蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初夏を踊る

2021年05月13日 | 季節の便り・花篇

 父の代から50年以上の歳月を経た蹲を、みっしりと苔が覆い、その苔にユキノシタがしがみついていた。例年になく記録的な早さで訪れようとしている梅雨のはしりの雨が上がるのを待っていたように、葉陰から一斉に小さな踊り子が舞って出た。山野草に目覚めさせてくれた原点の花である。
 恥ずかしくなるほどしどけなく足を広げた人型の白い花は、立ったままの目線では可憐さは見えてこない。蹲り、目を近付けて初めて、はっとするように微妙な彩りに触れることが出来るのだ。マクロに接写レンズを噛ませてファインダーを覗き、例年のようにこの季節の踊り子たちの姿に見入っていた。

 昨日、西日本新聞の記事で、小林武彦さん(東大定量生命科学研究所教授)の新刊「生物はなぜ死ぬのか」の紹介記事が出ていた。記述者は平原奈央子さんと出ている。説得力のある記事だった。
 
 ……いつか誰にも訪れる死は、生命の進化の大きな流れの中では、一つの終着点であり、始まりでもある。

 「生物は進化のバトンの中で生きている。前の世代からバトンを受け取り、次世代に渡す生命の連続性の中で、死は終わりであると同時に始まりでもあります」

 生命の太古の姿は、実はコロナウイルスによく似ている。地球上に生物の種のように現れたウイルスは、自分の遺伝情報を複製して拡散し、他の細胞に入り込んで生き永らえた。安住先の細胞と共倒れしないよう本来はおとなしくしているが、何かのきっかけで猛威をふるう。コロナウイルスも古くから存在し、今回突如として感染力を強めた。普段はコウモリなど動物を「宿主」とするが、行き場を失い人に襲いかかった。

 「人間の地球への破壊行為が、しっぺ返しのようにパンデミック引き起こしたのでしょう。コロナは、太古からの使者のようにも思えます」

 生物は無数の細胞が集まって一つの個体になり、絶え間ない生死のリレーの中で種として生存する。ある生物が絶滅することで他の生物が栄える。そうした生の多様性を支える原動力こそ「死」であり、生き物も本質は「死ぬ物」なのだ。

 「生き物はすべて有限な命を持っているからこそ『生きる価値』を共有することができるのです」

 死があるからこそ、生は輝く。命の有限性である「死」は、長い進化の過程で生物が導き出した最善のプログラムでもある……

 日頃感じていることを裏付けてくれるようで、何度も読み返していた。残り少なくなるほど、命の重みは増していく。その尊さを、コロナごときで毒されたくはないが、どこかで「人間に絶滅の順番が巡ってきたのかもしれない」という思いもある。
 
 気になる一節があった。
 ……懸念するのは人工知能AIによる人の思考力の低下だ。決して死なずにバージョンアップし常に正解をくれるAIは、生物の摂理から大きく外れている……

 同感だった。車の自動運転化の機運が異常なほど高まっている。安全のためというが、それは人間の運転技能の劣化をもたらし、機器の不具合の際の瞬間的判断力や対応力を失わせることでもある。技術ばかりを信奉し、「人間」という大切な要素を見失って突っ走ることが正しいのだろうか?それは、わかってもいない政治家が、デジタル化を闇雲に急ぐ姿の滑稽さにも通じるものがある。

 小さな踊り子たちに癒されながら、初夏の一日が今日も何事もなく過ぎていった。コロナワクチンのクーポンは、まだ来ない。
                     (2021年5月::写真:踊るユキノシタ)