ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

人生論と幸福論の見取図

2015-08-31 10:39:32 | 日記

 人生に関する格言には二つのタイプがあるようだ。すぐに思いつくのは、

 少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず(朱子)

 この言葉なら、だれもが聞いたことがあるだろう。口うるさい親父やおふくろのお小言を思い出すなあ、とおっしゃる読者諸賢もいるかも知れない。小学生の頃によく聞かされたこの言葉の意味は、要するに、安逸に流れがちな自分の性格を改めて勉学に励みなさい、ということである。
 この種の格言は、現状の自己の否定を説くものといえるが、でも、それにしてもなぁ・・・・。
 我々はなぜ勉学に励まなければならないのだろう?
怠惰な自己にうち克たなければいけないのだろう?

 そういう疑問をいだいた人もいるに違いない。よろしい、それはなぜかお答えしよう。それは、勉学に秀でた者が社会の勝者になるように、社会が(勉学に秀でた者によって)作られているからなのだ。そして勉学に秀でるには、安逸に流れがちな自己の、その怠惰な本性を克服する努力が必要だからなのである。

 
 しかしこういう考えは、実は半分しか当たっていないとみるべきだろう。努力家のガリ勉が勝者になるように作られた社会でも、彼がつねに勝者になるとは限らない。むしろ遊び好きや勉強嫌いが勝者になる例も多いのではないか。
「人間の運命は、 ルール通りに行われるチェスというよりも、むしろ宝くじを思い起こさせる」と感慨をもらしたエレンブルグのような人もいる。
 たしかに、ルールからすれば努力は報われてしかるべきだが、必ずしもそうならないのが人生。でも、そうならないとしたら、怠惰な自己を克服する努力なんて、する気にならないよね。そこのところはどうなのだろうか?(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望

2015-08-26 14:32:37 | 日記

 問題 次のことばのうち、(1)18世紀のドイツの詩人シラーが言ったことばはどれか、また、(2)21世紀の青年漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくることばはどれか。それぞれ一つずつ選びなさい。
 
 
 (a)希望さえあれば、どんな所にでもたどりつける。
 (b)太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
 (c)希望は強い勇気であり、あらたな意志である。
 
 正解を示すと、(1)は(b)、(2)は(a)である。ちなみに、(c)は、16世紀に宗教改革で活躍したドイツの神学者マルティン・ルターが述べたことばである。
 
 それはともかく、このように〈希望〉に関する言説が歴史の随所に現れ、名言集に取り上げたりするのは、人間が生きていくために〈希望〉を必要とする存在だからである。
 
 卑近な例に身をおいて考えてみよう。仮にあなたに三歳の娘がいて、その娘が拡張型心筋症のような重い心臓病に罹っていることがわかったとしよう。
 このままではもうわずかしか生きることができず、延命のためには心臓移植が必要だが、それは不可能に思える。海外まで視野に入れても、臓器の提供者が現れる可能性は極めて低いし、海外の医療機関で移植手術を行うとなれば、莫大な費用が必要になるからである。

 ところが最近、厚生労働省の専門家会議が、重い心臓病の子供に使われる補助人工心臓の装着を承認し、その埋め込み手術に保険が適用されることになった。費用の負担が大幅に軽減されることになったのである。

 さて、あなたはわが愛娘に対して、どちらの道を選びとるだろうか。
 
 海外で心臓移植を待つ道と、
 国内で補助人工心臓を装着する道とーー。
 
 もちろん、後の場合にも問題がないわけではない。新聞の報道によると、補助人工心臓は、それを装着すれば血液の循環が改善して、両親が驚くほど元気になったとの四歳女児の治験の症例もあるが、他方では、この装置の内部に血栓ができるため、その装着には脳梗塞を起こすリスクがあるともいう。
 
 だが、それもこれも手術を受けた後の話である。心臓移植だって、手術であるからにはそれなりのリスクはあり、感染症や拒絶反応などの可能性を考慮に入れないわけにはいかない。そうしたリスクを避けようとするなら、手術を受けなければよいだけの話だが、それでは元も子もない。
 海外での移植手術は、手術を受けられる可能性がゼロに等しいといってよいから、あなたに迫られた選択は、

手術を受ける道を閉ざすか、
リスクを伴う手術を受けさせるか、

の選択だということになる。前者の選択がもたらすのは、(ほぼ確実な)娘の死である。

 あなたは前者がもたらすこのような結果を考え、後者の道を選ぶだろう。この時あなたの選択の基準になっていたのは「娘の(少ないながらも)生存できる可能性」であるが、この可能性こそ〈希望〉と呼べるものである。
 
 〈希望〉とは、未来の輝きが現在に向かって開かれていることだ。あなたは〈希望〉を選び取ったのである。あなたは〈希望〉が太陽のように、いつまでもその輝きを失わないで欲しいと願うはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さあ、チャンスだ!

2015-08-24 20:58:59 | 日記
 チャンスは貯蓄できない(樋口廣太郎)。

 実業家のこの言葉には、どのようなメッセージが込められているのだろうか。ビジネスの世界には縁のない生活を送ってきた私であるが、この言葉を跳躍台にして、読者諸賢とともにしばらくこの未知の世界に想像の翼を広げてみたい。
 この言葉は、まず次のように敷衍することができるだろう。チャンスは努力の積み重ねによって増やすことができるが、それは財物のように蓄えることのできるものではない、と。機会はいくらあっても、その好機にしっかりと捕まえなければ、それは逃げ去ってしまって二度と戻ってくることはない。しかも、それが以後の人生の成り行きを決定づけるような出来事になってしまうから、その対処は厄介なのである。好機は好機に適切に対処してこそ好機となる。なにやら同語反復じみた物言いだが、厄介なだけに一考の価値はありそうである。
 
 厄介なのは、それが好機かどうかはずっと後になってからでないとわからないことである。たとえばあなたが若手のセールスマンだったとしよう。あなたの営業努力が実り、好成績を上げたので、あなたは営業部長に夕食に誘われることになった。あなたは「これは出世のチャンスだ!」と喜んでこの誘いに応じることだろう。あなたが慎重な性格の持ち主なら、社内の激しい人事抗争を考慮し、「落ち目の部長派と見られたら、出世の妨げになるかも知れないからなあ」と考えて、この誘いを断るかも知れない。部長の誘いは、あなたにとって出世のチャンスではなかったことになる。
 
 
 あなたの判断が正しかったかどうかは、人事抗争の帰趨が決着した後にならないとわからない。人事抗争に部長派が勝てば、あなたは「反部長派」の態度をとったことを問題にされ、冷や飯を食わされるに違いない。
 これで事が収まらないのが人生の面白いところである。人間万事塞翁が馬。人事抗争に勝ったことで専務取締役に昇進した部長は、社長の身代わりとなり、贈賄の容疑で窮地に立たされていた社長の泥をかぶらざるを得ないことになるかも知れない。そして数年間、懲役刑に服する破目になるかも知れない。そうなれば反部長派の態度を貫いたあなたは、将来のホープとして白羽の矢を立てられるだろう。

 もっとも、あなたがこうして手に入れた課長の地位も、それがストレスの種になり、胃がんの原因になったとすれば、あなたに立てられた白羽の矢は悪い意味を持つことになるのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最善の日だって?!(その3)

2015-08-22 10:23:01 | 日記
私が思い出す言葉。

 今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、 理由は一つしかない。 自分が持っていないもののことを考えているからだ。 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。

 これはアントニー・デ・メロの言葉だが、 
 ほぼ同じ内容のことを、萩原朔太郎はこんなふうに述べている。

 幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、 不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。

 どういうことかというと、私は現在だけの薄っぺらい存在ではないということである。私は過去の様々な経験によって形作られ、種々の記憶をまつわらせている重層的な存在なのだ。私を形作るそれらの記憶の中には、「おお、これだ!これでよい!」と全肯定できる瞬間のそれもきっと含まれているはずだ。
 
 私はこれから記憶の旅人となって、私自身の内奥を探検して歩こうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最善の日だって?!(その2)

2015-08-20 16:08:57 | 日記
  一日一日を最善の日として肯定できる心構えは、どうしたら得られるのか?。
  
  私がエマーソンに求めるのはこの問いに対する答えだが、彼はその答えを示してくれない。
  
 もっとも、答えは案外、身近なところに転がっているのかも知れない。趣味の釣りに我を忘れていた時のことを思い起こしてみよう。一つ断言できるのは、堤防近くの地磯で釣糸を垂れているとき、釣行前夜にあれこれと工夫を凝らしながら仕掛けを作っているとき、私は「今は最善の時か?」などと問わなかったということである。したがってそういう時には、「今は最善の時ではない」などとも私は考えなかった。
 こういうこともある。マズメ時の間際、赤い夕陽が海の向こうにキラキラと輝きを放ちながら沈んでゆくのを見て、私は「いいなぁ~」とつぶやきをもらしたことがある。そんな時には、私は生の充溢を実感し、釣果などは度外視して、その一瞬を全肯定していたに違いないのだ。
 
 釣りに行けなくなった私が、そういう瞬間を味わうことは意外と簡単なことなのかも知れない。私は今、独り自室のパソコンに向かい、ブログのこの文章を書いている。有り余っているかに思えた時間も、こういう時には短すぎるように思える。キーボードをたたく右手の五本の指は幸い健在である。
  
 片手でキーボードをたたきながら、私は今、一つの言葉を思い出す。

 今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、 理由は一つしかない。 自分が持っていないもののことを考えているからだ。 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。

 これはアントニー・デ・メロの言葉である。(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする