ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

中高年引きこもりと老子のぼやき

2020-11-30 11:39:02 | 日記
昨夜、NHKの特集番組を見た。「長年にわたるひきこもりの果てに、(衰弱して)命を落とす」中高年ひきこもりの事例リポートである。親の死後、生きる術を失った子が衰弱死するケースが相次ぐなど、「8050問題」は最終局面ともいえる状況にあるという。その現状を見せられて、私はいたたまれず、身につまされる思いだった。

紙一重のところで自分がそうなった可能性もあるな。そう思ったのだ。もし私が妻と出会わず、結婚しなかったら、私は家族も子も持てず、独り寂しく(あるいは老親の介護であたふたと)暮らすしかなかっただろう。もちろん妻と出会わなかったら、もっと素敵な女性と知り合って、もっと賑やかな家庭を持てた可能性もあったのだろうが、こればかりは神様でもわからない。知りようがない。それが人生というものだろう。

私は、老子に次のような文章があったことを思い起こした。

衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。」(第20章)
(書き下し文:「衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春に台(うてな)に登るが如し。我れは独り怕(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)として帰(き)する所なきが如し。衆人はみな余り有るに、而(しか)るに我れは独り遺(うしな)えるが如し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり、我れは独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たり、我れは独り悶悶(もんもん)たり。」
現代語訳:「世の人々はみんな笑顔でご馳走を食べているように見える。まるで春の日に高台から世界を見ているかのようだ。しかし私といえば一人きりで動くそぶりも見せず、笑う事を知らない赤ん坊のようだ。ぐったりと疲れ果てて身の置き所もないかのようだ。世の人々はみな有り余る何かを持ち合わせているのに、私と言えば何もかも失ってしまったかのようだ。私はそういう愚か者の心を持っていて、ぼんやりと何が確かなのか解らずにいるのだ。世の人々はきらきらと眩いばかりだが、私だけは一人暗がりに居るようだ。世の人々は賢く聡明であるのに、私だけは一人悶々としている。」)

自室に引きこもりがちな私には、これを書いたときの老子の気持ちが手にとるように解る。老子は引きこもりの隠遁生活に倦んでいるのだ。老子が見ていた風景は、現代日本の中高年引きこもりたちが見ている風景とさほど違わなかったのではないか。私はそう思う。

ええっ?老子と現代日本の引きこもりが同じ風景を見ていた、だって?そう訝る人も多いに違いない。老子を神格化する向きもいるぐらいだから、老子を超人のような人物とみなす人がいてもおかしくはない。だが思うに、上のような悩ましい心情を書き綴る「悶々たる老子」、「愚人の心」を持った老子は、世をすねたフツーの凡俗中高年と変わらない。そのような顔を持つ老子に、私はなぜだか限りない親近感をおぼえるのである。

世間とうまく折り合えず、疎外感に苛まれる老子。現代日本に生きていれば、引きこもりになった(かもしれない)彼は、そんな自分をどう克服するのだろうか。このことに、私は興味がある。
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