蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

煩悩、払うこと叶わず

2010年01月02日 | つれづれに

 大晦日の終日、梢を大きく揺すりながら厳しい木枯らしが小雪を舞わせ続けた。迎春準備を終え、今年も仕方なく紅白歌合戦を見る羽目になってしまった。半数以上知らない歌手や、歌詞も歌唱力もたどたどしいジャリ歌手達に顰蹙のボヤキを繰り返しながら、いつものようにカウントダウンの時が近付いてくる。
 今年も残すところ50分。外気温は既に零度近い冷え込みだが、吹き募っていた風が突然やんだ。誘われるように、諦めていた除夜の鐘撞きに出かけることにした。風邪がようやく落ち着いたばかりの家内を残し、茄子紺の極寒の冬山用防寒ジャケットを着こんで夜道に出た。雲が切れ、十分に満ちた月が中天にかかって夜道は明るい。寒さというよりも切り付けるような冷たさが手袋に浸み込んでくる。
 天満宮に向かう道は早くも宵参りの車や人波が押しかけ始め、並び立つ夜店の屋台から、焼き烏賊の濃厚な匂いが漂ってくる。参道に向かう道を途中で右に折れ、人影のない道を辿った。九州国立博物館にはいる4本の道のひとつ、光明寺口と言われるコースである。
 もう40年近く、この道の奥に建つ臨済宗の禅寺・光明寺の山門に並び、年が改まると同時に撞きはじめる除夜の鐘のひと打ちで煩悩を払うのが我が家の恒例になっていた。一昨年は住職の訃により中止となり、昨年は何故か代わりの住職が定まらないままに、閉ざされた山門に空しく家内と佇むだけで終わった。百八つの煩悩を抱えたままで迎える新年は、何となく心残りがある。ようやく住職が決まり、今年こそはという期待で鐘撞きに出かけたのだった。
 文永10年(1273年。元寇・文永の役の前年)鉄牛円心和尚により創建されたといわれるこの寺は、平安時代に興隆してきた天神信仰と禅宗が結びついた「渡宋天神」の総本山。仙冠道服に梅の一枝を手にする「渡宋天神(鎌倉時代作)」をはじめ、天満宮の菩提寺・安楽寺の本尊だった薬師如来像、味酒安行が菅原道真の冥福を祈るために京仏師に刻ませたという「十一面観音像」等が安置されている。「一滴海庭」と呼ばれる庭(「苔寺」と言われる所以はこの庭にある)は700年以上の歴史を持つ九州最古且つ唯一の枯山水の庭であり、樹齢3~400年に及ぶ楓の老樹20数株の下に、49種の青苔で大陸と島をあらわし、水と見立てる白砂が大海をかたちどり、奇岩怪石の配置と相俟って、長汀曲浦の趣を現出するものとされる。
 紅葉陽光に映える秋、白雪を置く沈みきった冬、苔の色・楓の色増す春、音もなく雨を吸い込む梅雨の頃、蝉時雨が却って静寂を誘う真夏……四季折々に佇まいを変えるこの庭が好きで、僭越にも我が家の応接間と決めて、時折本堂の庭のきざはしに座って命を洗う。

 いつもならもう30人ほどの列があるはずの山門前に誰一人人影がなく、山門も堅く閉ざされたままである。ふと、不安が兆す。時が過ぎ次第に人の姿が増え、今年もあと10分という時になって、ようやく姿を見せた住職は、何も言わずに1人鐘楼に立ち、おもむろに鐘を撞き始めた。寒気に震えながら待ち続けた人々の口から、ブーイングが漏れた。幾つかを撞き進んだ頃、住職が土塀の向こうに立ち、両腕を交差させて×印を示した。……住職が変れば、方針も変るのだろう。しかし、大宰府天満宮の密かな風物詩として長い間地域の人たちに愛されて来た行事が、無造作に放棄されたことに燻る思いが残った。
 こうして、今年も煩悩を払うこと叶わぬままに、皓々と照らす月光に凍えて一人影踏みしながら、鐘の音に追い立てられるように博物館へのつづら折れの小道を辿った。月の光にも負けずに、中天をオリオン座とベテルギウス、シリウス、プロテオンが描く冬の大三角が飾り、枯れた笹の葉を月光が霜に見立てていた。
       (2010年1月:写真:メキシコ・コルテス海の夜明け)