蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

沖縄戦後史の原点

2014年03月17日 | つれづれに

 いつかは書き残したいと思っていた。四半世紀前の述懐であり、時の為政者に対する不信が確定的になったきっかけでもある。
 不気味な足音を潜ませながら右傾化が進む今、金と権力に驕り、大震災の復興も原発事故の後始末も取り残して、再稼働だ、東京オリンピックだ、憲法解釈の変更だと、一党独裁の暴走が加速する中で、改めてこれを書き残したいと思った。懲りない権力者は、民の心をよそに、あの過ちを再び犯そうとしているのではないか?…そんな思いに慄きながら、これを残す。(その後見直された数値もあるが、敢えて当時のままに転記する。)

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 平成元年日浅い一日、初めて沖縄を訪れた社員を伴い、沖縄史の断面に改めて触れ直す機会を持った。
 ひとつには、これから沖縄との触れ合いを始めようとする彼に、美しい海、眩しい空、咲き誇る亜熱帯の花々等の「大自然」という表の面よりも、長く抑圧された歴史の中で培われてきた沖縄の「心」……それは、重く暗く哀しい面を持った裏の部分だが、むしろそこにこそ今日の沖縄の原点があるということを体感させたかったためであり、又ひとつには、私自身の本土復帰以来17年間の沖縄との関わり合いがいったい何であったのか、もう一度問い直してみたい為でもあった。
 夜来の雨が残り、沖縄にしては珍しく暗い空の下を、ガイド役の沖縄の社員二人と共に南部に向かった。
 先ず、小禄(おろく)の海軍壕……深く穿たれた壕の石段を一歩踏み下りた瞬間から、意識は一気に45年前の悲劇の沖縄戦に引き戻されていく。

 昭和17年6月5日、ミッドウエー海戦における大敗を機に一転して劣勢を見せ始めた日本軍は、南部太平洋海域の諸島を次々に失っていった。
 そして、やがて不可避とされた本土決戦の最後の防衛線として沖縄全島を要塞化し、ここを不沈基地とすべく、15の飛行場と7万7千の沖縄守備軍の将兵を配した。
 太田司令官率いる海軍部隊は、沖縄決戦に先立つ一年半前から、小禄飛行場に程近い丘を人海作戦によって深く掘り下げ、ここを司令部とした。
 しかし、十分完成を見ないうちに、既に昭和19年6月15日にサイパンを陥していた連合軍機動部隊は台湾沖まで侵攻、10月10日、艦載機数百機をもって那覇に大空襲をかけ、僅か一日にして那覇の街の九割を壊滅させるに至る。制海権・制空権は、この時点で既に連合軍機動部隊に完全に奪われていた。報復を期し、鹿児島県鹿屋基地を飛び立って台湾沖に向かった特攻機数百は、遂に一機も戻ることなく、波間に散っていった。

 昭和20年3月、空母40隻、戦艦18隻、その他艦艇1450隻が沖縄本島を包囲し、珊瑚礁の海を埋め尽くす。3月24日、南部島尻地区に艦砲射撃を開始、これを陽動作戦として、26日に那覇西方海上の慶良間(けらま)諸島に上陸した連合軍は、揚陸した野砲を本島に向け、艦砲と呼応しつつ地獄絵のような烈しい砲撃を展開する。この時、逃げ場を失った慶良間諸島では、悲惨な住民集団自決が頻発していた。
 やがて、18万の攻略部隊(補給部隊を加えると実に45万の圧倒的兵力)により、中部・北谷(ちゃたん)に無血上陸を果たした連合軍は、沖縄本島を南北に分断、沖縄決戦「殺戮の三ヵ月」が開始される。
 北部・国頭(くにがみ)方面掃討の一部を除き、主力部隊は日本軍の首里(しゅり)司令部を守る強固な防衛陣の攻防に向かい、やがて首里を陥した連合軍は、撤退を続けるに日本軍を追って、一気に南部・島尻(しまじり)方面に進撃する。統率を失った生き残り3万の将兵、戦火に追われた十数万の住民を僅か7キロ四方の喜屋武(きゃん)半島に追い詰め、ここに「鉄の暴風」と後世に言う地獄のような無差別掃討作戦が展開されることになる。この間、沖縄救援に向かった海上特攻艦隊は、戦艦「大和」以下5隻を4月7日鹿児島南方海上に失い、空海共に分断された沖縄は既に孤立無援の状況にあった。
 6月だけでも680万発、一人当たり52発という砲弾の雨、そして梅雨期の豪雨と暑熱の中、琉球石灰岩の沖縄南部に数多く点在する鍾乳洞(ガマ)に隠れ潜みながら逃げ惑う兵や住民を、火焔放射器、黄燐弾、ガス弾、手榴弾が襲い、加えて日本兵による住民虐殺や強いられた集団自決という修羅の戦場地獄絵が繰り広げられていった。
 そして6月23日、摩文仁(まぶに)の丘の頂き近い小さな司令壕における牛島中将、長参謀の自決をもって沖縄守備軍は壊滅し、北谷上陸84日をもって戦いは終わった。

 本来の戦いの原則から言えば、首里司令部壊滅の時点(5月22日)で沖縄戦は終結すべきであった。しかし、やがて必至とされた日本本土上陸に備える防衛準備の時間稼ぎとして、住民を含め最後の一人まで戦い続けることを強いられたところに、沖縄戦の悲劇があった。

  「一木一草トイヘドモ、コレヲ戦力化スベシ……」

 又、全島要塞化の為に住民が戦争準備に総動員され、防衛隊、学徒隊、女子看護隊等、結果として軍の機密に触れることになり、これが降伏より死を、そして防諜という大義名分のもとに目を覆う住民虐殺や強制集団自決をもたらし、「ひめゆり隊」「健児隊」等の悲話を生み出すことになる。
 沖縄戦の悲劇、そして戦後史における沖縄県民の本土に対する複雑な感情の原点、それは本土の為に捨石にされた、まさに悲劇としか言いようのない心の原点であった。
 戦死者・正規軍6万6千人に加え、沖縄出身の軍属・戦闘参加者・一般住民12万2千人、戦後の餓死・病死者を加えると、実に県民の四人に一人が「戦さ世(いくさゆ)」に奪われていった。正確な死者の数はいまだに把握されないままに、既に歴史の彼方に埋もれようとしている。

 昭和21年1月21日、GHQ覚書により、北緯三十度以南の南西諸島は日本と行政分離された。「アメリカ世(ゆ)」始まる。
 昭和27年4月28日、講話条約が発効。しかし、北緯29度以南の南西諸島は、そのまま米軍施政権下に置かれた。

 こうして、沖縄を極東最大の恒久軍事基地として残したまま、日本は独立国として復権していった。
 かつて中国・明と日本の両国に朝貢して生きてきた琉球王朝は、17世紀に薩摩の侵略を許し、明治政府による「琉球処分」を受けて王国から県になり、第二次世界大戦では本土防衛の捨石として血を流し、更にその沖縄を切り捨てて日本は復興していった。
 昭和47年5月15日の本土復帰で、ようやく「大和世(やまとゆ)」に辿りついた県民の複雑な心情を、私達本土の人間「大和人(やまとんちゅ)」はいったいどれだけ汲み取ってやることが出来たというのだろう。
 沖縄政策の原点は、この歴史の理解の中にこそある。そしてそれは、時たま訪れる「旅行者」の目ではなく、「生活者」の目で見ない限り、決して見えてはこない部分なのだ。
 
 旧海軍壕の石段を、深く踏み下っていく。壕の地肌には当時の鍬やツルハシの跡がそのまま刻まれ、司令室、作戦室、士官室等が横穴のように穿たれてい
る。
 壕に立て篭もる4千余りの将兵、やがて来る玉砕を予感しつつ立ったまま眠り、傷つき、火焔に焼かれ、爆風に叩かれ、ただ死ぬことにしか意義を見出し得なかった者たちの重苦しい呻きが、地の底に満ち溢れている。
 
 6月13日の部隊全滅と自決を前に、太田海軍司令官は6日、最後の訣別の言葉を打電した。その末尾に、いまひとつの戦後史の原点とも言うべき一節がある。「何よりもの恐怖は、連合軍でもなく、飢えでもなく、友軍による虐殺であった」と言わしめる軍と住民との関わり合いの中で、一司令が見せた心情がどれだけ本物であったか知るすべはないが、戦後の本土復帰を経て、更に今この時点でさえ、県民感情を支配する重要な視点となっていることを忘れることは出来ない。

 「……陸海軍沖縄ニ進駐以来、終始一貫勤労奉仕、物資節約ヲ強要サレ御奉公ノ誠ヲ抱キツツ、ツイニ報イラレルコトナクシテ、本戦闘ノ末期トナレリ。ヤガテ沖縄ハ一木一草焦土ト化セン。糧食ハ六月一杯ヲ支ウルノミナリトイフ。沖縄県民カク戦ヘリ。県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」

 清和源氏・源為義の八男・鎮西八郎為朝は、1156年保元の乱に敗れ伊豆大島に流された。やがて島を逃れた為朝は、1165年沖縄本島北部・今帰仁(なきじん)村の運天(うんてん)港に漂着、大里按司(あじ)の妹・おみおと情を通じ、尊敦(そんとん)・後の舜天王(しゅんてんおう)を生んだ。……伝説による、琉球王朝の始まりである。薩摩藩が侵略を正当化し、住民を帰順させる為に作った伝説とも言われるが、その根拠の是非を問うのは今は措いておこう。素直に受け取り、この伝説の底に、沖縄県民の日本本土に対する、切ないまでの魂の回帰願望を感じ取るのにとどめておきたいと思う。

 後世県民に対し、私たちは何を為し得たのだろう。見捨てられた歴史の漂民として、かつて大晦日の夜、県北端の辺戸岬(へどみさき)から奄美・与論島と狼煙を交わしつつ本土復帰を祈った県民に対し、復帰後私たちはいったい何を為し得たというのだろう。
 27年間待ち続けた筈の本土復帰も、決して素直に喜びを吐露できるものではなかった。復帰間もない初の訪沖の折、その歓迎の宴席で一人の若者が立ち上がって歌い始めた。

    ♪唐(から)の世(ゆ)から 大和(やまと)の世(ゆ)
     大和(やまと)の世(ゆ)から アメリカ世(ゆ)
     ひるまさ(何度も)変わる
     この沖縄(うちなー)……♪

 歌詞も節回しも、もう記憶が薄れているが、時の為政者の思惑で転々と国籍をたらいまわしされた歴史の漂民の哀しみを、叫ぶように歌い、浴びるように泡盛を呑む若者の姿に、いたたまれぬ思いをしたことを今も忘れることが出来ない。
 これが、その後の17年間にわたる私と沖縄との関わり合いの始まりだった。

 思いを断つように海軍壕を去り、裏手の巨大な亀甲墓を見た後、かつて一年半住んだ懐かしい豊見城(とみぐすく)の住居の前を走り、糸満(いとまん)経由南部戦跡に向かった。
 成人の日から明日に続く連休で、ここも観光客が溢れている。「ひめゆりの塔」そして「摩文仁(まぶに)の丘」……ようやく日差しを取り戻したかつての戦場は、ハイビスカス、ブーゲンビリア、ポインセチア等原色の花が咲き乱れ、整備された各県の慰霊碑がやたらに明るかった。 悲劇が美談となり、血と膿と泥と火薬の匂いにまみれた地獄が、観光の為に美化されている。……何かが違う、何かが間違っている……そんな違和感が次第に高まってくる。「戦さ場(いくさば)」の跡が「観光」であっていい筈がない。

 摩文仁の頂を経て、牛島中将自決の最後の司令壕の脇から、急な崖下を巡る長い石段を下る。決して観光バスが来ないコース、薄暗い径を一気に下ったところに、「健児の塔」の裏手に潜む壕がある。火炎放射器に焼かれ、壕の一部には今も黒い影が消えない。ガジュマルの気根がもつれ下がる昼なお暗い木立の奥のたたずまい。摩文仁の丘の明るさに対比して、その明暗の落差に戸惑う思いがあった。

 摩文仁の丘の麓をひと回りして戻った所に「県立平和祈念資料館」がある。二年がかりで展示の在り方を討論し再開したこの資料館を初めて訪れ、全ての言葉を失ってしまった。
 入館するといきなり眼前に錆び付いた無数の兵器のスクラップの山が現れる。それがオブジェ「戦さ世(いくさゆ)の傷跡」……この第一展示室で沖縄戦の経緯を知って、第二展示室「戦場の住民」に導かれる。「鉄の暴風」「死線をさまよう」「ガマ」「住民虐殺」そして「集団自決」……目を覆いたくなるような実写と文字に、座り込んでしまいたくなるような衝撃があった。
 しかしその衝撃も、第三展示室「証言の部屋」の無言の告発の迫力には遥かに及ばない。黒布に包まれた広い部屋に、住民達の証言の数々が大きな本の体裁で幾つも開かれ、その上にスポットライトが静かに光を落としている。
 言葉なくページをめくり、読み進んでいく。他に類を見ないその展示が、恐ろしいほど鮮明に「戦さ世(いくさゆ)」の惨を語り掛けてくるのだ。その衝撃の深さを、これ以上語るすべを知らない。行って、その部屋に立て……そう言うしかないのだ。

 ひとつの疑問が残る。年間二百万を超える観光客が南部戦跡を訪れる。それなのに、この資料館の入館者は年間5~7万人。この日も摩文仁は観光客の雑踏だったのに、館内は私達4人の独り占めに近い静寂だった。
 後世に知らしむべき歴史の証言、そこに近寄ろうとしない観光バス……このことはいったい何を意味するのだろう。本土から来る心ない物見遊山の観光客に、まだ血を流している傷跡に触れて欲しくない……沖縄の人々のそんな思いがここを聖域に保っているのだとしたら、私達は「沖縄観光」に改めて襟を正さなければなるまい。

 打ちのめされ、さまよい出るように資料館を後にした。その後訪れた「玉泉洞」や「守礼の門」「玉陵(たまうどん)」は、もう付け足しでしかなかった。
 17年間の関わり合いでかなり知ったつもりでいた沖縄、そんな自負心を微塵に砕かれた思いで、一日を終えた。わかったつもりでいて、実は何もわかっていなかったのかもしれない。私にとって、17年間の沖縄はいったい何だったのだろう。
 安易に同情を問うものではない。厳然とした事実、歴史の真実を正しく捉え、冷静に理解し、そこを原点として本土と沖縄との関わり合いを見詰める……そこから沖縄への接し方を考えていかなければ、決して答えは出てこない。そして、歴史への償いは、かかっただけの時間をかけ直さなければならないのだ。
 沖縄の心……文化という意味でも、日本のひとつの母国である琉球……通り過ぎる「旅人」としてではなく、「生活者」の目で見て欲しいという意味はそこにある。

 那覇発福岡行き最終便は、夕暮れの空港を飛び立った。かつての「戦さ場(いくさば)」の跡は、既に深い夕闇の底に全てを包み込み沈ませていた。
                           (1989年1月15日 記)
   

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                (2014年3月:写真:変わらぬ沖縄の海)