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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「103万円の壁」ふたたび(その2)

2024-11-30 09:12:40 | 日記
(承前)

玉木代表は「年収103万円の壁」を見直し、所得税の基礎控除を178万円に引き上げるよう要求している。この要求の通りにすると、たしかに(この党の公約の通り)勤労者の手取りは増えるものの、税収は国・地方で7〜8兆円の減収になるという。

税収が減れば、社会福祉など国民へのサービスが行き届かなくなるのは必至である。石破自民が国民民主の要求をのみ、勤労者の手取りを増やそうとすれば、医療や介護などの社会福祉事業は、勢い縮小を免れない。我々リタイア老人の年金受給額だって減らされるかもしれないのだ。

このジレンマを解消するには、税金の減収分を補う何らかの手立てを考えなければならない。

税金の減収分を補う手立てとして、すぐに思いつくのは、その分を増税によって補うか、国債の発行によって補うか、といった安直なやり方である。

だが、「年収103万円の壁」の見直しは元はといえば減税のための措置なのだから、そのための増税というのでは、いかにもブラックユーモアじみていて、とてもいただける話ではない。

また、国債の発行による補填だが、これはこれは言ってみれば赤字のツケを次世代に回すことにほかならない。
国民民主党の要求通り、現役世代の手取りを増やそうとすれば、次世代が割を食うことになり、
「世代間公正」の観点からすれば、このやり方にはかなり問題があると言わなければならない。孫やひ孫の将来を案じるジジババは、国債の発行による補填策に猛反対するだろう。
宮城県の村井知事は、まさにこの観点から国民民主党の要求に異議を唱えている。
(つづく)

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「103万円の壁」ふたたび

2024-11-29 10:31:45 | 日記
衆院選後はじめてとなる臨時国会が幕を開け、国民民主党の要求する「103万円の壁」の見直しが、大きな問題として浮上してきた。国民民主党は首班指名の選挙が終わったあとでも、石破自公政権の首根っこを押さえている。石破政権がこの問題の解決を避けて通ることのできないゆえんである。

きょうの朝日新聞に、こんな記事がのっていた。

『103万円の壁』の引き上げ方針など国民民主の主張が盛り込まれた経済対策案を前に、石破はほとんど異論を挟むことはなかった。石破は外遊中に小野寺らから国民民主との協議状況について報告を受けており、国民民主の主張を受け入れなければ経済対策の裏付けとなる補正予算案が成立しない状況であることをよく理解していた。
(朝日新聞11月29日)

「103万円の壁」の見直し(引き上げ)が孕む厄介な問題。その本質はどこにあるのかーー。
それについて、私は先日のブログで私見を述べた。今度は読者に読んでもらえるように、これをいくつか小分けにして再掲することにしよう。

*****************************

「国民民主」なる政党が、今、世間の耳目を集めている。
この政党は「手取りを増やし、インフレに勝つ」をスローガンにかかげ、先の衆院選で大幅に議席をのばした。国民大衆の広範な支持があればこその躍進である。
それだけではない。
政権与党の自公が先の衆院選でボロ負けしたため、この政党「国民民主」は、日本の行く末を左右するキャスティングボートを握ることになった。
この政党が自公の側につくか、立憲民主の側につくかで、政権の帰趨が決まることになったのである。
この政党、国民民主党の玉木雄一郎代表が、自公に協力する条件として出したのが、いわゆる「年収103万円の壁」の見直しである。
そのため、政権にしがみつこうとする石破自民党が、この「年収103万円の壁」の見直しを迫られる仕儀になったことは、記憶に新しい。
玉木代表は最近、不倫問題が発覚して物議を醸し、この党の評判を落としたが、私がここで問題にしたいのは、そんな下世話な話題ではない。
私が問題にしたいのは、玉木代表が自公への協力の条件として出した
「年収103万円の壁」の見直しについてである。
(つづく)


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兵庫県知事選とSNSの陥穽

2024-11-27 10:01:54 | 日記
だれもが「はあ〜?」と驚き、訝しんだに違いない。パワハラやおねだり疑惑が原因で失職した、兵庫県のあの斎藤元彦知事が、ダントツの得票で再選されたという。SNSやYouTubeによる世論形成が勝因だといわれている。
この報を聞いて、「ったくもう、SNSやYouTubeは悪の温床じゃないか!」と憤る人も多いだろう。

だが、ホントにそうだろうか。SNSやYouTubeはウソやデマを垂れ流す「便所の落書き」みたいなものだ、と思っている人は、
「斎藤知事は悪人だ」と強く印象づけるマスメディアのニュースを「これこそが真実だ」と信じているに違いない。

だが、ホントにそうだろうか。
テレビのニュースは事実に基づいているが、SNSやYouTubeがばらまく情報はそうではない、でっち上げだ、と言えるだろうか。
主観的な解釈を交えない客観的な事実が存在する、と我々の多くは信じて疑わない。だが、我々が「客観的な事実」と信じているものには、すべて主観的な解釈が混じっているのではないか。

たとえば、「斎藤知事はパワハラを働いた。これは悪だ」とテレビはいう。だが、パワハラの原因とされた罵詈雑言は、「もっと精を出して仕事をしろ!」という叱咤激励の言葉だったのかもしれない。
「斎藤知事は出入りの業者におねだりをした。これは悪だ」とテレビはいう。だが、これは業者の好意を無下に断れず、彼らに好い顔を見せたがる知事の八方美人的性格のなせるわざだったのかもしれない。

斎藤知事の支持者から見れば、「彼は悪だ」と決めつけるマスメディアは、斎藤氏を追い落とそうとして陰謀をめぐらせ、悪意の解釈によって事実を捏造している、ということになる。

要するに、すべては解釈なのだ。ニーチェのperspectivism(遠近法主義)を引き合いにだすまでもない。
「SNSの投稿内容がデマかそうでないかは、ファクトチェックをすれば判る」と言う人がいるが、その「ファクト」なるものがすでに主観的な解釈におかされているとしたら、どうだろう。

ここには、民主政なる選挙制度の危うさの一端が顔を覗かせている。
なんとも厄介な話だが、この危うさはしかし今に始まったことではない。
古代ギリシアのポリスでは、弁論術に長けた人物が社会を牛耳る地位に就いていた。そのため、政治志願者に(授業料をとって)この弁論術を教える「ソフィスト」といわれる人たちが多数活動していた。
この弁論術を使って示される主張と、現代のSNSを使って示される主張は、何がどう違うのだろうか。
弁論術を教える「ソフィスト」たちは、SNSと同様、ふつうは〈悪〉の側に分類される。この分類は(もっぱらソクラテスによる)解釈の産物だが、SNSの言説を眺めるとき、我々はそれをソクラテスのような(「理性的」な)色眼鏡で見ていないだろうか。

古代ギリシアの政治志願者は、弁論術を教える「ソフィスト」にそれなりの授業料を支払った。
同様、兵庫県知事志願者の斎藤氏は、(SNSを駆使して情報操作を行う)PR会社に、それなりの報酬を支払った(約70万円とも)。
これは、SNSによる情報操作が虚偽かどうか以前の問題で、明らかに公選法違反である。
なんだかなあ。


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通夜の夜に

2024-11-25 09:16:19 | 日記
まだ1週間もたっていないのに、今は昔の感じがする。
先週の11月19日、20日のことだった。11月12日に亡くなった母の通夜、告別式がつつがなく行われた。「行われた」と書いたが、私が喪主をつとめたので、「行った」と書くべきかもしれない。
ただ、私は車椅子に座り、葬儀場の支配人に指示されるままに挨拶をしたり、合掌をしたり、焼香をしたり、客人たちに頭を下げたりしただけなので、何かを「行った」という実感に乏しいのである。

19日の通夜が終わり、客人たちをもてなす「通夜払い」の席でのことである。母が長年暮らした住まいのご近所さんたちが大勢出席してくれ、その中には私の(中学校のときの)同級生たちも混じっていた。
数十年ぶりに会った同級生たちとの歓談の中で、話題は「同じクラスだっただれそれは今、どうしてる?」という消息談義になった。
Aは? Bは?
「ああ、あいつならもう死んだよ」、「Bが亡くなったのは、4〜5年くらい前だったかな」。

愕然としたのは、私が名前をあげた6〜7名のうち、半数以上が亡くなっていたことである。
「ああ、自分はもうそういう年齢なのだ」。
私はつくづく実感した。
自分はもう老いぼれなのだと。
いつ死んでもおかしくない年齢なのだ、と。

帰宅してから、気分を変えるためにタブレットを取りだし、時々覗かせてもらっているブログを開いた。そのブログ「一日の王」には、

男性は、75歳までに4人に1人が亡くなり、81歳までに2人に1人が亡くなる。」

というタイトルが掲げられていた。

富家孝氏がサイト「ZAKZAK」に書いたネット記事の中に、そう書かれていたのだという。

このタイトルは、私の
「自分はもうそういう年齢なのだ、いつ死んでもおかしくない年齢なのだ」
という感慨に拍車をかけた。

通夜の日は北の寒気団が南下し、急激に冷え込んだ一日だった。
妙に感慨深い通夜の夜だった。
合掌


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ゆ党のキャスティング・ボート(補遺)

2024-11-23 09:58:58 | 日記
きょう11月23日、朝日新聞の紙面をめくったら、社説欄に次のような意見が書かれていた。その一部を紹介する。引用が長くなるので、その前に、引用の趣旨を示しておこう。
先のブログで、私は次のように書いた。国民民主党の要望をうけ、「年収103万円の壁」の見直しを行うと、税収が国・地方で7〜8兆円の減収になる。その減収分を補う安直な手立てとして、国債の発行が考えられるが、このやり方は間違っている、と。
「間違っている」と主張する理由として、私は、それが「世代間公正」の理念に反するから、という理由をあげたが、以下に紹介する朝日新聞の社説は、また別の観点からこの手法を批判している。
お説ごもっとも、と言うしかない。

政治的アピールを優先して公金の支出を水膨れさせ、莫大(ばくだい)な借金を残す。こんな放漫財政をいつまで続けるのか。石破首相は『節度ある積み上げで、バラマキはしない』と強調していたが、言行不一致との批判は免れない。
(中略)
首相の責任は重い。衆院選が始まると早々に、昨年度を上回る補正予算を組むと表明し、規模ありきの流れが固まった。選挙での大敗後は、政権運営への協力を求めて国民民主党の要請(*筆者注「年収103万円の壁」の見直し)も採り入れ、膨張の一因になった。
財政法は、補正の対象を『特に緊要となった経費』と定めるが、最近の政権はこの規定をないがしろにしてきた。(中略)石破氏もルール軽視の列に加わったというしかない。

(朝日新聞11月23日)


*本ブログの更新を「ほぼ日刊」から「ほぼ週刊」へと変更したものの、いろいろ問題が生じ、試行錯誤をくりかえしている。
問題の第一は、「ほぼ週刊」にすると、記事の分量が長くなってしまうことである。長い文章は、それだけで読む気がしなくなる。私自身もそうだから、それはよくわかる。
そこで、次のようにしたらどうだろうと考えた。1週間かけて書いたその長い文章を、3〜4回に小分けにして更新・掲載し、読んでもらいやすくしたらどうだろう。
つまりは「ほぼ日刊」でも「ほぼ週刊」でもなく、その中間あたりをねらうということである。まずは試しに、その「不定期更新」のスタイルでやってみようかな。


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