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ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

石破談話は何処へ

2025-08-17 13:57:51 | 日記
8月15日は終戦記念日、もとい敗戦記念日である。先の(太平洋)戦争で日本がアメリカに敗けてから、今年で80年がたつ。きのうの朝日新聞に、こんな記事がのっていた。

石破茂首相は15日、政府主催の全国戦没者追悼式での式辞で、『あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません』と述べた。『反省』という言葉は、2013年の安倍晋三首相(当時)の式辞で使われなくなり、13年ぶりに復活した。一方で、アジア諸国への加害責任には言及しなかった。
(朝日新聞8月16日)

なるほど、これが石破首相にとっての「解」なのだな。
いささか姑息な感じがしないではないが、一応、(「正ー反ー合」の「合」にあたる)弁証法的な「解」と取れなくもない。私はそう思った。

どういうことか。

石破首相は、戦後80年の節目に当たり、(歴代首相が折りにふれて出してきた)「首相談話」を出すかどうか、迷っていた。

出すのが自然な流れだし、首相としての自分の存在をアピールし、自己本来のリベラル色を発揮するチャンスでもある。(正)

しかし、談話を出せば、自民党守旧派が猛反発して、「石破おろし」の勢いが激しくなる。「石破おろし」の切っ先をかわすには、「石破談話」の発表は見送ったほうがよい。(反)

う〜む、出すべきか、出さざるべきか、私はどうしたらいいのだ・・・。そうだ!うまい手があるぞ。戦没者追悼式での式辞に「反省」の文言をもぐりこませればよいのだ。しめしめ。(合)

いや〜、さすがに「知将」のほまれ高い石破首相である。式辞に(守旧派が嫌がる)「反省」の文言を入れ、独自のリベラル色を出したことで、石破首相は一応メンツを保ち、守旧派の面々に反撃のジャブを加えたことになる。

だが、これ以上にできないのが、悲しいかな、中途半端なグズ大将・石破くんの限界である。朝日の記事にあるように、石破くんは結局、アジア諸国への「加害責任」には言及できなかった。
「反省」に言及した以上、石破首相は「アジア諸国への加害責任」にも言及すべきだったのではないか。

やっぱりこの人、一国のリーダーの器ではないのかもしれない。


*もしかすると、私はあすから近所の病院に入院することになるかもしれません。その場合には、当分ブログの更新ができなくなります。短ければ2週間、長ければ6週間ほどです。
まあ、いずれにしても、命にかかわる病気ではないので、ご心配なく。


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ブログ始めの初心に帰れば

2025-08-14 09:19:36 | 日記
きのう本ブログに書いたように、「gooブログ」は、あと3ヶ月ほどでサービス終了となり、11月18日を過ぎると、バックナンバーが読めなくなってしまう。「はてなブログ」に引っ越した際、過去記事も一緒に引っ越せればよかったのだが、いかんせんそれができず、私は文字通り「裸一貫」での引っ越しとなった。「gooブログ」にこれまで書いた過去記事は、このままでは、闇のかなたに消え去ってしまうことになる。
それは忍びない、ということで、きのうは《ある夏の記憶に》なる過去記事を再掲させてもらったが、同様の観点からふり返ると、「gooブログ」に初めて投稿した記事も捨てがたい。ここには、ブログを書きはじめたときの私の初心が記されているからである。

というわけで、その記事を以下に再掲することにする。諒とされたい。

******************************

ブログを書くとは、他者との関係を前提として、その関係を豊かにしようとする行為だと言えるだろう。これに対して、他者との関係がない状態、あるいはそういう関係が見いだせない状態を「孤独」と呼ぶとすれば、私は数年前、一度に二つも孤独の条件をかかえこんだことになる。
一つは定年退職によるものだが、定年の二年ほど前に自ら希望して早期退職したので、退職がもたらした孤独の条件は、私が自ら選び取ったものだと言える。

孤独の条件をもたらしたもう一つは、病である。早期退職とほぼ時期を等しくして、私は脳卒中(脳出血)に見舞われ、半年ほど入院を余儀なくされた。

医師や看護師、それにリハビリの療法士としか接する機会がなく、私はそれ以外の一日の大半をじっと病室のベッドに横たわって過ごした。孤島の浜辺に打ち寄せられた小舟のように、ただただ時が過ぎるのをやり過ごすだけの半年の間、私は「自分は孤独だ」という茫漠とした思いにとらわれた。

けれどもその思い、いわゆる孤独感は、さほど私を苦しめなかった。孤独感に伴うはずの寂しさも、あまり感じなかった。「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」(ショウペンハウアー)とか、「真の幸福は孤独なくしてはありえない」(チェーホフ)などと思ったわけではない。逆に私はそういう言葉にどこか嘘っぽさを感じ、消化不良のような軽い違和感を感じていた。

病室のベッドで私が感じていたのは、奇妙な安堵感である。それは言ってみれば、長いレースを終えて重荷を下ろした思いに近かった。これであの煩わしい職場の人間関係から、やっと解放されたのだなあ・・・。そう感じたのである。
妬みとそねみが渦巻き、マウンティングや種々のハラスメントが常態化している粘着質の、あのねちねち・どろどろした人間関係が、私は嫌で仕方がなかった。私が早期退職を選んだのも、そういう人間関係から一刻も早く抜け出したい、という思いが日増しに強くなってきたからである。

ともあれ病床の私は、熱を出したために早退が許されてほっとしている、学校嫌いの小学生のようであった。
(2015/8/6《孤独について(ご挨拶と自己紹介にかえて)》)

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あの夏の記憶に

2025-08-13 10:28:55 | 日記
日航機墜落事故からきょうで40年。きのうテレビがそう話していた。
ああ、あれからもう40年がたつのか・・・。あの事故のニュースは、強烈な思い出として私の記憶に残っている。
だが、思い出そうとすると、その記憶はぼんやりした靄のようなイメージになり、具体的な細部はもう消え去っている。忘却のかなた、ということだ。やはり40年が過ぎたということなのだろう。

そうだ、「gooブログ」に書いたあの記事を、もう一度読み返してみよう。そう考えた私は、さらに、この記事をそのまま「はてなブログ」に再掲したらどうだろう。いや、ぜひともそうすべきだ、と思い立った。

というのも、「gooブログ」は、あと3ヶ月ほどでサービス終了となってしまうからである。11月18日を過ぎると、バックナンバーが読めなくなってしまうのである。「あの記事」が読めなくなることは、私の中で「あの記憶」が失われることに等しい。それも永遠に・・・。

この悲しい事態を避けるために、以下、「あの記事」をそのまま再掲することにした。

*******************************

夏が来ると思い出す。お盆が来ると思い出す・・・はずだった。このところすっかりそのことを忘れていたのは、ここ数年来、お盆になると孫たちがわが家に帰省してきたからである。孫たちが来ると、わが家はとたんにさんざめき、とてもニュースなど見ていられる雰囲気ではなくなる。

今年のお盆にそのニュースを聞くことができたのは、コロナ禍の影響で娘と孫たちの一家4人がわが家に帰省しなかったからである。

「昭和60年8月12日、お盆の帰省客などを乗せた日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の山中に墜落し、国内の航空機事故としては最も多い520人が犠牲になりました。
事故から35年の12日、村では墜落現場の『御巣鷹の尾根』を目指す遺族などが慰霊の登山に訪れましたが、ことしは新型コロナウイルスの影響で日程が5日間に分散されるなどしたため、12日に登山に訪れた人は50家族141人と、これまでで最も少なくなりました。」
(NHK NEWS WEB 8月12日配信)

そうか、あれからもう35年が経ったのかーー。その日のことはよく憶えている。私はテレビのニュースでその墜落事故のことを知り、画面に延々と流される犠牲者の名前を、帰省の準備をしながらぼんやりと眺めていた。そして、そこに見つけたのである。私の恩師であり、上司だったN教授の名前を。

N教授の姓はかなり独特な名前だった。Hというファーストネームも、Nというラストネームもあまり見かけない漢字の綴りだったから、N・Hという組み合わせの同一人物がいるとは考えられなかった。私は当然のように、あのN教授が死亡したと思ったのである。

親しかった年上の同僚と電話で雑談した折、「いや、あれはNさんじゃないよ。俺はきょう、あの人と顔を合わせたから、よくわかる。あの人はまだ生きているよ」

生か死か、どちらかはっきり分からないまま、私はちょっぴり開放感をおぼえていた。開放感をおぼえながら、「自分はなんて恩知らずなんだ」と疚しく思ったことも事実である。N教授は(当時珍しかった)哲学専門の商業雑誌に、助手だった私の論文を掲載するよう仲介の労をとるなど、いろいろな場面で私を引き立ててくれたのだ。その点での恩は計り知れないが、ただ、その代わりにN教授が私に対して要求する見返りも並大抵ではなく、そのプレッシャーに助手の私は圧しつぶされそうになっていた。N教授の死亡の可能性に直面して、不覚にも私がおぼえた開放感は、たぶんそのあたりから来ている。

結果はといえば、死亡したN・H氏はN教授ではなく、同姓同名の他の人物だった。この人は阪神タイガースの社長をつとめていた。

数日後、職場でN教授と顔を合わせたとき、N教授が開口一番、「きみはぼくが死んだと思って、喜んでいたのだろう」と言って大笑いしたことを、ついきのうのことのように思い出す。

そのN教授も今はいない。彼はあれから12年間生き、1997年に75歳で(癌のために)亡くなった。事故当時35歳だった私も、今は70歳になった。

あらたな出会いがあらたな出来事をうみだし、あらたに記憶を更新する。今年はコロナ禍の影響で孫たちが来ず、私の記憶は更新されなかった。代わりに思わぬ記憶がよみがえり、妙な形の「更新」となった。外はきびしい猛暑。甲子園での熱戦もない。稀に見る奇妙な夏の一コマである。
(2020/8/20《ある夏の記憶に》)


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ブログと固有名について

2025-08-12 10:06:58 | 日記
どうしようかと迷っていたが、(朝日新聞の社説に書かれていた)次の文章に背中を押されて、「ブログと固有名」の問題について考えてみる気になった。

個人の存在や尊厳と深く結びつく『名前』を差別の手段とし、人権を踏みにじる行いを許してはならない。」
(朝日新聞8月11日《再び「名前」を奪うのか》)

この文章を、私はこんなふうに受けとった。
「個人の名前(固有名)は、その人の存在や尊厳と深く結びついている。その点で決定的な意義を持つ個人の固有名を、勝手に(然るべき理由もなしに)変更したり、変更するように迫ったりすることは、人権を踏みにじる行いであり、とても許されることではない。」

考えてみれば、これはごく当たり前の見解であるが、こうした見解に背中を押されて、私はデイサIの管理者H氏に返答を求める文章を書こうと思いたったのである。
もっとも、こう書いただけでは、読者は何のことだかチンプンカンプンだろう。分かりやすくするために、まず、事の経緯を簡単に記すことから始めることにしたい。

事の発端は、私が「在日アメリカ爺さんの晩年」(7月28日)というタイトルのブログ記事を書いたことにある。この記事では、私はデイサIで知り合ったアメリカ人の爺さん■■■■氏との(ほのぼのと心温まる)人格的交流について書いたつもりだった。何かと理屈っぽい私にしては、なかなかの出来栄えだとひそかにほくそ笑んでいた。

ところがである。デイサIの管理者H氏が、私のブログ記事が表示されたスマホの画面を差し出して、「これですがね、固有名はまずいから、イニシャルにするなどして、書き直してください」と言うのである。

私は呆気にとられた。私も一応、ブロガーの端くれである。「なるべく固有名は避ける」という原則はわきまえている。
その証拠に、私は自分が週2回通うデイサの、その固有名を書いたことは1度もないし、このデイサの利用者の固有名も、スタッフの固有名も、管理者の固有名も書いたことはない。固有名を表に出すことはルール違反だと考えたからである。

なのに、私はこのデイサで知り合いになったアメリカ人の■■■■氏に関しては、その固有名を書くことを避けようとは思わなかった。
■■■■氏の固有名をなぜ書いたのか、今となっては「後付け」の理由でしかないが、第一にあげられるのは、書くことで■■■■氏に迷惑がかかるとは思いもしなかったからである。
それよりも、固有名を書くことで、彼との交流の貴重な「一期一会」の性格を際立たせたかったし、何よりも、私は■■■■氏の人格を深く敬愛していたのだ。親愛の情をいだいていたため、彼との交流を、あたかも自分のことのように思っていたのかもしれない。

自分のことをつつみ隠さず表現するのも、ブログの醍醐味である。

■■■■という固有名を「F爺さん」と書くことは、■■■■氏の存在を、その人格や尊厳を、冒涜することにつながると危惧したのかもしれない。
私がデイサ管理者のH氏から書き直すように迫られたとき、「F爺さん」とせずに、■■■■と伏せ字にしたのは、そのような理由による。

私はデイサ管理者のH氏に尋ねたい。このアメリカ人の爺さんの固有名を書くことは、なぜまずいのだろうか。
「この人に迷惑がかかるから」と貴君は言いたいのだろうが、この人に迷惑がかかるケースは、一つしかない。
私がこのアメリカ人の爺さんの固有名を書くことで明らかになるのは、「このアメリカ人の爺さんが日本のどこかの(所在不明の)デイサ施設に通っている」という事実であるが、この事実を公にすることで、このアメリカ人の爺さんに不都合が生じるとしたら、それは、このアメリカ人の爺さんが犯罪者であり、アメリカや日本の捜査当局から「お尋ね者」として追われているケースだろう。
むろん私はそうは考えなかった。この人物の人となりを知っている私には、とてもそんなふうには思えなかったのである。
(もしかするとデイサ管理者のH氏は、このアメリカ人が「お尋ね者」として捜査当局に追われている、などと考えているのだろうか。)

繰り返しになるが、私はこのアメリカ人が犯罪者であるなととは1ミリも思わなかった。だからこのアメリカ人の固有名を書くことを「まずいかも・・・?」などとはつゆほども思わなかったのである。

デイサ管理者のH氏に問いたい。「いや、やっぱりそれはまずいよ」と思うのであれば、どうか愚鈍な私に、その理由を教えていただきたい。
口頭での返答では、言った、言わないの水掛け論になる恐れがあるから、ぜひとも文書での返答をお願いしたいと思う。
忙しい中、恐縮であるが、いつまでもお待ちしますので、お暇な折にでもどうぞよろしく。

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ああ、悪あがきの自民党

2025-07-31 08:49:10 | 日記
自民党が今、真っ二つに割れている。知将(痴将?恥将?)・石破首相の言葉を使えば、「古い自民党」と「新しい自民党」が選挙戦敗北の責任をめぐって、ごりごりとせめぎ合っている。
先の参院選で自民党が大敗したのは「古い自民党」の金権(裏金)体質が有権者に忌避されたからであって、これは「新しい自民党」のリーダーであるこのワタシにはなんら関わりがない、したがって参院選での自民敗北の責任は自分にはない、ーーこれが石破首相の「責任逃れ」の屁理屈だった。

今、「屁理屈」と言ったが、これは石破首相なりの独自の「解釈」であって、別の立場から見れば、当然、別の景色が見えることになる。「古い自民党」の面々に言わせれば、自民大敗の原因はもっと別のところにある、ということなのだ。

どういうことか。
彼らの見方からすれば、自民党は石破新総裁の下、急速にリベラル化したことによって、これまで保守本流を支えてきた「岩盤支持層」の支えを失った。この人たちの支持が自民党から「参政党」に流れたことが、自民敗北の原因なのであって、だからその原因も、また責任も(リベラルの方向に舵を切った)石破新総裁にある、ということになる。

石破氏の解釈と、「古い自民党」の面々の解釈、ーーこれら二つの「解釈」の、そのどっちが正鵠を射ているのか。
おそらく、そのどっちも的外れではないのだろう。自民党がその古い殻を脱ぎきれなかったこと、それが、この党が支持を得られなかった原因であり、また、自民党がその古い殻を脱ぎ捨てたことも、この党が支持を失った原因なのだ。引くも地獄、進むも地獄、という言葉の通りである。

とすれば、この党の衰退は、どのみち免れなかったことになる。
石破首相の続投宣言は、この党の最後の悪あがきと言うべきだろう。

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