蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

命の営み

2014年05月25日 | 季節の便り・虫篇

 ホタルブクロが長いランタンを提げた。連日夏日が続く日々だが、朝の空気は爽やかに涼しく、午前7時に石穴稲荷神社の脇から日が昇る頃、今朝もナミテントウが羽化した。まだ浅い翅の色は、やがて朝の日差しの中で漆黒に赤い翅紋を染め上げていく。

 先週、庭の紅梅の枝先に群がるアブラムシを見付けた。いつもの梅雨入り前の消毒が待てずに、スプレー式のアブラムシ殺虫剤を噴霧しようとしてハッと手を止めた。アブラムシの蜜が滴って濡れ濡れと輝くそこらの枝一杯に、テントウムシの幼虫や蛹が、数えたら30匹ほど育っていた。アブラムシを餌とする益虫である。今殺虫剤を噴霧すると、彼らまで殺してしまうことになる。暫く見守ることにした。

 やがて1週間、蛹の羽化が始まった。黒地に大小の赤紋や茶色の無紋など、個体差の多いナミテントウの誕生である。小さな命の輝きに、気持ちがホコホコ暖かくなる。
 思わず唸るシーンがあった。羽化したばかりのナミテントウが、早速身近な伴侶を前足で抱え込んで交尾を始めたのだ。人間では想像もできない営みに目を見張った。限られた短い命の間に、子孫を残さなければならない大自然の摂理。誕生した瞬間に、彼らはもう大人としての責務に邁進している。儚さの陰に秘められた命の激しさは感動的でさえあった。短いからこそ、輝く命。
 それに比べて、80年も生きるようになった人間の営みの昨今の醜さはどうだろう!発情期という命再生の摂理から見放されて年中発情し、営みに快楽を知ることで際限なく個体数を増やし、その無軌道な生存活動によって多くの他の生き物たちを絶滅させ、挙句の果て日本では、その種族維持のための行為さえ希薄になって、自らの個体数を減らしつつある。「植物化」というが、例えば雑草の猛々しいまでの増殖力に対し、軟弱になることを「植物化」とは失礼というものだろう。「ホモサピエンス……少なくとも日本民族は絶滅期に突入した」というのが私の持論だが、ひたすら種族維持だけに生命力を爆発させる彼らの純粋さに、いつもながら圧倒される。
 だが、昆虫たちを案ずることはない。人口一人に対し昆虫は3~5億匹、地球上で最大の個体数を誇る彼らは、決して絶滅することはない。人類滅亡後の地球で、食物連鎖の輪の大きな部分を担いながら、彼らはしたたかに生き残り、繁栄を続けるだろう。

 先日、友人の広い自家菜園に招かれ、グリンピースやスナックエンドウ、キュウリなどを自由に捥がせていただいた。早採りして輸送中に熟させてスーパーの店頭に並ぶ品と違って、直か採りする野菜は瑞々しかった。帰って新鮮なキュウリに粗塩をつけてカリカリと丸かじりし、緑の色鮮やかなマメご飯を炊いた。スナックエンドウをビールのつまみに、贅沢な夕餉だった
 畑の隅で花いっぱいを咲かせたレモンの木の枝に、クロアゲハの蛹があった。緑から褐色に色変えていく過程にあったが、近付く羽化の日が楽しみだった。しかし、数日後再びグリンピース捥ぎに招かれて確かめたら、蛹の右肩に小さな穴!やられた、寄生蜂が既に蛹を食べ、羽化して去った後だった。
 これが、大自然の摂理である。ひとつの命の誕生の陰に、こんなドラマが秘められていることに気付けば、人はもう少し優しくなれるかもしれない。

 朝陽を浴びながら、松の葉先でゆっくりと傷一つない綺麗な翅を開閉させるツマグロヒョウモンがいた。羽化したばかりの翅を、柔らかな朝の日差しで乾かしているのだろう。朝食を摂りながら見上げていたら、やがて乙女椿の方に飛び立っていった。彼女もまた、束の間の命を健気に燃やし続けることだろう。
 「頑張れよ!」
 ひと声かけてやりたい、朝の寸景である。
                 (2014年5月:写真:ナミテントウの交尾)


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