イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

ASANSOR満100歳!

2007-02-20 00:25:37 | イズミル暮らし・イズミル案内

現在のアサンソル。

私が住む地区のシンボル的な存在であるASANSOR(アサンソル=エレベーター)については以前も一度書きましたが、このアサンソルが今年満100歳を迎えるそうで「YENI ASIR」と言う地元新聞で特集の記事がありました。現在は大変な住宅密集地であるアサンソル界隈のかつての写真を見てノスタルジックな感慨にふけってしまいました。

   
現在は海岸通からアサンソルを望むことは高層アパートにさえぎられてできなくなりました。右の写真の左上にアサンソルが見えます。


かつてイズミルでは主に2つの地区が「ジュデリア(ユダヤ人地区)」として使われていたそうです。15世紀の宗教裁判で祖国を離れなければならなかったユダヤ人たちがスペインからオスマン帝国へと移住をした地域の一つがエーゲ地方、主にマニサでした。
かつて 「Şehzade Şehri(スルタンの王子たちの街)」として栄えたマニサやアイドゥンに比べてイズミルはかなり小規模で重要ではない街と考えられていたようです。しかし沿岸都市ということから17世紀頃にヨーロッパの投資家、商人がイズミルを港湾都市、荷積みの中心地として注目しだした結果、イズミルの運命は大きく変わり急激に発展をし始めたのです。その為、アイドゥンやマニサの重要性は薄れ、マニサのユダヤ人社会の大部分がイズミルに移住し重要な商業コロニーを築いていきました。






このようにして最初にユダヤ人たちが移住してきた「第一ジュデリア」は、現在のイズミルの中心的商店街として有名なケメルアルトゥの辺りでした。この地区の人口が急激に増加し始めると次第に新しい居住地が探し始められます。鉄道に沿った地域に新しい居住区が広がると同時に18世紀には沿岸に新たに造成開発され始めた地域にユダヤ人たちが注目をし、現在海岸通りに平行に走るMithat Paşa (ミトハトパシャ)通りとうちのアパートが面しているHalil Rıfat Paşa(ハリルルファトパシャ)通りにはさまれた地域は「第二ジュデリア」としてユダヤ人たちの定住が進みました。




ちょうど同じような角度でイズミル湾方面を写した写真がありました。


この辺りの定住が進み人口が増えるにつれ、ミトハトパシャ通りとハリルルファトパシャ通りの住民の生活の便宜の為に多くの階段が作られました。しかし急勾配の階段は住民達にとって悪夢以外の何ものでもなく、ついに1907年にユダヤ人実業家Nesim Leviさんがこの不便さを解消しようとイタリアから連れて来た技術者達とのプロジェクトによって、かつて鉱山だった場所にアサンソルを建築するのです。


見えにくいですが、鉱山の名残が真ん中辺にギザギザと黒っぽく見えます。ここが現在のアサンソルのある場所です。


かつての鉱山の面影は・・・。

第一次大戦の頃、このアサンソルは下が賭博場、真ん中が写真館、上が映画館として使われていたそうです。今はただアサンソルがあるだけ、かつての姿をしのぶものは上にオープンした「Asansor Cafe」だけです。


アサンソルを降りると音楽家として有名なダリオ・モレノが住んだことから名づけられたダレオ・モレノ小径があります。

今でも、ミトハトパシャ通りに一つ、ハリルルファトパシャ通りに一つシナゴグ(ユダヤ教会)が残っていますし、このちょうど「第二ジュデリア」と呼ばれていた辺りには地元の人が「Rum evi(ギリシャ人の家)」と呼ぶ洋館が数多く残っています。Rum eviと呼んでいますが多くはユダヤ人達の住まいだったと言うことでしょうか。市の文化財として認定されているが為に現在の持ち主は好きなように改造もできず朽ち果てている家が少なくありません。放火されたり時の流れとともに崩れてしまった為、浮浪者や不法住人、シンナー常用者の溜まり場になっているような家もあります。かつての美しいイズミルはどこへ行ってしまったのでしょう。


ハリルルファトパシャ通りに面して残るRum eviの廃墟の一つ。壁だけが残っています。



白黒写真はこちらからお借りしました。年代に多少の差があると思いますがご容赦を。
http://wowturkey.com/forum/viewtopic.php?t=3234




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