蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

緑陰に風を聴く

2020年05月09日 | つれづれに

 新緑から、深緑へ……季節の移ろいのはざまで、眩しいほどに緑が濃くなり始めていた。黄砂もPM2.5もない今日の空は、幾つかの雲の欠片を浮かべてどこまで青く広がっていた。
 名ばかりのゴールデン・ウィークも、自粛自粛で呆気なく終わった。私たちにとっては、相変わらずの日常に過ぎない。しかし、テレビも新聞もコロナ一色に染まり、友人知人と向き合ってお喋りする機会も乏しく、精神的な逼塞間は少しずつ淵に沈み込み始めている。生活に変化がないから、ブログネタにも少々悩む。
 若い恋人たちは、毎日の逢瀬もマスク越し、社会的距離を開けてデートでは切ないだろう。家庭内暴力や、果てはコロナ離婚の危機さえ話題になり始めている。
 追いつめられると、普段は隠されているものがあからさまに表に浮かび上がってくる。10ヶ月後、世界の出生率は上がるか下がるか……カミさんと、そんなか賭けをして笑い合ったりもする。かつて、ニューヨーク大停電の10か月後に、出生が急増したという歴史的事実もあるし……。
 カミさんとお喋りしながら、歳のせいだけでなく、少し苛立ち怒りっぽくなっている自分に気付く。怒りはアベにだけ向けていればいいものの、それさえもう飽き飽きして食傷気味である。

 断捨離……数百冊のアルバムの始末を始めた。娘たちや孫たちの成長の記録、数々の海外旅行やクルーズの思い出、山野草や虫たちとの出会い……残しておいても、いずれは捨てられる運命にある。数枚ずつ葬式用(?)に残し、思い切ってごみ袋に破り捨てる。昔のアルバムは重くて、扱いに難儀する。とにかく捨てる、捨てる。
 ここまで生きてきた痕跡を消し去るようで切ない思いはあるが、そんな思いで一枚一枚を見ていては埒が明かない。娘たちや孫たちの分は、いずれ本人たちに整理を委ねて、あとはひたすら破り続けた。肩や背中がバリバリいうほど断捨離を続けても、まだ数日は掛かりそうな量に疲れ果てた。

 こんな時は自然と触れ合うに限る。手近なコンビニお握りとお茶をショルダーバッグに入れて、カミさんと「交通費ゼロ」のミニピ・クニックに出掛けた。
 初々しい命誕生の「山笑う」春から、たくましく躍動を感じる「山滴る」夏へ移ろうこの季節は、呑み込まれるような緑の海である。カミさんペースで30分歩き、いつもの「野うさぎの広場」にシートを拡げて、お握りの包みを開いた。
 ここで笑えるハプニング……カミさんの分のお弁当を忘れてきた!仕方なく、お握りを一つずつ分けて緑陰のランチとする。カミさんは梅干し、私は日高昆布、幸い白菜の浅漬けと、薩摩揚げはふんだんにある。食べ終われば、あとはシートに寝転んで木漏れ日を浴びるひと時だった。
 風の音と、遠くで「ツピン、ツピン!」と初夏を弾くシジュウカラ、「一筆啓上仕り候!」と囀るホオジロ……吹き抜ける緑の風が額の汗を拭い去り、野生の静寂だけが私たちを包み込んでいた。

 大きな山蟻が這い上がり、剥き出しの腕や顔を擽る。シーパンの裾から脚に這いこんでくる不届きな奴までいて、なかなか転寝させてくれない。この季節、まだ藪蚊の襲来もなく、ゆっくりと時が流れた。
 広場の木漏れ日の下に、格好のマイベンチを見付けた。以前使っていた倒木はすっかり朽ち果て、もうベンチの用をなさない。今後は、この程よい切り株を、私の秘密基地のマイベンチとしよう。

 帰り道を、小振りのアオスジアゲハに送られ、ハンミョウが道案内してくれて、すっかり葉桜となった枝垂れ桜のトンネルを抜けて博物館の正面玄関に出た。休館が続き、今日も無人の空間である。どこからか、栗の花が匂ってくる……。

 朝の散策、買い物を合わせて、この日の歩数は13,000歩……時々、人工股関節であることを忘れる。シャワーを浴びて、「リオ・ブラボー」を観る。こうして、ミニ「脱日常」の一日が暮れた。
 遠くから「バイバーイ!」と叫ぶ女の子の声が聞こえてきた。心和む夕暮れだった。

 明けて、雨の一日の夜、遠くの杜でアオバズクが鳴いた。
                          (2020年5月:写真:木漏れ日のマイベンチ)