ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

見かけと真実 今から倫理です

2021-01-31 12:38:58 | 日記
きょうは3回目の倫理の時間である。高柳先生の今回の問いかけは、「あなたは見かけで人を判断したり、判断されたりしたことがありますか」というものだった。

この問いかけに、たいていの人は「ある、ある。自分はいつも見た目で判断されて、損をしている」と答えるだろう。「俺はホントは優しい人間なのに、いつもDQNと間違われ、ほとほと困っている」と答える人もいることだろう。

では逆に、あなたは人を見かけで判断したことはないのだろうか。この問いに対しては、「うん、ある」とほとんどの人が心の中で呟くだろうが、声に出してそう答える人は少ないだろう。

人を見かけで判断するのは良くないことだ。それはわかっている。わかっちゃいるけど、やめられない。それがホンネといったところか。

「自己=魂(真の自己は魂である)」。高柳先生は授業中、このソクラテスの言葉を生徒たちの前で板書していた。ただ生きるのではなく、「よく生きる」ことが大切である、とも。古代ギリシア人にあっては、「善(よい)」と「美(美しい)」は一体のことと考えられていた、とも、高柳先生は話していた。この考えに従えば、「よく生きる」とは「美しく生きる」ということであり、この場合の美しさとは、(見た目の美しさではなく)「魂の美しさ」を意味している。

それはわかる。もっともなことだ。でも、とあなたは付け加えるに違いない。魂の美しさと言っても、魂は目には見えないからなあ、と。目に見えるのは外見(見かけ)だけ。だから我々は、見かけで人を判断せざるを得ないのだ。

こんな経験はないだろうか。あなた自身の経験ではなくても、こんな経験をして悲しい思いをする男が少なからずいる、と想像することはできるはずだ。私もこんなタイプの男にはつい親近感をおぼえる。

どんな男なのか。その男は、同僚の若い美人に思いを寄せていた。その美人が近くに来ると、ぼーっとなって顔面は紅潮し、ただうっとりと見とれるばかり。男の美人に対する思いは日に日に昂まり、美人を見る男の眼差しには、えも言えぬ陶酔のおももちが浮かぶようになった。

美人はそんな男を見て、こう思う。「なに、この人、キモい!」、「いやらしいわ」、「このスケベ、セクハラで訴えるわよ!」

男は美人のあからさまな迷惑顔を見て、「なんでこの俺の思い、わかってくれないんだ。きみに対する俺のこの切ない恋心を、なんでわかってくれないんだ」と、日ごとに悲しみを募らせる。

人は見かけで人を判断する。「魂のあり様」だけではどうにもならないのが、恋愛の世界である。見かけと「真の自己」とのギャップ。優しそうなマスクの持ち主がホントに優しい人だとは限らない。その隔たりの大きさから、恋人同士の悲喜劇が生じる。

今回のNHKの番組「ここは今から倫理です」は、この悲喜劇の領域には踏み込まなかった。この領域は、どちらかと言えば民放のテレビドラマの本領である。民放の夜ドラでは今、「ウチの娘は、彼氏が出来ない」がおもしろい。菅野美穂と浜辺美波が主演。見かけと「真の自己」とのギャップ。そこから生じる悲喜劇がテーマなのかな、と思わせる予感がある。
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ディストピアへのメールを書く

2021-01-30 09:44:57 | 日記
(承前)
以下は、私が考え出したC氏へのメールの文面である。
***********************************

B学会
C様
メールを有難うございました。私がB学会の評議員に選出されたとのこと、たいへん嬉しく、光栄に存じます。
さて評議員への就任依頼の件ですが、私には評議員の任が果たせそうにありませんので、残念ではありますが、今回は辞退させていただきたく存じます。
と申しますのも、私がA大の職を辞してから早10年。私はすっかりアカデミシャンとしての感性を失ってしまいました。私は現在はもっぱら一市井人としてブログを書くことに専念しており、語りかける対象も一般市民の人たちであることから、長年着古した学者の衣の、その臭いも忘れ、老骨の骨の髄までどっぷり市民の感性に身を浸しながら暮らしております。そんな私が学問・研究を旨とする貴学会に建設的な提言をし、貴学会の発展に寄与できるとは到底思えません。
そのような次第ですので、私には貴学会の評議員の職責が全う出来かねます。ご依頼の件はご辞退したいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。貴学会の益々の発展を祈念しております。
ささやん拝
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学会という名のディストピア

2021-01-29 12:22:50 | 日記
こんなメールが舞い込んだ。
「突然のメール失礼いたします。
A大学B学会幹事のCと申します。
昨年、本学会の評議員選挙が実施されました。
その結果、先生の得票数が多かったため、来年度・再来年度の評議員として選出させていただきたいのですが、お願いできますでしょうか。
任期は2021年4月1日から2023年3月31日までとなっております。
お引き受けいただけますと大変ありがたく存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
C」

A大学とは、私が定年まで勤めていた職場の名称であり、B学会とは、A大学のD研究科E専攻が40年ほど前に組織した小規模な学内学会である。全国規模の学会ではない。
メールの主のC氏は、初めて聞く名前だが、たぶんA大学E専攻の助手(今風に言えば、助教)なのだろう。B学会の幹事は昔からE専攻の助手(助教)がつとめる慣わしであり、私も助手だった40年ほど前、この学会の幹事をつとめた(やらされた)経験がある。

このメールを読んだとき、私の脳裏に浮かんだのは、その当時のぼんやりした記憶であり、私の研究室があったE専攻のフロアののっぺりした光景である。現役だった頃は、教授の常として、私もこの学会の評議員を何度かつとめたことがある。

しかし、私は今は隠居の身。私が退職してから、かれこれもう10年余りがたつ。漠然とではあるが、昔の記憶で苦い思いに充たされた私は、「こんな話は、何としても辞退したい。ぜひとも断らなければ」という気持ちで一杯になった。

断るのは簡単だ。私は身障者であり、車イスでの移動が欠かせない。評議員会が開催されるあの8階の会議室まで行くには、相当な困難が予想され、私には職責を全うする自信がない。ーーこれだけ書けば、「それでも是非に」とはだれも言わないだろう。

だが、すぐに私は、「こんな理由で断るのは、どうかな」と思い直した。B学会の評議員には、私の顔見知りの人物がまだ数名はいるはずだ。身障者で生活に不自由を余儀なくされている、という引け目、弱みを、私は彼らには見せたくなかったのだ。

同じ断るにしても、身障者であることを理由にはしたくない。ならば、どういう理由で断るべきか。私はしばらくの間、あれこれと思案をめぐらせた。

そうだ、どうせならこの際、学会批判を展開してみたらどうだろう。大袈裟に言えば、アカデミズムに対する批判である。ロートル・ブロガーとして「活躍?」するうち、日に日に私の中に膨れ上がってくる憤懣を、それとなく匂わせるのはどうだろう。「研究」の美名に隠れて、訓詁注釈に明け暮れ、私見を交えることなく独り善がりな〈空虚〉を生産し続けることの無意味さ。そんなディストピアのメンテナンスに私は加担したくはない。名前も使われたくない。問題は、そんな私の思いを、どんなふうに表現するのが効果的かである。

私はC氏に、次のような文面のメールを返信しようと思っている。
(以下、目下考案中)
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入院拒否者に刑罰は

2021-01-28 17:54:48 | 日記
入院を拒否したコロナ感染者に対して、罰則を科すのは妥当か否か。
この問題をめぐって、国会でも議論が戦わされている。以前、私は本ブログで次のように述べた。入院したくても入院できない人が世にあふれている現状で、「自分は入院しない」と言って他の人に病床を譲ろうとする人、つまり隣人愛思想の実践者は、刑罰ではなく、表彰にこそ値する。そういう奇特な人には、大きな勲章を贈るべきだ。その大きな勲章を着けた人を見かけたら、我々は、コロナ感染を避けるため、その人を敬して遠ざければよい、と。

きのうテレビの国会中継を見ていたら、政府側に対して、野党の議員がこんなことを言って詰め寄っていた。
「乳幼児を抱える母親や、介護を必要とする老親を抱える子供は、入院したくても入院することができないではないか。そんな人にも罰則を科するのか!」

なるほど。これは然るべき理由ーー入院を拒否する「正当な理由」ーーがあるケースである。そういうケースにまで罰則を科するのは、血も涙もない鬼判官のすることで、とうてい適切とは言えない。

でも、どうなのだろう。こうしたケースを放免して見過ごすとしたら、一体どういうことになるのか。乳幼児を抱えた母親や、老親を抱えた子供はそのまま自宅で療養することになるが、そうなれば、濃厚接触者となる乳幼児や老親もすぐにコロナに感染し、一家全員がコロナウイルスの犠牲になることは目に見えている。

う~む。
「だからあれだな。乳幼児を抱えた母親のようなケースだったら、母親の代わりに乳幼児の面倒を見る、託児所のような施設が必要になるな」
私が言ったら、妻はこう答えた。
「でも、濃厚接触者の乳幼児を世話する人なんて、いるわけないわよ」
う~む。たしかにそうかもしれない。それでは、濃厚接触者の乳幼児の、その世話を拒否した者には「1年以下の懲役、もしくは100万円以下の罰金」などの刑罰を科する、というふうにしたらどうだろう。行き着く先は、刑罰でがんじ搦めトンデモ国家か。なんちゃって(笑)。
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ワクチン接種国の現状は

2021-01-27 13:57:09 | 日記
一つだけ気懸りなことがある。コロナワクチンの接種を開始した国では、実際にどのような効果がもたらされたのだろうか。専門家は「大丈夫だ。コロナワクチンを接種しても、副反応の問題はない。コロナワクチンには感染予防効果だけでなく、発症予防効果も、重症化予防効果もあるのだぞ」と言うが、実のところはどうなのか。

私がそんなふうに疑うのは、「コロナワクチンには劇的な効果がある。ワクチンの接種を開始した国では、コロナの感染者数が目に見えて激減した」というような旨い話を聞かないからである。

わが日本のガースー首相は、コロナワクチンを「感染対策の決め手」だと言うが、これは買いかぶりではないか、実際はそんなことはないのではないか、ーーそう私は疑っている。

たとえばネットで検索すると、次のようなニュースが出てくる。
「アメリカで新型コロナウイルスの感染が確認された人の数が1日、累計で2000万人を超えました。クリスマスから年末年始にかけての休みに大勢の人が移動したことから、今後、感染がさらに拡大することも懸念されています。
ジョンズ・ホプキンス大学のまとめによりますと、日本時間の2日午前3時現在の、アメリカの新型コロナウイルスの感染者は2000万7000人余りと、累計で2000万人を超えました。
亡くなった人はこの3日間で合わせて1万人を超えるなど、感染拡大の状況は去年3月以降、最悪の水準となっています。」
(NHK NEWS WEB 1月2日配信)

おいおい、アメリカでコロナワクチンの接種が開始されたのは、たしか昨年12月のことではなかったのか。それがこのニュースでは、ワクチンの「ワ」の字にも触れられず、実際、ワクチンの接種などまるでなかったかのように、コロナ感染者数は続々と増え続け、最悪の水準に達しているというのである。

このニュースでは、感染者数が増加した原因は「クリスマスから年末年始にかけての休みに大勢の人が移動したこと」だと言うが、もしワクチンが感染予防効果を持つとすれば、大勢の人が移動したとしても、感染者数はそんなに増えないはずではないか。

こんなニュースもある。
「米ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、人口約3億3000万人を抱える米国の新型コロナウイルス感染者数が1日、累計で2000万人を超えた。1日時点の死者数は約35万人で、感染者・死者数とも世界最多。国内のワクチン接種ペースが計画を下回る中、感染拡大は勢いを増している。」
(JIJI.COM 1月2日配信)

このニュースでは、コロナの感染拡大に歯止めが掛からない原因を「国内のワクチン接種ペースが計画を下回る」ことに求めている。計画を下回るとはいえ、ある程度の接種は行われているのだから、それなりの効果は出ても良いはずだ。それなのに、効果が全く見られないのは、一体なぜなのか。

それは、「接種されたワクチンには、感染予防効果がない」からではないか。私にはこれが正解であるように思えるが、この解を提示しているメディアは私の知る限り、一つもない。

溺れる者は藁をもつかむ。溺れる者には、藁に過ぎないワクチンが「切り札」にも「頼みの綱」にも見えるものらしい。

さて、問題はこの私である。この私はコロナワクチンを接種すべきなのかどうか。まあ、プラシーボ効果ということもある(ないよ!)。さほどひどい副反応もないというから、物は試し、当たるも八卦、接種しておいても損にはならないのかな。
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