを趣味にしている人は、汗だくになりながら野山を駆けずり回ってウサギを追いかけ、獲物の有無に一喜一憂するが、彼に向かってあなたが一匹のウサギを差しだし、「君が欲しいのは、ほら、これだよね。これ、あげるよ」と言ったとしたら、彼は喜ぶどころか、嫌な顔をするであろう。彼が求めているのは、獲物のウサギではなく、夢中になって野山を駆け回ることそのことだからである。
 この話によってパスカルが言おうとするのは、私が言おうとすることとは少し違っている。観点が違うのだ。彼はこの話によって、暇をつぶし、退屈をしのぐというそのために、気晴らしの行為に興じないではいられない、愚かでおかしな人間の姿を描こうとしているからである。人間という輩は、ずっと自分の部屋にいると退屈してしまって、どうにもじっとしていることができない厄介な生き物なのだ。
 ホント、厄介だよね。性懲りもなくこんなブログの文章を書いている私も。そして、面白くもないこんな文章につき合っているあなたも。(つづく)
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旅と旅行と(その2)

2015-09-25 15:18:50 | 日記

 私は旅行が好きではない。旅行という行為は、苦役を上塗りする愚行に他ならないと考えるからだ。前にも書いたが、何よりも旅行は私の意思にかかわりなく、定まったスケジュールに従って行動することを強い、私から自由を奪い取る。それが嫌なのだ。
 だが他方では、私の見方とは違って、旅という行為に(ボケ防止のためのリハビリ訓練、というアレはともかく、それ以外の)意味を見出そうとする言説も少なくない。では、彼らはどういう意味でそう述べているのか。気になったので、ちょっと調べてみることにした。ネット上の名言集から、いくつかコピペしてみよう。
 
 旅の過程にこそ価値がある。(スティーブ・ジョブズ)
 
 終着点は重要ではない。旅の途中でどれだけ楽しいことをやり遂げているかが大事なのだ。(同じくスティーブ・ジョブズ)

 希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。(スティーヴンソン)
 
 人が旅をするのは、到着するためではない。それは旅が楽しいからなのだ。(ゲーテ)
 
 
 これらの言葉に共通しているのは、旅の醍醐味を、一つのことに見出し、そこに意味を付与する見方である。一つのこと、それは、ゴールを目指すのではなく、その途上のプロセスそのものを楽しむ、ということである。
 彼らの言いたいことは分からなくもないが、私から彼らに対して一つ言えるのは、彼らがイメージする「旅」は、私も含めて、我々の大方が実際におこなう「旅行」とは全く別物だということである。我々の大方がおこなう旅行であれば、風光明媚な観光地などの目的地がまずあるのがふつうである。しかもその目的地にたどり着く途中には、列車内の混雑や道路の渋滞など、数々の不快事が待ち受けている。我々はそのプロセスを楽しむどころか、逆に耐え忍び、我慢に我慢を重ねて、やっとのことで目的地に到達するのだ。「罰ゲーム」という言い方があるが、現代日本人が毎年ゴールデンウィークに繰り広げる種々の行楽にまつわる悲喜劇を見ると、私はついこの言葉を連想してしまう。
 これって狂っている、と私は見るのだが、そう見るのは私だけであろうか。これもそれも、有意義な修行というか、精神的リハビリ訓練の一環と見るべきなのでしょうかね。(つづく)
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旅と旅行と

2015-09-24 10:15:53 | 日記

 夏が去り、秋の行楽日和が続くこの頃、旅行への私の思いは日増しに強くなっている。旅に出たい、抜けるような青空の下で、澄んだ空気を思い切り吸い込みたい、と切に私は思う。
 だが、この思いが無いものねだりであることを、私はよく知っている。脳出血の後遺症で片麻痺になり、自由に出歩けない身体になってしまったために、余計に出歩きたいという願望にとらわれる。それだけのことなのだ。
 思い起こしてみれば、発病前の私、自由に出歩くことができた私は、決して旅行好きの人間ではなかった。むしろ私は、旅行が嫌いだった。
 なぜといって、それは私から自由を奪い、私の意思を束縛するからである。空路で海外に行く場合には、航空券の予約が欠かせないし、国内旅行でJRを利用するとなれば、まずもって指定席券の予約が必要になる。いずれの場合にも、泊りがけとなれば、宿泊先の予約も必要になるであろう。そうして私は、定まったスケジュールに従い、定められた通りの軌道に乗って行動せざるを得なくなる。「昨晩は眠れなかったし、今日は天気も良くないから、家でゆっくり寝ていたいなぁ」と思っても、インターネットで予約確定のボタンをクリックしてしまったら、もう変更は許されないのだ。
 「家でゆっくりする」という選択肢を奪う点では、旅行は現役時代の苦役となんら変わらない。私はリタイアして、今は「毎日がサンデー」の状態だが、現役時代には、朝になると定時に起床し、定時に朝食をかき込み、定時にそそくさと玄関のドアを開けて勤務先のビルを目指すという、味気なく退屈極まりない毎日を繰り返してきた。そんな日常と、旅行とはどこがどう違うというのだろう。
 そもそも旅行は、面白味のない退屈な日常を抜け出そうとしておこなう行為であるはずである。言い換えれば、それは非日常を求めてする行為であるはずである。それなのに、この行為自体が日常と完全相似形の平凡なルーチンと変わらないとしたら、そんな行為には、苦役を上塗りする愚行以上の意味はないと言うべきであろう。
 そうではないだろうか?
 え? 旅行は苦役だとしても、それは我々のようなリタイアした老人にとっては、老化防止・ボケ防止のための良いトレーニングになるのさ。だから旅行は愚行だなどとは思わないな、ですって?
  ははあ、旅行の苦役は、リハビリ・ジムの鍛錬の替りだというわけですか。あなた、まだまだお若いですね。現役時代の通勤も、もしかするとあなたは毎日、旅行に行く気分で、あるいはリハビリ・ジムに通う気分で、いそいそとこなしていたのではないのですか。
 だとしたら、私には返す言葉がない。ただただ頭が下がるだけです。あなたは達観した仙人のような人だ。もし私が現役時代に、あなたのような境地に達していたら、早期退職を選ぶのは、もうちょっと先にしていたと思いますがね。(つづく)
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