ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

文科省に見る「忖度」問題

2017-03-31 15:52:49 | 日記
文科省の組織的な「天下り」が明るみに出て、世間を騒がせている。この
報道に接して、「忖度」という言葉がすぐに私の頭をかすめた。「忖度」
という言葉を聞くと、あの森友学園問題を思い浮かべる人が多いだろう。
このほど公になった文科省天下り問題は、しかし森友学園問題とあまり変
わらない。問題の構図がきわめて似通っているのだ。

「忖度」とは、他人の心中をおしはかることである。森友学園問題の場合、
この意味で「忖度」をおこなったのは(財務省の)お役人だが、文科省天
下り問題では、(文科省の)お役人が「忖度」を受ける側に立っている。
森友学園問題のケースとは主客が逆になっているが、「権限を持つ側が
『忖度』の客体になり、その恩恵を受けようとする側が『忖度』の主体
になる」という点では一致している。

文科省のお役人は、大学への補助金の配分額を決定する権限を持ってい
る。大学側はより多くの配分額を期待して、文科省のお役人に取り入ろう
とするから、「今年度で我が省の**課長が定年退官するのですよ。なに
ぶんよろしく」と言われれば、無下に断るわけにはいかない。**課長の
経歴を調べて、教授なり、理事なり、事務局長なり、その経歴にふさわし
いポストを用意して迎え入れることになる。**課長は、予算配分の時期
が来れば、多額の補助金を獲得すべく、古巣の後輩たちに掛け合ってくれ
るだろう。**課長に支払う給料など、彼が調達してくれる補助金に比べ
れば、安いものである。

この構図に問題があるとしたら、本来公平であるべき補助金の算定に、私
的な「貸し借り」の損得勘定が入り込む点だろう。森友学園のケースで
も、「忖度」の有無が問題になるのは、(公務員として、公務に当たるべ
き)お役人と(公益のために、フェアな政権運営が期待される)政権サイ
ドとの間に、私的・個人的な「貸し借り」の損得勘定が入り込んでいな
かったかどうかが問われるからである。

世の中の出来事は、ほとんどが私的・個人的な人間関係(いわゆる人脈)
によって決定される。世間知らずのお坊っちゃんか青瓢箪でもなけれ
ば、そんなことはだれでも知っている。お役人や政治家とのコネを求め
て、右往左往する人も多い。それなのに、そこにお役人や政治家がから
み、そのことが明るみに出ると、とたんに事が炎上して、メディアで激し
い糾弾の対象になるのは、なぜなのか。そこには、人脈の恩恵にあずかれ
なかった庶民の、その怨念(ルサンチマン)もまた激しく渦巻いていると
いうことだろう。

そうじゃないのかな。
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WHに見る原発の未来

2017-03-30 14:15:07 | 日記
東芝の米子会社WHが経営破綻した。WHは原発の建設事業をすすめる企業
だが、(原発の建設という)その事業内容が巨額の赤字を生み出すとした
ら、今後の原発事業の、その未来はどういうことになるのだろうか。

今後、原発を建設する企業は現れず、したがって原発の新しい施設は建設
できなくなる。そうなれば、原発によって従来通り電力をまかなうには、
既存の原発施設をそのまま(老朽化したまま)稼働させねばならないこと
になるだろう。

老朽化した原発施設は、それだけ事故のリスクも高くなる。リスクを低減
させるには、(WHが迫られたような)メンテナンスのための大きなコス
ト負担が欠かせず、その費用負担は消費者にまわされることになる。そう
なれば、原発の電力はもはや安価なものではなくなり、電力自由化の流れ
のなかで、原発事業そのものが淘汰の憂き目を見ることになるだろう。

そもそも原発建設事業は、なぜ巨額の赤字を生み出すに至ったのかーー。
WHが経営破綻した、その原因をググってみた。

各メディアがあげるのは、2011年に起きたフクシマ原発事故の影響であ
る。事故が起こってから、規制が強化され、安全対策の負担が増えるとと
もに、工事の遅延もあって、人件費が予想外にふくれあがったのである。

日本で起こった原発事故が、アメリカの原発事業の、その経営内容に大き
な影響を与える。これは意外な展開だが、原発事故はそれだけ深刻なダ
メージを広範囲に与えるということだろう。

原発事業を今後待ち受けているのは、泥沼のような悪循環である。原発新
施設の建設中止、老朽化した原発の増加、原発事故の増加、メンテナンス
費用の増大、原発電力価格の上昇、原発事業の経営悪化、・・・・・・。

こうして今後、原発そのものが中止への斜陽の成り行きを辿るとしたら、
そこに至る浮沈こもごもの経緯は、黎明期に特有の、試行錯誤のプロセス
だったことになる。フクシマの犠牲者たちも、望ましい未来への避けがた
い人柱だったと考えれば、すこしは浮かばれるだろうか。

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核廃絶論ふたたび再録

2017-03-29 13:38:11 | 日記
核兵器禁止条約の制定をめぐる交渉会議が、ニューヨークの国連総会を
舞台に始まった。日本政府は早々にこの交渉会議への不参加を表明した。
我が国のこの姿勢に、朝日は「被爆国の責任放棄だ!」と、また毎日は
「被爆国が発信しないのか!」と、相も変わらず手厳しい。

思い返せば、昨年10月のことだった。核兵器禁止条約の交渉会議に際し
て、日本政府は「参加して反対を表明する」という姿勢を示した。それ
が今回は、「そもそも参加しない」というのだから、核兵器禁止条約へ
のネガティブな姿勢はいっそう度を加えたように見える。

だが、この会議に対する我が国の姿勢はさほど変わっていないと私は見
ている。日本政府の真意はどこにあるのか。以前、本ブログで書いたこ
とを、これを機会にふり返っておこう。私はこう書いたのだった。(以
下、《核廃絶論ふたたび》2017/01/08より再録)


論点を整理するために、まずは議論の出発点になった朝日新聞の社説を
確認することから始めよう。朝日新聞は1月6日付の社説《核兵器なき
世界へ 逆行させず交渉前進を》で、核兵器禁止条約の制定交渉をテー
マに取り上げ、この条約は「核廃絶に向けた大きな一歩となる」と述べ
ている。これについて、私は次のように述べた。「核廃絶に向けた大き
な一歩」となるべきこの条約の、その制定交渉にこそ、無視できない大
きな障害がひそんでいるのだ、と。ここで言う障害とは、ほかでもない、
核の威力で安全を保とうとする、いわゆる核抑止論である。「核の威力
で安全を保とうとする抑止論から抜け出さない限り、核廃絶は近づかな
い」と朝日は述べるが、悲しいかな、いまだに核抑止論から抜け出せて
いないのが、国際政治の現状である。そうである限り、核兵器禁止条約
の制定交渉が始まった現時点においても、国際社会は依然として核廃絶
から遠いままだと言えるのではないか。

では、核兵器禁止条約の制定交渉は、なぜ楽観視を許さないのだろう
か。これまでの経緯をふりかえってみよう。「2017年に核兵器禁止条約
交渉のための会議を開催する」とする決議案に、日本は反対票を投じ
た。反対票を投じたのは、核を保有する米、英、仏、ロの4カ国と、日
本のように、この4カ国の「核の傘」の下にある国々である。

それでは日本はなぜ、この決議案に反対票を投じたのか。それは、この
核兵器禁止条約が各国に「核兵器の平等な禁止」を義務づけることで、
核不拡散条約(NPT)に基づく5大国の支配体制を揺るがすものになる
からである。核不拡散条約(NPT)は、戦勝5大国だけに核兵器の保有
を認め、それ以外の国にはこれを認めないなど、第二次世界大戦が作り
出した不平等な世界状況を固定化しようとするものであり、これに対し
て、核兵器を保有しない国々の反発は強い。インドやパキスタンは反発
から、この条約への批准をいまだに拒否しているほどである。

さて、懸案の核兵器禁止条約である。日本はこの条約の制定交渉に反対
する姿勢を示したが、日本と同様これに反対票を投じた国々に共通して
いるのは、核の威力で安全を保とうとする、いわゆる核抑止論を固持す
る姿勢である。核兵器禁止条約の制定交渉には核抑止論の障害が潜んで
いる、と私が述べたのは、そういう意味である。
                      (再録はここまで)


金正恩の北朝鮮が核兵器の開発をますます加速させ、単純過激なトラン
プがアメリカの新大統領に就任するといった具合に、日々変動の激しい
国際情勢だが、三ヶ月前の(あるいはもっと前からの)我が持論がその
まま通用するのは、不思議というほかない。

この問題、読者諸賢はどのようにお考えだろうか。
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民主主義の是非を問う

2017-03-28 16:39:14 | 日記
きょうは朝日、日経、産経、東京の4紙が、香港の行政長官選挙を社説
で取り上げている。香港では、行政府のトップを選ぶ選挙が、民意を反
映しない形で行われた。中国共産党の介入によって、市民に人気がない
にもかかわらず、党が望ましいとみなす人物が行政長官の座に就くこと
になったのである。こうした事態を、4紙とも嘆かわしいこととして取
り上げているが、その理由は明示していない。日経が「高度な自治の根
幹をおびやかす出来事」と断じているだけである。

こうした新聞社説の論調は、「民主的でない」とする言辞が、糾弾の言
辞として無条件に通用してしまう戦後日本の、その固定した言論空間の
存在と無縁ではない。

新聞社説にそこはかとなく漂う「反民主的選挙」への漠たる懸念を、宙
ぶらりんに抱えたまま、私は、戦前の日本のーーそれも、明治、大正時
代の日本のーー姿を思い描いた。明治時代の自由民権運動は、板垣退助
らが1874年(明治7年)、民撰議院設立の建白書を政府に提出して、
「有司専制」を批判したことから始まる。「有司」とは、薩長藩閥政府
が任命した役人のことであり、彼らが民意を顧みず「専制」を行ったこ
とを、板垣らは批判したのだった。彼らが展開した自由民権運動は、昨
今の香港の民主化運動とどこか重なりあう。

明治の自由民権運動は、時代を経て、(普通選挙制度の実現を目指す)
大正デモクラシーとなって受け継がれた。この一連の流れがなんとなく
「正義の味方」をイメージさせるのは、その対極にあった(君主制下の)
日本帝国政府が、太平洋戦争へとひた走り、敗戦の惨禍をもたらしたか
らである。

こうした歴史の経過も、中国共産党を取り巻く現今の情勢と重なりあ
うかも知れない。軍拡路線をとり、南シナ海で摩擦をくり返す中国共
産党の姿に、新聞社説の執筆者は、戦前の日本政府の姿を見ているの
かも知れない。

けれども、「民主的な選挙」は無条件に〈善〉と言えるのかといえば、
「それもちょっとなあ」と、疑問を抱く人が増えているのではないだろ
うか。疑問符の向こうにあるのは、アメリカのトランプ大統領の姿であ
る。トランプは民主的な選挙で選ばれたにもかかわらず、トンチンカン
な入国禁止令を出して物議をかもすなど、「問題の多い人物」であるこ
とをさらけ出している。

デモクラシー(demos:大衆 kratos:権力・支配)がポピュリズム、衆
愚政治におちいる危険性は、古代ギリシアの昔から指摘されている。
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忖度を考える

2017-03-27 15:53:01 | 日記
忖度(そんたく)。この言葉の意味を電子辞書で調べると、「他人の心
中をおしはかること」とある。今、この言葉が日本国民の関心の的に
なっている。森友学園問題で、(不当廉売の疑いがある)国有地の売買
に関わった官庁側に、「忖度」が働いたのかどうか。その「忖度」の有
無の問題が国会審議のメインテーマになっている。こんなことを審議す
ることにいったい何の意味があるのか。どうにも腑に落ちない思いがす
る。

今は昔、煙草を口にくわえて、部下の前に差し出す癖(へき)のあるオ
ジサンがいた。名前をDとしよう。Dは、上司が煙草を口にくわえて目
の前に差し出すと、キャバレーのホステスよろしく、さっとライターを
取り出して、その煙草に火を点けるような男だった。ある程度の地位に
たどり着いた今、今度は自分がその上司の役を演じてみたくなり、かつ
ての自分の(ゴマすり男の)代役をつとめてくれる部下を物色中だった
のである。

上司が煙草を差し出すと、差し出された部下は、「ああ、この人は煙草
に火を点けてもらいたいのだな」と、上司の心中をおしはかる。彼は上
司の思いに応えようとして、上司の煙草に火を点ける。

たしかに、ここには「忖度」が働いている。「忖度」を働かせたのは、
紛れもなく部下の側である。

この例が森友学園問題を考える例として適切でないとすれば、それは、
「煙草に火を点ける」という行為が、なんら非難されるべき行為ではな
いからだろう。「煙草に火を点ける」という行為に、「喫煙が法的に禁
止された禁煙ゾーンで」という限定を加えれば、この例は多少とも森友
学園のケースに似つかわしいものになるかも知れない。

さてこの場合、何が問題なのか。「禁煙ゾーンでタバコに火を点ける」
という行為は、いうまでもなく問題のある行為である。非難されるべき
この行為の責任は、では、一体だれに帰すべきなのか。上司は言うだろ
う。「私は悪くない。私は煙草を差し出しただけで、それに火を点けろ
とは命じていない。口が寂しかったから、煙草を口にくわえただけだ。
禁煙ゾーンだったので、そのままそれをポケットに戻すつもりだったの
だ」。
この場合、非は明らかに「忖度」を働かせて、煙草に火を点けた部下の
側にある。上司の側に非はない。

それと同じことではないか。森友学園のケースでも、「忖度」が働いた
とすれば、その非は上司(安倍首相をはじめとする政治家)の側にはな
く、非はあくまでも部下(官庁職員)の側にある。安倍政権を攻撃する
目的で「忖度」の有無を追及するのなら、野党側の姿勢は完全にお門違
いだと言わなければならない。国会審議一つをとっても、この体たらく
である。残念なことだが、このところの野党の劣化には激しいものがあ
る。

ところで、キャバレーのホステスもどきのゴマすり点火男だったD氏と
はだれか。キャバレー通いの部長さんも呆れるタバコ差し出し男のD氏
とは、一体だれなのか。彼の名誉を傷つけたくないから、――彼を「侮
辱」したくないから、氏名を公表するのは控えておこう。

昔々、レンズ磨きをしながら超俗的な生活を送り、超俗的な哲学体系を
構築したことで知られる西洋の哲学者がいる。D氏は、この17世紀の哲
学者を専門に研究する哲学学者だった。レンズを磨くように、コツコツ
と研鑽を重ねた彼の業績は、アカデミズムではそれなりの評価を得たが、
彼はのちに小さな私立大学で起きた、陰謀がらみの学長追い落とし事件
に関わり、後任の学長の座に就いたらしい。ずいぶん前に死亡したよう
だが、葬儀には後輩の研究者の姿も、同僚の姿もまったく見られなかっ
たと聞いている。

夏草や 忖度物乞い 夢の跡 南無阿弥陀仏
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