A君へ。
先日は遠方から拙宅へ遊びに来てくれて、ありがとう。あのときの
雑談で、アドラーのことが話題になりましたね。貴君がブログで
「A.アドラー「人生の意味の心理学」」という記事を書いていること
から、そういう話題に発展したのでした。
あのとき、私はこう言ったと思います。アドラーのことは自分も関心
を持っている。面白いと思うので、自分もブログのネタにしようと
思ったこともある。けれども、いざやろうとすると、うまく行かな
かった。どうしてなのか分からないけど、うまく行かないんだよね。
以前、老子や荘子をネタとして使ったことはあったけど、それとは何
か、全然違うんだよね。アドラーと似た傾向の心理学者がいて、えー
と、えーと、えーっと、だれだったかな、名前が出てこないんだけ
ど、この人の場合も、良いことを言っているんだよね。ただ、あまり
にも分かりやすいので、逆に面白くないし、ネタには使えない。それ
と似ているんじゃないかな。
そんなふうに言ったと思いますが、今頃になって、名前をど忘れして
しまった「あの人」のことを思い出しました。名前はフランクル、そ
う、『夜と霧』の著者として有名な人です。
なんで今頃になってフランクルのことを思い出したのかと言います
と、意外に思われるでしょうが、先日、テレビを見ていたのです。
NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、プロボ
クサーの村田諒太が、哲学者の*野稔人という人と対談していまし
た。(*に該当する漢字は、読みが分からず、表記できないので*と
しました。津田塾大学の人です)。この哲学者の対談相手になったの
が、村田諒太という私の好きなミドル級ボクサーで、きのうも、世界
タイトルの前哨戦ということで、若いメキシコ人相手に、素晴らしい
ファイトを見せていました。
話を戻します。村田は、この対談番組の中で、自分が柄にもなく読書
家であることを明かし、自分に影響を与えた本として、フランクルの
名前を口にしたのです。これを聞いたとき、私は、へえ〜、と思い、
それから、「何だ、あの人のことじゃないか」と思ったのです。プロ
ボクサーが口にするまで、私は、この心理学者の名前を忘れていまし
た。貴君たちとお会いした日には、おぼろげなその名前が、喉元まで
出かかっていながら、出なかったのです。
いい機会ですから、フランクルやアドラーがなぜネタとして使えない
のか、書いておきます。それは、この二人の言葉が、「2の言葉で1
0を語る」のではなく、「10の言葉で10を語る」からです。
ニーチェや老子や荘子の場合は、10を語るのに、2の言葉しか語ら
ない。だからそこには、8の言葉を補うという解釈の必要が生まれ、
この厄介な解釈の作業の中に、自分の思いや信念や日々の雑感を投げ
入れるという面白さが生まれるのです。
解釈という厄介な作業は、ブログ書きの醍醐味でもあり、私にとって
は快楽の源泉のようなものなので、その余地のないテクストではちょっ
とねえ。
閑話休題。A君と一緒に拙宅に来られたB君も、その後お元気でしょう
か。「自分もブログを始めようかなあ」と言っていたけど、B君がその
とき構想として語った書評ブログ、面白そうなので、楽しみにしてい
ますよ。
ではまた。次にお目にかかるときには、もっと元気になった姿をお見
せしたいと思っています。そう思うことで、ついついリハビリを怠け
てしまう老体を、奮い立たせたいと思っています。よいお年をお迎え
ください。
先日は遠方から拙宅へ遊びに来てくれて、ありがとう。あのときの
雑談で、アドラーのことが話題になりましたね。貴君がブログで
「A.アドラー「人生の意味の心理学」」という記事を書いていること
から、そういう話題に発展したのでした。
あのとき、私はこう言ったと思います。アドラーのことは自分も関心
を持っている。面白いと思うので、自分もブログのネタにしようと
思ったこともある。けれども、いざやろうとすると、うまく行かな
かった。どうしてなのか分からないけど、うまく行かないんだよね。
以前、老子や荘子をネタとして使ったことはあったけど、それとは何
か、全然違うんだよね。アドラーと似た傾向の心理学者がいて、えー
と、えーと、えーっと、だれだったかな、名前が出てこないんだけ
ど、この人の場合も、良いことを言っているんだよね。ただ、あまり
にも分かりやすいので、逆に面白くないし、ネタには使えない。それ
と似ているんじゃないかな。
そんなふうに言ったと思いますが、今頃になって、名前をど忘れして
しまった「あの人」のことを思い出しました。名前はフランクル、そ
う、『夜と霧』の著者として有名な人です。
なんで今頃になってフランクルのことを思い出したのかと言います
と、意外に思われるでしょうが、先日、テレビを見ていたのです。
NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、プロボ
クサーの村田諒太が、哲学者の*野稔人という人と対談していまし
た。(*に該当する漢字は、読みが分からず、表記できないので*と
しました。津田塾大学の人です)。この哲学者の対談相手になったの
が、村田諒太という私の好きなミドル級ボクサーで、きのうも、世界
タイトルの前哨戦ということで、若いメキシコ人相手に、素晴らしい
ファイトを見せていました。
話を戻します。村田は、この対談番組の中で、自分が柄にもなく読書
家であることを明かし、自分に影響を与えた本として、フランクルの
名前を口にしたのです。これを聞いたとき、私は、へえ〜、と思い、
それから、「何だ、あの人のことじゃないか」と思ったのです。プロ
ボクサーが口にするまで、私は、この心理学者の名前を忘れていまし
た。貴君たちとお会いした日には、おぼろげなその名前が、喉元まで
出かかっていながら、出なかったのです。
いい機会ですから、フランクルやアドラーがなぜネタとして使えない
のか、書いておきます。それは、この二人の言葉が、「2の言葉で1
0を語る」のではなく、「10の言葉で10を語る」からです。
ニーチェや老子や荘子の場合は、10を語るのに、2の言葉しか語ら
ない。だからそこには、8の言葉を補うという解釈の必要が生まれ、
この厄介な解釈の作業の中に、自分の思いや信念や日々の雑感を投げ
入れるという面白さが生まれるのです。
解釈という厄介な作業は、ブログ書きの醍醐味でもあり、私にとって
は快楽の源泉のようなものなので、その余地のないテクストではちょっ
とねえ。
閑話休題。A君と一緒に拙宅に来られたB君も、その後お元気でしょう
か。「自分もブログを始めようかなあ」と言っていたけど、B君がその
とき構想として語った書評ブログ、面白そうなので、楽しみにしてい
ますよ。
ではまた。次にお目にかかるときには、もっと元気になった姿をお見
せしたいと思っています。そう思うことで、ついついリハビリを怠け
てしまう老体を、奮い立たせたいと思っています。よいお年をお迎え
ください。