蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

キミ、誰?

2014年03月06日 | つれづれに

 啓蟄の朝、戻り寒波の冷たい風が吹いた。
 「歎異抄」講座最終講を聴いて奔る小雨の中を戻り、ナンとカレーの昼食を済ませた。ようやく日差しが戻った午後、しばらく放置したままの八朔の実を取り除き、落果した二つを新たに二つ割りにして庭の燈篭の上に置いた。そろそろ散り始めた満開の白梅の枝に、二匹のメジロの姿があった。こんな小さな花にも、メジロを惹き寄せる蜜があるのだろうか。隣り合って咲く紅椿と行き来するのを確かめてリビングに戻り、カメラを抱えて「映画・中村勘三郎」を観て時折涙ぐみながら、庭の気配を窺っていた。
 やがて飛来したメジロに、そっと窓越しに300ミリの望遠レンズを構えた瞬間、思わずレンズの中で目が合ってしまった!
 「キミ、誰?何してるの?」
 何という可愛さ、気恥ずかしくなるほどに大胆に、あどけない目をこちらに向けて何度か首を傾げたあと、安心したように八朔の実を啄みはじめた。
 40枚余りシャッターを落とした中の、クスクス笑い出したくなるような一枚である。啓蟄の日の見詰め合い。そういえば一昨日、久し振りに復帰した博物館ボランティア活動の帰り、湯の谷口の階段の辺りでウグイスの初鳴きを聴いた。見事に澄み切ったふた声だった。小さな春の寸描を重ねながら、季節がしっかりと移ろっていく。この戻り寒波も、やがて春風へと変わっていくのだろう。

 昨夜、待ち望んでいたマリア・ジョアン・ピリスのピアノコンサートに出掛けた。3年前に予定されていた公演が、東北の大震災と福島の原発事故の直後であった為であろうか、急遽来日中止となり、5年ぶりに実現した福岡公演である。家内と山仲間夫妻と4人、久々のアクロス福岡シンフォニーホールに座った。
 実は、5年前の2009年4月17日のコンサートのチケットを買いながら何故か私が行けなくなり、家内と山仲間の奥さんに行ってもらった経緯がある。その理由がどうしても思い出せない。多分、急な体調不良でもあったのだろう。そして、何故ピリスがこれほど好きになったのか、その理由が又思い出せない。家内と古い手帳を引っ張り出し、その頃のブログを呼び出して調べたが、どうしても分からないままである。
 12年前の2002年の手帳を開いたら、3月26日に、「コンサート」という記載があった。アクロスの過去のコンサートの記録をネットで調べたら、ソリストと九響シリーズ 「ピリスと九州交響楽団」とある。曲目はショパン「ピアノ協奏曲 第2番」とベートーヴェン「交響曲 第7番」 他。これだと思った。(思うことにした。確かな記憶がないのが情けない。)これまで聴いたどのピアニストより好きになったのは、きっとこのコンサートだろう。早速ショパンのノクターン11曲を弾いたCDを買い、その後ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」、「第2番」を求め、さらに来日中止になったのを惜しみながらシューベルトの「4つの即興曲作品90」、「142」を収録したCDまで買って、ピリスに聴き入った。

 昨夜の演奏曲目のひとつが、そのシューベルトの「4つの即興曲作品90」だった。ドビュッシーの「ピアノのために」、そして長い長い40分以上に及ぶシューベルトの「ピアノソナタ第21番」。譬えようのない繊細さと、激しさに圧倒された。絹糸を爪弾くような優しさ、子犬が転がるような軽快さ、そして獅子の咆哮のような猛々しさをない交ぜながら、情感豊かに謳いあげていく。「凄い!」というひと言に尽きる圧巻の演奏だった。
 ポルトガルのリスボンに生まれ、今年70歳になる女流ピアニストである。5年前に比べ、表情がふくよかで優しくなったと家内が言う。歳月は、時に人に厳しく、時に優しい。時の評価を選ぶことは出来ないが、優しく過ぎるように努力することは出来るだろう。

 メジロのつぶらな瞳に癒されて、今日も残り少ない博物館ボランティアに出掛けた。冬枯れの木立で、二羽のエナガが「チュルリ、チュルリ」と鳴きながら飛びまわっていた。
              (2014年3月:写真:目が合ったメジロ)