「星野君の二塁打」が教科書から消える。
そんな話をけさの新聞(朝日新聞)で読んだ。
「星野君の二塁打」とは、「少年野球で星野君が監督の送りバントのサインに背き、二塁打を打ってメンバーから外される」という架空のお話である。集団生活でのルールを考えさせる格好の教材として、これまで小学校の教科書に50年以上使われてきた実績がある。
それが、なぜ教科書から消えることになったのか。
朝日新聞の記事は、2018年に起こった日大アメフト部の「悪質タックル事件」が転機になったと指摘している。この事件は、監督からの指示の有無が社会的な関心を呼んだが、「星野君の二塁打」のほうは、指示に背いた選手が処分される筋書きになっているため、このお話に批判が集まったというのである。
朝日の記事はまた、「(掲載の取り消しは)子ども自らが考えることが重視される時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がった結果だ」とする識者の談話を紹介している。
「星野君の二塁打」は来年度から使われる小学校の教科書には掲載しない、という判断を下したのは、むろん教科書をつくる会社の担当者である。
ただ、教科書には国による検定制度がある。国の側は「規則の尊重」を教えるように指示しているから、会社サイドもこれまで通り「星野君の二塁打」を掲載することにやぶさかではないはずだが、ただこの話には世間の批判があり、これも無視できない。
そこで担当者は、「規則の尊重」を教えるにしても、世間から批判を浴びそうにないもっと穏当な別の話に差し替えることにしたのだろう。
朝日の記事はまた、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤を子どもたちに体験してもらう教材であり、残してほしかった。残念だ」とする識者の意見を紹介している。
その通りだと思う。人は独りでは生きていくことができない。だれも集団(社会)の一員として生きていくしかない。大半の人は小学生から大人になる成長の過程で、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤」に突き当たることになる。
その場合、自分らしい生き方を優先する余り、自分が「集団の一員」であることを忘れてしまうのは、たしかに問題である。しかし逆に、自分が「集団の一員」であることを重視する余り、「自分らしい生き方」や自分の主義・主張・信念を見失ってしまうとすれば、そのほうがもっと問題ではないか。
集団は存続するために、その一員に集団の規則を押し付ける。しかし、その規則がいつも正しいとは限らない。集団が押し付ける規則に対して、盲目的にそれを遵守するのではなく、「これってホントに正しいのだろうか」と疑いの目を向ける「自分の頭で考える習慣」を培うほうが大事ではないのか。
「星野君の二塁打」は、監督が出すサイン(指示)が理不尽であるケースを考えさせることにより、「規則の尊重」と同時に「規則への疑い」の大事さを教える格好の教材になる可能性がある。
「星野君の二塁打」を掲載しないことに決めた教科書会社の判断には、「規則に対する疑問の目」の芽を摘むものとして、疑問を感じざるを得ない。
そんな話をけさの新聞(朝日新聞)で読んだ。
「星野君の二塁打」とは、「少年野球で星野君が監督の送りバントのサインに背き、二塁打を打ってメンバーから外される」という架空のお話である。集団生活でのルールを考えさせる格好の教材として、これまで小学校の教科書に50年以上使われてきた実績がある。
それが、なぜ教科書から消えることになったのか。
朝日新聞の記事は、2018年に起こった日大アメフト部の「悪質タックル事件」が転機になったと指摘している。この事件は、監督からの指示の有無が社会的な関心を呼んだが、「星野君の二塁打」のほうは、指示に背いた選手が処分される筋書きになっているため、このお話に批判が集まったというのである。
朝日の記事はまた、「(掲載の取り消しは)子ども自らが考えることが重視される時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がった結果だ」とする識者の談話を紹介している。
「星野君の二塁打」は来年度から使われる小学校の教科書には掲載しない、という判断を下したのは、むろん教科書をつくる会社の担当者である。
ただ、教科書には国による検定制度がある。国の側は「規則の尊重」を教えるように指示しているから、会社サイドもこれまで通り「星野君の二塁打」を掲載することにやぶさかではないはずだが、ただこの話には世間の批判があり、これも無視できない。
そこで担当者は、「規則の尊重」を教えるにしても、世間から批判を浴びそうにないもっと穏当な別の話に差し替えることにしたのだろう。
朝日の記事はまた、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤を子どもたちに体験してもらう教材であり、残してほしかった。残念だ」とする識者の意見を紹介している。
その通りだと思う。人は独りでは生きていくことができない。だれも集団(社会)の一員として生きていくしかない。大半の人は小学生から大人になる成長の過程で、「集団の一員としての生き方と、自分らしい生き方の葛藤」に突き当たることになる。
その場合、自分らしい生き方を優先する余り、自分が「集団の一員」であることを忘れてしまうのは、たしかに問題である。しかし逆に、自分が「集団の一員」であることを重視する余り、「自分らしい生き方」や自分の主義・主張・信念を見失ってしまうとすれば、そのほうがもっと問題ではないか。
集団は存続するために、その一員に集団の規則を押し付ける。しかし、その規則がいつも正しいとは限らない。集団が押し付ける規則に対して、盲目的にそれを遵守するのではなく、「これってホントに正しいのだろうか」と疑いの目を向ける「自分の頭で考える習慣」を培うほうが大事ではないのか。
「星野君の二塁打」は、監督が出すサイン(指示)が理不尽であるケースを考えさせることにより、「規則の尊重」と同時に「規則への疑い」の大事さを教える格好の教材になる可能性がある。
「星野君の二塁打」を掲載しないことに決めた教科書会社の判断には、「規則に対する疑問の目」の芽を摘むものとして、疑問を感じざるを得ない。