蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

天使が舞い降りる―脱・日常を探して(その4)

2010年01月10日 | 季節の便り・旅篇


 「足が竦むから、お父さんの足だけ見て登ったんだよ!」高所恐怖症の娘が、その恐怖感ををおくびにも出さずに案内し終えて吐露したホンネである。そのロマンティックな名前にはそぐわない、聞きしに勝る断崖絶壁のトレイルだった。一度目は途中で足が竦んで断念し、2度目にマサ君のサポートで勇を鼓して登頂した岩峰Angels Landing(1,765m)に、娘が三たび挑んでくれた。

 9時30分、1人留守番して、麓の街でロング・ドライブの疲れを癒しながら遊ぶ家内を残してモーテルを出発。白く解ける呼気に首を竦めながら、園内を巡る無料シャトル・バスに乗った。Virgin River沿いに次々と天を覆うように現れるZion Canyonの朝焼けの岩峰を仰ぎ見ながら走る。いずれも人を寄せ付けない厳しい山容である。10時10分、The Grottoのバス停で降りると、そこがAngels Landing Trailの入り口だった。此処がすでに1,350mの高度だから、実標高差は400m余りということになる。しかし、後刻この数字に臍を噛むことになろうとは、まだその時点では気付かなかった。
 秋が深まり、色づき始めた木立の中を緩やかに歩く道の彼方に、独立峰Angels Landingの岩塊の頂が朝日に輝いている。とても登れそうにない凄まじいまでに急峻な岩肌が立ちはだかっていた。一段と鮮やかになったユタ州の快晴の青空に映えて、赤茶けた壮絶な岩肌が美しかった。
 次第に坂が険しくなり、やがて短い九十九折を果てしないほど繰り返すWalter’s Wigglesという山道に到る。そして、その九十九折が一段と短くなり、絶壁の岩肌に石の煉瓦を積んだ人工的な最後の急坂を登りつめると、West Rim Trailの尾根に出る。左に行けばWest Rim Springまで3マイル(4.8キロ)、Angels Landingへは右に0.5マイル(800メートル)を登り詰める。いよいよ恐怖の絶壁Trailの始まりである。
 右手に、左右500メートルの断崖が落ちる急峻な痩せ尾根が羊腸と続いていた。鎖に縋り、岩肌を這う人影が見える。娘が足を竦ませたのが頷ける厳しい登攀路だった。11時10分、ペットボトルの水を飲んで気を引き締め、登りにかかった。松の木が多く、どこか懐かしい景色である。手袋で縋る鎖の揺れが却ってバランスを崩すことに気が付き、手を添えるだけにするのがコツと学習。更に、怯えて岩肌に寄りかかるとやはりバランスを保ちにくいことに気付いて、思い切って身体を岩肌から離すことを学ぶ。時折小休止して水を飲み、眼下のVirgin River沿いを走る豆粒ほどのシャトル・バスの姿に、改めて足を竦ませながらよじ登り続けた。娘がしきりにカメラで追ってくれている。後で聞いたら「下の景色を見ないようにするために、必死でファインダーの中のお父さんの姿を覗いていた」という。健気な娘である。
 コツを飲み込めば実に楽しい登攀だった。12時20分、狭い頂上に無事到着。その向こうは一気に500メートル落ちる絶壁で、もう先はない。360度のZion Canyonの俯瞰と遠望は険しく美しく、大自然が織り成す豪快な景観に疲れを忘れた。ザックからひとかけらの菓子パンを取り出し、娘と分かち合った。喉を過ぎる水は極上の甘露だった。

 登り以上に足が竦む下りを、娘に足場を教えながら辿った。幼い頃、太宰府近郊800mの宝満山を這い登っていた娘と、今こうしてユタ州の岩峰を歩いている……なぜか不思議な感動があった。午後の日差しに色づいた秋の木々を愛でながら、出発点のThe Grottoに14時30分に帰り着いた。
 
 2年前に計画して実現叶わなかったAngels Landing「天使が舞い降りる」、往復8.6キロのTrailだった。
            (2010年1月:写真:Angels Landingの尾根道)
 

山燃える―脱・日常を探して(その3)

2010年01月10日 | 季節の便り・旅篇


 濃霧の出発となった。スクーバ・ダイビングのインストラクターとして高校生に教えるマサ君は、海霧をついて早朝Lagunaでのビーチ・ダイビングの訓練に向かった。日常のプールでの訓練に加え、週末のカタリナ島でのボート・ダイビングや、海岸でのビーチ・ダイビングなど、マサ君にとっては忙しい季節である。厚意に甘え彼を残し、4泊5日の旅に出た。
 8時出発。気温15度、到着以来最も寒い朝となった。時差ぼけは解消したものの、ここ1週間の20度近い温度差はちょっと過酷だった。山道の濃霧のトラフィック(渋滞)を避け、R133号からR5号に迂回した。やがて晴れた霧の朝は、早朝からたくさんの人々が働く一面のイチゴ畑。果物の宝庫、カリフォルニアの豊かな一点描である。R57号に移り、左手にエンジェルス球場、右手にアイスホッケーのホンダ・スタジアムを見ながら、やがてR91に乗り、ひたすら東に走る。真正面から強烈に差し込む朝日が眩しい。それほどのトラフィックもなくスムーズなドライブだが、この先には名うてのラスベガス・トラフィックが待っている。20分後にR15号に移り、Zionに向かって4車線のハイウエイを時速70マイル(110キロ)でひた走った。

 10時50分、右手にモハーベ砂漠が広がり、はるか彼方に峨々とした岩山が延びてくる。荒涼とした原野が果てしなく続くハイウエイは、この2年で2車線が4車線に拡張され、休日ごとに繰り広げられるラスベガス・トラフィックをどれほど緩和したことだろう。抜けるようなカリフォルニア・ブルーの青空の下を、標高1,200メートルのハイウエイ沿いにヨシュア・ツリーの群落が続き、地平線まで一本道のドライブが続いた。

 11時30分、ようやくカリフォルニア州を抜けネバダ州にはいった。覚悟していたトラフィックもなく、11時50分ラスベガスを片目に通過。以前泊ったシーザース・パレスやルクソールの威容を懐かしく垣間見ながら一気に走り抜けた。カジノのスロット・マシンにコインが落ちる軽快な音が耳に蘇る。出発して既に3時間50分、まだまだZionは遠い。ラスベガスを過ぎると車線が2車線に縮小し、風景が一変した。町が消えた。ただ広漠とした砂漠だけが果てしなく続く。ようやくマックの看板を見つけ、遅いランチにありついたのは13時過ぎだった。
 14時アリゾナ州にはいり、14時30分、ようやくユタ州にへの州境の標識を過ぎる。やがてR9号に右折、Zion National ParkのSouth Gateに向かう曲折した道の遥か向こうに、いよいよZionの峻険な岩山が現れてきた。その山の姿に、明日登るAngels Landingへの期待が俄かに高まってくる。何故か突然現れたダチョウ農園で小休止し、15時40分、Zion National Park Motelに到着。出発してから7時間40分が経過していた。

 すぐに、目を見張るほどに豪快な夕映えが来た。緑のない赤茶けた岩峰の連なりに夕日が照り映え、圧倒的な迫力で山が燃えた。疲れを忘れて息を呑んだ。これこそ脱日常の象徴だった。
 公園の入り口に近い町並みの土産物屋を冷やかし、モーテル近くの「オスカルズ・カフェ」のほの暗いテーブルで、シュリンプとリブアイ・ステーキにサラダを添え、ご当地のZion Beerに酔いながら、「よくぞ此処まで来た」という感慨があった。
 娘がいたから実現した旅、古稀のこの歳までそこそこに元気でいたから出来た旅である。体力を使う海外旅行にはそれなりの覚悟も要る。もう、娘の待つアメリカへの旅以外は海外旅行を諦めてしまったが、並みのツアーでは体験できない数々のサプライズを、いつも娘が用意してくれている。私達の体力や疲れを見ながら、余裕あるコース設定で案内してくれる。

 標高1,000メートルを超える高原のモーテルでエアコンの響きを聴きながら、感慨を噛み締めつつ睡魔の訪れを待っていた。
               (2010年1月:写真:Zionの夕映え)

原野を歩く―脱・日常を探して(その2)

2010年01月10日 | 季節の便り・旅篇


 野性豊かな国である。広大な国土を有する余裕でもあろうか、娘の家から20分ほどRaguna Beachへの道路を下ると、広漠とした砂漠(土漠)地帯Laguna Coast Wilderness Parkが、一切人の手が加えられない野生の保護区として広がっている。夜走ると、まるで深山を抜けるような闇の空間である。潅木とサボテンだけが生える起伏の多い原野に、幾つものTrail(トレッキング・コース)が作られ、短くは1時間、長いところでは終日掛けて海まで出るコースもあり、入り口のボックスには地図まで用意されている。野鳥達ばかりでなく、ガラガラヘビや原始の姿を残すトカゲ、マウンテン・ライオンまで生息するという、まさしく野生保護区である。

 ザイオン国立公園への4泊5日のロング・ドライブまで、高齢の私達の為におよそ1週間の慣らし期間を娘が配慮してくれた。
 2日目、12時間の爆睡から覚めた。マサ君が作ってくれたサンドイッチでブランチを済ませ、34度の炎天下、娘と二人で汗を滴らせながら玄関先のテラスのタイル磨きをした。アメリカ西海岸も異常気象が続き、私達が着く前日までは雨で寒かったという。後日、乾燥しきった山野が、毎年のテレビ報道でお馴染みの山火事で燃え盛った。寒暖繰り返しながら、いずれにしろ此処は砂漠地帯である。東には遠くモハーベ砂漠が広がり、乾燥した大気が皮膚をかさつかせ、絶えず水やジュースを飲んで水分の補給を施さなければならない。しかし、高温多湿に弱い家内にとっては嬉しい別天地。よほど気候が身体に合っていたのだろう、一番心配していたのに、49日の滞在中終始元気だったのは家内だけだった。
 マサ君の野球チームの試合を見に行ったり、日本食スーパーの中にある「山頭火」でラーメンを食べたり、歩いて25分のグロッサリー(食料品店)に空のザックを担いで買出しに行って、サブウエイでサンドイッチを買ったり、スタバでコーヒー・ブレイクしたり、郵便局まで切手買いに行ったり、お馴染みの寿司屋「鯉」でタカさんの握る寿司や生牡蠣を堪能したり、Raguna Beachの海沿いのオープン・カフェ「ハイデルベルグ」でランチを食べ、パーム・ツリーが紺碧の青空に映えるビーチを散策したり、公園の野性の野うさぎと戯れながら、太平洋を真っ赤に染めて沈む夕日を見送ったり……これがアメリカでの日常だった。
 
 Laguna Coast Wilderness Parkには、Orange county唯一の自然の湖がある。湖と言うより池というのが似つかわしいような小さな湖水だが、車の音も届かない静寂の空間である。21日、娘と二人で2時間のTrailに出た。道路脇に車を置いてWood’s Endという入り口から潅木の間に開かれた山道を暫く登ると尾根に出る。遠くにハイウエイを見晴るかす尾根筋に案内板と注意書きがあり、「犬やバイク、自転車は禁止」とある。道端に散見される動物の糞は、確かに犬のものではない。季節的にガラガラヘビは無理かもしれないが、何か野生との出会いを期待しながら尾根を歩き、Barbara’s Lakeを目指した。日差しはまだ強く、真夏のトレッキングはかなり厳しそうだ。ゴミムシ風の甲虫が一匹、道を歩いていた。
 決して景観や草花を愛でるコースではないが、春には一面黄色い花に覆われ、それなりの季節感を味わえるという。以前、娘から送ってきたガラガラヘビや恐竜の面影を残す爬虫類の写真を思い出しながら、山道を下った。湖まで往復2時間、数日後に迎えるZion National parkの絶壁の岩峰Angels Landing登攀の足慣らしだった。
 湖面を数羽の水鳥が滑っていく。湖畔の潅木の枝に、既に巣立った鳥の巣が二つ……この日巡り合った、数少ない野性の一端だった。
            (2010年1月:写真:原野のサボテンとハイウエイ)

異郷の露天風呂―脱・日常を探して(その1)

2010年01月10日 | 季節の便り・旅篇

 いきなりの暑熱が待っていた。30度を超す真夏の日差しの中を、娘の新車・真っ赤なカムリでロス空港を走り出す頃には、もう汗びっしょりだった。
 10月16日、時折未練がましく夏の後ろ姿を垣間見せるものの、日本は既に秋たけなわ。55キロの荷物をスーツケースに詰め込み、その内の15キロは盛りだくさんの親心を詰め込んだお土産の数々という、いつもの旅立ちだった。
 成田を17時15分に発ち、例によって「よくまあ、これだけ不味く作れるものだ!」と半ば呆れ、半ば苦笑しながら機内食を食べて旅は始まった。折からの新型インフルエンザ騒動で、予期したとおり空港でもマスクをしているのは日本人ばかり。外国人たちの顰蹙の眼差しに苛まれて、少しずつマスクが消えていくのがおかしい。(という自分も、その1人だったのだが…。)
 強い追い風に押されて予定より1時間早く、9時間でロス空港LAXに着いた。サンフランシスコ沖で朝を迎え、ロス・ダウンタウンの数少ない高層ビルを左に見ながらのランディングだった。不景気のせいもあるのか、便数も客数も激減し、両手10本の指紋と顔写真を撮られて入国審査を手早く済ませ、娘とハグで合流。1年3ヶ月ぶりの再会である。心なし細面になったようで気にかかる。
 空港から南におよそ1時間、Orange Countyの閑静な住宅地Aliso Viejoの娘の3軒目の新居に着いた。緑に囲まれ窓の多い新居は、3ベッドルーム、2バスルームにトイレが3ッある2階建てのコンドミニアムである。いつの間にか、Long Beach、Laguna Niguel、Aliso Viejoと3軒の家を持ち、メキシコに1週間のタイムシェアのホテルの1室までオーナーシップを持つ娘は、「わたし、資産1億だけど借金も1億だよ!」と笑う。年金制度のないアメリカで市民権を取り永住を決めた娘は、老後に備えて着実に足場を固めている。今度の家も、壁のペンキ塗りからバスルームのタイルの張替え、ガス・水道・電気器具の取替えまで全て自分達でこなし、見事な新居を作り上げていた。美しい黄色に染め上げられたリビングは、高い吹き抜けと外の緑の木々を映す広い窓を幾つも配し、ガラスのテーブルが置かれた一角はBreakfast Roomと名付けられた、日差しを浴びる寛ぎ空間である。2階への階段にはお洒落なライトが下がり、三つのベッドルームに続いている。キッチンとリビングの間に高いタイルのテーブルがあり、ここは夕飯後の通称「飲んだくれコーナー」。ワインを傾けながら、語らいの時間が夜を豊かなものにする。翌日から、BBQコンロが置かれた玄関先のテラスのタイル磨きや、寝室脇の洗面所の鏡とガラステーブル、戸棚の扉の取り付けを手伝う楽しみが待っていた。

 娘達との生活に主眼を置いた今回の訪問だった。家に着くなり、その雰囲気の素晴らしさと居心地の良さに酔った。だから、その後は二つの大きな旅を除き、「時には食べに出ようよ」と娘からぼやかれるほど、外食も控えてひたすら家で寛ぐことになる。愛猫のサキとサヤも元気に迎えてくれた。人見知りしないサヤは、2年の空白をものともせずに膝元に擦り寄ってくる。デリケートなサキは、慣れるまで娘達のベッドからなかなか出てこようとしない。やがて娘のパートナー・マサ君もダイビング指導の仕事を終えて帰宅、持ち込んだ日本食を並べて最初の夜が更けて行った。

 夜、水着に着替えて、歩いて2分のプールサイドのジャグジーに向かう。このコンドミニアム群の住人だけに年中解放される温水ジャグジーは、長いフライトに凝りつかれた身体を骨の髄からほぐしてくれた。ハナミズキにも似たピンクの満開の花を見上げながら、こっそり持ち込んだビールに酔うジャグジーは、まさに温泉の露天風呂気分だった。長旅の疲れと時差ぼけに逆らい難く、あえなく11時に沈没、12時間の爆睡に引きずり込まれた。

 こうして、49日間の「脱・日常探しの旅」が始まった。
                (2010年1月:写真:娘のコンド)
 

煩悩、払うこと叶わず

2010年01月02日 | つれづれに

 大晦日の終日、梢を大きく揺すりながら厳しい木枯らしが小雪を舞わせ続けた。迎春準備を終え、今年も仕方なく紅白歌合戦を見る羽目になってしまった。半数以上知らない歌手や、歌詞も歌唱力もたどたどしいジャリ歌手達に顰蹙のボヤキを繰り返しながら、いつものようにカウントダウンの時が近付いてくる。
 今年も残すところ50分。外気温は既に零度近い冷え込みだが、吹き募っていた風が突然やんだ。誘われるように、諦めていた除夜の鐘撞きに出かけることにした。風邪がようやく落ち着いたばかりの家内を残し、茄子紺の極寒の冬山用防寒ジャケットを着こんで夜道に出た。雲が切れ、十分に満ちた月が中天にかかって夜道は明るい。寒さというよりも切り付けるような冷たさが手袋に浸み込んでくる。
 天満宮に向かう道は早くも宵参りの車や人波が押しかけ始め、並び立つ夜店の屋台から、焼き烏賊の濃厚な匂いが漂ってくる。参道に向かう道を途中で右に折れ、人影のない道を辿った。九州国立博物館にはいる4本の道のひとつ、光明寺口と言われるコースである。
 もう40年近く、この道の奥に建つ臨済宗の禅寺・光明寺の山門に並び、年が改まると同時に撞きはじめる除夜の鐘のひと打ちで煩悩を払うのが我が家の恒例になっていた。一昨年は住職の訃により中止となり、昨年は何故か代わりの住職が定まらないままに、閉ざされた山門に空しく家内と佇むだけで終わった。百八つの煩悩を抱えたままで迎える新年は、何となく心残りがある。ようやく住職が決まり、今年こそはという期待で鐘撞きに出かけたのだった。
 文永10年(1273年。元寇・文永の役の前年)鉄牛円心和尚により創建されたといわれるこの寺は、平安時代に興隆してきた天神信仰と禅宗が結びついた「渡宋天神」の総本山。仙冠道服に梅の一枝を手にする「渡宋天神(鎌倉時代作)」をはじめ、天満宮の菩提寺・安楽寺の本尊だった薬師如来像、味酒安行が菅原道真の冥福を祈るために京仏師に刻ませたという「十一面観音像」等が安置されている。「一滴海庭」と呼ばれる庭(「苔寺」と言われる所以はこの庭にある)は700年以上の歴史を持つ九州最古且つ唯一の枯山水の庭であり、樹齢3~400年に及ぶ楓の老樹20数株の下に、49種の青苔で大陸と島をあらわし、水と見立てる白砂が大海をかたちどり、奇岩怪石の配置と相俟って、長汀曲浦の趣を現出するものとされる。
 紅葉陽光に映える秋、白雪を置く沈みきった冬、苔の色・楓の色増す春、音もなく雨を吸い込む梅雨の頃、蝉時雨が却って静寂を誘う真夏……四季折々に佇まいを変えるこの庭が好きで、僭越にも我が家の応接間と決めて、時折本堂の庭のきざはしに座って命を洗う。

 いつもならもう30人ほどの列があるはずの山門前に誰一人人影がなく、山門も堅く閉ざされたままである。ふと、不安が兆す。時が過ぎ次第に人の姿が増え、今年もあと10分という時になって、ようやく姿を見せた住職は、何も言わずに1人鐘楼に立ち、おもむろに鐘を撞き始めた。寒気に震えながら待ち続けた人々の口から、ブーイングが漏れた。幾つかを撞き進んだ頃、住職が土塀の向こうに立ち、両腕を交差させて×印を示した。……住職が変れば、方針も変るのだろう。しかし、大宰府天満宮の密かな風物詩として長い間地域の人たちに愛されて来た行事が、無造作に放棄されたことに燻る思いが残った。
 こうして、今年も煩悩を払うこと叶わぬままに、皓々と照らす月光に凍えて一人影踏みしながら、鐘の音に追い立てられるように博物館へのつづら折れの小道を辿った。月の光にも負けずに、中天をオリオン座とベテルギウス、シリウス、プロテオンが描く冬の大三角が飾り、枯れた笹の葉を月光が霜に見立てていた。
       (2010年1月:写真:メキシコ・コルテス海の夜明け)