植松被告の考え方は、どこがどう間違っているのか。
第一に、彼の幸福観が間違っている。彼は、意思疎通の取れない障害者について、「安楽死させれば借金が減り、みんなが幸せに生活できる」と思った、と述べている。障害者は不幸の原因であり、障害者を介護する家族は皆、不幸に苦しんでいる。だから障害者を根絶やしにすればみんなが幸せになる、と彼は述べるが、この認識が正しければ、彼が障害者施設「やまゆり園」の利用者45人を殺傷した後で、被害者家族はだれもが介護の負担から解放され、幸せになったはずだ。
しかし、事実がその逆だったことは、事件後のテレビ映像が示す通りである。被害者家族は皆一様に悲嘆に暮れ、我が身を不幸のどん底に突き落とした犯人・植松に対して、激しい怒りを向けていた。植松に殺害された障害者は、その親や兄弟にとっては、唯一無二のかけがえのない存在であり、親や兄弟の心の支えだった。その意味では障害者は、彼ら家族に(幸・不幸をひっくるめた)生活の張り合いをーー言い換えれば生きがいをーー与えてくれる愛すべき存在だったのである。
第二に、暴力に訴えて問題を解決しようとする彼の考え方も、それ自体、大いに問題である。この種のテロリズムの発想は、ブーメランとなって彼自身へと折れ返り、彼自身の墓穴を掘ることになる。「問題のある奴は、抹殺すべきだ」と植松被告が主張するなら、同じ主張に則って、植松被告自身が抹殺されなければならない。「いや、俺は別だ。俺様だけはノー・プロブレムだ」と植松被告は主張するかもしれないが、この独りよがりの独善主義こそが問題の根源だと言わなければならない。
植松事件に救いがあるとするなら、彼が事件の半年前、衆院議長に宛てて、多数の障害者を殺害すると予告する手紙を送ったことである。手紙を送った狙いについて質問された植松被告は、「犯罪なので許可が必要だと思った」と答えている。衆院議長が犯罪に許可を与えたり、与えなかったりする役職だと思うのは馬鹿げているが、障害者を殺害する行為が「犯罪」に当たるという認識は、彼にはあったことになる。この認識があった点で、彼にはまっとうな判断能力があり、責任能力があったと見るべきだろう。
第一に、彼の幸福観が間違っている。彼は、意思疎通の取れない障害者について、「安楽死させれば借金が減り、みんなが幸せに生活できる」と思った、と述べている。障害者は不幸の原因であり、障害者を介護する家族は皆、不幸に苦しんでいる。だから障害者を根絶やしにすればみんなが幸せになる、と彼は述べるが、この認識が正しければ、彼が障害者施設「やまゆり園」の利用者45人を殺傷した後で、被害者家族はだれもが介護の負担から解放され、幸せになったはずだ。
しかし、事実がその逆だったことは、事件後のテレビ映像が示す通りである。被害者家族は皆一様に悲嘆に暮れ、我が身を不幸のどん底に突き落とした犯人・植松に対して、激しい怒りを向けていた。植松に殺害された障害者は、その親や兄弟にとっては、唯一無二のかけがえのない存在であり、親や兄弟の心の支えだった。その意味では障害者は、彼ら家族に(幸・不幸をひっくるめた)生活の張り合いをーー言い換えれば生きがいをーー与えてくれる愛すべき存在だったのである。
第二に、暴力に訴えて問題を解決しようとする彼の考え方も、それ自体、大いに問題である。この種のテロリズムの発想は、ブーメランとなって彼自身へと折れ返り、彼自身の墓穴を掘ることになる。「問題のある奴は、抹殺すべきだ」と植松被告が主張するなら、同じ主張に則って、植松被告自身が抹殺されなければならない。「いや、俺は別だ。俺様だけはノー・プロブレムだ」と植松被告は主張するかもしれないが、この独りよがりの独善主義こそが問題の根源だと言わなければならない。
植松事件に救いがあるとするなら、彼が事件の半年前、衆院議長に宛てて、多数の障害者を殺害すると予告する手紙を送ったことである。手紙を送った狙いについて質問された植松被告は、「犯罪なので許可が必要だと思った」と答えている。衆院議長が犯罪に許可を与えたり、与えなかったりする役職だと思うのは馬鹿げているが、障害者を殺害する行為が「犯罪」に当たるという認識は、彼にはあったことになる。この認識があった点で、彼にはまっとうな判断能力があり、責任能力があったと見るべきだろう。