ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

二階発言と軍国思想の神話

2018-06-30 17:22:05 | 日記
ホタル』という映画をご存知だろうか。高倉健が主演で、監督は降旗康
。特攻隊の生き残りである主人公が、漁師として病弱の妻とともに暮ら
し、昭和が終わるまでの戦後を歩む、その生き様を描いた作品である。

近頃はテレビがちっとも面白くないので、夕食後は「アマゾン・プライム
・ビデオ」で動画を観ることが多くなった。「おすすめ映画」にこの作品
がリストアップされたのは、高倉健が主演の映画作品を、ーー『網走番外
』や『昭和残侠伝』や『緋牡丹博徒』などのヤクザ映画をーーこのとこ
ろ見つづけていたからだろう。

私はべつに健さんの熱狂的なファンであるわけではない。ヤクザの世界に
憧れているわけでもない。ただ、これらの映画を観ると、ほぼ半世紀前に
過ぎ去った私の青春時代が、ほんのりと懐かしく蘇るのである。その頃、
下宿の近くの映画館「池袋文芸座」や「文芸地下」では、土曜の夜になる
と、これらの映画がオールナイトで上映されていた。

私はある時期、毎週のようにこれらの映画館に足を運んだ。夜が明けて空
がうっすらと白みはじめる頃、映画を観おえた若者たちが三々五々、国電
の池袋駅に向かって歩いていく。その後ろ姿は、皆一様に肩を怒らせ、ま
るで殴り込みに行くヤクザのヒーローのようだった。私もその一人だった
(と思う。どう見てもヤクザらしくなかったけれど)。

さて、『ホタル』であるが、この作品は「お国のために私心を捨て、果敢
に敵艦に突っ込んで、尊い命をなげうつ特攻隊の若者たち」という軍国主
義神話
の、その虚構をあばこうとした作品だと言えるだろう。この映画に
は朝鮮人の特攻兵が登場し、出陣を前にして、次のような科白を吐くシー
ンがある。「俺は帝国日本のために死ぬのじゃない。朝鮮民族と、知さ
ん(許嫁の日本人女性。後に主人公山岡の妻になる)のために死ぬのだ。」

このシーンを見ながら、私は、軍国思想の神話をあばこうとする、ありふ
れた次のような言説を思い起こした。「『天皇陛下万歳!』なんて言って
死んでいった日本兵は一人もいなかった。みんな『おふくろさん!』と
言って死んでいったのだ」。
件(くだん)の映画のシーンは、この言説のバリエーションだと言えなく
もない。

この映画には、その他にも、食堂のおばさんだった老女が戦後の時代に登
場し、「私達が(特攻兵たちを)殺したんだよ!」と叫ぶシーンが出てく
る。若者たちが軍国思想の神話にからめとられ、死地に赴くように仕向け
たのは、ほかでもない、日本国民の自分たち一人ひとりだ、その責任は自
分たちにある、と言いたいのだろう。

わざわざこんなことを書くのは、ほかでもない。この反戦映画の主張は、
私が本ブログで先に書いたこととある意味、密接につながっているからで
ある。6月27日の《少子化の現状を見据える》で、私は次のように書い
た。
「『自分によい報いがある』と思えないような状況で、それでも『他人の
為になることをしよう』と考えるとしたら、そんな奴はただのアホか、無
責任な政治家の妄言に踊らされたお人好しに過ぎない。」
ここで言う「無責任な政治家の妄言」を、「軍国思想が捏造した忠君愛国
の神話
」とおきかえてみればよい。この忠君愛国の神話にからめとられ、
「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった日本兵たちもいたことだろう。
だが、彼らは決して「ただのアホ」なんかではない。彼らをからめとる虚
構の神話を捏造し、仰々しく飾り立てて、日の丸の小旗を手で振りながら
彼らを戦地へと送り出したのは、一体だれなのか。彼らを「軍神」に仕立
てることに一役買ったのは、一体だれなのか。それは、それは・・・我々自
身ではないのか。

そう考えるとき、私は、二階幹事長の「産めよ、殖やせよ」の発言に与す
るような言説を、今、さらに振りまく愚を繰り返してはならないと思うの
である。(このおちょぼ口ジイサン、どうも憎めないよな、とは思うけど、
それはまた別の話だよね)
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二階発言について、さらに考える

2018-06-29 14:14:52 | 日記
自民党の二階幹事長が「お国のためだ。産めよ、殖やせよ」とトンデモ
な(と言えるかどうかが問題なのだが、それはともかく)アナクロな発言
をしてから3日。この発言に対する典型的な反論が、新聞やネット上の言
論にも見られるようになった。

「典型的な反論」というのは、これらの反論がいずれも「人権思想」の発
想から出ているからである。
「人権思想」とは、「人はそれぞれ権利(right=求めても正当なこと)を
持ち、そこにはたとえ国家といえども立ち入ることはできない。立ち入っ
てはならない」とする考え方である。

朝日新聞はきょうの社説《二階氏の発言 「産めよ」の発想の罪》で、次
のように述べている。
「これが「女性活躍」を掲げる安倍政権中枢の本音なのか。人権意識の乏
しさ、政治が果たすべき役割への無理解に、あぜんとする。
(中略)
言うまでもなく、結婚も出産も、個人の自由だ。政治家が口出しする話で
はない。政治がなすべきは、結婚、出産を希望する人が安心して子どもを
産み、育てることが出来る環境を整えることだ。」

朝日の社説は、主張の根拠を「自由権」の発想においている。人はそれぞ
れ自由の権利を持ち、国家権力がこれを侵害することは許されない、とい
う発想である。すこぶる正統的で典型的な反論だと言えるだろう。

朝日の社説とは別に、もう一つおもしろい発言を見つけた。《46歳「未婚
で子ナシ」が二階幹事長にはっきり言いたいこと 産まない女が幸せ感じ
たら罪ですか?》(現代ビジネス6月28日配信)である。この記事の中
で筆者の長谷川 あや氏は次のように述べている。
「何に幸せを感じるかは人それぞれだ。価値観だって違う。たとえば直近
の例でいえば、私はサッカーのワールドカップで日本代表が勝とうが負け
ようが心底どうでもいいのだが、誰もが日本代表を応援していることを前
提に話しかけてくる視野の狭い人に辟易としている。
(中略)
(二階幹事長は)さまざまな理由で持てない人や産めない環境にある人も
たくさんいることを、想像できないのだろうか。
(中略)
二階幹事長が「子どもを産まない方が幸せじゃないかと考えることは勝手」
だと考えるのは自由だ。ただその偏狭な家族観、前時代的な幸福観で、個
人の生き方の選択に介入することは、「勝手」ではないのだろうか。子ど
もを産まない“方が”必ずしも幸せ、だとは思わない。でも子どもを産まな
くても私はじゅうぶん幸せだし、そしてそう思うことを恥じていない。」

この長谷川氏の発言も、朝日の社説と基本的に同じ発想に立っている。人
がどんな価値観を持とうと、どんな幸福観を持とうと、それは自由であ
り、国家がこの自由を侵害することは許されない、という発想である。
「子供を産まなくても私は幸せだ。私には産まないことを選択する自由が
ある」と考える私に、国家はとやかく口を挟むべきではない、というので
ある。

以上、人権思想からなされた2つの典型的な発言を紹介したが、これらの
典型的な(=ありふれた)見解をことさら取りあげたのは、ほかでもない、
これらの見解がもう一つ、さらに重要な問題を提起しているからである。

各人がいだく多様な価値観は、相互の共存を許さず、深刻な対立・衝突に
発展することがある。いくつかの宗教思想が深刻な対立を生み、陰惨な戦
争にまで発展した例は、いくつも思い浮かぶ。それについて詳しく論じて
いる暇はないが、とにかく、多様な価値観は衝突して深刻な対立を生み、
国家の共同生活を破壊することがある。そうならないよう、対立を調停す
るのも国家の役割だとしたら、国家が各人の価値観に口出しすることを、
我々はどう考えたらよいのか。

早い話が「子供を産む/産まない」の問題である。「子供を産まなくても
私は幸せだ。私には産まないことを選択する自由がある」と考える女性が
社会の多数を占めるようになれば、その社会は確実に少子化・高齢化の道
をたどり、衰退を免れないだろう。そうならないよう、政権の幹部が「産
めよ殖やせよ」と昌道したとき、我々は(長谷川氏のように)「産まない
自由」を盾にして、この政権幹部の発言を批判することができるのだろう
か。

私は先日、二階幹事長の発言を知ったとき、「これは問題だ!」と思い、
本ブログで批判の俎上にのせようと考えたが、そのとき、批判の論拠を人
権思想に求めることはできなかった。あれこれ考え、私は「自己利益を追
求する人間本姓の生理」から批判を展開することにした(6月27日《少
子化の現状を見据える》)。ただ、批判しながらも、私はこの二階発言の
意図は理解できると書いた。私はこのおちょぼ口ジイサンの気持ちがよく
解るのである。大きなお世話、余計なお節介だとは思わない。
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党首討論 ガキの喧嘩にも似たその不毛さ

2018-06-28 11:27:35 | 日記
与党の党首である安倍首相が、きのうの党首討論で「党首討論は歴史的使
命を終えた」と言ったようだ。首相のこの発言が物議を醸し、きょうの新
聞社説では、朝日、読売、毎日の3紙がこの問題を取りあげている。
朝日《党首討論 「歴史的使命」立て直せ》
読売《党首討論 大所高所から政策を論じよ》
毎日《党首討論の「歴史的使命」 与野党で投げ出す愚かさ》

この問題の根本にあるのは、「今のような党首討論なら、やっても意味が
ない。実にくだらん!」という見方だろう。問題なのは、与党の党首にも
野党の党首にも、この憂うべき現状を改善しようとする意欲がなく、彼ら
自身がこの見方に与していることである。

読売は与党自民党の広報誌らしく、野党党首の枝野代表を批判して、こう
述べている。
「安倍首相の答弁時間を十分に確保せず、自らの主張を訴えるだけでは、
党首同士が向かい合って議論する意味はない。」

たしかに、その通り、これでは無意味な、形ばかりの討論にしかならない。
しかしこの枝野代表の態度は、首相が前回の党首討論でとった煮えきらな
い態度に対して、野党側がやむなくとった反撃の態度だということを、見
逃してはならない。政権に距離をおく毎日は、首相がとった前回の態度を
批判して、こう述べている。
「首相は前回、森友学園、加計学園の問題などで質問にまともに答えず、
聞かれていないことを長々と話して時間をやり過ごす答弁姿勢に終始し
た。」
たしかに、これじゃどうしようもないわなあ。ーー要するに、売りことば
に買いことば、ガキの喧嘩みたいで、どっちもどっちなのである。

それでは、あるべき党首討論とは、どういうものなのか。それは、読売が
社説のタイトルに掲げるように、「大所高所から政策を論じる」ような、
丁々発止の議論の場だと、さしあたりは言えるだろう。

だが、実質的な政策論争はもっと下位の、党内の作業部会で行われるのが
通例だということを、我々は知っている。党首はそこで交わされた議論の
取りまとめ役・調整役に過ぎないことも、我々は知っている。だから、実
りのある政策論争は、むしろ通常の国会審議の場で行われるべきだと我々
の大半は考えている。

では、我々は党首討論に何を期待すればよいのか。それは、国会審議の場
で交わされるタテマエの議論では見えない、その裏に隠されたホンネの部
分を、政権与党の党首がついうっかりと漏らしてしまうことである。挑発
めいた野党党首の執拗な質問攻めにうんざりして、与党の党首が音をあげ、
あるいは怒りの激情にかまけて、ついホンネを口走ってしまうことがある。
そうなれば、これは野党にとっても、また国民にとっても、願ってもない
敵失の得点だということになるだろう。

現在の与党党首である安倍首相は、野党議員の鋭い追及につい興奮して、
「そんなことがあれば、私は首相も議員も辞任しますよ!」と口走ったこ
とがあった。だが、これは通常の国会審議でのこと、党首討論の場におい
てではない。現在の野党党首は、相手を追及する攻撃力にイマイチ欠ける
んだよなあ・・・、と心許なく思うのは、私だけだろうか。サシでの真剣勝負
は、実力が伯仲していないと、見るに堪えない。枝野さん、頑張ってね。
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少子化の現状を見据える

2018-06-27 10:27:42 | 日記
他人(ひと)の為になることをする。それはとても良いことだ。ただし、
それは、そのことが自分の為になる限りでのことである。「自分を犠牲に
しても人助けをせよ」なんて、まっぴら御免。そんな御託は、無責任な政
治家のくだらない妄言(たわごと)だと思って、スルーすればよい。

情けは人の為ならず。そういう諺がある。手元の電子辞書(広辞苑)を引
くと、「なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来
る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」とある。そうなのだ。
「自分によい報いがある」と思うから、人は他人になさけをかけ、他人の
為になることをする。ーーそれが人情の自然な生理というものではないだ
ろうか。「自分によい報いがある」と思えないような状況で、それでも
「他人の為になることをしよう」と考えるとしたら、そんな奴はただのア
ホか、無責任な政治家の妄言に踊らされたお人好しに過ぎない。

私がこんなことを考えたのは、以下のニュースに接したからである。

自民党の二階俊博幹事長は26日、東京都内での講演後の質疑の際に、少
子化対策に関連して「このごろ、子供を産まないほうが幸せに(生活を)
送れるんじゃないかと、(一部の人は)勝手なことを自分で考えてね」
と述べた。
                   (毎日新聞 6月26日)

二階幹事長の気持ちも解らないではない。たしかに、少子化対策というこ
とで言えば、なんらかの対策が急がれる現状はある。厚労省の諮問機関
(人口問題審議会)の報告書には、次のように書かれている。

「 (1)経済面の影響
(労働力人口の減少と経済成長への影響)
・ とりわけ生産年齢人口の減少をもたらし、労働力人口の減少につなが
る。
(中略)
労働力供給の減少と労働生産性の伸び悩みが現実のものとなれば、今後、
経済成長率は傾向的に低下する可能性がある。

(国民の生活水準への影響)
労働力供給の減少と労働生産性の伸び悩みによる経済成長の鈍化と、高齢
化の進展に伴い避けることができないと見込まれる社会保障費の負担の増
大は、国民の生活水準に大きな影響を及ぼす。
(中略)
諸般の構造改革に取り組まず、現状のまま推移した場合には、人口1人当
たり所得の伸びの低下と国民負担率の上昇によって、現役世代の税・社会
保険料を差し引いた手取り所得は減少に転じるという厳しい予測もある。
現役世代にとって働くことが生活水準の向上に結びつかないような社会で
は、生活・消費の両面で、経済・社会の活力が阻害される危険性が大きい
という深刻な状況になる。」

この報告書が言うように、少子化の現状を放置すれば「深刻な状況」にな
ることが予測されるとすれば、政権与党の幹事長が焦りを感じるのは当然
だろう。その気持ちは私にもよく解る。この現状を打開しようとすれば、
「産めよ、増やせよ」と昌道するしかない。それによって少子化に歯止め
が掛かれば、我々の社会は「深刻な状況」を脱し、皆がハッピーになれる
のだ。「産む」ことはなるほど「他人の為になる」行いである。

しかし、である。「産む」ことが「自分の為」にならない現状があるとし
たら、どうなのか。保育所が圧倒的に不足しているため、出産した母親た
ちが職場復帰を断念し、育児に専念しなければならない現状がある。出産
した新婚世帯は共働きができなくなり、経済的困窮を強いられる現状があ
る。こうした現状を放置したまま、政治家がただ「産めよ、増やせよ」と
唱えるとしたら、それは「社会の為だ、多少のことは我慢せよ。自分の生
活のほうが大事だ、などと勝手なことを言ってはならない」と言うに等し
い。そこで、そういう妄言に対して、私は私なりに異議申し立てをしたの
である。
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核のごみ処分問題 結果の再検討

2018-06-26 13:51:17 | 日記
きのうは朝日新聞の社説を、3色に色分けして打ち出してみた。せっかく
の試みなので、きょうはこれにもう一段、突っ込みを入れてみたい。

取りあげたいのは、以下の部分である。
「各種世論調査では原発再稼働への反対が多数を占める。こうした原発に
懐疑的な人たちを含めて国民的な合意をつくっていくには、原発推進路線
とは切り離した中立性こそが、議論の推進役には求められる。」
この部分の冒頭にある「各種世論調査では原発再稼働への反対が多数を占
める。」という文章を、私は茶色に分類した。これは「事実について記述
した文章」だと考えたからである。

問題にしたいのは、これ以下の文章である。
「こうした原発に懐疑的な人たちを含めて国民的な合意をつくっていくに
は、原発推進路線とは切り離した中立性こそが、議論の推進役には求めら
れる」という文章だが、この文章には、私はどの色も割り当てなかった。
どの色を割り当てたらいいか、判らなかったからである。

「ここは、朝日独自の見解を述べた部分じゃないのか」という意見もある
だろう。たしかに、これはいかにも朝日らしい意見である。この社説には
「朝日新聞は社説で『いまの原子力政策の継続を前提とする議論しか認め
ないような姿勢では、不信感を強めるだけ』と指摘してきた」と述べられ
ている件(くだり)があるが、この部分と照らし合わせてみても、「これ
は朝日らしい見解だ」と思いたくなる。

しかしそうだとすると、なんとも奇妙なことになるのではないか。この文
章の前では「各種世論調査では原発再稼働への反対が多数を占める」と述
べられているから、朝日は次のように主張していることになる。「多数派
は原発再稼働に反対している。したがって国民の合意をめざす議論の推進
役には、原発推進路線とは切り離した中立性が求められる。」
何のことはない。これはトクヴィルの言う「多数者の専制」を認める見解
にほかならない。この文章は「多数派はコレコレと主張している。したがっ
てコレコレが求められる」と述べているに過ぎないのだ。これは全く朝日
らしからぬ見解ではないか。

天下の朝日なら、むしろこう述べるのが相応しいのではないか。「多数派
はコレコレと主張している。だが、少数派の意見も尊重しなければならな
い。シカジカを尊重する議論が求められる。」
でも、この主張は、少数派の意見ーーつまり原発推進路線ーーを尊重せよ
という主張につながる。これでは反政府の急先鋒であるこの新聞には「ら
しからぬ」主張だということになるしなあ。

そういうわけで、私はこの鵺(ぬえ)のような部分をどう扱ったらいいか、
全く判らず、持て余してしまったのである。
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