ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

星野君の二塁打

2023-04-30 13:16:26 | 日記
「星野君の二塁打」が教科書から消える。
そんな話をけさの新聞(朝日新聞)で読んだ。

「星野君の二塁打」とは、「少年野球で星野君が監督の送りバントのサインに背き、二塁打を打ってメンバーから外される」という架空のお話である。集団生活でのルールを考えさせる格好の教材として、これまで小学校の教科書に50年以上使われてきた実績がある。

それが、なぜ教科書から消えることになったのか。

朝日新聞の記事は、2018年に起こった日大アメフト部の「悪質タックル事件」が転機になったと指摘している。この事件は、監督からの指示の有無が社会的な関心を呼んだが、「星野君の二塁打」のほうは、指示に背いた選手が処分される筋書きになっているため、このお話に批判が集まったというのである。

朝日の記事はまた、「(掲載の取り消しは)子ども自らが考えることが重視される時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がった結果だ」とする識者の談話を紹介している。

「星野君の二塁打」は来年度から使われる小学校の教科書には掲載しない、という判断を下したのは、むろん教科書をつくる会社の担当者である。

ただ、教科書には国による検定制度がある。国の側は「規則の尊重」を教えるように指示しているから、会社サイドもこれまで通り「星野君の二塁打」を掲載することにやぶさかではないはずだが、ただこの話には世間の批判があり、これも無視できない。
そこで担当者は、「規則の尊重」を教えるにしても、世間から批判を浴びそうにないもっと穏当な別の話に差し替えることにしたのだろう。

朝日の記事はまた、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤を子どもたちに体験してもらう教材であり、残してほしかった。残念だ」とする識者の意見を紹介している。

その通りだと思う。人は独りでは生きていくことができない。だれも集団(社会)の一員として生きていくしかない。大半の人は小学生から大人になる成長の過程で、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤」に突き当たることになる。

その場合、自分らしい生き方を優先する余り、自分が「集団の一員」であることを忘れてしまうのは、たしかに問題である。しかし逆に、自分が「集団の一員」であることを重視する余り、「自分らしい生き方」や自分の主義・主張・信念を見失ってしまうとすれば、そのほうがもっと問題ではないか。

集団は存続するために、その一員に集団の規則を押し付ける。しかし、その規則がいつも正しいとは限らない。集団が押し付ける規則に対して、盲目的にそれを遵守するのではなく、「これってホントに正しいのだろうか」と疑いの目を向ける「自分の頭で考える習慣」を培うほうが大事ではないのか。

「星野君の二塁打」は、監督が出すサイン(指示)が理不尽であるケースを考えさせることにより、「規則の尊重」と同時に「規則への疑い」の大事さを教える格好の教材になる可能性がある。

「星野君の二塁打」を掲載しないことに決めた教科書会社の判断には、「規則に対する疑問の目」の芽を摘むものとして、疑問を感じざるを得ない。
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スーダン 内戦と我々

2023-04-29 11:16:50 | 日記
スーダンの内戦の経緯をたどってみると、思い知らされるのは、我々日本国民がおかれた現実とのあまりの違いである。スーダンでは、2019年のクーデター以来、争いの主役はずっと〈軍〉(国軍SAF)だった。この〈軍〉の闘争の相手が民主化勢力だったり、(準軍事組織の)RSFだったりした点にスーダンの歴史の特徴があるが、〈軍〉と抵抗勢力が暴力による血みどろの闘争を繰り広げた点はこの社会に一貫している。

暴力によるこの血みどろの闘争、ここにこそ我々の日本社会とスーダン社会の違いはあると言えるが、しかしながら両者の間に共通点がないわけではない。それは、〈力〉と〈力〉との衝突・抗争が社会の形を成り立たせるという、その構造様式である。

我々の日本社会では、「暴力はいけない、暴力は悪だ」とされ、暴力を取り締まる警察機構も機能しているから、〈力〉と〈力〉との抗争は暴力を伴わない形でーー策略を使って相手を陥れたり、出し抜いたり、あるいは、金の力に物を言わせて相手を黙らせたり、取り込んだり、といった形でーー繰り広げられることになる。永田町界隈ではよく見慣れた光景である。

要するに、暴力を野放しにするかどうかを別にすれば、スーダンでも日本でも、共通して社会にあまねく行われ、社会の形を規定しているのは、(ニーチェが言ったような)〈力への意志〉同士の苛酷なせめぎ合いなのである。

今、アメリカ人や日本人など、外国人が続々とスーダン国外に退避している。退避せざるを得ないほどひどいスーダンの内戦の惨状を見せつけられ、我々の平和なノホホン社会との違いを痛感させられながらも、我々が「おお、アンビリーバボー!」とまでは驚愕を感じないのは、そうした共通点ーー〈力〉の現実ーーを、我々が薄々感じ取っているからではないだろうか。
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スーダン 内戦の経緯

2023-04-28 15:40:19 | 日記
アフリカが熱い。スーダンが煮えたぎっている。戦火で情勢が悪化したそのスーダンから、在留邦人65人が空自やカナダ軍の輸送機で、無事日本へと退避した。

このニュースを聞くまで、恥ずかしながら私は、スーダンなる国がアフリカのどの辺にあるか全く知らなかった。知ってからは、戦火が燃えさかるそんな「未開の国」に日本人が65人もいたことが驚きだった。大使館の関係者を除けば、大半はビジネス目的なのだろうが、この未開の地でどんなビジネスが成り立つのか。

この国は天然資源が豊富だというから、さだめしビジネスもその天然資源をめぐって行われるのだろうが、そんなことよりも、私が知りたかったのは、この国がそもそも内戦の劫火に見舞われたのはなぜなのか、ということだった。まさか血に飢えた蛮族が闊歩する「野蛮な国」だから、ということではあるまい。

齢のせいか、情報の収集が日に日に億劫になってきた私は、手軽に済まそうと思い、スマホの中のチャットAIくんに尋ねてみた。

「スーダンの内戦の原因は何かな?」

返ってきたのは、次のような答えである。

スーダンの内戦の原因は、民族間の緊張、 政治的対立、経済的問題、 人権問題、 宗教的対立など 複数の対立に起因しています。 スーダンは イスラム教徒とキリスト教徒 、アラブ系と アフリカ系の民族が混在しており、 これらの グループ間で 争いが発生しています。 1990年代には 南部のクリスチャン暴動が起こりました。 また、政治的混乱、 人権問題、 軍事独裁 なども内戦の原因 となっています 。これらの問題は 現在解決されておらず、 スーダンは安定した国家としての発展 に 向けた困難を抱えています。

期待外れ。私は肩透かしを食らった気持ちだった。多言を費やしながら、これでは何も答えていないに等しい。まるで岸田首相の国会答弁のような、空疎な言葉の羅列だった。

どうしても知りたい、何が何でも知りたい、というほどの事柄ではなかったが、さすがにこれでは後味が悪い。口直しの意味で、新たにグーグル先生にお願いをして、ネットの情報に当たってみた。

案の定、いちばん解りやすかったのは、「国民の皆様の」放送局・NHKの解説記事である。全文を引用したのでは長くなり過ぎるので、以下、荒削り気味に要約してその概要を紹介することにしよう。

それによれば、事の発端は2019年まで遡る。それまでスーダンではバシール大統領による独裁政権が続いていたが、パンや燃料の値上げに抗議する市民のデモをきっかけに、がクーデターを起こし、この年、独裁的なバシール大統領は失脚した。

バシール大統領の独裁→|(2019年)

クーデターの後は、が暫定統治を行い、民主化勢力と共同統治を行うことで合意した。軍のトップはブルハン氏。彼は経済学者のハムドク首相のもとで民政への移管を進めることになった。

(2019年)|軍によるクーデター
     →軍(ブルハン氏)が民政移管に向け、民主化勢力と協議


民主化への模索は、その後、逆行することになった。軍と民主化勢力との対立が表面化し、2021年、が再びクーデターを起こして実権を握り、ブルハン氏をトップとする統治のもと、抗議デモへの弾圧が続いた。

(2021年)|軍によるクーデター →
     軍(ブルハン氏)←→民主化勢力
            (対立)
     →軍による抗議デモへの弾圧


その後は国連などが仲介に入り、民政移管に向けての協議が進められた。その中で、軍の再編などを含む内容に強く反発したのが、準軍事組織のRSFだった。

このRSFは、もとはバシール政権が反対派を弾圧するために設立した民兵組織だったが、その後、準軍事組織として軍の傘下に入り、大きな影響力を持つようになった。

RSFの指揮をとるのは、タガロ司令官。彼はブルハン氏に次ぐ統治機構のナンバー2として、ブルハン氏と確執を繰り広げるようになった。

こうして生じたのが、軍とRSFとの間の(利権をめぐる)権力闘争である。この権力闘争は次第に激化し、現在に至っている。

⇒軍(ブルハン氏)←→RSF(タガロ司令官)
       (権力闘争)
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少子化と日本の将来

2023-04-27 11:08:56 | 日記
2070年、つまり今から47年後に、日本の総人口は今の約7割まで減ってしまう、という話を聞いた。昨夜のNHKニュースが言っていた。少子化による人口減は前々から言われていたことだが、このことは我々にどういう影響を及ぼすのか。

人口が減れば、国内需要も減り、我が国の経済規模は縮小の一途をたどることになる、等々、暗い話ばかりが聞こえてくるが、私が目を見張ったのは、次のような推計である。

「2020年:現役世代2.1人で高齢者1人を支える」
「2038年:現役世代1.7人で高齢者1人を支える」
「2070年:現役世代1.3人で高齢者1人を支える」

これによれば、私の医療費や年金など、高齢者1人分の生活の糧を今は現役世代が2.1人で支えてくれているが、47年後の2070年には、現役世代は1.3人で高齢者1人分の生活の糧を賄わなければならないのだ。

これは大変なことだ。こうした事態を避けようとすれば、我々高齢者が(深沢七郎の『楢山節考』のように)姥捨山に行き、野垂れ死にするしかないが、それは現実的ではないから、現役世代の負担はいっこうに減らないことになる。現役世代の方々には、この場をお借りしてお礼と感謝を申し上げ、お気の毒様、と言うしかない。

高齢者の生活の糧は、具体的には税金によって賄われるから、高齢者一人ひとりの生活を支える現役世代の方々の人数が減れば、その分だけ方々が支払う税金の額は確実に増えていくことになる。

47年後には、私は(生きていれば)120歳、まあ、きっと死んでこの世にはいないだろう。今年で43歳になる私の長男も、その頃には90歳。生きているかどうか怪しいものだ。47年後の現役世代としては、長男の子や孫たち、つまり私の孫やひ孫たちということになる。

問題は、彼ら将来世代が子作りをする気になるかどうかである。我が子の幸せを願わない親はいない。ふつうの感性を持った親なら、我が子がみすみす苦労せざるを得ないような状況は望まないだろう。我が子が成人した暁に、重税で苦しまざるを得ないとしたら・・・。彼らは、子作りをする気になれないのではないか。

そうなると、少子化にはますます拍車がかかり、我が国の将来に待ち受けているのは、まさしく負のスパイラル、先細りの悪循環だということになる。

まあ、その頃には、どうせ私はこの世にいない。霞が関のお役人の方々、あとはよろしく頼みますぜ。
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ネット記事があぶり出す自民 終わりの始まり

2023-04-26 11:37:53 | 日記
私のメールボックスには、いくつかのメルマガに混じって「日刊ゲンダイ」からもメルマガが届く。きょう届いたのは、

東京21区議選の結果に自民真っ青…首都圏の議席壊滅危機で衆院解散に急ブレーキ

とタイトルが打たれた記事だった。こうある。

岸田政権に対する『中間評価』の意味合いを持つ衆参5補欠選挙で、自民党は『4勝1敗』。勝敗ラインの『3勝2敗』を上回り、永田町の焦点は『岸田首相がいつ解散・総選挙に踏み切るのか』に移っている。とはいえ、山口4区以外は苦戦を強いられた末の薄氷の勝利で、党内に祝勝ムードはない。むしろ、今回の投票傾向から『総選挙の議席激減』を危ぶむ声すら上がっている。

なるほどねえ。「4勝でも引き締め」どころの騒ぎではないということか。きのう朝日新聞はそう書いていたが、自民の執行部が「引き締め」を図ろうとする理由については、この新聞は何もふれていなかった。

言論サイト「日刊ゲンダイ」は違う。東京21区議選の惨敗ぶりを具体的な数字をあげて検証しながら、自民執行部の狼狽ぶりを描き出している。

検証を通じて「日刊ゲンダイ」が言おうとしていること、それは、「自民の衰退」が始まり、「自民の終わり」が近づいている、という事実である。自民の政権をなんとか存続させようとする自民執行部からすれば、東京21区議選の惨敗は、「自民政権の終わりの始まり」を告げる警鐘に等しいのである。

きのう本ブログで書いたこととのつながりで言えば、この「日刊ゲンダイ」の記事は、「4勝でも引き締め」の背景を深堀りしようとしたものと言ってよい。この記事に代表されるように、最近のネット記事は、事象を深堀りし、事象の背後に潜む闇の部分を炙りだそうとしている。

ネット記事だけではない。こうした傾向はテレビのワイドショーにも見られる。なにしろ「真相報道バンキシャ」という名のニュースショーもあるくらいである。

事件を伝える速報性の点では、新聞はネットやテレビのメディアに敵わない。新聞が他のメディアに対する優位性を競おうとすれば、それは、事件の背景や真相に迫る(文字通りの)「迫真力」の点において以外にはないと私は思っていた。しかし、本ブログできのう取り上げた朝日新聞の記事と、きょう取り上げた「日刊ゲンダイ」の記事を比較する限り、朝日新聞は「迫真力」の点でも分が悪いと言わなければならない。

最近の若者はニュースをスマホやテレビで済ませ、新聞を定期購読しようとしないらしい。定期購読者が減れば新聞社の経営は苦しくなるが、それは時代の然らしめるところなのか、それとも、自助努力の足りなさから来るものなのだろうか。やれやれ。
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