ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

コロナ感染の恐怖 デイサとケアマネさん

2020-02-29 13:01:25 | 日記
きのうのことである。ケアマネさんが我が家にやって来た。月末が近づくと、翌月の予定表を持って彼女は現れる。きのうの彼女は、顔に大きなマスクをしていた。あいさつ代わりに、「近所の大学付属病院で、クルーズ船の乗客だった人を何人か収容したようだ」という噂話をし、それから、自分の旦那の話をした。自分の旦那は毎週末、スポーツ・ジムに通っているのだが、コロナの感染に対する危機感が全然ない。先週もいつものように出かけようとするので、「ジムに行って、もしコロナのバイ菌をもらってきたりしたら、あたしはこの仕事を続けられなくなるのよ」と言って、必死で止めたのだという。

それから話題は「コロナは怖い」という話になった。ったく、ウチの旦那ときたら、と言うので、「それが普通なのかもしれませんよ。ボクが通っているデイサでも、利用者の年寄りは、全然気にしていないみたいですからね」と私は応じた。「もちろん施設側では、アルコールの消毒液を使って、こまめに手洗いをするよう気を配ってはいるようですが、だいいちトレーナーのEさんにしてからが、マスクなんかしませんから」

私が言うのを聞いて、ケアマネさんは「まあ!」と呆気にとられた顔をした。この反応には私のほうがびっくりし、「いや、Eさんも、利用者を不安がらせてはいけない、とか、大声をだせなくなってはいけない、とか、いろいろ理由があるのだと思いますよ」と言って庇おうとした。だが、「それにしても、Eさんは衛生観念がなさすぎますよ」と、まるで糠(ぬか)に釘の体(てい)である。

「だいたいですね、大声を出したら、唾(つば)をまき散らすわけでしょう。Eさんが保菌者だったら、間違いなく飛沫感染ですよ。それ、何とかしてもらわないと」

ケアマネさんは、もし私がコロナに感染したら、それは(担当者である)自分の責任だ、とでもいうように、語調を強めた。ケアマネさんの強い抗議の口調に、私はデイサの光景を思い浮かべ、つい背筋が寒くなった。

デイサでは、着座の姿勢のまま、Eさんを囲むようにしてトレーニングを行う。「皆さん、行きますよ、いいですか、はい、イチ、ニイ、サン、シイ・・・」
Eさんは大声を出し、お手本を見せながら号令をかける。ところがである。あろうことか、私の着座の位置は、な、な、なんと、いつもEさんの正面の、それもすぐ近くなのである。私は、自分の顔がEさんの唾で汚された気がした。トホホ。

これからは着座の位置を変えてもらおう。激しくそう思った、きのうの天邪鬼爺である。
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コロナとの戦いのあとで

2020-02-28 15:21:14 | 日記
政府は2月26日、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、これから2週間の大規模イベントの中止、延期を要請した。さらに27日、全国の小中学校、高校、特別支援学校を3月2日から春休みまで臨時休校とするよう、要請することを決めたという。

こうしてプロ野球や大相撲の客席からは観客の姿が消え、校舎からは生徒の姿が消え、人と人とが直に触れあう機会がどんどん失わていく。これで新型ウイルスの猛威が仮に小康状態になるのだとしても、私は複雑な気持ちを禁じ得ない。

というのも、人はそれによってウイルスとの戦いに勝ったのか、と考えると、「う~む、どうだろう。敗けたのではないか」と思えてしまうからである。人は人と触れあい、人と交わり、共に共同体を形成し、社会を築くことで初めて人になる。ニンゲンになることができる。人間とは、文字通り、人−間、つまり人と人との間に生きる存在である。ウイルスとの戦いの勝利が、そういう(人−間としての)自己本来の在り方を否定することによってしか得られないとしたら、それがはたして人間の勝利と言えるのかどうか、はなはだ疑問に思われるのだ。

ガラガラの観客席、ガラガラのイベント会場、ガラガラの教室、ガラガラの会社の会議室、--そういう空っぽの空間を尻目に、一人ひとりが自室に引きこもり、テレビでプロ野球の試合を見たり、パソコンのモニターに向かって会議をしたり、授業を受けたりする光景を思い浮かべると、私は慄然としないまでも、どこかアンビバレントな複雑な気持ちを禁じ得ない。「同病相憐む」という言葉があるが、引きこもりの同類を見る私の心には、共感の念とともに、虫唾(むしず)に似た苦い憐みの情が浮かぶのである。

私が同類を見て、(まるで他人事のように)憐みの情と痛恨の念を感じるとしたら、それは私が「引きこもり」の在り方に「それでは『人でなし』ではないか」、「それはニンゲンらしい生き方とは言えないのではないか」という思いを懐くからである。

自室に引きこもり、他人とまったく交わらず、単独の存在として暮らすことは、「人でなし」として生きることに等しい。他人との交わりの機会を失うことは、人間性を喪失することと同義なのだ。私はそう思う。

だが、人が他人との交わりの場を失い、単独の存在として暮らす未来の姿に、私がそれでも絶望を感じず、まだわずかでも希望を持ち続けるとしたら、それは私が「引きこもり」の生活を、全面的な人間性の放棄とはみなしていないからである。

では単独者として暮らすことに、人間としてのどんな希望があるというのか。
それは人によってまちまちだろうが、私に限って言えば、一人のブログ書きとして生き、自分の日々の思いを書き綴り、それをネットの仮想社会に向けて発信するとき、私は「ああ、自分は『人として』生きているのだ」と実感することができる。拙いとはいえ、何がしかの文化的価値の創造に参加し、(バーチャルとはいえ)一つの共同空間の形成に関わることは、まぎれもなく人が「人として」生きる一つのスタイルなのだと思う。他にも人が「人として」生きることを可能にする、さまざまなスタイルの余地は残されている。天邪鬼爺はそう思うのだが、あなたはいかがだろうか。あなたはどんなスタイルを思い浮かべるだろうか。
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杖のつき方という災い

2020-02-27 11:25:22 | 日記
自分の努力ではどうにもならないことがある。どう足掻いても、どうにもならない。大震災や、大型台風や、コロナの蔓延のように、こればかりは「天災」というしかなく、運を天にまかせるしかない。

自分の努力ではどうにもならないこと、それは私にとっては、「杖のつき方」という(ふつうの人からみれば)どうでもいいことである。どうでもいいはずの些細なことが、どうにもならないもどかしさ。「生まれたときは4本足。年を取ったら3本足。それはな~に?」とスフィンクスは謎をかけたが、年老いた片麻痺の私にとって、杖は、日常生活に欠かせない第3の足そのものである。自分の足となるべきこの杖を、いまだにうまく使いこなせないとは、一体どういうことなのだろう。

具体的にいうと、私には杖を身体の正面に突きだす癖がある。分かりやすくいえば、(映画に出てくる)座頭市の杖のつき方である。座頭市の場合、腰はぴんと伸びているが、私の場合は腰が曲がり、前屈みの姿勢になってしまうので、いかにもジジイらしく、かっこ悪いこと、この上ない。歩いても、全身に力が入ってしまうのか、とても疲れるのである。

リハビリ・デイサでは、このフォームを直すよう、A子さんから毎日のように何度も指摘された。杖を身体の(正面ではなく)脇側に突きだし、腰を伸ばす。そうすれば、見ばえも良くなり、リラックスして歩けるようになるので、長い距離を歩いても疲れなくなるということである。

そんなことは、よく解っている。頭では解っているのだ。頭では解っているのだが、身体がその通りに動かないのである。要はイメージ・トレーニングである。「かっこよく杖をついて、すたすた歩く自分」のイメージを頭にたたき込み、イメージ通りに身体を動かす訓練をする。

実際、一日に一度は自宅の平行棒の中で、この訓練を行うようにしたのだが、これがなかなかうまく行かない。平行棒の中ではうまくできたと思っても、デイサでA子さんにサポートされながら同じことをしても、「できるようになった!」との思いは裏切られるばかりだ。自宅での私の思い(思い込み?)は、デイサではたちどころに打ち砕かれるのである。

今、巷の人たちはコロナウイルスとの戦いに躍起になっているが、私は毎日、杖のつき方を相手に悪戦苦闘している。自力でだめなら、他力本願で行くしかない。でも、A子さんという「他力」に頼るのもなあ・・・。A子さんは阿弥陀さまではないわけだし。
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コロナの脅威はどこまでも

2020-02-26 14:23:27 | 日記
コロナ感染の脅威はスポーツ界にまでその翳を広げた。Jリーグのルヴァン杯は延期、大相撲の春場所は無観客開催か中止、プロ野球は巨人のオープン戦が無観客試合、といった有様である。

それだけではない。コロナの黒い翳は教育界にも及び、近畿大学は3、4月に行われる予定の卒業式、入学式を中止すると発表した。また、国際教養大(秋田市)も3、4月の卒業式、入学式を延期すると発表した。

教育の現場への影響は、これにはとどまらない。きょうの朝日新聞によれば、文科省は25日、どこかの自治体の学校で感染者が出た場合、感染者がいない周辺地域の学校も積極的に臨時休校を検討するよう求める通知を、全国・都道府県の教育委員会などに出したという。

こうなると、もう学級閉鎖どころの騒ぎではない。学級閉鎖、つまり臨時休校の場合は、通常は自治体や学校法人などの設置者が決めるが、今回はコロナ感染の拡大を受け、国が前面に出て、対応方針の基準を示すことにしたというのである。

こうした文科省の危機感まる出しの対応といい、片や厚労省ののほほんとした(クルーズ船への)対応といい、政府のなんともちぐはぐな対応には、その”あたふた”ぶりがよく表れている。

スポーツ界へ、教育界へと広がるコロナ感染への危機意識は、次には、老人介護の業界に波及するのではないか。私の母親が入居する介護付き老人ホームから、きのう、こんな電話があったという。「これからは、ご家族の面会は控えていただきたいのですが」。妻が教えてくれた。この老人ホームには、たぶん厚労省からお達しがあったのだろう。

老人介護業界の、その関係者が懐く(別の意味での)危機意識は、半端ではない。私が住み、母が住む茨城県にはまだコロナウイルスの感染者は出ていないが、感染者が出るのは時間の問題だろう。東京都、千葉県、埼玉県、栃木県に感染者が出て、まるで茨城県を包囲するように、感染者のレッドゾーンがじわじわと迫ってきている。東京への通勤者が多い茨城県で、まだ感染者が出ないのが不思議なくらいである。

「この様子ですと、そのうち、ウチにも閉鎖の命令がくるかもしれませんね」
私が通っているリハビリ・デイサの、その送迎車を運転しながら、トレーナーのEさんが言った。
「そう。東京では、閉鎖した老健施設も出たらしいですからな」
「そうなったら、ウチの会社なんか、間違いなく倒産ですよ」
「う〜む。そうなったら、我々利用者だって困るしなあ・・・」
コロナの脅威は、我がデイサにとっても他人ごとではないのである。やれやれ。
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古希の会合 取りやめの顛末

2020-02-25 15:44:49 | 日記
やるべきか、やめるべきか、ーー紆余曲折の末に、今回は取りやめとし、延期することにした。私もそろそろ70歳。東京に住む息子と娘が、私の古希を祝う会を企画してくれたのである。会合の日取りは2月24日ということで、宴席も予約してくれたのだが、あいにく時勢が時勢である。巷はコロナ感染がパンデミック一歩手前の有様で、会合にはコロナ感染のリスクが付きまとう。

心配性の私は、「とりあえず今度の古希の会合は、見送ったほうが良いのではないか」と考え、その旨を娘にメールで書き送った。娘や息子が同じ考えを持ったとしても、彼らの口からそれを言い出すのは憚られるだろうから、「今回は見送り」の決定を下すなら、私が言い出しっぺになるしかないと思ったのである。

私の考えを妻に話したら、意外な言葉が返ってきた。
「感染のリスクといったって、菌を持ち込む可能性が高いのは、私やあなたではなくて、東京に住んでいるA子(娘)やB夫(息子)のほうでしょう。それじゃあ、『あんたたちはバイ菌持ちだから、こっちには来ないで』とA子やB夫に言うのと変わらないじゃないの。どうしてメールをする前に、私に相談してくれなかったの」。

そんなこと、思ってもみないことだった。私は正直、面食らったが、妻の言葉にもたしかに一理はある。私は娘にさっそく次のように書き送った。

「さっきのメール、取り越し苦労かもしれないけど、これは、C子ちゃん(孫)やD夫くん(下の孫)が感染したりしないか、それが心配だから言うのだよ。べつに他意はない」。

娘から、次のような文面が返ってきた。
「C子もD夫も元気で保育園に通っていて、集団生活には慣れているから、そんなこと、私はぜんぜん心配していないよ。私やE男さん(夫)だって、毎日満員電車で通っているし、感染のリスクなんて、もう慣れっこになっちゃった。私が心配なのは、むしろパパのほうだよ。高齢者は感染しやすいというし、感染したら重症化しやすいというから、なんだったら2/24の会はやめにしてもいいよ」

それに対して、私はこう返信した。
「そうか。私なら大丈夫、心配は無用だ。毎日、テレビのニュースばかり見て暮らしているから、私もつい臆病風に罹ってしまったのだろう。でも、客観的に見ても、今度の古希の会合はコロナ騒ぎが一段落するまで見送ったほうが賢明だと思うよ。べつに急ぐわけではないからね。いずれにしても、B夫やカミサンとよく相談してくれないか」

その後、娘は、妻や息子と電話で話し合ったようだ。結論は、「2/24の古希の会合は、中止」である。決定は落ち着くべきところに落ち着いた感じだが、ここにたどり着くまでの「ああでもない、こうでもない」は一体何だったのか。

それによって我がファミリーの絆はかえって強まった気がするから、まぁ、まんざらでもない。けれども目を我がファミリーから日本に広げると、私は複雑な気持ちになる。私の足下ですらこうなのだから、日本全国の津々浦々で行われる「会合とりやめ」の決定には、もっと激しい、大なり小なりのすったもんだが伴うことだろう。

それによって、日本の沈滞した各地はふたたび活性化するのかもしれない。だが、ホントにそう言えるのかどうか。新型ウイルスという外敵の侵入によって、我が日本が活性化するのであれば、それは不幸中の幸いと言えなくもない。だが、ホントにそうなのかどうか。

この問題は、コロナウイルスの、その拡大を予測するのと同じくらい難しい。なんだかなあ。
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