ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

老子の統治者論

2020-11-22 14:27:06 | 日記
スガ首相はきのう「GO TO トラベル」と「GO TO イート」事業について、それぞれ一時停止する意向を表明した。経済回復策を中断するのは不本意であるものの、爆発的に拡大するコロナ禍を座視することはできない。そう考えてのことだろう。経済振興のラッパを吹いたり、かと思えばコロナ対策の警笛を鳴らしたり・・・。慌しく対応策を繰り出すスガ首相の言動を見ていると、私は老子の次のような言葉を思い起こす。

聖人不仁、以百姓爲芻狗。
聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗(すうく)となす。

ここで言われる「聖人」とは、知徳に秀でた人のことではなく、民の上に立ち、民を支配する統治者のことだろう。たしかに政治家は、民の暮らしを豊かにしようとか、民を救おうなどと思わず、ひたすら権力欲に駆られ、民を芻狗となす、つまり、民を自分の思い通りに操ろうとする。政治家が民の暮らしを豊かにしよう、民を救おうと思ったとしても、それは政治家としての自分の地位を確かなものにしようとする限りでのことである。

スガ首相が経済振興のために「GO TO トラベル」や「GO TO イート」を打ちだしたときも、また、コロナ対策のためにこれらの事業を打ち切ったときも、その意図はこれと同じようなものーー博愛心や慈悲心からは程遠いものだったに違いない。

魅力的なのは、老子がそういう「聖人」に対して、良いとか悪いとかの価値評価を示そうとしないことである。「善悪の彼岸」に立つのが、老子の真骨頂だと言えるだろう。

なるほど統治者、政治家に博愛心や仁愛を期待するなんて、よほどの世間知らずでなければしないことだ。老子は理想論を退け、そうした(世間擦れした)庶民感覚の方向をさらに徹底して、独特の価値中立的な観点に立つのである。

政治家は仁愛ではなく、権力欲に駆られ、民を意のままに操ろうとする。その限り政治家は「聖人」とは程遠い存在であるが、老子の老子たるゆえんは、民を操る統治者を、逆にまた天によって操られる存在、天の「芻狗となる」存在とみなすことである。

天地不仁、以萬物爲芻狗。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。

このように老子は述べるが、ここで言う「万物」には、当然、統治者も含まれると見なければならない。ここでも天地が聖人と同様「仁ならず」と言われているが、理想論を退けるそうした価値中立的・非人間的・宇宙論的な視野のもとで、では、人間の営みはどのようなものと捉えられるのだろうか。
コメント
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