ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

『ラ・ロシュフコー箴言集』から

2023-11-30 10:44:45 | 日記
きょうはこれからデイサに通所する予定がある。
お迎えの車が13時頃に来るので、それまでにブログを書き終え、昼食を済まさなければならない。
短い時間で書けそうなネタが見つかればよいのだが、あいにくそんな都合の好いネタは落ちていない。
仕方がないので、このところデイサで読んでいる『ラ・ロシュフコー箴言集』から、いくつかの名言(迷言?)を紹介して、お茶を濁すことにしよう。(そんなことなら、いっそのこと「更新せず」でもよいのだが、臆病な私にはその勇気がない)。




「200 美徳は、虚栄心が 道連れになってくれなければ、それほど遠くまで行けないだろう。」


「美徳」という言葉で思い起こされるのは、男の場合なら「勇敢」、女の場合なら「貞淑」だろうか。
だが、(男の場合)勇敢に振る舞うには、臆病な心との戦い・葛藤が欠かせない。臆病な心との戦いに勝つには、(俺は立派な男だ、と)見栄を張ろうとする気持・虚栄心が助けになるということだろう。
(女の場合)貞淑に振る舞うには、(好い男に抱かれたいという)欲望との戦い・葛藤が欠かせない。欲望との戦いに勝つには、(立派な女だと褒められたい、という)虚栄心が助けになる、ということだろう。




「223 感謝には商人の 信用取引と 同じようなところがある。 それは 付き合いを長続きさせる 。そして我々は借りを返すのが正しいからではなく、そうしておけば 貸してくれる人が 見つけやすくなるから返すのである。


高校野球でもプロ野球でも同じだが、勝利投手がインタビューを受けると、必ずと言ってよいほど「応援してくれたファンの皆さんのお陰です。皆さんに感謝します」という文句が返ってくる。そう答えておけば、今後もずっと応援してくれるファンの数が見込める、と踏んでのことだろう。




「236 我々が他人のために働く時は自己愛(アムール・プロプル)は善意に騙(だま)されて 自らを忘れ去っているように思える。ところが これは 自己愛がおのれの目的に到達する最も確実な道を選んでいるのである。 与えるという口実のもとに高利貸しをしているのだ。 つまり隠微繊細なやり方でみんなをまるめこむのである。


ふむ、ふむ。これは日本人なら、ひとことで言い表すことができる。
曰く、「情けは人の為ならず」。
利他の心は自己愛からきている。この諺も私が好きな文句の一つである。

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ラ・ロシュフコーと隣人愛

2023-11-29 11:28:40 | 日記
やった!やっと見つけたぞ。これこそ金塊にまちがいない!
きのう出かけたデイサで、私はふふふ、とほくそ笑んだ。


このところデイサでは、個別リハビリまでの待ち時間に『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を読んでいる。500もある箴言の中から、「金言」と呼べる名言を掘り当てるには、退屈を厭わないクソ真面目さと、少しばかりの運が必要だ。そしてきのう、わたしはやっと以下のような言説に出会ったのである。


「264 憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである。我々は他人を援けるが、それは自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするためである。だからわれわれが彼らに寄せる親切は、正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである。


個人的なことを言えば、私はイエスが説く「隣人愛」思想が好きではない。「隣人を自分のように愛しなさい」なんて、嘘っぽ過ぎて虫唾が走る思いがする。
そのせいかどうか分からないが、私は(キリスト教を批判した)思想家のニーチェが大好きなのだ。


私が上のようなラ・ロシュフコーの言説に見出したのは、ニーチェの『ツアラトゥストラ』に見られるのと同じ独自の感性だった。
(アダム・スミスの『道徳感情論』にもーー「共感」に関してーーたしか同様の見解があったように思うが、昔愛読していた同書の岩波文庫版がどこを探しても見当たらず、正確な文言を確かめようがないので、これについては割愛する。)


ともあれ、ラ・ロシュフコーの言説は、一々尤もではないだろうか。
憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。
たとえば我々は、ガザ地区のパレスチナ人がイスラエル軍の砲撃を受け、途方に暮れている姿を見るとき、憐れみを感じる。彼らの「不幸」の中に(想像によって)自分自身を投げ入れ、自分が同じ目に遭ったときのことを考えて、「ああ嫌だ、くわばら、くわばら、ああはなりたくないものだ」と、身震いをする。そして、自分が同様の境遇に陥ったときには、せめて「親切な」他人が援けてくれますように、と、微かな期待を懐くのである。だから「それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである」。
我々はしばしば彼らに義援金を送ったりするが、それはーー隣人愛などからでは決してなくーー「自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするため」の策略であり、だからそれは「正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである」。


ーーこう書いてくると、ラ・ロシュフコーはごく当たり前のことを言っているように私には思える。箴言や警句は普通、常識にとらわれた世の人々をあっと言わせるような奇抜な着想を含んでいるものだが、上記のラ・ロシュフコーの言説には、私はそういう奇抜さを感じなかった。


もしかすると、私は「非常識」な人間なのだろうか・・・。


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王道か覇道か

2023-11-28 10:32:50 | 日記
徳をもって治めるが王道、武をもって治めるが覇道。覇道は王道に及ばぬもの


これはNHKの大河ドラマ『どうする家康』の中で、家康が、そしてその子の秀忠が口にした言葉である。


それはさておき、最近の中国は国際社会に臨む自らの姿勢を「覇道」から「王道」へと転換したように思える。


本ブログでも取り上げたように、習近平国家主席は先ごろアメリカを訪問し、バイデン米大統領と「手打ち」のセレモニーを行った。
また王毅(おうき)共産党政治局員兼外相は、日中韓外相会議に出席し、日中韓三カ国の連携強化の方針に賛同を示した。


これらは、中国が外交による対話路線を重視しはじめた証と見ることができる。それまでの覇権膨張主義路線と比べれば、大きな違いである。
これを直ちに「王道」路線への転換と呼ぶことはできないが、それまでの「覇道」重視路線の対極にあるという意味では、アバウトに「王道」への路線転換と言えるだろう。


むろん現実は、国家の大方針そのままとは行かない。次のようなニュースもある。


フィリピンの沿岸警備隊は中国と領有権を争う南シナ海で10日、フィリピン軍の輸送船が中国海警局の船から放水銃の発射を受けたことについて会見を開き、中国側の放水が常態化することに懸念を示しました。
フィリピン政府は10日、南シナ海の南沙諸島、英語名スプラトリー諸島の海域でフィリピン軍の輸送船が軍事拠点への補給活動を行っていた際に中国海警局の船から放水銃を使った妨害を受けたとして抗議しました。

(NHK NEWS WEB 11月11日配信)


「覇道」路線の昔に戻ったような、こうした事態をどう見るべきなのか。「分かっちゃいるけどやめられない」ということなのだろうか。タバコは健康に良くないと分かっていても、身体はなおニコチンを欲する。人の生理と同じ事情が、国家にもあるのではないか。


紛争は良くないと頭(国家首脳)は分かっていても、身体(軍隊)はまだまだ戦いの快感を忘れることができないのだ。


中国が「王道」へと路線転換をした後でも「覇道」のしっぽを切ることができないとすれば、アメリカだって黙ってはいられない。その限り、戦争の火種は依然として残り続ける。先日のあの「米中手打ち式」のパフォーマンスは何だったのか、と思わせるような展開である。


アメリカ海軍は、中国などが領有権を主張する南シナ海の西沙諸島、英語名パラセル諸島の周辺で、ミサイル駆逐艦を航行させる『航行の自由』作戦を実施したと発表しました。一方、中国軍は『アメリカは南シナ海の平和と安定にとって最大の破壊者だ』などと反発しています。」
(NHK NEWS WEB 11月26日配信)


ああ、世界中が「分かっちゃいるけどやめられない」まま、奈落へと突き進んでいくような雲行きの昨今である。

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日中韓外相会議 北への対処

2023-11-27 09:47:29 | 日記
そうか、コレアレだったのか。次のニュースを聞いて、私は思わず膝を打った。


日中韓外相会議 “首脳会議 適切な時期開催へ”作業加速で一致


日中韓の外相会議が韓国で開かれ、2019年を最後に開かれていない3か国の首脳会議をできるだけ早く適切な時期に開催するため、作業を加速させることで一致しました。
(NHK NEWS WEB 11月27日配信)


これこそがアレに違いない・・・!。
アレとは、北朝鮮が軍事偵察衛星を打ち上げたことに対して、朝日新聞の社説が先に提起した問題の回答である。


以前、本ブログで書いたように(11月24日《北朝鮮の「衛星」打ち上げに対して》)、この問題に対して朝日の社説は二つの対処を提起していた。
一つ(A)は「力には力で」の対処であり、
もう一つ(B)は「力対力」の対応をとるのではなく、外交による対話路線で対応する方途である。


私は次のように書いた。


「問題は、(A)の主張と(B)の主張とをどう関連付けるかである。水と油のように反発し合うこれら二つの主張を、朝日はどう「止揚( aufheben )」するのか。「正−反−合」の「」の主張を見出すことは、(朝日でなくても)なかなか容易ではない。」
(11月24日《北朝鮮の「衛星」打ち上げに対して》)


この文脈で言い換えれば、冒頭のニュースで報じられた日中韓の外相会議こそ、この「合」の立場に向けた実践にほかならない。私はそう受けとったのである。


この日中韓外相会議が北朝鮮の軍事偵察衛星打ち上げを強く意識したものであることは、次の記述からも知ることができる。


会議では軍事偵察衛星を打ち上げたとする北朝鮮への対応をめぐって意見を交わし、上川大臣は『朝鮮半島の完全な非核化に向け、国連安保理決議の完全な履行を含めしっかりと取り組むべきだ』と指摘しました。
(NHK NEWS WEB 11月27日配信)


あとは、この外相会議で打ち出された方針が、今後、着実に実行に移されるのを待つだけである。

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パー券の抜け道と道徳性・適法性

2023-11-26 10:13:18 | 日記
適法性( legality )と道徳性( morality )とは違う。哲学者で倫理学者でもあるカントは、かつてそう述べた。べつに難しい話ではない。法の抜け道を通るのが得意な永田町のセンセ方には身近な話である。


センセ方は、違法ではないが違法すれすれの「合法的」な手続きを踏んで、私腹を肥やそうとする。手に入れたカネで政治活動を行い、おのれの権力を維持しようとする。それは一応、法に適った行い( legai conduct )であり、違法ではないから、ブタ箱行きにはならないが、道徳に適った行い( moral conduct )の対極にあり、道義的な責任を免れない。違法ではなくても、倫理の観点から厳しく糾弾されねばならない。


私がこう書いたのは、つい最近のことだが(11月17日《戦争と国際法(その2)》)、永田町のセンセ方がそういう行い、つまり脱法行為をしでかしていたことが最近明らかになり、物議を醸している。


私が問題にしたのは、イスラエルが行った〈人道〉に悖る戦争行為(ガザ地区への攻撃)だったが、我が国のセンセ方がしでかしたのは、政治資金規正法のちょろまかしである。平和国家ならではの、実にかわいいものだ。


政治資金規正法は次のように定めている。


「パーティー券は、パーティー1回につき20万円を超えた場合に、購入者の名前や住所、金額を収支報告書に記さねばならない」。


これをセンセ方は、「パーティー券は1回につき20万円を超えなければ、購入者の名前や住所、金額を記さなくてもよい」と改釈し、この抜け穴を大勢で(悪びれもせずに)くぐり抜けたのである。


センセ方は、立法の府、国会に属している。つまり政治資金規正法は、センセ方自身が作った法律なのである。
センセ方は、法律の条文の中に抜け道をこっそり忍ばせ、後でこの抜け道を平然と通り抜ける。これは不道徳以上の、悪質以外の何ものでもない。


この問題に対して、岸田首相は「凡ミスでした。報告書を書き直したから、それで良いんでしょ」と、歯牙にもかけない態度だが、この御仁、問題の深刻さをホントに解っているのかどうか。
解っていないとしたら、ただのアホ。
解っていてこの態度なら、相当のタヌキ親父である。

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