ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

信号機のこと 陳情の結果報告

2019-03-31 12:35:29 | 日記
私にはガジェットへの偏愛のようなものがある。腕時計だったり、スマホだったり、タブレットだったり、はたまたパソコンだったり・・・。昔は偏愛の対象にクルマも入っていたのだが、8年ほど前だったか、脳卒中の後遺症で自由に出歩けない身体になり、運転免許を返上してしまってからは、車は関心の対象からはずれてしまった。どうしても自分の身体で操れる小物(ガジェット)類へと、私の関心の矛先は向かってしまうのである。

どれにしようかな。あれがいいかな、それともこれがいいかな・・・。私のガジェットへの偏執はある種病気のようなもので、時として突然やってきては私の心を占領するのだが、つい先日もそうだった。そんなとき、私の心は他に何も見えなくなる。世の動きなど、眼中になくなるのである。

そんなわけで、本ブログで書かなければならないことがあったのに、これもすっかり忘れていた。新しいパソコンが届き、憑き物がおちた今、このことについてご報告しよう。近所にある信号機の、青信号延長ボタンについてである。何と、その設置工事が認められたのである。

ここに至るまでには、何人かの人の一方ならぬご尽力があった。だから私はこの知らせにもっと感激し、もっと喜ばなければならないのだが、正直に言うと、それほどの感激も喜びもない。なすべきことをなし、なるようになったのかな、という感慨だけである。

ただ、「なるようにする」ためには、注意すべき点がいくつかある。このことを今回学んだので、それについて記しておこう。

まず、物事にはそれなりのルートがあるということである。まして今回は、行政組織のお役所が相手。陳情の窓口を一つ間違ったら、その時点で勝負はついている。今回の陳情の窓口は市町村の警察署ではなく、県警であることを、私は学んだ。

近所の町会は、これまで何度か陳情を行ったにもかかわらず、陳情を認めてもらえなかったという。たぶん市の警察署にでも陳情に行ったからだろうと思い、確かめてみたら、何と、町会の人たちは近所の交番に訴え出たのだという。これじゃあ、話にならんわな。

窓口がわかったら、そこにたどり着くまでのルートを確保することも忘れてはならない。このルートにはいくつかのタイプがある。(1)その能力がない人、(2)その能力があるのに、やる気がない人、(3)その能力とやる気がある人。確保すべきルートが(3)であることは明らかである。

私は今回、まず共産党の市会議員にメールを出した。梨の礫なので、次には共産党の国会議員にメールを出した。また、(共産党では埒が明かないと思い、)さらに自民党の県会議員にもメールを打った。ところが、今現在に至るまで、この人たちからの返事はない。共産党の議員は(1)のタイプ、自民党の議員は(2)のタイプだったのだろう、と私は推測している。

私が感謝し、褒めたたえなければならないのは(3)のタイプである。これは今回の場合、公明党の議員さんだった。私は最初、公明党の市会議員の方にメールを送ったのだが、この市会議員の方は「この種の陳情は県警が窓口。ならば、適切なルートは県会議員だ」と判断し、公明党の県会議員の方にバトンタッチしてくださった。この賢明な判断が功を奏した形である。

このほか、身近な市井(しせい)の人たちとのコミュニケーションもおろそかにはできない。知り合いのAさんや、その友人のBさんが公明党の議員さんたちとコンタクトを取ってくれなかったら、私は事の進捗具合を知ることができず、疑心暗鬼にとらわれていただろう。

公明党のM・Y市会議員、K・T県会議員、そしてAさん、Bさんには、この場を借りてお礼を申し上げたい。
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眞子さまの前にあるもの

2019-03-30 11:37:41 | 日記
秋篠宮家の結婚騒動が、相変わらず世間を賑わせている。最近の話題の中心は、(眞子さまの妹である)佳子さまが、次のように発言したことである。

「姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが、私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています。」

この発言が「国民」の批判の的になっているというのである。代表的なのは、ネットに投稿された次のような意見である。

「生活のすべてを税金で養ってもらっているのに個人の意思とか自由の方が大切で国民の意見は無視なんて烏滸がましいんだよ。完全に国民を敵に回した。皇族は日本一金に不自由しないんだからよほど気を引き締めてないと不良二世に堕落する危険性があることを改めて確認した。」

このような記事を読んでいると、私は、自分が江戸時代にワープしてしまったような錯覚にとらわれる。騒動の渦中にいる眞子さまは、さながら大名家のお姫さまである。このお姫さまは、町人である貧乏な青年に恋をしてしまった。すぐにでもこの青年と結婚したいと思っている。もちろん当主である父親は、この結婚話に猛反対している。大名家の姫と町人とでは、身分が釣り合わない。そんな縁談など、将軍様も世間も認めるはずがない。父親はそう言い張って譲らない。父親は封建制度のしがらみに囚われており、その常識を露ほども疑っていないのだ。

先に紹介したネット民の投稿意見が、私には「制度」あるいは体制そのものからの、猛烈な反発の声のように聞こえる。姫さま、つまり眞子さまが町人、つまり小室圭青年と結婚するには、こうした反発のプレッシャーをはねのけるしかないが、しかし、窮地を脱する手立てがないわけではない。

大名家を出て、出奔すること、眞子さまの場合なら、皇籍を離脱して一般人になることである。「生活のすべてを税金で養ってもらっているのに、個人の意思とか自由の方が大切で、国民の意見は無視なんて、おこがましい」という批判は、眞子さまが皇籍を離脱して、税金で養ってもらう身分でなくなれば的外れなものになり、問題でなくなる。

税金云々の批判はあくまでも制度からの声であり、そうである以上、制度の枠外に出た者に対しては機能しなくなるのである。

問題は、眞子さまが皇籍を離脱して無収入になった場合、小室圭青年と結婚したとして、それで安泰に暮らしていけるかどうかである。色男金と力はなかりけり。優男のこの青年は、目下は無収入であり、今後も収入を得るメドはたっていないという。

眞子さまの前にあるのは、安泰な道をとるのか、それとも色恋に殉じるのかの選択である。皇籍を取るか、捨てるかの選択は、この(安泰か、色恋かの)選択に直結している。眞子さまは困窮におちいり、悲劇のヒロインになるのかどうかーー。さてどうなりますことやら。
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パソコンを買うの記

2019-03-29 14:55:24 | 日記
きょうアマゾンからパソコンが届いた。届いたのは、CHUWI LapBookSE である。今まで使っていたパソコン( ASUS Vivobook203 )は、ストレージの容量が32GBと極端に少なく、Windows の更新がままならなかった。もとよりそれは承知で(安価だったため)買った格安パソコンだったが、「容量が足りません」とか、「Update に失敗しました」という表示が頻繁に出るようになったため、それが鬱陶しく、このパソコンにはうんざりしていたのである。

そこで目を付けたのが、この中華パソコンだった。このノートPCは、安価にもかかわらず、ストレージ容量が64GB ある。これだけあれば、問題なくWindows の更新もできるだろう。(画像データや音楽ファイルを扱わない)私には、これで充分過ぎるほどである。しかも、ネット上のレビュー記事を読むと、キーボードが秀逸とある。「おっ、これこそ自分が求めていた、理想の物書きマシンだ!」と、私は思わずこの中華パソコンに飛びついてしまったのだった。

届いてから、このマシンを日本語仕様にしてセットアップし、「窓の杜」からフリーのテキストエディタや、Word 互換のワープロソフトなどをダウンロードして、今、このブログ記事を書いている。たしかにキーボードの打ち心地は申し分なく、この機種(マシン)を選んで正解だったと実感している。

それにしても不思議なことと言わなければならない。私はこれまで、ブログ書きマシンとしてはLENOVO のP8という8インチAndroid タブレットを愛用してきた。このタブレットに、USB 接続の無線キーボード(およびマウス)をつなぐ使い方に充分満足していた。不満を感じたことはなかった。

ところがある日、私のお気に入りのこの物書きマシンが、何の前ぶれもなく、突然壊れてしまったのである。起動のスイッチを押しても、うんともすんとも言わなくなった。立ち上がらなくなったのである。「そろそろパソコンを買いたいなあ。どれにしようかなあ」などと思い始めていた頃だったから、タブレットP8君の機嫌を損ねてしまったのかも知れない。あるいはP8君が、「いいよ。もう俺のことはいいよ。新しいのを買いなよ」と、私の背中を押してくれたのかも知れない。

新しいパソコンを使って文章を打ち込んでいる今も、P8君に未練は残っている。タブレットにはタブレットなりの味わいがある。直るものなら修理して使い続けたいと思い、修理屋さんに見積もりを依頼したら、「当社では修理不能」との回答が返ってきた。「なぜなのだ?この故障は、バッテリーがイカれたためではないのか。バッテリーの交換はできないのか?」とすぐに返信メールを書き送ったが、まだ回答はない。中華タブレットが起動できなくなったのは、これで何度目のことだろう。中華タブレットはバッテリーがネックだと私は(実体験から)思っている。
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コカイン摂取と老人力

2019-03-28 13:01:24 | 日記
きのうは毎日新聞の社説を取りあげたが、この新聞の社説には(禿同!と言いたくなるほどではないにしても)、気の利いた論説が間々ある。たとえば、3月25日付の社説《芸能人の薬物事犯と作品 議論のない自粛は疑問だ》は、世の常識(=多数意見)に挑んで、意義深い問題提起をしている。

この社説が取りあげているのは、「芸能人の薬物事犯」つまりピエール瀧のコカイン摂取事件である。この事件に対しては、NHKのように、瀧氏がレギュラー出演中の大河ドラマ「いだてん」で代役を立て、有料の番組配信サービスでも過去の出演作の配信を停止するなど、「自粛」という名の否定的対応をするのが世の大勢を占めている。この態度の奥にあるのは、「薬物の乱用は犯罪だ。反社会的行為は容認できない」という考え方である。この多数意見によって、つまり「多数者の専制」によって、瀧氏が袋叩きにあうという、解りやすくも首肯しがたい構図が作り出される。

これに対して、毎日の社説は、「作品に罪はない。自粛は過剰反応だ」という自粛反対論を対置している。たとえば東映は、映画「麻雀放浪記2020」を瀧氏の出演場面をカットせず、予定通り上映すると発表した。この態度の奥にあるのは、「映画やテレビドラマ、音楽作品は、さまざまなクリエーターの手をへて創造された表現物だ」という考え方である。

毎日の社説は、自粛肯定論ー否定論という両論を併記し、「どちらが正しいかは、ご自身でよく考えてください。それによって、文化は成熟するのですから」と、この問題そのものを読者に丸投げしてしまっている。

私が気になるのは、両論の根底に共通している大前提、つまり「コカインの摂取は犯罪だ」という考え方を、この社説の執筆者が露ほども疑っていないことである。社説は次のように書いている。「言うまでもなく、薬物の乱用は犯罪だ。自身に有害なだけでなく、社会をむしばむ」。

先に私は本ブログで「コカインの摂取はなぜ犯罪なのか?」を問題にした(3月14日《コカインはなぜいけないのか?》)。コカインの摂取は、ほっこり・まったりの精神状態を生み出し、社会の活力を阻害する、というのが、私の見出した答えだった。

だが私は、ほっこり・まったりの精神を否定的なものとばかりは見ずに、その肯定面も積極的に評価したいと思うのである。ほっこり・まったりの精神を生み出すのは「老人力」であることを考えるとき、この精神を否定することは、「老人力」を否定し、老人の存在意義を否定することにもつながると言わなければならない。けれども私こと天邪鬼爺としては、老人の存在意義をむしろ声を大にして力説したいのである。

ブログを書いている友人が、「平成」の次の年号は「和貴」になるのではないかと予測していた(《ぶらソフィア槐安国伝》)。「和貴」は聖徳太子の「和をもって貴しとなす」に由来する命名である。友人の慧眼を称えたいが、聖徳太子の和の精神は、また「老人力」の精神でもあると付け加えたい。
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AI兵器と老人力

2019-03-27 11:45:36 | 日記
禿同(=激しく同意)!と思わず言いたくなるような、そんな社説の論調が、たまにはあるものだ。きょうの毎日新聞の社説《現実味帯びるAI兵器 手遅れになる前に規制を》がそれである。まずはこの社説を読者に紹介したいと思うのだが、私がヘタに手を加えたのではアレだし、かといって全文をコピペするのでは長たらしくなるので、要所を抜粋する形で以下に引用することにしよう。

「21世紀の人間社会を根本的に変える可能性のある人工知能(AI)が兵器と一体化したときに世界はどうなってしまうのか。それを真剣に考えねばならない段階に入った。(中略)
それ(=AI)が軍事に転用されれば、最も効率よく敵を見つけて攻撃する兵器の開発につながる。人の殺傷をためらう人間的な感情を持たない『殺人ロボット』の登場が戦争の様相を大きく変容させかねない。(中略)
AI兵器は狙った軍事目標を正確に攻撃するから被害は局限化されるとの見方もある。だが、軍人と民間人を区別できるのか。AIが暴走して人類と敵対する『ターミネーター』などの映画は、機械が人を殺す未来への警告と受け止めるべきだ。
為政者にとってはAI兵器を前線に投入することで自国兵士の死傷を避けられる。その分、戦争を始めるハードルが下がる懸念がある。
先進国と途上国の技術格差が国際社会の分断を招く恐れもある。途上国の紛争地域に先進国が軍事介入した結果、AI兵器で殺傷されるのは途上国の兵士や民間人ばかりという悲劇が起こらないとも限らない。(中略)
いったん実用化されてしまえば後戻りは難しい。手遅れになる前に規制の網をかける必要がある。」

いかがだろうか。当初私は、かの「老人力」をテーマにきょうのブログ記事を書こうと思っていた。しかし、「禿同!」と思わず膝を打ちたくなる論説に出会ったので、まずはここに紹介した次第である。

当初のテーマに予定していたかの「老人力」であるが、その本質は、ほっこり・まったりの精神、小さいことにはこだわらず、何でも受け容れる寛容の精神ではないか、と私は考えている。これはコカインと同様、社会の活力を阻害する有害な長物と受けとられるのが一般的だが、これには有益な面があることも見逃してはならない。

たとえば上の社説では、AI兵器の危険な側面が強調されているが、この社説はまた次のようにも書いている。「『ディープラーニング』(深層学習)などの技術革新はAIの状況認識や判断能力を飛躍的に高め、車の自動運転や介護ロボットなどの恩恵をもたらすことが期待されている」。

そこで、AIにこの「ディープラーニング」によって、ほっこり・まったりの老人力を会得させれば、この「老人型AI兵器」は無闇に人を殺すことがなくなり、AI兵器の危険な負の側面も克服できるのではないか。そう私は愚考するのだが、いかがだろうか。
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