一夜のストームが嘘のように、美しい青空の朝となった。しかし、まだ10月というのに、ここ高原の町はもう真冬である。凍て付くような冷たい空気に身を竦ませながら車に乗って帰途に着いた時、外気温は氷点下2.8度。太宰府でも滅多に経験しない厳しい冷え込みだった。
R40号に乗ってフラッグスタッフの町に別れを告げた。「ロサンジェルスまで西に700キロ」という標識の右手に、標高3,900mのSan Francisco Peaksの頂が真っ白に雪化粧していた。緩やかな登りを駆け上がり、2,400mの高原道路を走る頃、気温は氷点下3.8度まで下がった。風景は白く雪をいただき、道路は凍結防止剤で真っ白に覆われている。時たま屋根にいっぱい雪を積んだ車が、雪を撒き散らしながら追い抜いていく。
砂漠が続くカリフォルニア郊外や、ネバダの荒涼とした風景に比べ、アリゾナ大平原は美しい。豊かな緑と変化する景色は癒されるほどに爽やかだった。その美しいアリゾナ大平原を走りたくなって、娘に代わってハンドルを握った。片側2車線の道は走る車も少なく、土地柄か業務用のトラックが多い。どこを走ってもコルベットやランボルギーニ、フェラーリ、マスタングなどの高級スポーツカーがさりげなく走っているカリフォルニアと違い、何となく生活感満ち溢れた道路の雰囲気だった。
ストームが残した強い横風の中を、130キロで疾駆した。日本の高速道路なら、50キロ制限が出るほどの烈風が車を煽る。直線と緩やかなカーブの道は殆どハンドル操作が要らないが、風に流されないようにハンドルをしっかりと固定しなければならないから、それなりに緊張する。展望豊かな快適なドライブだった。左ハンドルの右側通行は、慣れるまで暫く車線の維持に神経を使う。助手席の娘がナビしながら、時折「お父さん、寄ってるよ!」と注意してくれる。これでは却って娘を疲れさせるな、と心で詫びながら、それでも次第に慣れていくドライブが楽しくて、2時間ほど走り続けた。
途中Kingmanで降りて、古い国道「R66」を覗いてみることにした。かつて「ルート66」はアメリカ全土を横切り、東海岸のシカゴと西海岸のロサンジェルスのサンタモニカを結ぶ栄光の国道だった。新たな高速道路網の整備により、半世紀にわたる主要観光道路・商業道路としての栄光の日々は色褪せてしまったが、今でも人々の胸に郷愁として生き続けている。当時の面影を残す町並みがあり、資料館がある。何故か理由は思い出せないのだが、私にも懐かしさを伴って心に残っていた「ルート66」だった。街の一角にSANTAFE鉄道の古く巨大な機関車が飾ってあった。12州に21,000キロ以上の路線網を誇った、これもかつての栄光のシンボルである。「アリゾナ」、「サンタフェ鉄道」、「ルート66 」……三つ並べると、何故かセピア色の郷愁に似た匂いが漂ってくる。
途中寄り道をして、帰路が大幅に遅れた。13時24分、カリフォルニア州にはいった。道路に検問所があり、他の州からの農産物のチェックを行なうという。さすがに広いアメリカの国土ならではの情景である。モハーベ砂漠の荒涼とした風景の中を、再びハンドルを握った。アリゾナ大平原の美しい景色に慣れた目には、カリフォルニアの砂漠の一本道が、何となくみすぼらしく感じられた。
Barstowでようやく往路で東に走ったR15号に合流した時、時刻はすでに16時を過ぎていた。「最初の計画では、今頃帰り着いてジャグジーにはいっている頃だよ!」と娘が笑う。途中夕飯に韓国料理の店で豆腐チゲを買い込み、夕暮れに追われるようにAliso Viejo(アリソ ヴィエホ)の娘の家に無事帰り着いたのは18時33分だった。
5日間の走行距離、1,373マイル(2,197キロ)。「脱・日常の旅」の終わりだった。
(2010年1月:写真:雪を頂くSan Francisco Peaks)