ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

あまりにも非社交的な

2015-10-30 21:59:03 | 日記
う~ん、ダメだ、文章が出てこない!

文章の核になるアイディアが浮かばない! 

まるで、昔夢みた物書きになって、編集者から

やいのやいのと原稿の催促を受けているような気分だが、

そんなことで喜んでいる場合ではない。

ブログの更新がこんなに苦しいとは・・・。

ブログの文章を書くのがしんどい、とは、つい最近もブログの冒頭で書いた気がするが、

そんなこんなで毎日うんうん唸りながら、モニタと対峙して、

ブログと格闘しているこの頃なのである。

考えてみれば、これは当然のことで、私のように毎日自宅に引きこもって、

どこに出かけるでもなく、他人と没交渉の日々を送っていれば、

早晩ネタ切れになるのは、

ブログ開設の当初から分かっていたことなのだ。

他人様のブログを覗くと、どこそこに行ってしかじかの友人に会い、

かくかくの店でどういう料理を食べました、とか、

どこそこの磯で竿を出して、本命のなになにを何匹釣りました、とか、

ご丁寧に写真まで添えられていて、話題が尽きず、羨ましい限りだが、

引きこもりの私には、残念ながらそういう話題がない。

退院してからしばらくは、何人かの友人たちが拙宅を訪れてくれたが、

最近では私に会いに来る友人もいなくなった。

いつかもこのブログに書いた通り、

私は他人と接するのが苦手で、その時間がひどく疲れる。

このことを表現するのに、私はカントの「非社交的社交性」という概念を用いて、

自分の性格の正当化を試みたが、

そういう気持ちがつい顔に出てしまうので、相手も嫌気が差して、

わざわざ私に会いに来る気にならなくなるのだろう。

そんなわけで、私が他人と顔を合わせる機会は、最近では、めっきり減って、

近所のリハビリ施設に通う週2日だけになってしまった。

行き帰りの送迎バスの十数分と、マシーントレーニングを待つ

待合スペースでの数十分である。

そこでも私は、またしてもカントの「非社交的社交性」の概念に

行き当たるのだが、

今回書きたいと思うのは、

「非社交的社交性」とカントが名付けた性質そのものについてではなく、

非社交性-社交性という性質と、性との関係、つまり、

「非社交性という性質は、女性よりも、男性により多く当てはまるのではないか」

ということである。

私が通っているのは、高齢者の多い

要介護認定者対象のリハビリ施設であり、

男性(お爺さんたち)よりも女性(お婆さんたち)の比率が圧倒的に高い。

お婆さんたちは、送迎バスの中でも、施設の待合スペースでも、

ワイワイガヤガヤ、ペチャクチャペチャクチャとにかく元気で姦しいこと。

カシマシ老女たちの社交性は度を越しているように私には思える。

ところが、(私も含めて)爺さんたちは、これとは対照的に、

ひたすらし~んとして、隣の席の爺さんと挨拶のことばを交わすでもなく、

他人には無関心で、非社交的であること極まりない。

こうした特徴は、リタイアして要介護認定者になった爺さんに特有のことなのかどうか、

私には分からないが(私に分かるのは、彼らが脳梗塞の後遺症を

かかえていても、完全な失語症の患者ではないことである)、

とにかく、私が通っている施設では、そうなのである。

もう少し顔を合わせる機会が増えれば、

この施設に通ってくる爺さんたちも

(どこまでも非社交的な)彼らなりの社交性を、

私に見せるようになるのかも知れない。

ともあれ、爺さんたちの相手をする

施設の若いスタッフたちも、なにかと大変だよね。
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ポジティブ?

2015-10-28 09:51:32 | 日記

このところ、眠れない夜が続いている。

昼間眠ってしまうためである。

何もすることがないので、ベッドで横になると、

昨夜の寝不足のためもあってか、ついウトウト。

するとその夜は寝付けなくなるので、完全に悪循環である。

寝付けないので、焼酎をちびりちびりやりながら、ついついスマホに手が伸びる。

昨夜はネット上の名言集のサイトで、テーマ別一覧をタップしてみた。

タップしたテーマは「ポジティブ」である。

すると、次のようなことばが目に入った。

「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない。」( ボールドウィン)

このことばを読んで、私はムッときたのである。

「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない。」だって?

65歳で志を立てるのが遅くないというのだったら、

志を立てるのに遅すぎる年齢とは、いったい何歳なのだろう?

何歳だとボールドウィンは考えているのだろう?

それに、「志を立てる」とは、そもそもどういうことなのだ?

地位を得よう、金を得ようと意を決することだというのなら、

すでに私は、そんなことが無意味に思える年齢に達していると、

このブログでも再三書いてきたはずである。


いや、そういう具体的なことではなく、

ポジティブな前向きの姿勢になること、

もう歳だからと諦めて、ネガティブな後ろ向きの姿勢にならないことです、

とボールドウィンは答えたいのだろう。

「生きていれば春が来る」(福原義春) 。

だから「あわてず、あせらず、あきらめず」というわけである。


 私は今、脳出血の後遺症である片麻痺を克服すべく、

日々のリハビリに励んでいる。

杖歩行に習熟して、昔のように歩けるようになりたい、

というのが、私のはかない望みである。

ところが、杖歩行はいっこうに上達しない。

「一度ダメージを受けた脳神経の細胞は再生しない」というのが

通説でもあるので、

リハビリのつらい訓練が、この頃、私には無意味に思えてきた。

私はあきらめかけているのかも知れない。

そういう私のような人間に

「あきらめるな!もっともっとポジティブな気持ちで臨め!」

というメッセージを投げかけることばとして、

「立って歩け 前へ進め あんたには立派な足がついてるじゃないか」

という「名言」も収録されていたが、

おいおい、私のように立派な?足がついていても、

病気のせいで、その足がうまく使えなくなってしまった人間は、

いったいどうすればいいのだ?

そんな私のあきらめの気持ちを、

訪問リハビリをお願いしている理学療法士の青年にぶつけたら、

「いえいえ、現状維持が大事なのです。

こうして訓練しているから現状維持ができていますが、

そうでなかったら、加齢のために身体がすぐに衰えて、

あっという間に寝たきりになってしまいますよ」という答えが返ってきた。

「現状維持では 後退するばかりである」

と ウォルト・ディズニーは言ったらしいが、

たしかに、年寄りにとっては、

現状維持は下降を意味し、

上昇の努力をして初めて、同じレベルを保てるものらしい。

このことが体力に限らず気力全般に言えるとしたら、

「やる気」を上昇傾向に保つこと、

つまりポジティブな前向きの姿勢で「志を立て」続けることは、

年寄りにこそ必要なのかも知れない。

とすれば、のんびり昼寝なんかしている場合じゃないよな。

やれやれ。年寄りって、疲れるものだね。

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戦争か政治か(その5)

2015-10-26 17:19:19 | 日記

私の気持ちを暗くする話題はもう一つある。

それは、毛沢東が建国した国家、

中華人民共和国の動向である。


昨今は南シナ海での、中国による人工島造成が

世界の耳目を集めているが、

これも軍事施設の建設を目指したものと考えるなら、

軍事的な活動の一環と言えるだろう。

中国の軍事力に対抗できるだけの軍事力と経済力がアメリカにあったら、

両者の衝突が、したがって流血の事態が、免れないところである。

そこまでの軍事力・経済力は今のアメリカにはなく、

したがって戦争までは発展しないさ、と見越してのことなら、

中国の人工島造成は、戦争行為に限りなく近い、挑発にも似た

政治行為の一環と見ることができる。

ふつう国家間の係争は、外交的な交渉によって解決が目指されるが、

中国の人工島造成や北朝鮮の核兵器開発のように、

それ自体が戦争に直結する行為、あるいは戦争の種をまく行為である場合には、

外交的な交渉による解決は望めないから、

武力の行使か、経済制裁のような、

武力の行使に準じる対抗措置が講じられるが、

中国が相手の場合には、世界経済への甚大な影響が考えられるから、

この対抗措置にもリスクが伴う。

アメリカはそのことがよく分かっているから

我が国に対しては、経済制裁のような対応措置も取ることができないのさ

 ――中国はそこまで読んだ上で、高度な政治的・外交的判断に従って

人工島の造成を止めないのである。


数日前の報道によれば、アメリカは

(国際法上領海とされる)この人工島の12カイリ内の海上に、

海軍の艦船を航海させることを決定したという。

中国艦船との衝突が予想され、

事態は一気に緊迫の度を増したが、

この決定の報道は

アメリカが打ち上げた観測気球ではないか、

アメリカは「本気」ではないのではないか、

との見方もある。

このチキンレースのゆくえは、さてどうなることやら・・・・。


『戦争論』の著者として名高いクラウゼヴィッツは、著書の中でこう書いている。

「戦争とは他の手段をもってする政策の継続である。」

中国は今、覇権の拡大という自国の政策の継続を、

戦争という流血の手段を用いずに

( 代わりにスリル満点の、チキンレースという演劇的手段によって )遂行する能力を

備えてしまったように見える。

とすれば、アメリカとの軍事同盟の強化は

それへの有効な対抗措置にはなり得ず、

そうであるとすれば、

日本に残された道は何か――。

日本の政治家は、従来の発想を根本的に転換して、

全く別の新らしい方途を

模索すべきときであるように思われる。

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戦争か政治か(その4)

2015-10-25 11:44:19 | 日記

この地球上に、戦争が絶えることはない。

戦争など、この地上からなくなればよいのに、と私は思う。

諸賢の大方と同様、「戦争を知らない世代」の一人である私は

戦争が嫌いなのだ。


けれども、戦争のない国は平和か、

そういう時代のほうが望ましいのかといえば、

なんの留保も付けず、無条件に

そうだと言い切ることはできない。

というのも、人と人との衝突が避けられない限り、

平和な状態には、人と人との間の利害を調整する機構、

つまり政治が付き物であり、

この政治こそ、毛沢東のことばで言えば、

「流血を伴わぬ戦争」にほかならないからである。

その本性がオオカミやヤンキーと変わらない、

そういう愚かで利己的な人間たちを相手に、

流血を伴わぬまま社会を維持するためには、

暴力による支配が必要であり、

したがって強大な政治権力が欠かせない。

むしろ体制が専制的で強固である場合こそ、

血みどろの闘争は起こらない、ともいえるのではないか。


私はあの「アラブの春」のことを

思いださないわけにはいかない。

もう何年も前のことになるが、

アラブ諸国では、民主化要求の反政府運動が盛んになり、

それによって立て続けに独裁政権が崩壊した。

以来、シリアなどでは、

パンドラの箱を開けたように、

陰惨な流血の事態が頻発し、現在に至っている。

政治的安定は、専制的権力が無くなった途端に

「流血を伴わぬ戦争」から「流血を伴う政治」へと激変する。

革命による独裁政権の崩壊と、

パンドラの箱を開けたような、

その後の内戦による陰惨な流血――。

こうしたアラブ世界の成り行きを思うとき、

私は、毛沢東のことばを反芻しながら、

暗い気持ちになって考えてしまうのである。

               (つづく)
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戦争か政治か(その3)

2015-10-24 14:13:29 | 日記

戦争が絶えない世界情勢を思うとき、

ニーチェの「力への意志」やホッブズの「自然状態」の言説が

私の頭をよぎる。

ニーチェの考え方からすれば、人は皆「力への意志」を、

つまり自分の力を絶えず増大しようとするを意欲を、

理性以前の根源的な衝動として具えている。

そのため人と人との間では、

粗暴なヤンキー同士や、野生のオオカミ同士の世界さながらの、

過酷なバトルが、――残忍な衝突と抗争が、避けられない。

国家が存在しないときに、人が陥るそういう激烈な闘争状態、

それがホッブズの言う「自然状態」の世界である。


人と人との関係の場合であれば、

その上位に国家が存在して、

殺人を禁止する法を施行し、

この法を侵した者を厳しく処罰するので、

対立や衝突が血で血を洗う陰惨な闘争状態にまで発展することは稀だが、

人と人との関係の場合とは違って、

国家と国家との関係の場合には、

( 人にとっての国家のように )これを規制する上位の機構が存在しないので、

血みどろの闘争が絶えないのである。

むろん今でも国際連合のような国家横断的組織はあり、

過去には国際連盟のような組織もあったが、

そういう国際的な組織は、

国家間の戦争を根絶やしにする実際的な効力を持っていないというのが、

残念ながら否定できない現状である。

           (つづく)
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