ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

デュー・プロセスの根拠を問う(その1)

2018-10-21 10:39:19 | 日記
私が「デュー・プロセス」なる考え方に関心を持ったのは、「LGBTは生産性
がない」とする杉田水脈氏の言説がきっかけだった。より正確に言うなら、
このトンデモ言説に対して書かれた、ネット上のH氏の論考がきっかけだっ
た。
(個人攻撃は私の意図するところではないから、今はH氏の実名をだすこと
は控えたい。同様、H氏の論考のタイトルを明示することも、お許しいただ
きたい。)

さてH氏の論考であるが、その特徴は、〈スギタ的なもの〉を自己自身のう
ちに見出し、そのことにこだわる点にある。ここで言われる〈スギタ的なも
の〉とは、他者への差別的な眼差しである。
H氏は言う。我々は、自分自身の内にある〈スギタ的なもの〉をよく自覚
し、その上でスギタ議員に向き合わねばならない。このことを自覚しないま
ま、スギタ議員に怒りを投げつけたり、排除の対象にしようとしたりすれば、
我々自身がスギタ議員と同じように、卑しい地平に落ちてしまう。

念のために書き添えれば、H氏は「私もあなたも多かれ少なかれ差別的であ
る、だから杉田発言も許そう」と言っているのではない。

では、H氏はどう言いたいのか。H氏は、人権思想の熱烈な信奉者であり、
スギタ議員の人権を尊重する、と言明している。スギタ議員の言論を封殺し
ない、とも言明している。つまり、スギタ議員の人権を尊重して、スギタ議
員の言論を封殺せずに、スギタ議員と言論を闘わせ、言論においてスギタ議
員と闘わねばならない、と主張するのである。

H氏のこうした主張に対して、私はこう考えた。
H氏がこんなふうに言明できるのは、スギタ議員が「口だけ番長」で人畜無
害であることを、H氏が知っているからではないか。スギタ議員を支持する
ネトウヨの面々が「口だけ番長」であることを、H氏がよく知っているから
ではないか。

危険な差別思想の持ち主であるスギタ議員が、仮に「口だけ番長」でなかっ
たとしら、どうか。それでもH氏は彼女の人権を尊重する、と言えただろう
か。彼女の言論を封殺しない、と言えただろうか。

これが、私の抱いた疑問だった。(つづく)
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デュー・プロセスのアンデュー もう一つの事例

2018-10-20 11:32:55 | 日記
きのうは「デュー・プロセス」なる考え方の理不尽さについて、(沖縄基地
問題や、脱税問題などの)例を引き合いにだしながら、管見を申し述べた。
ここまでは解りやすい(と思う)が、問題はその先(あるいはその手前)に
ある。それについては、次回に取り上げる、と予告しておいた。

だが、その予定を急きょ変更し、きょうはもう一つの例を引き合いにだすこ
とにしたい。きょうの読売新聞の社説《太陽光一時停止 電力の安定供給が
最優先だ》を読んで、ここに提示された読売の見解こそ、「デュー・プロセ
ス」なる考え方の理不尽さを示す 格好の事例だと思ったからである。

この社説が取りあげているのは、九州における太陽光発電の一時停止問題で
ある。この問題については、以前、本ブログでも取り上げたことがある。私
の意見は、以下のようなものだった。
「電力の需給バランスを維持するため、太陽光発電の出力制限措置をとるの
なら、なぜ国は原発にも同じ措置をとろうとしないのか、まずは原発に対し
てこそ、出力制限措置をとるべきではないのか」。
この私の意見を補強してくれる、そういう卓見を提示するものとして、私は
毎日新聞の社説《太陽光発電の「出力制御」 これでも「主力化」なのか》
と、朝日新聞の社説《太陽光の停止 電力捨てない工夫を》を紹介したの
だった。

一方、きょうの読売新聞はどうか。社説は、次のように述べている。
「こうした(電力の供給が需要を上回る)場合、国のルールに沿って、電
力会社は太陽光や風力発電の事業者に発電の一時停止を求めることができ
る。理に適(かな)った制度と言えるだろう。」
つまり、「国のルール」に沿った措置を「理に適った」措置と見なすだけ
で、ここには、その根本にある「国のルール」が「理に適った」ものであ
るかどうかを問う視座が、まったく見られないのである。私が毎日新聞と
朝日新聞の社説を「卓見」とみなしたのは、そこに、ルールそのものの適
不適を問う(法哲学的とも言える)視座を見たからだった。ところがそう
いう視座が、読売新聞の社説には、まったく見られないのである。

ルールそのものの適不適を問う、そういう視座の欠如は、「ルールに違反
しなければ適正だ、問題ない」とする考え方、つまり「デュー・プロセス」
の考え方がもたらしたものだと言えるだろう。

「デュー・プロセス」の考え方が理不尽であることを示す、こういう恰好の
事例を見せられば、私としては、これを読者諸賢に紹介しないわけにはいか
ない。予定変更の段、了とされたい。
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デュー・プロセスはデューなプロセスか

2018-10-19 11:27:55 | 日記
次のような言い方を耳にすることがある。
「これはデュー・プロセスに則っているので、とやかく言われる筋合いはな
い」。思うに、これはとても危険な考え方である。
ここで言う「デュー・プロセス(正確にはデュー・プロセス・オブ・
ロー)」とは、「法に基づく適正手続」といったほどの意味である。「法的
に見て適正な手続きを踏んでいるから、何も問題はない」。そう言おうとし
ているのだ。

この考え方の何が問題かは、最近話題の沖縄辺野古問題を考えてみれば解り
やすい。私の念頭にあるのは、次のような出来事である。

防衛省は17日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への
移設で、沖縄県による辺野古沿岸部の埋め立て承認撤回に対する対抗措置を
とった。行政不服審査法に基づき、石井啓一国土交通相に対し撤回の効力停
止を申し立てた。9月末の沖縄県知事選で移設反対派が勝利して間もない中
での対抗措置に県は反発している。
                (朝日新聞DIGITAL10月17日配信)

国(防衛省)は「行政不服審査法」なる法律に則って、「沖縄県による辺野
古沿岸部の埋め立て承認撤回」の効力停止を申し立てた。国土交通相がこの
申し立てを審査・検討し、関連緒法に照らして「妥当と認める」ことになれ
ば、沖縄県による承認撤回は効力を失い、国による埋め立て工事が「問題な
し」として粛々と進められることになる。これによって米軍基地の辺野古へ
の移設が実現する。

先の沖縄知事選で、民意が「辺野古移設ノー」を支持していることが示され
たにもかかわらず、この民意を踏みにじるような結果が、「デュー・プロセ
ス」の考え方によって実行されてしまうのである。

この考え方がいかに道理に悖(もと)るものであるかは、数々の脱税事犯を
考えてみれば解りやすい。脱税はれっきとした犯罪だが、犯人たちは法の抜
け穴をくぐっているので、「俺は法を犯していない。だから俺がしたことは
犯罪ではない」と思っている。

こうした脱税犯と、かの防衛省を一緒くたにして、防衛省を非難したくなる
大きな理由がある。防衛省は(本来、使ってはならない)禁じ手を使ってい
るからだ。
国家権力の一機関である防衛省が、個人の救済を旨とする「行政不服審査法」
に訴えることは、禁じ手を使うこと以外の何ものでもない。サイト「日刊ゲ
ンダイDIGITAL」に掲載された記事《辺野古埋め立て承認撤回で…防衛省が
禁じ手の不服審査請求》(10月18日配信)の言う通りである。この記事
は次のように述べている。

そもそも行政不服審査法は〈行政庁の処分その他公権力の行使にあたる行為
に関する国民の不服申し立てについて規定する法律〉(大辞林)であり、国
が一般国民の権利救済制度を使うこと自体がおかしい。
国が「個人」になりすまし、国に救済を求め、国に判断を仰ごうというのだ
からデタラメ過ぎる。安倍政権は3年前にも辺野古移設で同様の禁じ手を
使っている。この時、100人近くの行政法研究者が「この審査請求は不適
法であり、執行停止の申し立ても不適法」と指摘していたのに、安倍政権は
法律家の声明などクソ食らえと言わんばかりの対応だ。

と、まあ「デュー・プロセス」なる考え方の理不尽さについて、以上、事例
に基づきながら縷縷申し述べてきた。ここまでは解りやすい(と思う)が、
問題はその先(あるいはその手前)にある。それについては、次回、取り上
げることにしよう。

この問題は、私が「デュー・プロセス」なる考え方に関心を持った経緯と密
接に関連している。うまく書けるかどうか自信はないが、とりあえず乞うご
期待。
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少子化問題を見すえて

2018-10-18 11:18:33 | 日記
う〜ん、困った。う〜ん、参った。う〜ん、弱った。「いいね!」と思って
読み終えた文章が、曰く付きの「困ったちゃん」が書いた文章だと知ってし
まったとしたら・・・。こんな「困ったちゃん」が書いた文章を「いいね!」
などと持て囃(はや)したら、当の私が感性を疑われ、「こいつはアホ
だ!」と誹(そし)られかねない。

けさのことである。いつものようにネットの森を散策していたら、サイト
「zakzak」に、次のような記事が掲載されているのが目に付いた。
《【国難突破】「人口激減問題」を正面から見据えよ! 出生率改善は国家
的プロジェクト 》

面白そうだと思って読みはじめると、これがなかなかイケている。
ところが、である。最後まで読み、記されている筆者名を目にして、ぎょっ
とした。小川榮太郎。ーーそう、「新潮45」問題で悪名をはせた、あの文
芸評論家ではないか。その悪評ぶりは、こんな記事からもうかがえる。

新潮45が掲載した杉田水脈議員のLGBT差別文書に大きな批判が巻き起こ
り、10月号で組んだ杉田擁護特集が火に油を注ぐ結果となって、敢え無く新
潮45は実質廃刊となってしまった。なかでも、"便所の落書き"とまで酷評さ
れた小川榮太郎氏の駄文が、首縊りの足を引っ張ったことは間違いない。
(中略)この人物、保守系雑誌の正論やHanadaの常連執筆者で、安倍首相
ベッタリの安倍応援団というより、安倍の幇間である。
            (J-CASTテレビウォッチ10月5日配信)

こういう曰く付きの人物が書いた文章なのだと色眼鏡で読み返すと、たしか
に、そう思われる箇所がないわけではない。日本の人口減を「国難」として
問題視するスタンスそのものが、「LGBTは生産性がない(から問題だ)」と
する杉田論文を擁護するものだと思える。また、第4次安倍改造内閣で地方
創生相に就任した片山さつき議員を「政界有数の強靭な頭脳と辣腕(らつわ
ん)、肝っ玉を兼ね備えた片山氏」などとさり気なくヨイショするのも、こ
の人物が「安倍の幇間」呼ばわりされる所以だろう。

断っておけば、私はこの人物が「新潮45」に書いた問題の「駄文」を読ん
でいない。読んではいないが、杉田水脈議員のLGBT差別トンデモ文書を擁
護しているというだけで、およその判断はつく。

では、肝心の人口減問題について、私はどう考えるのか。それについては、
以前に本ブログで書いたことがあるので、これを再録し、私のスタンスを明
示しておきたい。

********************************

他人(ひと)の為になることをする。それはとても良いことだ。ただし、
それは、そのことが自分の為になる限りでのことである。「自分を犠牲に
しても人助けをせよ」なんて、まっぴら御免。そんな御託は、無責任な政
治家のくだらない妄言(たわごと)だと思って、スルーすればよい。

情けは人の為ならず。そういう諺がある。手元の電子辞書(広辞苑)を引
くと、「なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来
る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」とある。そうなのだ。
「自分によい報いがある」と思うから、人は他人になさけをかけ、他人の
為になることをする。ーーそれが人情の自然な生理というものではないだ
ろうか。「自分によい報いがある」と思えないような状況で、それでも
「他人の為になることをしよう」と考えるとしたら、そんな奴はただのア
ホか、無責任な政治家の妄言に踊らされたお人好しに過ぎない。
(中略)
たしかに、少子化対策ということで言えば、なんらかの対策が急がれる現
状はある。厚労省の諮問機関(人口問題審議会)の報告書には、次のよう
に書かれている。
(中略)
この報告書が言うように、少子化の現状を放置すれば「深刻な状況」にな
ることが予測されるとすれば、政権与党の幹事長が焦りを感じるのは当然
だろう。その気持ちは私にもよく解る。この現状を打開しようとすれば、
「産めよ、増やせよ」と昌道するしかない。それによって少子化に歯止め
が掛かれば、我々の社会は「深刻な状況」を脱し、皆がハッピーになれる
のだ。「産む」ことはなるほど「他人の為になる」行いである。

しかし、である。「産む」ことが「自分の為」にならない現状があるとし
たら、どうなのか。保育所が圧倒的に不足しているため、出産した母親た
ちが職場復帰を断念し、育児に専念しなければならない現状がある。出産
した新婚世帯は共働きができなくなり、経済的困窮を強いられる現状があ
る。こうした現状を放置したまま、政治家がただ「産めよ、増やせよ」と
唱えるとしたら、それは「社会の為だ、多少のことは我慢せよ。自分の生
活のほうが大事だ、などと勝手なことを言ってはならない」と言うに等し
い。そこで、そういう妄言に対して、私は私なりに異議申し立てをしたの
である。
             (6月27日《少子化の現状を見据える》)
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社説に見る原発不要論

2018-10-17 10:11:06 | 日記
3日ほど前のことになるが、本ブログで《有り余る電力 原発不要論》なる
記事を書き、以下のような趣旨を述べた。電力の需給バランスを維持するた
め、太陽光発電の出力制限措置をとるのなら、なぜ国は原発にも同じ措置を
とろうとしないのか、と。

私がこう書いてから、翌々日のきのうは毎日新聞が、社説《太陽光発電の『
出力制御』 これでも『主力化』なのか》で この問題を取りあげ、きょうは
朝日新聞が、社説《太陽光の停止 電力捨てない工夫を》で 同じ問題を論じ
ている。

毎日は言う。「原発もその(=太陽光の出力制限を回避できなかった原因
の)一つだろう。九電は4基の原発を稼働している。政府のルールは、原発
は出力調整が難しいとして太陽光の出力制限を優先させている。原発依存度
低減という政策目標との整合性が問われそうだ。」
たしかにそうである。「原発依存度低減」という政策目標をかかげるのな
ら、国は、電力の出力制限という措置を、何よりもまず原発事業者に課する
べきではないか。

朝日もこう書いている。「こうした状況が生まれたそもそもの原因は、基本
計画が原発を基幹電源として使う方針を掲げ続けていることにある。政府は
まずこの位置づけを見直し、原発依存度を下げる具体策を練るべきだ。「再
エネ主力化」の本気度が問われている。」
言い方こそ違うが、言おうとしていることの中身は、毎日と(そして私と!)
ほとんど変わらない。

きょうの朝日新聞の「かたえくぼ」欄に、次のような諷刺作品が載ってい
た。

『太陽光悲哀』
結局、原子力ファーストか
      ーー福島県民

福島県民の「悲哀」を見聞きしている我々は、国の原子力政策に怒りを禁じ
得ない。小泉純一郎元首相に頑張ってもらうしかないか。
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