イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

BIR HAFTA SONU(ビルハフタソヌ=ある週末)

2007-02-03 19:55:43 | 


小春日和のある週末の一日、朝寝坊をするのもいいけれど早起きをしてちょっとした小旅行ができるのもイズミル暮らしならでは。
今回私達はイズミルからイズミル湾に沿って北西へ70キロあまりのところにあるFoca(フォチャ)を目指しました。何となく以前から気になっていたFoca、夫にとっては遠い昔にFocaで夏の間キャンプをしていた今は亡き伯父さんを訪ねたことがあると言う思い出の地。


水の中をのぞいてみると!なんと!!ウニが!!!びっしり。春先にウに獲りに来なければ!

歴史の父ヘロドトスはトロイ戦争について調べるためにこの辺りを訪れ、祖国に戻った後で「フォチャの人々は我々が知っている限りこの地球上の最も美しい大空と気候のもとに都市を築いた」とその著書の中で書いたそうです。
そのフォチャを築いた人々と言うのは紀元前600年以前のフォカイア人、フォカイアというのはこの辺の海で見られる地中海モンクアザラシ(Phoca)から取られた名前のようです。このアザラシ、既に世界で400頭とも言われている珍しい種類なのだそう。



フォカイア人は優れた船乗り、商人であり50本のオールを持つ500人乗りの船でエーゲ海、黒海、地中海を渡り歩き現在のサムスンを初め各地で植民地を築きました。フランスへアルファベットをもたらしたのもフォカイア人だとか。様々な文化を各地へもたらしその貨幣はあらゆる場所で使えたのだそうです。ところがさすがのフォカイアもペルシャの進攻を止めることはできませんでした。ペルシャ軍の将軍ハルパゴスに降伏をする為に1日の猶予を求めたフォカイア人、翌朝ハルパゴスが明け渡しを求める為にフォカイアの街に入ってみるとそこには1匹の犬がいるだけで人っ子一人いないもぬけの殻であったそうです。奴隷になるよりは祖国なき海の民の道を選んだフォカイア人たちは夜のうちに地下に掘ってあったトンネルを使って重要な荷物共々船で大海へと旅立っていったのだそうです。


役場も港に面して建っていました。右側の建物。

と行く前にこんなにわか勉強をして既にフォカイア人の勇壮なロマンにうっとりしながら行ったフォチャの町に私は完全に魅了されてしまいました。夏の間は観光客でレストランに席を見つけることすら難しいそうですが、冬の柔らかい日差しの中でのんびりと散歩をする人々の顔はみな穏やか。小さな港沿いの道で釣り船や夏の間島巡りをする観光船を見たり、裏道に入って石畳の上をギリシャ風、オスマントルコ風の古い石造りの洋館を見てぶらぶらするだけでも幸福感を充分に蓄えることができました。


シーズンオフのひとけのないレストランもまた風情があります。

Focaは、隣接したもう一つの町YeniFoca(新フォチャ)と区別するためにEskiFoca(旧フォチャ)とも呼ばれます。遅めの昼食はYeniFocaへ行ってみようかと車を走らせましたがこちらはもう少し小さい新興のリゾート地といった風情で特に見るものもなくやっぱりEskiFocaがいいねとまたUターンをしました。まさにFocaには一度でもFocaを見たならFocaを好きにならずにはいられない、そして再び戻らないでいることは不可能だという伝説(長くなるのでここには書きません)があるそうです。今回私達もはからずもその日のうちにその伝説を実践してしまったわけですが、夫もその昔伯父さんをFocaに訪ねた翌年、クシャダスで夏休みを過ごしたのですが、やはりFocaが懐かしくなってバスに飛び乗ってFocaまで来て、チャイを飲んでまたクシャダスへ帰ったと言う思い出があるそうです。

不思議なFocaの物語でした。





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