ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

老子の主役を求めて

2016-01-30 15:51:20 | 日記
老子の中で主役クラスの重要な役割を果たしているのは、

「道」の思想である。

にもかかわらず、この主役の顔が見えない。

ほんのりと後ろ姿が見えるだけで、

どれだけ目を凝らしても、顔かたちは見えない。

老子を読み進んでいくときに感じる

ストレスの一因はこれだと気づいた。

私が見たいのは、この主役の顔だちであり、表情なのだ。

後ろ姿なんかではない。

老子に会って、こう訊いてみたい気持ちが募ってくる。

「あなたの言う道とは、いったい何なのでしょうか?」

そう尋ねれば、老子は私に、こう訊き返してくるだろう。

「で、あんたはどう思うのだね?」

「それが、分からないのです。まったく分からないのです」

私が答えると、老子の口から、人を食った言葉が返ってくる。

「ほう、あんたは、よく分かっておるではないか。

その通り、道とはな、まったく分からないものなのじゃ」

一瞬面喰らったものの、私は驚かない。言われてみれば、たしかにその通りなのだ。

この言葉も、「道」の思想に含まれていた気がする。

ただ、この言葉をどう飲み込んだらいいかが、私には分からないのだ。

「はあ?」

私が返す言葉を失い、

困惑の表情を向けると、

老子はにやりと笑い、

次のように言って、滑るように去って行く。

「それだけ分かっていたら、それ以上の説明は不要じゃ。

あとは蛇足になるだけじゃからな」

お~い、待ってくれよ、老子さん!

それが求めている「道」の後ろ姿でもあるかのように、

私は彼の後ろ姿を追いかける。

ぜいぜいと息を切らしながら。
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老子とあざとい人たち

2016-01-28 13:55:43 | 日記
老子20章には仙人の趣きがある。

孤立感にとらわれ、憂いに沈む姿は

達観した仙人には似つかわしくないが、

人間の群れを遠くから眺めるその距離感は、

人里を離れて隠遁した仙人のものと言ってよい。

24章では、その距離感がちょっと違っている。

ここでは老子は、かなり近い距離から世人の生態を見つめ、

人の世のあり方を冷静に分析している。

老子はまるきり人との関わりを避けていたのではなく、

世人の間で揉まれたこともあったようだ。

24章には、こんな人たちが取り上げられている。


跂者(背伸びをしようとつま先立ちをしている者)。

跨者(早く歩こうと大股で歩く者)。

自見者(自分が目立とうとする者)。

自是者(自分の意見を押し付ける者)。

自伐者(自分の功績を自慢する者)。

自矜者(自惚れる者)。


そうそう。我々の周りにも、よくいるタイプではないか。

皆、他人からよく思われない、嫌なタイプである。

いわゆる鼻つまみ者。

老子には、こういうあざとい人たちの間で

世過ぎをした時期があったのだろう。

こういう人たちに対して、老子は次のように述べている。

「背伸びをしようとつま先立ちをしている者は、長く立っていられない。

早く歩こうと大股で歩く者は、長く歩いていられない。

自分が目立とうとする者は、誰からも注目されないし、

自分の意見を押し付ける者は、人から認められない。

自分の功績を自慢する者は、人から称えられないし、

自惚れる者は、長続きしない。」

いいぞ、老子!

さらに傑作なのは、次の言葉である。

「こういう人間の行為を「道」の観点から言うと

「余計な食べ物、余計な振る舞い」と言うのだ。

誰もが腹一杯食べた後にさらに食べたいと思わないように、

「道」を知った人間はそんな事はしないものだ。」

よくぞ言った、老子! 老子さん、あんたも苦労したのだねえ。
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老子――コンプレックスを乗り越えて

2016-01-27 14:37:26 | 日記
老子は自らの孤立感と劣等感を、20章で悩ましげに吐露していた。

では、そのコンプレックスに、彼はどう対処するのか。

これは大いに興味のあるところである。

そう思って、その答えを探したら、

それは22章にあることが分かった。

老子は言う。

「曲則全。枉則直。」

(曲なればすなわち全。枉(おう)なればすなわち直(ちょく))

え? 曲がっていれば、全うできる、だって?

私ははじめ、この言葉の意味がよく分からなかった。

禅問答に似た、意味のない屁理屈のように感じたのだ。

だが、老子はどうも樹木のあり方のことを言っているらしい。

(参照したサイト1の意訳にもあるように)

「木は曲がっていると、材木にならないため

伐採されずに完全さが保たれる」

ということのようだ。

なるほどね。

人間であれば、運動神経に勝り、喧嘩が強い健康優良児は、

優れた兵士として前線に送り出され、敵の鉄砲に当たって早死する。

一方、運動神経に恵まれず、体力的にも劣る虚弱児は

兵士の役に立たないと判定されて、

兵役を免れ、「細く長く」

自分の寿命を全うすることができる。

そういうことだろう。

身近なところに目を向ければ、

身体を伸ばすには、身体をかがめなければならず、

「枉(おう)なればすなわち直(ちょく)」、

だから、

枉(おう)の状態にある自分の身体を

何も恥じることはない、ということになる。

何やらヘーゲルの「正・反の弁証法」を聞く思いがするが、

この弁証法を駆使して、「劣った私」を「優れた私」へとどこまで転換できるのか。

それが問題である。

この弁証法によって、悶悶たる私・昏昏たる私は、

昭昭たる私・察察たる私へと

変貌できるのだろうか。

そして私は、その変貌を

自分のこととして、

どこまで実感できるだろうか。
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人間臭い老子

2016-01-26 20:32:18 | 日記
たった数行で、書き手に対する印象がガラリと変わってしまうことがある。この20章の数行が、私の老子観を変えるのに大きな作用を及ぼした。
ここには人間臭い老子、あまりにも人間臭い老子がいる。すべてを達観しきった、仙人のような、そういう枯れた老人の姿は、そこには見られない。「世の人は皆**なのに、私だけはそうではない」という形のモノローグが、何行かにわたって延々と続き、孤独感と孤立感と劣等感が、憂愁の嵐のように、過剰な自意識となって渦巻いている。
この数行を読んで、私はこれを書いた老子に共感をおぼえ、親しみすら感じて、なんだか少しホッとした。トーマス・マンのトニオ・クレーゲルを読んで共感をおぼえたのは、たしか高校生の頃、もう何十年も前のことだが、この老子の文章を読んで、私は、久しぶりに親しい友人に出会った気がしたのである。
そのあたり、もったいないから、なるべく手を加えずに、そのまま引用しよう。

(この箇所の現代語訳)
「世の人々はみんな笑顔でご馳走を食べているように見える。まるで春の日に高台から世界を見ているかのようだ。しかし私といえば一人きりで動くそぶりも見せず、笑う事を知らない赤ん坊のようだ。ぐったりと疲れ果てて身の置き所もないかのようだ。世の人々はみな有り余る何かを持ち合わせているのに、私と言えば何もかも失ってしまったかのようだ。私はそういう愚か者の心を持っていて、ぼんやりと何が確かなのか解らずにいるのだ。世の人々はきらきらと眩いばかりだが、私だけは一人暗がりに居るようだ。世の人々は賢く聡明であるのに、私だけは一人悶々としている。」

(この箇所の原文)
「衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。」

(この箇所の書き下し文)
「衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春に台(うてな)に登るが如し。我れは独り怕(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)として帰(き)する所なきが如し。衆人はみな余り有るに、而(しか)るに我れは独り遺(うしな)えるが如し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり、我れは独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たり、我れは独り悶悶(もんもん)たり。」
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老子の君主論

2016-01-25 21:41:32 | 日記
”栄ちゃん”と呼ばれたい。

そう言ったのは、

ギョロ目で政界の團十郎と言われた元首相である。

怖がらないで、もっと親しく接してもらいたい、ということだろう。

強持てで通ったこの老人は、

老子を、――老子が統治者のあり方について言ったことばを、知っていたのかもしれない。

老子は17章でこう言っている。

「太上、下知有之。其次、親之譽之。其次、畏之。其次、侮之。」

〔太上(たいじょう)は下(しも)これ有るを知るのみ。

その次はこれに親しみてこれを譽(ほ)む。

その次はこれを畏(おそ)る。

その次はこれを侮る。〕

(最善の君主の下では、民衆は,“君主がいる”と知るだけである。

次善の君主の下では,民衆は君主を敬愛する。

その下の位の君主だと,民衆は恐れおののき,

さらにその下の君主に対しては,民衆はあしざまにののしる。 )

選挙で選ばれる日本の統治者はともかく、

親譲りで政権を手にしたばかりの、

どこかの国の若い統治者は、これを読んだらどう思うだろうか。

彼は側近を次々と処刑してあの世に送り出し、

古参の政権幹部たちを震え上がらせた。

取り巻きの幹部たちは「次は自分の番か?」と恐れおののき、

文句も言えずに、渋々この若者の命令に従っている。

老子の評価に従えば、こういう指導者は、「上・中・下」のうちの

「下」にランク付けされることだろう。

しかし、それを知ったからといって、

彼は今の恐怖政治を改めるわけにはいかない。

恐怖政治をやめれば、彼はたちどころに

政権を奪われ、国家元首の座を追われ、その日のうちに命を落とすだろう。

「次は自分の番」なのだ。

暴君をやめたからといって、だれも「臣下に敬愛される

君主」という次のステップに上れるわけではない。

人には固有の器というものがある。

彼はよく知っているのだ。自分の器がどの程度なのかを。

そして、自分が自分の器を越えられないことも。

分かっちゃいるけどやめられない、ではなく、

分かっているからやめられない。のである。
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