蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

セピア色の郷愁―脱・日常を探して(その8)

2010年01月12日 | 季節の便り・旅篇

 一夜のストームが嘘のように、美しい青空の朝となった。しかし、まだ10月というのに、ここ高原の町はもう真冬である。凍て付くような冷たい空気に身を竦ませながら車に乗って帰途に着いた時、外気温は氷点下2.8度。太宰府でも滅多に経験しない厳しい冷え込みだった。
 R40号に乗ってフラッグスタッフの町に別れを告げた。「ロサンジェルスまで西に700キロ」という標識の右手に、標高3,900mのSan Francisco Peaksの頂が真っ白に雪化粧していた。緩やかな登りを駆け上がり、2,400mの高原道路を走る頃、気温は氷点下3.8度まで下がった。風景は白く雪をいただき、道路は凍結防止剤で真っ白に覆われている。時たま屋根にいっぱい雪を積んだ車が、雪を撒き散らしながら追い抜いていく。
 砂漠が続くカリフォルニア郊外や、ネバダの荒涼とした風景に比べ、アリゾナ大平原は美しい。豊かな緑と変化する景色は癒されるほどに爽やかだった。その美しいアリゾナ大平原を走りたくなって、娘に代わってハンドルを握った。片側2車線の道は走る車も少なく、土地柄か業務用のトラックが多い。どこを走ってもコルベットやランボルギーニ、フェラーリ、マスタングなどの高級スポーツカーがさりげなく走っているカリフォルニアと違い、何となく生活感満ち溢れた道路の雰囲気だった。
 ストームが残した強い横風の中を、130キロで疾駆した。日本の高速道路なら、50キロ制限が出るほどの烈風が車を煽る。直線と緩やかなカーブの道は殆どハンドル操作が要らないが、風に流されないようにハンドルをしっかりと固定しなければならないから、それなりに緊張する。展望豊かな快適なドライブだった。左ハンドルの右側通行は、慣れるまで暫く車線の維持に神経を使う。助手席の娘がナビしながら、時折「お父さん、寄ってるよ!」と注意してくれる。これでは却って娘を疲れさせるな、と心で詫びながら、それでも次第に慣れていくドライブが楽しくて、2時間ほど走り続けた。

 途中Kingmanで降りて、古い国道「R66」を覗いてみることにした。かつて「ルート66」はアメリカ全土を横切り、東海岸のシカゴと西海岸のロサンジェルスのサンタモニカを結ぶ栄光の国道だった。新たな高速道路網の整備により、半世紀にわたる主要観光道路・商業道路としての栄光の日々は色褪せてしまったが、今でも人々の胸に郷愁として生き続けている。当時の面影を残す町並みがあり、資料館がある。何故か理由は思い出せないのだが、私にも懐かしさを伴って心に残っていた「ルート66」だった。街の一角にSANTAFE鉄道の古く巨大な機関車が飾ってあった。12州に21,000キロ以上の路線網を誇った、これもかつての栄光のシンボルである。「アリゾナ」、「サンタフェ鉄道」、「ルート66 」……三つ並べると、何故かセピア色の郷愁に似た匂いが漂ってくる。

 途中寄り道をして、帰路が大幅に遅れた。13時24分、カリフォルニア州にはいった。道路に検問所があり、他の州からの農産物のチェックを行なうという。さすがに広いアメリカの国土ならではの情景である。モハーベ砂漠の荒涼とした風景の中を、再びハンドルを握った。アリゾナ大平原の美しい景色に慣れた目には、カリフォルニアの砂漠の一本道が、何となくみすぼらしく感じられた。
 Barstowでようやく往路で東に走ったR15号に合流した時、時刻はすでに16時を過ぎていた。「最初の計画では、今頃帰り着いてジャグジーにはいっている頃だよ!」と娘が笑う。途中夕飯に韓国料理の店で豆腐チゲを買い込み、夕暮れに追われるようにAliso Viejo(アリソ ヴィエホ)の娘の家に無事帰り着いたのは18時33分だった。

 5日間の走行距離、1,373マイル(2,197キロ)。「脱・日常の旅」の終わりだった。
          (2010年1月:写真:雪を頂くSan Francisco Peaks)

ストームを走る―脱・日常を探して(その7)

2010年01月12日 | 季節の便り・旅篇

 10月27日、快晴の朝が明けた。腕時計の表示は標高2,250メートル、気圧775hpと出た。アリゾナ州フラグスタッグは高原の町である。厳しい寒気の中を、町のグロッサリーを探して買い物を済ませた。ベッドルームにリビング、キッチン、ジャグジーにテラスを配したホテル・ウインダムの豪華なコテージで、備えられた炊事道具で自炊しながら、今日はのんびり休養日である。ゴルフ場や池を配した広大な敷地は、松の木に囲まれた閑静で贅沢なリゾート・ホテルだった。

 ブランチの後、昨日夕暮れの道端に幾つも建っていたインディアン・ジュエリー・ショップが気になって、R98号を1時間ほど北に走り戻った。
 天候が急速に崩れ、潅木を大きくしならせながら荒野を烈風が吹き募る。殆どの小屋掛けの店が入り口を閉ざしていた。店が見付からないままに、やがてGrand Canyon South Rimに向かうR64号への分岐点に来た。ストームが近付いている。諦めきれずにR64号に走りこんだところで、ようやく開いている店を見つけた。小屋の中に先住民ナバホ族の店番がいて、色とりどりのジュエリーで作ったアクセサリーや、織物、焼き物、民芸品などが並んでいた。幾つかを土産に求め、吹き募る風に背中を丸めながら車に逃げ戻った。
 娘が笑いながら言う「グランド・キャニオンまで、あと17マイル(27キロ)だよ。どうする?」「ウーン、お天気も悪いし、又にしようか」……ツアーだったら、嵐を衝いて何が何でも目的地に向かい、決して引き返すことはないだろう。「余裕だね!」と笑いながら、きっと又来るだろう、又来たいなと自分に言い聞かせた。Lake Powellを中心に、半径230キロの円の中に、8つの国立公園と16の国定公園がある。所謂Grand Circleと称される広大なエリアである。2年前のBryce Canyon、今回のZion Canyonの後には、やはりGrand Canyonは欠かすわけにはいかないだろう。元気でいたいと思う。

 左手に、寄り集まる数軒のインディアン・ショップが見えた。欲張って寄ってよかった。そのすぐ裏に、巨大な渓谷があった。グランド・キャニオンのミニ版である。世界的な観光地グランド・キャニオンの陰にあって、殆ど省みられることのない渓谷だが、コロラド川が刻んだLittle Colorado River Gorge(峡谷)は、やはりナバホ族の居留地の中の捨てがたい観光資源のひとつである。むしろ、此処を観てよかったと思う。ザックに提げるお守りとして、小さなブルーの石を1個5ドルで求めて、自分への土産とした。

 雨交じりの強風にハンドルを取られながら戻ったホテルで、カマンベール・チーズと生ハムを添えて、広いジャグジーでシャンパン・パーティと洒落込んだ。3人共、ちゃっかり水着を用意しているからおかしい。明日は又、カリフォルニア州のAliso Viejoまでの長い長いドライブが待っている。明日こそハンドルを代わってやろうと思う。パスポートも3冊目となった。国際運転免許証も3度目の申請をした。「帰っての楽しみだよ!」と言って娘は教えてくれないが、おそらく2,000キロを超えるロング・ドライブになるだろう。前回の滞在では、延べ4,500キロを走った。運転が好きとは言っても、娘の疲れも半端じゃないと思う。1泊で帰れる道のりを、私達の疲れに気を遣って敢えて1日のリッチな休息日を娘が作ってくれた。
 
 しかし、ロス到着以来、肝臓だけは一日の休息日もなく、毎日ワイン、シャンパン、メキシカン・ビールなど、飲んだくれる日々である。「ジャグジーで飲んだら、あまり酔わないんだよ」という娘の言葉に惑わされてグラスを傾けたが、とんでもない!あまり強くない私は、回りに回る酔いにフラフラになりながら、ベッドに転びこむ旅の夜となった。
           (2010年1月:写真:Little Colorado River Gorge)