蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

生と死の分岐

2014年05月28日 | 季節の便り・虫篇

 雨を招く湿った風が、朝の紅梅を揺する。白梅の小暗い枝陰を、梅雨を呼び寄せるユウマダラエダシャクがゆらゆらと舞い始める季節になった。
 日差しはじわじわと苛烈さを増し始めたというのに、朝晩は折り曲げた袖を展ばしたくなるような肌寒い風が吹き抜ける。この時期になって、まだカーペットとガスストーブを片付けられないのが太宰府の5月である。その5月も残り僅かになり、既に梅雨入りした沖縄・奄美の梅雨前線の北上が気になり、テレビの天気図から目が離せない。

 毎日のようにナミテントウの羽化が続き、ようやく羽化の瞬間をカメラに収めることが出来たのは昨日のことだった。朝から何度も木戸を開けて、道路に枝垂れかかる紅梅の枝先に文字通り群れる蛹の様子を見に行っていた。
 昼近い時刻、あちこちに羽化したばかりのナミテントウが翅を乾かしている中で、蛹から出たばかりの1匹と、その傍らに今まさに抜け出ようとしている瞬間の1匹をツーショットで撮ることに成功した。
 蛹の背を割って、もがきながら頭から懸命に這い出ようとする姿を見守った。少しずつせり出してくる。翅の日の丸のような紋様が見えてくる。
 夏の宵の2時間を八朔の下に立ちっぱなしで、クマゼミの脱皮の経過を連続写真で撮り続けるのが、ここ数年の習慣になった。ひと夏に50個近い抜け殻を集めるほど、蟋蟀庵の庭はセミの誕生の競演になっている。そのイメージを重ねながら、暫くシャッターを押し続けた。

 翌日、昼食を終えて又紅梅の梢を見上げた。何匹ものナミテントウが葉先に憩い、当分羽化の競演は続きそうな気配である。アブラムシを退治したい気持ちはあるが、これだけの蛹の数と連日の誕生シーンを見ると、さすがに殺虫剤の噴霧は躊躇われる。しかも、羽化したばかりのナミテントウが早速交尾したり、飛び立たずにその辺りのアブラムシを貪り食べている姿を見ると、やがて此処で産卵し、次世代が生まれてくるのは時間の問題だと思われ……ま、いいか。この生命力に脱帽して、少々紅梅の枝が荒れるのも諦めることにしよう。

 ひとつ、悲しい現実があった。昨日カメラに羽化の瞬間を捉えた1匹が、身体半分抜け出したところで力尽きて死んでいた。傍らで羽化したもう一匹は、乾いた蛹の抜け殻だけを残して、既に姿はない。生と死を分けた原因が何だったのかは知るすべもないが、繰り返される命の営みの中で、こんな場面に行き当たるのは決して稀ではない。先日の寄生蜂にやられたクロアゲハの蛹と同じく、厳しい大自然の掟である。

 かつて中学生の頃、母校の校舎はカラタチの垣根で囲まれていた。夏休みの間も休みなく通い、陸上競技(100m走と800mリレー、走り幅跳びが私の脚にかかっていた。)の練習の行き帰りに、このカラタチに寄るアゲハチョウの一生を見守る日々が続いた。
 そんなある日、1匹のアゲハチョウが、脱皮の途中で頭だけを蛹の殻に包まれたまま死んでいた。翅は瑞々しく伸びきっているのに頭だけが抜け出せずに、さながら髑髏の仮面をつけられたような無残な姿に息をのんだ。
 小さなひとつの死は、子供心に衝撃的だった。昆虫少年が虫を採集して標本作りすることをやめ、飼育して空に放ったり、カメラで追うことを楽しむようになった一つのきっかけだった。

 そんなことを思い出しながら、買い物の帰りに少し遠回りして、穂を波立たせる風に追われるように麦秋の中を走った。黄砂舞う午後だった。
              (2014年5月:写真羽化過程のナミテントウ)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿