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蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

体内時計の不思議

2013年07月10日 | 季節の便り・虫篇

 一羽のアオサギが「ギャッ、ギャッ」と鳴きながら、夕日の最後の残照を翼の下に受けて南の空を渡っていった。梅雨明け後の酷暑を引き摺った黄昏は涼風とは程遠く、早目の夕飯を終えて片付ける額に容赦なく汗が滴る。

 今年も小学生を集めて開く「夏休み平成おもしろ塾」が近付いた。12年目を迎え、「塾長、老いたり」と自嘲しつつも、ボランティアとしてここまで続けられた果報を思う。ご町内のお年寄りの技を借りながら、お習字、お点前、大正琴、野の花の生け花、飯盒炊爨、火吹き竹体験、西瓜叩き、将棋、五目並べ、竹とんぼ飛ばし、割り箸鉄砲作り、ゲーム、九州国立博物館バックヤード・ツアー、町内探検と地図作り、夏野菜カレー作り、戦争体験語り、畑の野菜採り体験…幾つもの試みを、子供会のお母さんとお父さん達が惜しまず力を貸してくれて、いつしかこの塾は子供会主催に発展していった。第1回の生徒は既に社会人、鬼籍に入った先生方もいる。「わがまち」の一つの歴史である。
 そんな中で、欠かさず続けてきた一つに、「塾長先生の昆虫講座」がある。「怖い!と思ったら、逃げないで一歩近づいてよく見てご覧。きっと可愛いと思うようになるよ」そんな話で、何人もの虫好きの子供たちを育ててきたという自負がある。脱皮したばかりのカマキリが、抜け殻と対峙している姿を畑で見せたのが始まりだった。
 
 今年は「脱皮するセミの連続写真を参加賞にしよう」と決めた。そして、脱皮が始まったらお母さんたちに知らせて、希望者だけ我が家の庭に集まって、特別講座「セミの脱皮鑑賞会」を開こう。
 黄昏時から鳴き始めたヒグラシの声が漸く鎮まった8時半、盃一杯の梅酒でホロホロした気分で庭に降りた。毎年、八朔の根方から這い上がったセミが脱皮を繰り返し、ひと夏で40個ほどの抜け殻を残していく。アブラゼミ、ヒグラシ、そして最も多いのがクマゼミである。今年もその季節が来た。
 セミは、深い地面の下にいて、どうやって日暮れを知るのだろう?生物の体内時計の不思議さには、いつものことながら心がときめく。もう既に2匹のセミが枝先の葉末で脱皮の体制にはいっていた。

 その1匹に狙いを定めて低い木の椅子を持ち出し、両膝に両肘を三脚に見立ててカメラ位置を定め、撮影の体制を固めた。しっかりと葉にしがみついて、耐えるように動かない時がしばらく続いた。懐中電灯の灯りで捉え、息を凝らして待ち続けた。幸い、今夜は藪蚊も寄ってこない。
 いつの間にか背中が縦に割れて、せり出すように頭が伸びあがってきた。じりっ、じりっと上半身が乗り出してくる。風もないのに、その葉だけが微妙に揺れるのは、殻の中で懸命にせりあがる力をかけているのだろう。産みの苦しみさえ感じさせる、命誕生のドラマの始まりだった。前足が出る、らせん状に巻き込まれている鮮やかな緑色の翅が出てくる。やがて徐々に頭を下に海老反りになって垂れ下がった。そのままの姿勢がしばらく続く、後ろ脚はまだ殻の中でしっかり掴まっているのだろう。螺旋がほどけるように、緑の翅がゆっくりと拡がっていく。
 ある瞬間、一気に頭を持ち上げて下半身を抜き、前足で殻にしがみついた。それからの翅の伸展は、目を見張るように速い。翅脈を輝かせながら、体液がみるみるうちに翅を伸ばしていく。最も感動的なひとときである。

 こうして、ストロボを焚き続ける1時間半の命誕生のドラマが終わった。伸びきった翅の美しさは、もう譬えようがない。明日の朝、飛び立つ瞬間を確認するまで断定は出来ないが、多分クマゼミ、そして胸の共鳴板の大きさから、間違いなく雄である。
 2匹のクマゼミの無事な誕生にふっと溜息をついて、この夜のドラマに別れを告げた。

 「夏休み平成おもしろ塾参加賞」は、こうして一夜にして完成した。
              (2013年7月;写真;クマゼミの羽化)

<追記>
 翌朝5時に起きて、羽化の現場の枝先を見上げた。そこには、すっかり乾ききって色づき、飛び立つのを待つ精悍な姿があった。紛れもなく、クマゼミの雄だった。そっと指先に挟んで、くぐもったクマゼミ特有の鳴き声を確認して枝先に戻した。
 4時間後、「ワ~シワシワシワシ…」と元気に鳴きはじめた。我が家の庭での初鳴きである。