蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

旅の出会いーアラスカ紀行5ー

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 アラスカ洋上3日目、初日の大揺れが嘘のように微動ひとつない静かなスイートのキャビンに目覚めて朝食に出たとき、ドアの外に嬉しい演出があった。キャプテンからの青いバルーンが二つと、『HAPPY ANNIVERSARY!』のメッセージが貼り出されていたのだ。(ツアーの関係で、お祝いのケーキとクルー達のお祝いの歌は2日後の2ndフォーマル・ナイトのディナーの席に用意された。)
 2814名の乗客の内、日本人は34名、その中に日毎親しみを増していった二組のご夫婦があった。宮崎の歯科医のN夫妻と、千葉から参加のW夫妻。ある不思議な偶然が、この二組のご夫妻との距離を急速に縮めていった。Nさんは私のかつての会社の同僚とゴルフ仲間、そしてWさんは『地球交響曲』と星野道夫に想いを寄せるという共通の話題を持ち、しかも同じ結婚40周年のご夫妻だった。
 はるばる8千キロを飛んだ東南アラスカのたった34人、その中で見つけた偶然の接点、これはもう奇蹟としか言いようがない。これこそが旅の醍醐味であり、出会いの不思議さでもあるのだ。
 二度のフォーマル・ナイトの緊張も楽しい語らいでほぐれ、オプショナル・ツアーを一緒にしたり、写真を撮り合ったり、美しい洋上の夕日を見送ったり、カジノで遊んだり、ヴィクトリアの夜の街を散策したり…やや天候に恵まれずツアーが淋しかっただけに、この語らいは貴重だった。マルガリータやアラスカン・ビアを飲みながらダンスに興じたのも楽しいひとときだった。まさに『旅は道連れ』である。
 ケチカン出航後の2ndフォーマル・ナイトの仕上げは、吹き抜けのロビーで開かれたシャンペン・ウオーター・フォールのパーティーだった。積み上げた数百個のグラス(本来、それ程に揺れない巨大クルーズ・シップなのだ)に注がれたシャンペンを囲んで、国籍を忘れた和やかなダンスで夜が更ける。こんな夜は日本古来の奥ゆかしさ、遠慮深さなど取り払って無邪気に盛り上がる…海外旅行の『脱・日常』の醍醐味はこれに尽きる。
 帰国前夜のシアトルのホテルに、ロスに住む娘からお祝いのシャンペンとフルーツが届いていた。これもまた目頭が熱くなる絶妙の演出だった。
            (2005年6月;フォーマル・ナイト)

朝焼けーアラスカ紀行4-

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 呼応する霧笛の中、凪の海を船は滑るように進んだ。ベランダで、流氷と遠く崩れ落ちる大氷河を見ながらシャンペンで祝うはずだった朝食は、濃密な霧を見ながらキャビンで摂るしかなかった。スティーブン・パッセージを南下して、アラスカ屈指の絶景といわれる45キロのフィヨルドの奥まで入るこの日のクルーズは、この旅の最大の目玉だっただけに心が残った。
 しかし、次第に晴れていく霧の海、その中から遠く残雪を頂いた峻険な嶺々が浮かび上がってくる神秘的な風景は見飽きなかった。双眼鏡を片手に、終日海に見入っていた。時折、クルーズ船がすれ違う。鮭の群がジャンプする。水鳥が波間に浮かぶ。シー・ライオンの群が岸辺を覆う島が過ぎる。蒼い流氷がゆっくり漂っていく。島の森の梢から白頭鷲が見送ってくれる。(この日見ることが叶わなかった鯨も、後に見学を許された操舵室の窓から、そしてヴィクトリア上陸前のランチのテーブルから見ることが出来た。)
 翌未明、家内の声で起こされた。午前4時、左舷の遙か彼方の山を黒々とシルエットにして、壮絶な朝焼けが燃えていた。燃え上がる雲と山影と朱を映す波と、重々しいまでに荘厳な朝焼けだった。日没が9時半、長い長いアラスカの一日が始まろうとしていた。
 午前6時、アラスカ最後の寄港地ケチカン。かつてはクリンギット族が鮭などの狩猟生活を送っていた集落であり、街の名前の由来は『羽を広げた鷲』を意味する。クリンギット族やハイダ族の文化である数多くのトーテム・ポールは、この旅で見たかったもののひとつだった。星野道夫もボブ・サムとトーテムの原点を探って、きっと歩いたに違いない街なのだ。
 寄港時間が短く、慌ただしいバスのツアーになってしまったが、熊やシャチや鷲と共に、お目当てのワタリガラスのトーテムを幾つか見ることが出来た。
 先日、ジュノーの街の売店で、思いがけずトーテムの紋様を幾つも彫り込んだジーパン用のベルトのバックルを見つけていた。そしてこれが、私のこの旅の一番の土産になったのだった。
            (2005年6月:写真:洋上の朝焼け)

霧の中の航海ーアラスカ紀行3ー

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 『十代の頃、神田の古本屋で、ある一冊のアラスカの写真集を見つけた。なぜ、こんな地の果てのようなところに人が暮らさなければならないのか。いったい、どんな人が、何を考えて生きているのだろう。僕はどうしても、その人々に出会いたいと思った…』こうして、エスキモーの小さな村シシュマレフを訪ねたときから、星野道夫のアラスカとの深い付き合いが始まった。
 今、彼の5冊の写真集と7冊のエッセイを積み上げて、アラスカ・クルーズへの参加を決定づけた彼の存在を改めて思う。アラスカを愛し溶け込み、独り雪山に籠もってカリブーの群の大移動を待ち、ヒグマをファインダーに追い続け、先住民族の心の原点であるワタリガラスの神話を訪ねてアラスカからアジアに渡る旅の途上、カムチャツカのクルリ湖の畔でヒグマに襲われて亡くなり、クリンギットの熊の一族の名前『カーツ』を与えられた一人の動物カメラマン。写真は勿論だが、書き残したエッセイも比類を見ないほどに美しく深い。
 そして、クリンギットの神話の語り部ボブ・サムや、元ブッシュ・パイロットのシリア・ハンター、絵本作家のメアリー・シールズ、クリンギットのベトナム帰還兵ウイリー・ジャクソン、彼が最も尊敬していたビル・フラ-等々、友人達が語るミチオ追悼の言葉と涙は、氷河から流れ出す水のように純粋で美しい。私の心の中のアラスカは、いつしか星野道夫を暖かく囲むこれらの人々への思いで包まれていた。
 龍村仁監督がシリーズとして自主上映だけで作り続けている『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』は、もう5番に及んだ。星野道夫への追悼とも云える第3番に、彼の全てが語られている。
 『人は、母なる星・地球(ガイア)という大きな生命体に生かされている存在である』という監督の思いに共感して久しい。感動の底から蘇ってくる謙虚さ、既に滅びの笛が聞こえ始めている人類の未来を救う道があるとすれば、それはこの謙虚さではないだろうか。
 フィヨルドの奥深く、トレーシーアームの流氷と氷山崩壊目撃を断念させられた濃霧の航海の間、哀愁を帯びた霧笛に重ねて、心のどこかで星野道夫やボブ・サムの声を聴いていた。
            (2005年6月;写真:残雪の嶺々)

過ぎ去った栄華ーアラスカ紀行2-

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 氷河が限りない時間をかけて削り上げた険しい山々を背景に、猫の額のような土地に開かれた小さな港町。アラスカの3つの寄港地は何れも19世紀末にゴールド・ラッシュに沸いた街だった。州都ジュノーでさえ今は3万人、スキャグウエーにいたっては最盛期の2万人が今は冬の人口800人という寂れた風景の中に沈んでいる。そこに1隻4千人近い人間を乗せた巨大クルーズ船が2~3隻停泊する…どこかちぐはぐなその落差は些か居心地の悪いものだった。
 ジュノーにはメンデンホール氷河という目玉があるからまだしも、二つ目の寄港地スキャグウエー観光は切ない。かつての砂金の採掘機のそばに小さな小屋を建て、年老いた家族がゴールド・ラッシュ時代のけばけばしい衣装を纏ってトークや唄を聴かせてくれる。途中台詞が途切れたり息切れしながらの唄はあまりにも哀しい。新しい金鉱が発見されると潮が引くように去っていった束の間の繁栄、その残滓だけに縋って観光客をもてなす姿が痛々しかった。
 最後の寄港で訪れたカナダ・ヴィクトリアの美しい街並みや豊かな佇まいとの落差はあまりにも極端だった。選んだコースにもよるのかもしれないが、先住民の文化などを、もっと誇らしく謳う観光であってほしかったと思う。
 期待していた太古の森の散策、白頭鷲やワタリガラスやヒグマや鮭、そして海には鯨やシャチやイルカといった豊かな野生の大自然とのふれあい。しかし、クルーズ船の慌ただしい限られた時間で駆け足に過ぎる旅行者の目では、本当のアラスカの奥深い魅力は味わい得ないということなのだろう。
 しかも、荒々しく、美しい蒼に輝く氷河も年々後退を続けている。先進世界による環境破壊・地球温暖化の爪痕は、こんなところにまで及んでいるのだ。メンデンホール氷河を覆う黒い汚れが、しきりに気になった。
 だからこそ、梢の先で静止する姿や、堂々とした滑空を見せてくれた白頭鷲は素晴らしかった。眼下の観光客のざわめきを俯瞰しながら、彼等はいったい何を思っていたのだろう。
 ひとシーズン滞在して、心ゆくまでこの大自然の営みに触れてみたい…そんな未練と渇望を確かめながら、タラップを上る毎日だった。
    (2005年6月:写真:氷海を行くダイヤモンド・プリンセス号)

ルビー婚の旅ーアラスカ紀行1-

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 東南アラスカ・州都ジュノーの鉛色の空を、王者の風格を見せて白頭鷲が雄渾に舞った。期待していた野生との出会いの一瞬が、こんなに呆気なく実現するとは思いもしなかった。胸の奥で一気に弾けるものがあった。
 結婚40周年。2万円ほどの初任給で就職して2年目、7年付き合った家内と式を挙げたとき、無謀にも預金は3千円足らず、仕方なく当時としては顰蹙ものの会費制で披露する羽目になった。しかも、同じ年に兄と妹と私の3人が結婚するという、大変な親不孝をして私達の人生は始まった。
 35周年はバリ島で祝った。さて40周年はと、来し方行く末を思う早春のある日、記念日の5月23日を間に挟む『アラスカ10日間クルーズ』の案内が目に飛び込んできた。破壊が加速する環境問題、貧困な政治がもたらす殺伐とした世相、喜寿を目前に控える10年後の自分たちの年齢と体力を思うと、金婚式を無事に迎える確信はとても持てない。今ならばまだ、という思いがあって一世一代の豪華船旅を先取りすることにした。
 その日のうちに申し込んだもう一つの大きなキッカケがある。シアトルまで飛んで、昨年長崎で竣工した豪華客船、116,000トンの『ダイヤモンド・プリンセス号』に乗り、東南アラスカのインサイド・パッセージ楽しむクルーズ。その4つの寄港地の中にジュノー、ケチカンという名前を見たとき、心がざわっと鳴った。
 アラスカを舞台に、息を呑むような写真と心に染みるエッセイを残した一人の男がいた。アラスカに魂を奪われ、ワタリガラスの伝説を追い、ヒグマをこよなく愛した動物写真家・星野道夫。残念ながらその存在を知った時、彼は既にカムチャツカの湖の畔でヒグマに襲われて亡くなった後だったが、彼がアラスカで出会った人達の中の一人、先住民族クリンギット族の神話の語り部ボブ・サムがすぐ近くのシトカの港町にいる!…その事実がこの旅への参加を決定的なものにした。(別稿)
 クルーズ初日、バンクーバー沖で激しい嵐に遭遇した。大きな揺れに船員までが船酔いする波乱の中、ルビー婚の旅は始まった。過酷な17時間の時差と船酔いで臥せる家内の傍らで怒濤に身をゆだねながら、40年の星霜を想った。
      (2005年6月:写真:白頭鷲…絵はがきより借用)