「足が竦むから、お父さんの足だけ見て登ったんだよ!」高所恐怖症の娘が、その恐怖感ををおくびにも出さずに案内し終えて吐露したホンネである。そのロマンティックな名前にはそぐわない、聞きしに勝る断崖絶壁のトレイルだった。一度目は途中で足が竦んで断念し、2度目にマサ君のサポートで勇を鼓して登頂した岩峰Angels Landing(1,765m)に、娘が三たび挑んでくれた。
9時30分、1人留守番して、麓の街でロング・ドライブの疲れを癒しながら遊ぶ家内を残してモーテルを出発。白く解ける呼気に首を竦めながら、園内を巡る無料シャトル・バスに乗った。Virgin River沿いに次々と天を覆うように現れるZion Canyonの朝焼けの岩峰を仰ぎ見ながら走る。いずれも人を寄せ付けない厳しい山容である。10時10分、The Grottoのバス停で降りると、そこがAngels Landing Trailの入り口だった。此処がすでに1,350mの高度だから、実標高差は400m余りということになる。しかし、後刻この数字に臍を噛むことになろうとは、まだその時点では気付かなかった。
秋が深まり、色づき始めた木立の中を緩やかに歩く道の彼方に、独立峰Angels Landingの岩塊の頂が朝日に輝いている。とても登れそうにない凄まじいまでに急峻な岩肌が立ちはだかっていた。一段と鮮やかになったユタ州の快晴の青空に映えて、赤茶けた壮絶な岩肌が美しかった。
次第に坂が険しくなり、やがて短い九十九折を果てしないほど繰り返すWalter’s Wigglesという山道に到る。そして、その九十九折が一段と短くなり、絶壁の岩肌に石の煉瓦を積んだ人工的な最後の急坂を登りつめると、West Rim Trailの尾根に出る。左に行けばWest Rim Springまで3マイル(4.8キロ)、Angels Landingへは右に0.5マイル(800メートル)を登り詰める。いよいよ恐怖の絶壁Trailの始まりである。
右手に、左右500メートルの断崖が落ちる急峻な痩せ尾根が羊腸と続いていた。鎖に縋り、岩肌を這う人影が見える。娘が足を竦ませたのが頷ける厳しい登攀路だった。11時10分、ペットボトルの水を飲んで気を引き締め、登りにかかった。松の木が多く、どこか懐かしい景色である。手袋で縋る鎖の揺れが却ってバランスを崩すことに気が付き、手を添えるだけにするのがコツと学習。更に、怯えて岩肌に寄りかかるとやはりバランスを保ちにくいことに気付いて、思い切って身体を岩肌から離すことを学ぶ。時折小休止して水を飲み、眼下のVirgin River沿いを走る豆粒ほどのシャトル・バスの姿に、改めて足を竦ませながらよじ登り続けた。娘がしきりにカメラで追ってくれている。後で聞いたら「下の景色を見ないようにするために、必死でファインダーの中のお父さんの姿を覗いていた」という。健気な娘である。
コツを飲み込めば実に楽しい登攀だった。12時20分、狭い頂上に無事到着。その向こうは一気に500メートル落ちる絶壁で、もう先はない。360度のZion Canyonの俯瞰と遠望は険しく美しく、大自然が織り成す豪快な景観に疲れを忘れた。ザックからひとかけらの菓子パンを取り出し、娘と分かち合った。喉を過ぎる水は極上の甘露だった。
登り以上に足が竦む下りを、娘に足場を教えながら辿った。幼い頃、太宰府近郊800mの宝満山を這い登っていた娘と、今こうしてユタ州の岩峰を歩いている……なぜか不思議な感動があった。午後の日差しに色づいた秋の木々を愛でながら、出発点のThe Grottoに14時30分に帰り着いた。
2年前に計画して実現叶わなかったAngels Landing「天使が舞い降りる」、往復8.6キロのTrailだった。
(2010年1月:写真:Angels Landingの尾根道)