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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

トランプと国家の要塞化 ハラリの警鐘を聞く(その2)

2025-05-22 09:07:57 | 日記
(承前)
要塞化した2つの国家ーートランプのアメリカと、プーチンのロシアーーはいずれ必ず衝突し、この衝突は戦争へと発展する。これが「知の巨人」ハラリ氏の見立てである。
この戦争ではかなりの高確率で核兵器が使われ、人類は滅亡の危機に立たされるかもしれない・・・。

そんな絶望的な予測を聞かされるとき、私はつくづく思うのだが、人は希望がないと生きていけない弱い存在なのかもしれない。絶望の中でこそ人は希望を持ちたがるものだ、と言えるだろう。
私もその一人として、ハラリ氏の言説の中に何か希望につながる展望はないものかと、オプチミスティックな展望を探そうとした。
案の定、それはすぐに見つかった。以下の言葉を、我々はだがオプティミストの安易な展望の提示と見るべきではあるまい。ハラリ氏自身が希望を渇望する一人の人間として、希望のよすがとなる兆候を、人類の歴史の中に必死に探したはずだ。ハラリ氏は次のように述べている。

人類の長い歴史から学ぶべきことは、信頼を築くという人間の驚くべき能力です。
10万年前、人類は、数十人の小さな集団で暮らし、外の人間を信頼できませんでした。今日では、数百万人が互いに信頼し合う国家のような巨大なネットワークが構築されています。過去には多くの戦争や犯罪などの問題があったにもかかわらず、互いによりよく信頼を築く方法を学んできたのです。
私たちの食べ物、技術、発想のほとんどは、10年前、1000年前、あるいは5000年前に外から来たものです。もしある国が『外から何も欲しくない、国内にあるものだけを使う』と言うなら、誰もこれまでのように生きることはできません。自分の外にあるものを、まるで空気のように信頼しなければなりません。

(同前)

人と人との間の「信頼」のネットワーク。このネットワークは国境の壁を越え、交易の拡大とともに、グローバルな規模へ広がっていく。ジコチュー(自己中)のトランプがこのネットワークをどれだけ分断しようとしても、このネットワークはしょせん国家権力の及ぶところではない。
絶望の中で、希望をつなごうとする我々。我々はこの「信頼のネットワーク」にこそ信頼を寄せるべきなのかもしれない。

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トランプと国家の要塞化 ハラリの警鐘を聞く(その1)

2025-05-20 09:06:39 | 日記
虎の威を借りるつもりはない。「知の巨人」と言われる人が警鐘を鳴らしていると聞いたので、その発言に耳を傾けたい、率直にそう思ったまでである。
一昨日(5月18日)の深夜に放送されたNHKのインタビュー番組

トランプ時代への警鐘〜歴史家コヴァル・ノア・ハラリ〜

を見た。

コヴァル・ノア・ハラリ氏は、世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』の著者として名高い。
彼はトランプ米大統領ーー自国第一主義を掲げ、世界中に関税を課して、ディール(取り引き)を求めるあのトランプ米大統領の、その所行を国家の「要塞化」であるとして、次のように述べている。

トランプ大統領のような政治家は自国の利益だけを考え、自国をすべての国から隔離された一種の要塞として想像しています。そのため、貿易や思想、外国人に対して壁や関税を築いているのです。
問題はこれらの要塞がどのように関係を管理し、紛争を解決するかです。なぜなら、必然的にすべての要塞は、近隣諸国を犠牲にしてより多くの領土、より多くの安全、より多くの繁栄を望むからです。
したがって、2つの要塞が衝突した場合、国際法も普遍的な価値観もないので、戦争以外で要塞間の関係を管理する方法はありません。

(NHK NEWS WEB 5月16日配信)

ハラリ氏が「2つの要塞が衝突した場合」ということで想定しているのは、アメリカと、もう一つの要塞化した国家・ロシアとが衝突するケースである。
ハラリ氏の想定にしたがえば、2つの要塞化国家ーートランプのアメリカと、プーチンのロシアーーはいずれ必ず衝突し、この衝突は必然的に戦争へと発展することになる。

ハラリ氏が差し出す人類の将来は限りなく暗いが、
では、我々はこの絶望的な未来に対して、どう対処すべきだとハラリ氏は言うのだろうか。
(つづく)

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ああ認知症 その闇の底から

2025-05-18 09:03:46 | 日記
人生も七十路(ななそじ)を越えると、嫌でも老いを自覚することになる。きのうできたことがきょうはできなくなり、「できること」がどんどん失われていく。

もし認知症になったら・・・、と私は考えた。きのう認知できたことがきょうは認知できなくなり、「認知できること」の範囲がどんどん狭まっていくのだろう。

「認知できること」の範囲が究極まで狭まったとき、そこにあるのは絶望なのか、それともあっけらかんとした能天気の明るさなのか、それはわからない。
わからないながらも、その未知の領域は私の好奇心を呼び覚ます。

こんな愚にもつかないことに思いをめぐらせたのは、数日前(5月13日)、テレビドラマ「対岸の家事」(「対岸の火事」ではない)を見たせいだろう。
毎週火曜日に放送されるこのドラマは、「家事」にまつわるさまざまな問題を独特の切り口でクローズアップして見せてくれるので、
私は毎週、おもしろくこれを見ている。

この日は「もし認知症になったら」というのがテーマだった。
ヒロイン・詩穂の近所に住む親しい年上の主婦・坂上が認知症を発症し、万引き騒ぎを起こして、(離れて暮らす)一人娘の里美を巻き込むことになる。
「お母さん、大丈夫? 私、これからはなるべくこの家に帰ってくるようにするから」
と気遣う里美に対して、
母親の坂上はこう答える。
「私を独りにして頂戴。私はこれからどんどん物忘れがひどくなり、自分が自分でなくなって、人に迷惑をかけるだけの存在になる。里美の人生の邪魔をする。私はそれが一番、嫌なの」

坂上はまだ、「我が子に迷惑をかけたくない」と配慮するだけの認知能力は持っている。だが、やがてはそうした認知能力も失われ、ただ「存在」するだけの「もの」になっていくのだろう。

私は、自分がそうなったときのことを想像した。

数日前に見たこのドラマは決して明るい話ではなかった。深刻な、といったほうがいい。

だが、この深刻な、暗い光景の先にはどんな光景が顔を覗かせるのか。

もっと別の光景が現れるのでないか。そう思うのは、ドストエフスキーの言葉が心に残っているからである。

私はこのところデイサのスキマ時間に『絶望名言』(NHKラジオ深夜便)を読んでいる。このぶ厚い文庫本を読んでいたら、ドストエフスキーのこんな言葉に出会ったのである。

もしどこかの山のてっぺんの岩の上に、
ただ二本の足をやっと乗せることしかできない
狭い場所で生きなければならなくなったとしても
ーーしかもその周囲は底知れぬ深淵、
広漠とした大洋、永遠の暗闇、
永遠の孤独と永遠の嵐だとしてもーー
そしてこの方一メートルにも足らぬ空間に、
一生涯、千年万年、いや永久にそのまま
とどまっていなければならないことになったとしても
ーーそれでもいますぐに死ぬよりは、
そうしてでも生きているほうがまだましだ!
生きて、生きて、ただ生きていられさえすれば!
たとえどんな生き方でもーー
ただ生きていられさえすればいい!・・・。
なんという真実だ!
ああ、まったくなんという真実だろう!

ひたすら「生きたい!」と願うその望みが叶うとすれば、
それは「希望」の光明がさしている状態といえるだろう。
絶望と希望は背中合わせなのかもしれない。

*「はてなブログ」に移住しました。しかし引っ越しは難しい。この身ひとつは移住できたものの、馴染んだ家財道具を一緒に移すことはできませんでした。
まあ、仕方がない。単身でまた一から始めることにしようか。
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ああ日本 対米忖度の「どうして!」

2025-05-15 09:03:33 | 日記
日本政府はどうしてこうもアメリカの顔色を気にしなければならないのだろうか。
理由ははっきりしている。アメリカとの関係は、日本の行く末を決定的に左右するからである。アメリカは日本の生殺与奪の権を握っているといってもよい。
だから、「どうしてこうも〜ならないのだろうか」と書いたが、この「どうして」は疑問詞の why (?)ではなく、感嘆詞の how (!)に近い。

貿易の関税問題や、日米安保問題を報じるニュースを聞くとき、私はこの「どうして!」を感じるのだが、それだけではない。

きのうの朝日新聞の記事

情報管理下の外相会談 『安全面考慮』直前公表 日・イスラエル
(朝日新聞5月14日)

を読んだときも、私はこの「どうして!」を感じ、うんざりしないわけにはいかなかった。

この記事は、岩屋外相とイスラエル・サール外相との会談をとりあげ、日本政府の危うい外交姿勢について伝えている。

記事によれば、イスラエル問題に対する日本外交の基本姿勢は


イスラエルともアラブ諸国とも良好な関係を保ち、イスラエルと独立したパレスチナ国家が共存する『2国家解決』を支持する立場を取る

というものだが、

日本政府は、

親イスラエル政策を取るトランプ米政権」に配慮し、こうした基本姿勢を貫けないのだ。

記事中の立山良司氏(防衛大学校名誉教授)の言を借りるまでもなく、中東外交での日本の対応は、対米姿勢にも関係して、関税問題や日米安保の問題に飛び火しかねないからである。

とはいえ日本としてはーー中東の石油資源に大きく依存する日本としては、アラブ諸国にも「いい顔」をしなければならず、日本はイスラエル=アメリカと、アラブ諸国との間で、いわば板挟みの状態にあるといえる。

では、日本はどうすればよいのか。

イスラエル・サール外相と会談した岩屋外相のように、「2国家解決」の意義を(控えめに!)力説するとともに、「人道支援の確保など国際法の順守」を(控えめに!)「強く要請」するしかないのだろうか。

注目すべきことだが、トランプ米大統領は先日13日からサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)の中東3カ国を歴訪している。ロイターによれば、今回の中東歴訪では、トランプ米大統領は「経済面でのディール(取引)に注力する方針」だという。

トランプ米大統領は13日、湾岸諸国歴訪の最初の訪問国サウジアラビアで事実上の最高権力者ムハンマド皇太子と会談し、サウジによる米国への6000億ドルの投資確約を取り付けたほか、約1420億ドル規模の武器売却でも合意した。
(ロイター5月14日)

この記事からも明らかなように、トランプ米大統領は親イスラエルの姿勢をとりながらも、アラブ諸国を敵視するわけではなく、むしろこれらの国との経済的関係を維持・強化しようとしている。
下部構造(経済的関係)は上部構造(政治的立場)を規定する、と言ったのはマルクスだが、アラブ諸国との経済的関係を重視するトランプは、いずれは(アラブ諸国といがみ合う)イスラエルへの立場を変える可能性がある。

こうしたことを考慮すれば、日本政府もアラブ諸国との(石油輸入という)経済的関係を重視する立場から、イスラエルに対して、もっと非難の姿勢を強めてよいのかもしれない。

もっとも、アメリカとの経済的関係も日本の屋台骨に大きな影響を及ぼすから、「親イスラエル」という目下のトランプ政権の基本方針を気にしないわけにもいかないのだが・・・。

ああ、日本政府はどうしてこうもアメリカの顔色を気にしなければならないのだろうか!
いい加減にしてくれ。

*移住先は「はてなブログ」に決めました。この記事は「はてなブログ」にも投稿予定です。


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国家と国民 その二層構造の微妙な関係

2025-05-13 09:04:18 | 日記
どの国でもそうだが、企業の経済活動はますますグローバル化の度を強めている。こうした国際社会の動向に関連して、以前私は以前、次のように述べたことがある。

経済活動がグローバル化した現在、国際社会は相互依存関係ーー互恵関係ーーのネットワークで緊密に結ばれている。たとえば、中国と日本が経済的な相互依存関係ーー互恵関係ーーで結ばれているとしたら、中国は武力で日本を侵略しようと考えるだろうか。
(5月6日《憲法問題を考える》)

経済活動がグローバル化した結果、市民レベルでは、国境の垣根はますます低くなり、異国民同士の融合がかなり進んでいる。

先日、こんな記事を読んだ。

(中国からの日本留学:下)入試枠に殺到、生徒の半分が中国籍 千葉の高校、経営再建の柱に

生徒の半分が中国籍という高校が千葉県鴨川市にある。留学生数を押し上げたのは、中国で過熱する受験戦争を避け、日本での大学進学や就職も視野に自由な教育を受けたい留学生側のニーズと、経営のために生徒数を確保したい高校側の狙いが一致したためだ。
(中略)
(留学仲介業の)袁さんは『ここ10年間で日本の受け入れ先は10倍に増えた』と言う。
(朝日新聞5月7日)

この記事にあるように、日本の高校に留学する中国人の数が増えれば、中国人と日本人が角突き合わせて反目しあうこともなくなるだろう。この傾向がさらに進み、日本の高校、大学を卒業する中国人がかなりの数になれば、日本と中国が戦争をすることなど、想像すらできない将来が訪れるに違いない。

昨夜(5月12日)に放送されたNHK「クローズアップ現代」によれば、子供の教育目的などで日本に移住する中国人はこの1年で5万人以上増え、日本全体で87万人に達したという。しかも、この人たちは、中国で食詰めた人たちではなく、そこそこ資産を持った富裕層の人たちだというのだ。
この番組を見て、私は、「こんな具合だと、中国が日本を武力攻撃するなんて、とうていあり得ないよな」と、ほっこりした気持ちになった。

ただし、これはあくまでも市民レベル、私的な個々人レベルの話である。これが国家レベルの話になると、なぜか様相はまったく違ってくる。

こんな新聞記事もある。

日中、不測の事態回避へ動いたが 尖閣領空侵犯、直前に日本の民間機飛行

沖縄県・尖閣諸島周辺での中国海警局のヘリコプターによる領空侵犯に関連し、直前に尖閣周辺を飛行した日本の民間機をめぐり、日中両政府が事前に不測の事態の回避に向けた動きをしていたことが分かった。だが、民間機は日本政府の飛行中止の要請を聞き入れず飛行を決行。結果的に中国ヘリの領空侵犯を誘発したとの見方が政府内にある。
(朝日新聞5月10日)

中国という「国」は相変わらず「尖閣諸島は我が国の領土だ!」と主張している。一方、日本の「国」も「いや、尖閣諸島は我が国の領土だ!」と主張して譲らない。
絶海の孤島をめぐって日中という2つの「国」が角突き合わせるという、愚かしくも滑稽な事態が続いている。

良い悪いは別として、こういう事態が現実としてある以上、我々は中国との戦争に備えて、武装を欠かすことができない。したがって(「戦力の不保持」を謳う)日本国憲法は改変しなければならない、ーー以前のブログで、私はそう主張したのだが(5月6日《憲法問題を考える》)、こんなことを言うと、

おまえはネトウヨか!なんてことを言うのだ!

と猛反発を受けることを、私は知らないわけではない。
むしろ、そういう反発はある意味、健全なことであり、当然のことだと思っている。

どういうことか。
「戦力を保持できるように憲法を改変せよ」という改憲論の主張を「危険思想だ!」と忌避する人たちは、「市民レベル」の発想に立って考えているに違いない。戦争を忌避するこの肌感覚は健全であり、決して間違っていない。私はそう断言する。

ただし、ただしである。(尖閣諸島をめぐる)朝日新聞の記事が伝えるような、緊張した二国関係の現実がある以上、「市民レベル」の発想に加えて、「国家レベル」の発想も必要ではないか。
私はそう言いたいのである。

*この記事は、(引越し先候補の)「はてなブログ」にも投稿を予定しています。

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