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イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

SEYTAN SOFRASI(シェイタンソフラス=悪魔の食卓)

2008-10-25 00:06:20 | 

CINARLI CAMII(チュナルルジャーミー)は、ギリシャ人が住んでいた頃は
AGIOS YORGOS(アギオスヨルゴス)教会でした。


日本からの友達と一緒のイズミルツアー第二日目は、またまた私のお気に入りの「AYVALIK(アイヴァルク)」へ。イズミルに住むようになってから確か5回目の訪問になります。ぎりぎり日帰りができる距離であること、街がそれほど大きくなく歩いて回れること、古い石畳とギリシャ風の建物が残っていて異国情緒にあふれること、そして何よりも海が美しく、きれいな松の木の緑がとびきり青空に映える場所であることが私のお気に入りの理由。


SAATLI CAMII(サアトルジャアミー:時計のあるモスク)は、
かつてのAGIOS YANNIS(アギオスヤニス)教会。



左右に見えるのは荷馬車の荷台。まだまだ荷馬車が現役です。


AYVALIK周辺はオリーブ製品の一大生産地。
イズミルを抜けてAYVALIKまでの道を車で走っているとオリーブ工場のにおいが強烈です。


まずは車を駐車してAYVALIKの街並みを散策。写真を写すことが好きな友達は、好みの被写体を見つけると糸の切れた凧の様になって(ごめん)あちらへすーっ、こちらへさーっと消えていきます。AYVALIKの通りはくねくねと迷路のようになっているので一つ道を曲がってしまうともう姿が見えなくなります。
どこへ消えたのかうろうろと後ろを追いかけながらもなんだか友達が喜んで写真を写しているそんな姿を見るのが嬉しいのでした。


トルコでは魚の新鮮さをアピールする為にえらを見せて売っていることも。

今回の大収穫はこれですこれ!写真の真ん中辺にやる気なさそうに転がっている赤っぽい瓶が見えますか?なんだと思いますか?これ、ウニなんです!以前「FOCA(フォチャ)」へ行った時も岸壁に海がびっしり張り付いていたのを舌なめずりしてみていた私、TVでAYVALIKにはトルコでただ一人ウニをむく(?)おじさんがいると紹介していたのを見て「ウニ」「ウニ」「ウニ」…と夢見ていました。前に来た時も魚市場やレストランで訊ねたのですが「特別なレストランに卸しているだけで小売はしていない」と言われたものでした。
今回写真撮影のために寄ってみた港の魚市場、こんなに無造作に放ってあったけれど見逃しませんでした。突進しながらも高かったらどうしようと夫に話しながら「10YTL 以下だったら買うから」と小声で宣言してから値段を聞くと、「10YTL!今届いたばかりだから新鮮だよー」と私の小声を聞いていたかのような返事。即決でした。


CUNDA ADASIの倒れそうな教会跡。


SEVIM VE NECDET KENT KITAPLIGI


CUNDA ADASI のある家の玄関で。

AYVALIKと橋で繋がっているCUNDA ADASI(ジュンダアダス=ジュンダ島)では、前回遠くから眺めただけだったDEGIRMEN(デイルメン=粉引き小屋)を見に行ってみました。2007年の8月にトルコの財閥ラフミコチ氏の「コチ美術館文化財団」によりきれいに修復・復元された「SEVIM VE NECDET KENT KITAPLIGI(セヴィム&ネジデト ケント図書館)」とのことでした。NECDETさん(SEVIMさんは妻)と言うのは第二次世界大戦時にフランスはマルセイユのトルコ総領事としてユダヤ系のトルコ人達がアウシュビッツへ送られるのを救ったトルコのシンドラー、杉原千畝のような人物であったようです(ちなみにこの方の息子であるMUHTAR KENT(ムフタルケント)氏は、2007年7月にザ・コカコーラ・カンパニーの社長兼最高執行責任者に就任しています)。あいにくこの日は休館日、ここからの景色だけでも充分行った価値はありましたが。


SEVIM VE NECDET KENT KITAPLIGIから眺めた小さな島には修道院跡が。見えますか?

この日、一番友達に見せたかったもの、それは「SEYTAN SOFRASI(シェイタンソフラス)」の景色、そしてそこに沈む夕陽でした。トルコで私が好きなMANZARA(マンザラ=景色)ベスト5に入ること間違い無しのお薦めポイントです。写真では本当に素晴らしさを感じていただくことが難しいのです。あの場所であの空気を吸いながらぜひいつか眺めて頂きたい…。









食卓のような形の地形のせいで「悪魔の食卓」などと呼ばれるようになったのでしょうか。眉唾物もいいところですが、「悪魔の足跡」まであるんですよ。ずいぶん大きくてこの悪魔は靴を探すのがさぞ大変だったと思いますがこれはまあ観光地につき物のご愛嬌でしょうか。でもここに座ってこの景色の一部になって見ると、悪魔達が食卓を囲んでいたのもうなずけるような気がしてくるのが不思議です。






世界を旅する「不思議な世界旅行さん」のブログ。ただいまトルコシリーズ絶賛公開中!
すばらしい写真満載です。これだけ宣伝したら何か出るかな?
  








☆現在のイズミル☆




IZMIR´E HOS GELDIN(イズミレ ホシュゲルディン=イズミルへようこそ)!

2008-10-20 23:19:33 | 
待ちに待った友達の来土、何ケ月も前から楽しみにして、来たらあそこへ行こう、あそこも見せたい、あそこもはずせないし、食べ物はこれを作ってなどとずっと歓迎モード全開で過ごしていたのに、実際当日になると、考えていたことの半分もできずに心残りがたくさんです。


ダンボールに詰まった救援物資。

イズミルのアドナンメンデレス空港に降り立った友達はスーツケースのほかにダンボール一箱を抱えていました。ダンボールの中身は、頼んであった薬や日用品、そしてお土産色々。トルコへ旅行をしていた頃の私は、いかに荷物を減らすか、そして身軽に旅をするかに腐心していたのに、友達にはこんなにたくさんの荷物を持たせてしまって反省。本当にありがとう。


雨上がりのILDIRIの海岸。

1年ぶりに会ったような気もせず、ちょっと久しぶりといった感じのおしゃべりで夜は更けます。翌日はぜひあの景色を見せたいと言う夫たっての希望でILDIRI(ウルドゥル)の「MANZARA CAFE(マンザラカフェ)」へ。朝から珍しく雨模様のイズミル、ILDIRIへ近づくにつれ雨雲も近づいてそのうち土砂降りになってしまいました。ところがILDIRIに着く頃には雨も上がりすがすがしい青空が広がったのです。


このカフェでは手作りのエンギナル(アーティチョーク)のジャムなるものを売っていました。
買う勇気はなかった。


もうMANZARA CAFEのシーズンもおしまいだろうと夫にしては珍しく前日に営業しているかどうかを確認して出かけたのです。でもやっぱりここはトルコ、10時過ぎに到着したのですが、お店は閉まっていて人の気配なしです。あんなに感激したここからの風景も減点です!地元の人に教えてもらった場所でようやくKAHVALTI(カフヴァルトゥ=朝食)を食べることができました。


ERYTRAIの遺跡からILDIRIの港を眺める。

友達は歴史大好き、遺跡大好き。ILDIRIも古代「ERYTRAI=エリュトライ」と呼ばれていた頃の遺跡が残っています。写真ではよく見えませんが畑のあぜ道を通り抜けると劇場跡や教会跡、墓地跡などが残っています。


教会跡。


円形劇場跡。すり鉢状の座席の遺構が見えますか?

ここからCESME(チェシュメ)までは20km、せっかくなのでCESME在住の日本人友達を訪ねることに。2年ぶりに会った友達はちっとも変わっていなかったけれど、旦那は1.5倍くらいになっており(特におなかのあたりが)、ビルテンと同い年で会うことをとても楽しみにしていた長女はすっかりお姉さんになって日本語もトルコ語も自由自在、去年生まれた弟はお姉ちゃんそっくりでした。


CESMEの港。


CESMEの城砦跡。

CESMEを後にして前回も通ったALACATI(アラチャトゥ)へ。今回は昔のDEGIRMEN(デイルメン=粉引き)を見ることができました。


かつてのDEGIRMEN、ホテルとして使われているようです。
写真をクリックするとホテルのHPが開きます。MENUからgaleriをクリックすると写真を見ることができます。



現代の風車(RUZGAR GULU=リュズギャルギュル=風の薔薇と言います)が遠くに見えます。

イズミルへの帰り道、先日イズミルの家を放って、アナアンネ(夫の義母)のお墓のあるCESMEALTI(チェシュメアルトゥ)に家を借りて引っ越したテイゼ(夫の叔母)夫婦の家へも立ち寄りました。



ここは夏の間GECE PAZARI(ゲジェパザル=夜市)で有名です。毎日21時ごろから深夜2時ごろまで小さな港にたくさんの夜店が出ます。この日は偶然今シーズン最終のGECE PAZARI、出ている夜店も少なく海っぱたなので風が吹きつけて寒いのと、YAZLIK(ヤズルック=サマーハウス)を引き上げた人が多いせいでお客さんもまばらでした。こうやってイズミルツアー第一日目は過ぎていきました。





CESME在住の日本人の友達の子供達。お父さんはトルコ人。
      






☆現在のイズミル☆




CAKIRAGA KONAGI(チャクルアァ コナウ=チャクル様のお屋敷)

2008-07-11 17:22:34 | 

山の上からBIRGIを眺める。

日曜日の朝にしては珍しくさっさと起きた夫、KAHVALTI(朝食)を食べながら「どこかへ行く?」と。「行く行く!でも行き先はどこでもいい!」私。協議の末行き先が二転三転、結局前日TVで紹介されていたODEMIS(オデミシュ)郡BIRGI(ビルギ)にあると言う「CAKIRAGA KONAGI」へ行くことに。ガソリン高騰の折、世界一ガソリン代が高いと言われるトルコですから、なるべく遠出はせず徒歩でつつましく…なんて思っていたのに、結局イズミルからODEMISまでなんと片道約150KMの遠出になりました。



ODEMISを車で走りながら「ここはイズミルの台所だ!」と実感。パザルで買う野菜や果物の多くはODEMIS産と書かれています。なるほど360度広がる畑の風景、そして全くムダに放ってある農地が見られないほど、どこも緑で生き生きと作物が繁っています。街角の電光掲示板では39度を示していましたからそんな時に作業をしている人はいませんが、それでも誰もいない畑には、働き者のODEMISの人たちの気配をひしひしと感じました。





車を走らせること2時間強、ODEMISから更に8キロほど東へ行ったBIRGIの街に入り、BIRGI川に沿ってすぐに「CAKIRAGA KONAGI」は見つかりました。







ODEMISのBIRGIに住むお金持ちの商人CAKIROGLU MEHMET(チャクルオウル メフメット)氏が1761年に建てさせたエーゲ地方の建築様式の建物で1950年までは個人の所有でしたが、その後住む人もなく建物は廃虚同然になってしまったようですが、1977年から修復が始まり1995年に一般に公開されるようになったそうです。




オリジナルの建物とは別の部分にかつての生活の様子が展示してありました。

3階建ての木造の建物でコ型の真ん中に開いたサロン部分、そして両側には部屋があります。1階はお客さんの待合室、使用人たちの部屋、家畜小屋、飼料置場があります。2階は天井が低く、冬の住居として使われたようです。5つの部屋とお手洗いがあります。部屋は客室や子供部屋などで、日の当たる明るい部分が客室、日の当たらないほうには果物を保管すると言う部屋もありました。









3階は天井が高く、夏の住居でしょう。ここは2つの居住区に分かれています。1つは「イスタンブルの部屋」もう一つは「イズミルの部屋」。一説によるとチャクルアァにはイスタンブル出身とイズミル出身の二人の奥さんがおり、二人がいつも故郷の景色を見て寂しくならないようにとそれぞれのパノラマを描かせたのだと言います。イズミルの部屋の日当たりが悪かったのがちょっと不満…。天井や壁には果物や花、景色がびっしりと描かれておりお金持ちのチャクルアァさんは家族を喜ばせたかったのかなあなんて想像してしまいました。


イスタンブルのパノラマ。


こちらはイズミル。日の当たらない部屋のせいかちょっと保存状態が・・・。



出発が遅かったので、街の中をぶらぶら出来なかったのが残念でしたが、ただこのお屋敷を見ただけでも大満足でした。トルコにしては(?)とても丁寧に修復がされており、200年以上昔の木造の建物なのに壁や天井の装飾もオリジナルの色そのままに美しく残っています。





土曜日には週に一度のパザル(青空市)がたち、生鮮品のほかに土地の女性たちが自分で持ち寄った手工芸品などが並ぶそうです。今度は是非土曜日に出かけなければ。




建物の裏側。左側のcafeでチャイを頂きました。




チャクルアァの妹さんのお墓だそうです。道の真ん中に取り残されています。

日帰りで行くにはもったいない魅力的な街ODEMIS BIRGI、もう一度是非訪れたい場所です。




cafeの壁にかかっていたひょうたん。
             






☆現在のイズミル☆

     

SARDES(サルデス)へ続く王の道

2008-06-03 11:17:35 | 

緑の線がスーサからサルデスへ続く「王の道」

アケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオス1世は紀元前5世紀に王都スーサからサルデスにいたる公道「王の道」を広大な帝国の迅速な交通と通信を容易にするために建造しました。



スーサから帝国遠隔の地のサルデスまでの 2,699キロメートル(1,677マイル)を7日間で旅することができたそうですから一日約385キロ、紀元前5世紀では高速道路も真っ青なまさに「王の道」だったことが伺えます。古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスも「この公道を利用したペルシアの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と記したそうです。



そのサルデスの遺跡が、このトルコエーゲ地方、イズミルのお隣マニサ県サルトにあります。「王の道」が出来る前、紀元前7世紀に興ったリィディア王国の中心がサルデスでした。アケメネス朝ペルシャのキュロス王に占領され紀元前547年にはペルシャ領になってしまうわけですが、世界で初めての鋳造貨幣「エレクトロン貨」を導入したことでも知られています。





壮大な歴史の舞台となったサルデスですが現在の姿はいたってのんびりとした綿畑が広がるエーゲの田舎…。まさに「兵どもの夢の跡」です。



  

ここを訪れたのは4年余りも前の暑い夏の日、まだブログも始めていなかったのでブログ魂(!)なんてものもなくぼーっとしていたのか写真も余りありません。遺跡は道路を隔てて二つに分かれており、一つはローマ時代に建てられたアルテミス神殿、もう一つはギムナシウムと3世紀に建てられたというシナゴーグ(ユダヤ教会)、復元されたモザイクや大浴場、商店街跡等が見られます。


山に囲まれた神殿跡、かつてはどんな光景が繰り広げられていたのでしょう。


かなり大きなショッピングセンターだったようですね。

肝心のリィディア王国の遺跡はどこに?と思われるかもしれませんが最後にサルディス遺跡の北西方面へ車で2時間余り綿畑の中を走ると道の左右にぽこぽこと巨大なモグラの穴のようなものが見えてきます。これが「BINTEPE(ビンテペ=千の頂)」と呼ばれているリディア王国の墳墓郡です。



360度さえぎるもののない(電線以外)台地に本当に1000個くらいあるんじゃないかと思われる墳墓郡が続きます。こんな写真ではその壮大さを感じていただけないのが残念ですが2000年以上も昔の王国の一体どんな人がこの墳墓の下で眠っているかと思うと、アルテミス神殿やきれいなモザイク跡よりももっと悠久の歴史を感じてしまいませんか?





最後に「サルデス」で検索をしていると「KAMRAN INCE」という作曲家による「交響曲第4番サルデス」というものがありました。このKAMRAN INCEはトルコ人とアメリカ人の両親を持つ1960年生れの作曲家で歴史を題材にした交響曲を数多く手がけているそうです。彼はアメリカ籍のようですがここにもまた世界で活躍するトルコ人がいました。KAMRAN INCEのHPから「交響曲サルデス」も視聴することができますので興味のある方はこちらからどうぞ。

  写真をクリックするとHPが開きます。



  




サルデスで綿摘みをする人々。
               






☆現在のイズミル☆




桃の花を探して

2008-04-05 15:33:43 | 


トルコで桜並木や桜吹雪を見ることはかなわないかもしれないけれど、桃の花が咲き誇る桃源郷ならあるかもしれないとこだわっている今年の春、「シリンジェの村へ入った途端に桃のにおいがした」というあるトルコ人のブログを見かけ「では!」とシリンジェ村へ出かけました。以前もご紹介しましたが「シリンジェ村」はイズミルから約80キロ、セルチュクというエフェス観光拠点の街から8キロあまり山の中へ入った小さなかわいらしい村です。





村の入口にありました!桃畑!!!そして桃の花はぽつぽつ…既に葉が出ておりあと一週間早ければ…という感じ。「来年また来ようね」と諦めない私に呆れ顔の夫。せっかくここまで来たのだからと村の中をお散歩しました。




村のあちこちで見かける共同のかまど。まだまだ現役です。



最初に訪れてから10年位の間に驚くほど観光化されてしまったシリンジェですが、相変わらず一歩裏道へ入れば「こんにちは」と声をかけてくれる子供たち、「家の中に入ってお茶でも飲んできなさい」と言ってくれるおばちゃん、のんびりと羊に草を食べさせるおじさん、と変わらぬシリンジェの素顔を見ることができます。







ブログではにおいをお届けすることが出来ないのが残念。薪を焼く煙や土のにおい、古い家の木のにおい、動物達のにおい、こういうにおいの中でタイムスリップしたような不思議な説明の出来ない何かを感じることが出来ます。









 
村の協同組合で製造しているワインや石鹸、オリーブオイルの販売所。

名前のわからないさまざまな花が咲き誇りいまや春爛漫、私たちは午前中に出かけたのですがお昼すぐには続々と観光客が訪れ始め皆さん笑顔で散策を楽しんでいました。

お花に詳しい方、何の花かわかりますか?

 りんごの花かなあ。





 
この花は本当にかわいらしかった。

 
これは帰り道イズミルの街に入ってから見かけました。思わず車を止めて撮影。

「桃始笑」ではありませんが、見知らぬ人達であってもおだやかな笑顔を見るっていいなあと思った一日でした。






シリンジェ村の入り口からオレンジ畑越しに眺めるセルチュク城址
         






☆現在のイズミル☆


DUZCE(デュズジェ)2

2008-01-21 10:54:05 | 

GUZELDERE SELALESIへ行く途中にあるEFTENIGOLU(エフテニ湖)、湿原のようです。

日本からトルコへ戻って二日目、この日はイズミルまで戻らなければなりません。なんとしても晴れてもらって念願の「GUZELDERE SELALESI(ギュゼルデレ滝)」を見なければ。願いがかなったのか朝ホテルの窓から外を眺めると真っ青な空に太陽、地面からは湯気がぽっぽと上がって雨上がりのDUZCEはぴかぴかに輝いていました。



ホテルで道を聞いて出発したものの、ドライバーは方向音痴の夫、すぐに違う道へ…。でもこれは「ジャーミー(モスク)の角を曲がって」と言われたからです。トルコにジャーミー、日本のコンビニのようにあちこちにありますから。夫は方向音痴ですが野生の感があるのか、間違えたこともすぐに気がつきます。
無事に体制を整えて道を進むとこんなかわいらしい吊り橋がありました。まだ空気はもやっていてなかなか素敵な風景です。


途中で見かけた小屋。雨の多い黒海地方では作物を貯蔵する為に高床式にしているのだと思います。

もともとこんなマイナーなDUZCEのGUZELDERE SELALESIになぜ行きたかったかと言うと、TRTと言うトルコの国営放送で「GEZELIM GORELIM(ゲゼリム ギョレリム=旅をしよう、見よう)」と言う番組があり、トルコの地方のさまざまな村を訪ねてそこの習慣や美味しいもの美しいものを紹介しています。もう1年以上前にたまたまこの番組でDUZCEを紹介しておりGUZELDERE SELALESIの美しさに、ぜひ行かねばと思い続けていたのです。すぐ忘れる夫の為に、玄関にメモまで貼り付けていました。



GUZELDERE SELALESIは国立公園の中にあり、ちょっとした休憩所と宿泊ができるロッジがあります。確か4人定員で1泊10,000円程。500円ほどの入場料だったか駐車料金たったかを支払っていよいよ滝へ。



滝までの道は下り坂でよく整備されています。雨に湿った落ち葉を踏みしめながらかなり下まで降ります。だんだん勢いよく落ちる水の音が大きくなりそしてついに木々の間に120mの高低差で落ちる滝の姿が見えました。


滝つぼのすぐ近くまで降りていけるのですごい迫力の水音を全身で感じることができます。



 

 

 

いかがでしょうか、少しでもこの滝の美しさを味わっていただけましたでしょうか。いつまでも眺めていたい景色です。後ろ髪を引かれるように降りてきた道を元に戻り、休憩所でチャイをいただきました。滝を抱く山を遠くに眺めながらできることならばこのままここにずっと座っていたいと思いました。

 
シーズンオフのせいで訪れる人も少なく滝を独り占めすることができました。


いくら風景に満足してもおなかはすく私。


見えるかな、霜を見るのも久しぶりでした。

朝早くに出かけたのに念願のGUZELDERE SELALESIで予想以上に時を過ごしてしまい、イズミルまでの長い道のりへ泣く泣く出発しました。


お気に入りの一枚。裸の木々の間にぽつんと見える家。


そしてイズミルに到着したのは深夜の3時。途中で何回も急カーブの山越えがあり雪のちらつくところもあってかなり怖くて遠い道のりでしたが満足のトルコ「ただいま旅」となりました。




帰りたくなかった私の気持ち、わかりますか?
         






☆現在のイズミル☆










DUZCE(デュズジェ)1

2008-01-15 12:20:41 | 


夜の停電が前回のブログを更新してからパタッとなくなり、その代わりに午前中9時半から12時近くまでの間に毎日電気が消えるようになりました。でも夜の停電よりはずっとまし、こうやってトルコ生活に慣らされていくのです。

日本から帰国後、イスタンブルからイズミルへ帰る途中で以前から行きたかったDUZCEという所へ寄ったことを今頃になってやっとご紹介したいと思います。イスタンブルからDUZCEへは170キロ余り、まあ普通に走れば3時間で着くと軽く考えて走り出した雨のイスタンブル…

ヨーロッパとアジアをへだてるボスフォラス海峡、ヨーロッパ側にあるアタトュルク空港からアジア側のイズミルやDUZCEへは、この海峡を橋で渡らなければなりません。ボスフォラス大橋には第一と第二があり、うちの車はKAMYONET(カムヨネット)という種類の為、第一大橋を渡ることが禁止されています。以前おのぼりさん丸出しで知らぬ間に第一大橋に突入してしまい罰金を取られた悔しい過去があります。前回「トルコへ」でも書きましたが方向音痴の我が夫、同じ間違いは犯すまいと第二大橋へ続く道を探すのですが焦ると…

3回か4回同じところを回り、既に時間は23時でした。それでも橋を抜ければまっすぐ一本道、何とか2時には予約しておいたホテルに到着することができました。3時にベッドに倒れこむまで日本の家で目が覚めてから26時間起きていたことになります。


ロッジ風でシンプルながらなかなか快適だったホテル。

前日の大雨に続き翌朝も残念ながら霧に煙るDUZCE、私たちが今回のメインにしているところは滝、こんな日に行っても足場は悪いし寒くてろくに見えないだろうからとこの日は近場をドライブすることにしました。DUZCEと言う地名は余りなじみがないと思うのですが、1999年8月に死者17.262人を出したM7.4のマルマラ地震を覚えていらっしゃいますか。DUZCEではその3ケ月後にM7.2の地震があり818名の方が亡くなっています。2002年にこの地を通り過ぎたときはまだクズライ(トルコ新月社=赤十字に相当する)のテントで生活している人たちもおり胸が痛みましたが今回は表面上は何とか整えられているように見受けられました。

 

 

見ているだけで寒くなってしまいますが、黒海地方の空気は日本から帰ってきた身にも優しくしっとりとしていてエーゲ地方ではなかなか見られない木々の紅葉も見られ、日本の秋を堪能してきたばかりでしたが「トルコの晩秋もなかなかのもの」と嬉しくなりました。





写真では山肌にへばりつくような小さな村々の美しさがなかなかお伝えできないのが残念です。ジャーミー(モスク)のミナレや黒海特有の家のつくり、立ち上る煙、そこにいるだけでいいという感じです。



このあたりは鍾乳洞が多いことでも有名らしく、色々と聞いたのですがどこも入り口が閉じられていて中に入ることはできないと言われて今回は断念しました。このロバを連れたおじさんに道を聞いたところはかなり標高も高く雪が降り出していました。



時間もまだ早いと言うことで、黒海のAKCAKOCA(アクチャコジャ)と言う街へ(地図参照)向かいました。黒海に沿った街へ行くと二人とも必ず「老後は黒海に住もう」と言うことになります。どこがいいと言われても困るのですが、最初に住んだチョルムを思い出させるせいか、緑が多く落ち着いた街並み、エーゲのまぶしい太陽に慣れてしまうとこういう少し陰のある風景に惹かれるのかもしれません。



AKCAKOCAのMERKEZ CAMII(メルケズジャーミー=中央モスク)はセルチュク時代の八角形の屋根とトルコ民族の大テントをイメージしたと言うモダンな建物です。地震にも耐えられる構造だそうで久しぶりにジャーミーの中に入ってみました。そしてジャーミーにお祈りのためにはいる人が身を清める為に利用している「SADIRVAN(シャドゥルヴァン)」では、噴水部分に大理石の玉が乗せてあり流れる水の力でその玉がくるくる回っていました。



 中央に見える大きな丸い玉が噴出す水の上でぐるぐる回っています。


MERKEZ CAMIIと黒海をお天気のいい日に望むと・・・。(写真はAKCAKOCAの役所のHPから拝借しました)

インターネットで調べるとMEHMET AKIF KOSKU(メフメットアキフ屋敷)と言うのが特別な建築家に作らせた家で見るに値すると言うので訪ね訪ねて見つけたのですが、門も鎧戸も閉まっており人の住む気配なし、べルを鳴らしたら管理をしているらしき人が出てきて「一般に公開はしていません」と言われてしまいました。

 
一応外から写真だけ写した「MEHMET AKIF KOSKU」。

帰りに道端で売っていた果物の中に初めて見る「MUSMULA(むしむら=西洋かりん)」を発見。食べると柿のようなディーツのような不思議な味がしました。もう1回食べたい?と聞かれたら…ううううむ。



 これがMUSMULA。

次回は感動の「GUZELDERE SELALESI」をご紹介します。






もうすぐ1歳を迎えるエリフ。一人遊び中。
           






☆現在のイズミル☆








AYVALIK(アイヴァルク)

2007-12-24 10:20:32 | 

雲ひとつないお天気、道路もいつの間にか広くなっていました。

今年のクルバンバイラム(犠牲祭)のお休みは20日から23日の4連休でした。職場によっては19日は半日で午後からお休みのところもあります。ちょうど日本の3連休と重なりましたね。バイラム一日は温暖なイズミルもかなり寒くなり身体の芯まで冷えました。クルバンバイラムの2日目にはクルバン(犠牲になった動物)達の血を流す為に雨が降ると言われるそうですが、イズミルは4日間ともよく晴れおだやかなバイラムでした。親戚も少なくクルバンも切らない我が家、1日目は叔母さんの家へ挨拶に行き近所をお散歩して世間のバイラムの様子を偵察。2日目はAYVALIK(アイヴァルク)というところへ日帰り旅行。3日目はお客さんをお迎えして過ごしました。

    ※クルバンバイラムに興味のある方、以前の記事をよろしかったらご覧下さい。     
   


AYVALIKの港を眺めるこの風景が好きです。

AYVALIKはイズミルから約240km、こじんまりとした漁業とリゾートの街です。ギリシャのレスボス島へ行く船もここから出ています。この辺一帯はオリーブオイルや石鹸の製造で有名な地域でイズミルからアイヴァルクに近づくにつれオリーブオイル工場のなんともいえないにおいが車の中まで入り込んできます。最初は「う、この臭いは何?」と鼻を押さえたものですが最近は慣れてしまいました。





AYVALIKを初めて知ったのは、数年前TVで「KURSUN YARASI(クルシュンヤラス=銃創)」というオスマントルコ帝国末期のトルコの庶民の英雄達のドラマででした。そのドラマの舞台となったAYVALIKの異国情緒あふれる街並みの美しさに惹かれたのです。そして訪問の機会はすぐに訪れ今までに2回出かけました。夏だったのでボートツアーに参加し海からのAYVALIKを満喫したので、今回はドラマで憧れた街並みを歩いて潮風に吹かれてチャイでも飲もうかと出かけました。


教会ともミナレとトルコの国旗と・・・。


昔の人が歩いていそう。

AYVALIKは、第一次世界大戦が終了するまでオスマントルコ帝国のギリシャ系の人達が住んでいました。ここでもギリシャに住むトルコ系の人達との住民交換が行われたのです。ですから街の中にあるジャーミー(モスク)は教会の建物に後からミナレ(ジャーミーの尖塔)をつけたものが多く見られますし、家々もRUM EVI(ルムエヴィ=ギリシャ風の家)が連なっています。きれいに修復されている家もありますが、残念ながら朽ちかけたような住む人のないところが多いのです。迷路のような細い道を気の向くまま歩いていくと、ドラマに出てきたオスマントルコ帝国時代の人達が服装だけは現代風に変えて歩いているように見えてしまいます。バイラムだったせいもあってか道行く人は皆すれ違う人とバイラムの挨拶を交わしながらゆったりと歩いており、都会のイズミルではもうあまり見ることのできない、昔の日本のお正月の光景にも少し通じるような懐かしさを覚えました。


上から2番の写真の左に見える茶色い建物沿いにあるチャイバフチェでチャイ。夏の間は座る場所を確保するのも大変です。


AYVALIKと言えば(?)アイヴァルクトーストが有名です。

AYVALIKから陸続きで行ける小さなCUNDA ADASI(ジュンダ島)は、さらにギリシャの面影が濃く残っています。ギリシャ教会の廃虚や石造りのRUMEVI、店の名前もギリシャ系のところが多く、港沿いの魚レストランやバーからはギリシャ風の音楽が聞こえて国境を越えてしまったような気分を味わえます。


CUNDA ADASIのDEGIRMEN(ディールメン=風車)。


ギリシャの教会跡。


写真ではよく見えませんが、ギリシャ風の名前の骨董品屋さんとトルコ名前のパン屋さんが向かい合っています。

手が届くほど近くに見えるギリシャの島々に沈む夕日を眺めてイズミルへの岐路に着きました。


CUNDA ADASI からAYVALIKを眺める。







何の花でしょう、かわいらしい帽子のような蕾でした。
      



    






☆現在のイズミル☆


KIRAZ(キラズ=さくらんぼ)狩り

2007-05-30 00:03:59 | 


さくらんぼの美味しい季節になりました。日本では山形がさくらんぼの産地として有名ですが、山形県寒河江市とトルコの黒海地方にあるギレスン市はさくらんぼが縁で姉妹都市となっているそうです。もちろんギレスンだけがトルコのさくらんぼの産地ではなくエーゲ地方にもありますよ~!その名も「KEMAL PASA(ケマルパシャ)市」、イズミルから1時間余りのケマルパシャ、この季節になると道行くトラックやパザル、八百屋では「ケマルパシャのKIRAZ~(キラズ=さくらんぼ)!!」と言って売っています。

今回は以前も書いたことがあるのですが「JICA(日本国際協力機構)」から日本に派遣され教育を受けたイズミル在住のトルコ人の同窓会活動の一環として近郊のケマルパシャ市へのピクニックが計画されました。私達もお誘いを受けたのでアンネ(義母)と友達のSevalを誘って出かけました。

 
「KAZAK VADISI」の入り口


OTAG(オタウ)。以上2つの写真はWOW TURKEY.COMから拝借。

前日は洪水かと思うような大雨でしたが、なんとか雨も上がり、総勢18人がバスで出発しました。最初の目的地は「KAZAK VADISI(カザク ヴァディスィ=カザフスタンの谷)」という名の農場。1950年代にトルコへ移住したカザフスタン人達がこの地に定住し自分達の馬を育てて生活しています。

 KIMIZ(クムズ)。

このカザク馬の乳で作っているKIMIZ(クムズ)と言う発酵飲料は、抗生物質と同じ働きがあり、ヴィタミン豊富で炎症を抑え、結核、チフス、赤痢、動脈硬化、貧血などに良いとされるそうです。


OTAGの中で記念撮影。私を探さないでください。写したのは私~。


天井を支える60本の梁は日時計の役目も果たす。

遊牧をしていた頃の生活をしのばせる大きなOTAG(オタウ=大テント)を再現した建物の中で彼らの生活や風習などの説明を興味深く聞いた後、みんなで持ち寄ったお弁当を食べながら自己紹介などをし、おなかがふくれると今度は楽しみにしていた乗馬の時間。希望者は馬と一緒に30分森林コースもありました。私達はもちろん牧場の柵の中での5分乗馬コース。それだけでも子供に戻った気分になりました。




乗馬準備万端で参加の由美子さん

雨雲もいつの間にかどこかへ行ってしまい、ぎらぎらお日様が出てきました。バスは一路さくらんぼ農園へ。トルコでは日本のような「イチゴ狩り」「りんご狩り」などをさせる観光農園を見たことはありませんでしたが、この農園も別に商売でやっているわけではなく知っている人にさくらんぼ狩りをさせてくれているようです。


アンネを乗せて爆走!右側に見える白い頭がアンネ。
うちに帰ってから大興奮で冒険を語ったそうです。



枝ごと持って帰りたかった・・・。

農園の入り口から山道を歩くこと30分。農園の方が山道を一生懸命歩いているアンネ(義母)を見て気の毒に思ったのかサイドカーつきのオートバイにアンネを乗せてくれることに。日ごろ98歳のアナアンネ(おばあちゃん=義母の母親)の面倒を見ているために滅多に外出ができないアンネの大冒険でした。たわわになった大きなさくらんぼ、それぞれ美味しそうなさくらんぼを味見しながら見つけては夢中になってさくらんぼ狩りをしました。

 
今日のさくらんぼ娘2人。

日ごろ付き合いのない方達と日本という国が縁で家族ぐるみで知り合うことができたし、美味しいさくらんぼも食べ放題だったし、真っ赤に日焼けをして楽しいことづくしの日曜日でした。




普段はおじさん限定のKAHVE(カフヴェ=茶店)も団体で入れば怖くない!
    




☆現在のイズミル☆


 

BIR HAFTA SONU(ビルハフタソヌ=ある週末)

2007-02-03 19:55:43 | 


小春日和のある週末の一日、朝寝坊をするのもいいけれど早起きをしてちょっとした小旅行ができるのもイズミル暮らしならでは。
今回私達はイズミルからイズミル湾に沿って北西へ70キロあまりのところにあるFoca(フォチャ)を目指しました。何となく以前から気になっていたFoca、夫にとっては遠い昔にFocaで夏の間キャンプをしていた今は亡き伯父さんを訪ねたことがあると言う思い出の地。


水の中をのぞいてみると!なんと!!ウニが!!!びっしり。春先にウに獲りに来なければ!

歴史の父ヘロドトスはトロイ戦争について調べるためにこの辺りを訪れ、祖国に戻った後で「フォチャの人々は我々が知っている限りこの地球上の最も美しい大空と気候のもとに都市を築いた」とその著書の中で書いたそうです。
そのフォチャを築いた人々と言うのは紀元前600年以前のフォカイア人、フォカイアというのはこの辺の海で見られる地中海モンクアザラシ(Phoca)から取られた名前のようです。このアザラシ、既に世界で400頭とも言われている珍しい種類なのだそう。



フォカイア人は優れた船乗り、商人であり50本のオールを持つ500人乗りの船でエーゲ海、黒海、地中海を渡り歩き現在のサムスンを初め各地で植民地を築きました。フランスへアルファベットをもたらしたのもフォカイア人だとか。様々な文化を各地へもたらしその貨幣はあらゆる場所で使えたのだそうです。ところがさすがのフォカイアもペルシャの進攻を止めることはできませんでした。ペルシャ軍の将軍ハルパゴスに降伏をする為に1日の猶予を求めたフォカイア人、翌朝ハルパゴスが明け渡しを求める為にフォカイアの街に入ってみるとそこには1匹の犬がいるだけで人っ子一人いないもぬけの殻であったそうです。奴隷になるよりは祖国なき海の民の道を選んだフォカイア人たちは夜のうちに地下に掘ってあったトンネルを使って重要な荷物共々船で大海へと旅立っていったのだそうです。


役場も港に面して建っていました。右側の建物。

と行く前にこんなにわか勉強をして既にフォカイア人の勇壮なロマンにうっとりしながら行ったフォチャの町に私は完全に魅了されてしまいました。夏の間は観光客でレストランに席を見つけることすら難しいそうですが、冬の柔らかい日差しの中でのんびりと散歩をする人々の顔はみな穏やか。小さな港沿いの道で釣り船や夏の間島巡りをする観光船を見たり、裏道に入って石畳の上をギリシャ風、オスマントルコ風の古い石造りの洋館を見てぶらぶらするだけでも幸福感を充分に蓄えることができました。


シーズンオフのひとけのないレストランもまた風情があります。

Focaは、隣接したもう一つの町YeniFoca(新フォチャ)と区別するためにEskiFoca(旧フォチャ)とも呼ばれます。遅めの昼食はYeniFocaへ行ってみようかと車を走らせましたがこちらはもう少し小さい新興のリゾート地といった風情で特に見るものもなくやっぱりEskiFocaがいいねとまたUターンをしました。まさにFocaには一度でもFocaを見たならFocaを好きにならずにはいられない、そして再び戻らないでいることは不可能だという伝説(長くなるのでここには書きません)があるそうです。今回私達もはからずもその日のうちにその伝説を実践してしまったわけですが、夫もその昔伯父さんをFocaに訪ねた翌年、クシャダスで夏休みを過ごしたのですが、やはりFocaが懐かしくなってバスに飛び乗ってFocaまで来て、チャイを飲んでまたクシャダスへ帰ったと言う思い出があるそうです。

不思議なFocaの物語でした。





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